▼書籍のご案内-後書き

『上海清零 ~上海ゼロコロナ大作戦~』あとがき

 
あとがき
 
 
 予想通り,2021年も新型コロナの影響で日本に戻ることなくあっという間に1年が過ぎてしまいました。2020年1月16日に新型コロナ禍前最後の日本出張から上海に戻って以来,かれこれ2年近く日本に行くことができていないことになります。日中間を移動するにあたっての最大の障害は,空港での感染リスクと,中国に戻るときに課される強制隔離,そして高騰した航空券や隔離等にかかるコストの問題です。上海の場合,2021年11月の段階でもホテルでの集中隔離2週間,自宅での健康観察1週間と計3週間は拘束されることになるうえ,これに日本に戻ってからの自宅での隔離期間も合わせると計1カ月以上の時間が防疫対策のために消えてしまうことになります。当面,以前のように気軽に日中間を移動するようなことはまだまだ難しいでしょう。
 一方で,私たちの上海での暮らしは,2020年の春頃は出勤もできず自宅に籠もっていましたが,それ以降はコロナ禍前とほとんど変わらず,旅行へもいけるようになりましたし,会食も安心してできるようになっています。診察も途切れることなく継続できています。仮に散発的にでも感染者が出れば,ここ上海でも一時的かつ局所的な厳戒態勢になりますが,上海だと大体2週間我慢すればまた通常通りに戻り,「常態化」(警戒しながらも日常生活を継続する)対策が継続されます。
 世間ではしばしば,日本など世界の一部の国々で行われている「ウィズコロナ対策」と比較して,「中国のゼロコロナ対策」と,やや皮肉を込めていわれることを目にしますが,実は中国は現段階で決して新型コロナウイルスの撲滅を目指しているわけではありません。もちろん撲滅できることが望ましいわけですが,いまの全世界の状況をみると限りなく不可能になってしまいました。いくら国内でゼロコロナ(感染者や入院者がゼロ)が達成できても,毎日海外からの輸入感染例があり,コールドチェーンの輸入食品などからもウイルスが運び込まれてくるからです。むしろ,中国がいま行っている対策は,人口14億人の巨大かつ複雑な国で犠牲者を最小限に食い止めるために考えられた,いわば「中国式ウィズコロナ対策」(中国では「動態ゼロコロナ」と呼ばれています。動態ゼロコロナとは感染者が出続けても再びゼロに持っていく対策のことをいいます)の結果と考えるほうが自然だと思います。そして世界で新型コロナが落ち着き,治療薬が普及し,ワクチン接種が行き渡るまで時間稼ぎをしているのです。本書でも度々登場する鐘南山院士や張文宏主任も,このことを幾度となく国民に向けて発信しています。人それぞれに個性があるように,それぞれの国が抱える事情は異なり,対策方法がまったく違うのは当然で,未知の感染症に対して,犠牲者をできるだけ出さないように,それぞれの政府が取り組める対策を最大限に行っていくしかありません。これらには決して優劣はないのです。
 私は中国で働く医療者の一人として,中国在住の日本人が少しでも正しい情報に基づいて行動できるように,武漢が大変だった頃からSNS通じて中国から発せられる情報を整理し発信するように心がけました。背景には2003年のSARSの頃,中国で留学していた自分自身がなかなか正しい情報にありつけず,日本や欧米諸国のマスコミ情報に色々と翻弄された苦い経験がありました。その時の経験から,まずは私たち自身の中国での日常生活を淡々とSNSなどで呟くことが重要であることに気がつきました。日常生活そのものから,中国の感染症対策の一端を垣間見ることができるからです。しかし時間の経過とともに,どうも中国で行われている実際の対策が的確に日本に伝わっておらず,日々もどかしく感じるようになりました。とくに,マスコミなどで中国事情が紹介されても極めて断片的なうえ,むしろ興味本位の情報がインターネット上に溢れ,裏情報みたいに聞こえてくるデマ情報が,あたかも事実のようにもてはやされ,それらが徐々にインターネット上だけでなく実社会でも一人歩きするようになり,私たち現地在住者にとって必要な中国の新型コロナ対策の核心が一向に世界に伝わっていないことに不安を感じるようになりました。そして実際に武漢での流行の頃から現在まで私たち自身が体験したことを,記録に残すことも社会的に意義があるのではないかと思い至りました。2020年1月から2021年10月まで私たちが上海での実生活を通して新型コロナと対峙した記録が本書になります。
 さらに上海で暮らすだけでなく,湖北省武漢市をはじめとして,東北地方各省,江蘇省揚州市や福建省泉州市など新型コロナが収束したばかりのエリアを実際に自分の足で歩いてみました。回復した街の活気を感じつつ,そこで知り合った現地の人たちからも色々と貴重な体験を伺うことができました。ここで共通して感じたのは,人それぞれが自分たちのできる範囲で,自分たちや家族の命を守るために奮闘していたということです。決して政府にいわれたから行動するというレベルではありませんでした。日本でも,国民一人ひとりが対策に十分に気をつけていたのと同様に,中国でもこうした一人ひとりの新型コロナとの闘いが,中国国内の感染拡大防止に大いに役立っていたことは間違いありません。
 
 本書でもう一つ取りあげたかった大きなテーマは,中国の新型コロナ対策で欠かすことのできない中医学の積極的な活用です。日本でも一時,中国では「怪しい漢方薬」を使っていると報道されていたようですが,これも断片的な情報しか日本語になっていませんでした。そもそも中国では,大きく分けて西洋医学と中国伝統医学の医師ライセンスがあり,日常的にお互いが対等にかつ協力し合って病気を治療し,患者も自分の好みに応じて治療を選択することができる環境ができています。中国の長い歴史のなかで,中医学は常に感染症と闘ってきており,豊富な経験の蓄積があります。このことを認識せずに,中国の新型コロナ対策を語ることはできません。決してサプリメントを服用するような感じの漢方薬ではないのです。実際に,デルタ株が中国各地で散発的にみられるようになっても死亡例はほとんど出ておらず,人工呼吸器やECMOを使うような重篤例の患者も回復しています。その背景には常に中医学の存在がありました。そして,いまでは後遺症に対しても中医学を活用した対策が考え出されています。こうした感染者一人ひとりに対して,中国では国をあげて西洋医学だけでなく,中医学でフォローする方針がコロナ禍の当初から現在まで続けられています。
 新型コロナのような未知の感染症が流行した場合,症状から処方が組み立てられる中医学の役割は非常に重要で,かつ中医学は中国に根ざしている文化の一つでもあるため,一般市民にも受け入れやすいという背景もありました。また,西洋医学で開発された様々な高価な新型コロナの治療薬と違って安価に手に入るうえ,すぐに処方を出すことも可能です。こうした中国の経験は,中医学をルーツにもつ日本の漢方でも決して活用が不可能ではなかったはずですが,残念なことに,新型コロナを漢方薬で早期治療するという発想は,なかなか日本では受け入れられませんでした。日本の累計患者数や死者数が,中国の数を軽く越えてしまった現在,そして多くの方がいまなお後遺症で苦しんでいるなかで,日本でも中医学や漢方の活用をもっと真剣に考えてもよいのではないかと思います。いまの日本の現状は,われわれ中医学や漢方に携わる医療者として非常に残念に思いますし,まだまだ普及のための力が足りないことを痛感させられました。
 
 こうした色々な思いを込めながら,2021年秋にようやく本書を書き上げることができました。2021年11月の段階では,内モンゴル自治区など中国内陸部を発端としたクラスターや,遼寧省大連市の輸入品を扱うコールドチェーンをきっかけに広まったクラスターがまだ完全には沈静化していませんが,政府と国民一人ひとりの地道な対策で今回もきっと収束に向かうことでしょう。すでに2週間連続ゼロを達成した地域も出始めてきました。このように日々刻々と状況が変化し,常に新しい情報が更新されるなか,本書の出版にご尽力くださった東洋学術出版社の井ノ上匠社長には心よりお礼申しあげます。また,さまざまな情報を提供してくださった中国在住の日本人の皆さま,中国各地に点在する私の現地の友人,色々とアドバイスをくださった中国各地の中医学の専門家の皆さまにも深く感謝いたします。そして日々の勤務の間に,原稿執筆に奔走していた私を支えてくれた家族にも感謝します。
 少しでも早く全世界で新型コロナが沈静化し,私たちの日本への一時帰国が実現し,日本の皆さまに直にお会いできることを楽しみにしています。また皆さまにも中国に来ていただいて,いまの中国の本当の姿をじっくりと見ていただきたいです。
 
 最後に全世界で新型コロナに感染して亡くなった皆さまへご冥福をお祈りいたします。
 

2021年11月 初冬の寒さを感じるようになった上海浦東新区にて
藤田 康介