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『経脈病候の針灸治療』訳者あとがき

 
訳者あとがき
 
 
 あとがきの執筆に際し,本書の翻訳執筆の契約書を確認したところ,2013年2月であった。丸7年かかったことになる。執筆した本人でさえ,時間がかかり過ぎたという思いが強い。もし,量・内容的に同様のものを,今から新しく翻訳するとしたら,おそらく1年半ぐらいでできるのではないだろうか。それぐらい,ずいぶんと回り道をした。
 本書では大量の古典引用がなされている。その引用文の扱いに手間取ってしまったことが7年もかかってしまったことの最大の要因であろうかと思う。古典書の扱いに関して訳者はあまりにも無知であった。訳者が本書の翻訳を始めた時期に,中国へ出張する機会があり,現地で段ボール2箱分の書籍を買い込み,船便で日本へ送った。この時,書店で目についた書籍や有名どころのシリーズ本などを,多く考えもせずに購入してしまったのが間違いの始まりであった。もともとは古典原文も現代語訳にするつもりであったので,中国で購入した書籍が簡体字表記であることは,気にしてはいなかった。ところが,訳者のレベルではとても世に出せるような現代語訳にはならないという思いが,執筆を進めるごとに強くなっていったのである。現代語訳をあきらめ,書き下し文にすることにしたものの,今度は古典が書かれた時代とは異なる簡体字表記や現代に出版された古典文献の誤字・脱字などに悩まされることになる。加えて,訳者は中国で中医学を学んだ自分が古典中国語を日本語の書き下し文にする機会があるなどとは,それまで夢にも思ったことがなかった。今回の翻訳に際し,鍼灸学校時代にあった漢文の授業にもっと真剣に取り組むべきだったと後悔することしきりであった。四苦八苦して書いた書き下し文にはご指摘を受けるようなところも少なくないかと思われる。読者の皆様からのご教示をいただければ幸甚である。
 さて,本書に関してである。「経脈弁証」という言葉自体はけっして新しいものではない。訳者が学んだ1990年代~2000年代初頭の中国の鍼灸の教科書にも経脈弁証の記載はあった。しかしながら,その内容はといえば,鍼灸学の歴史の長さから考えると,ほぼないに等しいものであった。当時は中医鍼灸においても湯液ベースの弁証論治が盛んであり,それぞれのツボの穴性をもとに治療を行うのが中医鍼灸であるというのが,臨床においても教場においても大方の共通認識であったかと思う。そして,その流れは今日の日本においても続いている。
 訳者は以前,ある機会があり,数十人の鍼灸師・学生の方々に対し「中医鍼灸の特徴とは?」と尋ねてみたことがある。返ってきた答えの多くは「弁証論治」や「鍼が太い」といった予想通りのもので,期待したようなものではなかった。おそらくそれは,訳者の期待した答えが,あまりにも当たり前のものとして認識されているからであろう。訳者は,中医鍼灸の最大の特徴は「経絡の存在」であると思っている。中国古代の医家達が経絡というシステムを見出したことこそが,今日われわれが学ぶ鍼灸医学の最大の特徴ではないだろうか。アルプスで見つかった5000年以上前のミイラ,通称「アイスマン」にツボの位置を示すと思われるタトゥーがあったというニュースは記憶に新しいが,世界中に存在したかもしれない同じようなツボ刺激の治療方法と,中国古代の鍼灸との最大の違いは,「経絡」の有無ではないだろうか。点と点を繋ぎ,線として体全体を包括するシステムによって,単なる経験医学にとどまらない,予測や推断を可能とする系統立った学問としての鍼灸医学が成り立ち,現在のわれわれに脈々と受け継がれているのである。では,われわれはこの「経脈」を十分に活用しているであろうか。
 訳者は,かれこれ16年ほど前,鍼灸学校の受験の際に,面接官の先生にある質問を受けた。それは「中国は八鋼弁証がメインであろうか」という質問とも確認とも受け取れるようなものであったのだが,中国から帰国したばかりの訳者にとって「八綱弁証」というものは,弁証方法に入れるまでもないと思えるほどに,弁証をするうえで欠かせない内容であったため,正直なところ,質問の意味が理解できなかった。今になって思うのは,それは「中国の弁証はあくまで湯液ベースの弁証ではないか」という意味であり,「経絡を無視した弁証ではないか」という意味であったのではないかということである。
 現在,中国では鍼灸医学における弁証方法の見直しが行われていると聞く。特に臨床に際し,経絡の存在が改めて脚光を浴びているということである。かつて老中医と呼ばれた医師たちが見せてくれたような,目を見張るような効果というものが,湯液ベースの鍼灸治療では,なかなか得られないことに,臨床に携わる鍼灸医師たちが気付き始めたということであろう。
 本書には大きな特徴が2つある。1つは経脈弁証に関する本であるということ。もう1つは大量の古典引用を行っているということである。中医鍼灸学に関する現代の書籍で,これほどの古典引用が行われているものはおそらくないのではないだろうか。「古典へ帰れ」と言われたものの,どの古典を読めばよいのか悩んでいる方々が,この本をきっかけに,さまざまな古典に触れ,それを鍼灸臨床に応用されることで,鍼灸界全体のさらなる発展に繋がることを切に希望するところである。
 古典引用文の多さは,本書の大きな特徴の一つである一方で,多くの読者の方々にとっては,難解で敷居の高さを感じさせるものとなるかもしれない。いくらかでも緩和できればと思い,時間の許す限り注釈や用語解説の作成などを行った。これも本書の翻訳に時間がかかった理由の一つではある。1つの単語を調べるのに,どこから調べ,何を根拠とすれば,より信頼度の高い説明ができるのかということに関しても,コツを掴むのに随分と時間がかかった。そのため不十分な内容もあるかと思う。ここでお詫び申し上げると同時に,やはり読者の皆様からのご教示を頂戴したく思う次第である。用語解説に入れた単語には,一般的な中医用語も多く含まれ,あまり中医学に親しみのない読者も想定しての内容となっている。また,注釈やルビの多さは普段から古典文献に慣れ親しんだハイレベルな読者の方々には,いささか邪魔に感じられるものであるかもしれない。古典医学の普及の一端にご協力いただくということで,御寛恕いただければ幸いである。
 本書の翻訳にあたり,7年も待ってくださった東洋学術出版社には感謝の念を禁じ得ない。特に編集の森由紀さんには,翻訳・校正のサポートのみならず,何度も途中で挫折しそうになったところを上手におだてていただき,おかげでなんとか最後までやりきることができた。心からお礼を申し上げたい。
 

2020年1月
鈴木 達也