▼書籍のご案内-序文

医古文の基礎

日本語版への序

  『医古文基礎』は1980年の初版以来、今日まで20年余を経過し、何度も版を重ねている。本書は、中国大陸で大いに読者の歓迎を受け、このたびさらに日本語版が出版されることとなった。これは我々の夢想だにしないことであった。当時本書を執筆したのは、北京中医学院(現北京中医薬大学)医古文教研室の5人の青年講師である。歳月は流れ、黒髪は霜雪に変じ、現在みな中国の著名な教授となっている。
 執筆当時の情景が昨日のことのように思い出される。1978年は中国の歴史における大変革の年であり、高等中医教育事業は飛躍的発展をとげ、教材の革新・充実・向上・改善が議事日程にのぼっていた。当時の北京中医学院医古文教研室の主任は劉振民先生であった。1978年の7月に、劉振民先生とともに広州・南京・長沙など各地の中医学院の医古文教研室を訪問し、医古文の教科書の革新・改善・向上に関して討議した。浩瀚な中国医学の古典はみな古代漢語で綴られており、滞りなく読み解き、広範なうえに精細な内容を把握するためには、古代漢語の基礎の構築が必須であるとの認識を深めた。それ以前の医古文の教科書は、「文選(古典選集)」と「語法」に重点がおかれ、各分野の基礎知識は軽視されていたので、中国医学古典が読める優秀な中医師を養成するという要請にこたえるようにはなっていなかった。医古文の教材に、工具書(辞典類)・版本学・目録学・校勘学・文字学・音韻学・訓詁学・句読・現代語への翻訳法、これらを増補して、学生にもっとも必要な古代漢語の基礎知識を身につけさせねばならいないとほとんどの医古文担当教師が考えていた。そこで1978年の8月に、新しい編集企画と立案構想にもとづいて、5人の青年教師が分担して執筆したのがこの『医古文基礎』である。本書が出版されると、すぐさま斯界の好評を博し、本科生(学生)や研究生(大学院生)の教材として採用する高等中医院校もあらわれた。
 1970年代末に、中国中央衛生部(日本の旧厚生省に相当する)は全国の高等医薬院校の教授の一部を組織して、20冊からなる『全国高等医薬院校試用教材』を編集した。その中に『医古文』がある。周篤文先生とわたしは、この教科書の編集作業に参加した。全国の高等医薬院校で共通して用いられるこの『医古文』には、『医古文基礎』に啓発された形跡がはっきりとみとめられる。この教科書には、「文選」だけでなく、古代漢語の基礎知識の内容も盛り込まれた。その「編集説明」は、「本書の内容は、文選・古漢語基礎知識・付録の3部門からなる。古漢語基礎知識の部分では、文字・語義・語法・古書の句読・古書の注釈・工具書の使用法および古代文化の常識について概説し、学生が医学古典を読解する能力を増進させるための助けとする」と掲げている。その後、衛生部と国家中医薬管理局の指導のもとに、さらに3種の全国高等中医院校共通の医古文の教科書が編集されたが、それらには例外なく古漢語に関する基礎知識が加えられた。これからわかるように、『医古文基礎』の編集形式と内容設定は、全国高等中医院校共通の教科書『医古文』の足がかりになり、雛型的な役割を果たしたのである。1980年代、衛生部と国家中医薬管理局の指導のもとに、底本の選定・校勘・訓詁・句読・現代語訳など、数百種にのぼる中国医学古典の整理研究が行われたが、『医古文基礎』と『医古文』共通教科書の「基礎知識」は、非常に重要な働きをしたのである。
 『医古文基礎』はつまるところ20数年前の著作であり、歴史的には建設的なはたらきをして、多数の青年学者を育成したとはいえ、「文選」に選んだ文章がやさしすぎたり、「古漢語基礎知識」の部分が簡略にすぎるなど、欠点や不足のところがあるのは否めない。
 中日両国は一衣帯水の友好的な隣国であり、『医古文基礎』は日本の中国医学古典の研究者や医古文入門者にとっても、閲読するに足る書物である。本書の出版は、両国の伝統的な友好関係をさらに深め、伝統的中国医学の向上と発展を推進するにあたり、大変有意義な企画である。初代日本内経医学会会長の島田隆司先生は、生前本書の日本語版出版のために、骨身を惜しまず多大な尽力をなされた。残念なことに先生はこの書が世に問われる前に、突然不帰の客となられた。まことに悲痛きわまりないことである。新たに日本内経医学会会長職をひきつがれた宮川浩也先生は、島田隆司先生の御遺志を継承し、ついに『医古文基礎』の日本語版の出版をなしとげた。このたゆむことなき誠実さに、さらに深く心打たれる。
 『医古文基礎』が中国と日本の医学文化交流をより強固にする紐帯あるいはかけ橋となり、中国と日本の伝統ある友好関係という燦爛たる花が、より一層艶やかで美しく咲くための一助となることを願ってやまない。

銭 超 塵
2001年 4月16日 北京中医薬大学にて


原書の前言

 中国医学は偉大なる宝庫である。そこには先人の数千年にわたる疾病との戦いの貴重な経験が凝集されている。中国の文化遺産の中でも最も活力があり、最も光り輝く部分である。万里を流れる長江や黄河のように、今日でもなお生き生きと、そして力強く新中国の生活を潤してくれている。
 しかしながら、4千種余り、7~8万冊を超えるこの貴重な遺産は古語で記されている。このことが中国医学を学習するための妨げになっている。この問題を解決するために、1959年より衛生部は関連中医学院を組織し、前後4回にわたり『医古文講義』を編集した。これらの教材が中国医学古典の学習に大きく寄与したことは疑いない。しかし、新たな長征(困難かつ壮大な事業)の進軍ラッパは、多くの人材の早急な育成を求めている。この要求に応じて我々の行ってきた仕事を点検すれば、そこに大きな隔たりがあることは明白である。今日熱心に中国医学を勉強する青年は甚だ多く、中医学院の生徒以外にも、多くの中国医学愛好者や西洋医学に従事している同志がおり、また中国医学文献の研究を志す青年もいる。彼らにとって、古典を読み文献を整理するための基礎知識とその研究方法を獲得することは焦眉の急である。こうした状況を鑑みて、北京中医学院医古文教研室が編集したのが、この『医古文基礎』である。
 古文を理解する力を早く養成するにはどうすればよいか。それにはどういった基礎知識を身につけたらよいのか。絶えず考え、模索すべき問題である。例文に語法の説明を加えるという従来の教授法では、範囲が限られているのみならず、咀嚼されすぎて、説明されれば理解できるが、説明なしでは理解できないことが多い。そのうえ学生が原文を消化吸収する力を鍛え、独力で研鑽し問題を解決する能力を育てるためにも不都合である。このため、1963年に工具書・目録学・版本と校勘・音韻学・訓詁学などの内容を加えて『古文入門知識』を編集し、基本的な訓練の強化を試みた。数年にわたって『古文入門知識』を副教材としたところ、かなりよい効果を収めることができた。さらに兄弟校での有益な経験を参酌し、整理・修正・拡充して本書を編集した。それは、中国医学古典の読解・整理に役立つことを目的とする。
 本書は上・中・下の3編からなる。
 上編は「文選」である。医話・医論・伝記・序文・内経・詩の6つに分け、洗練された、影響力の大きい、医学に関連深い代表的文章38編を収録し、医学関連書の文体を理解し、読解する能力を訓練するための導入部とした。
 中編は系統的な解説である。目録学・版本と校勘・工具書・句読・語法・訓詁学・現代語訳・古韻の8つの専門テーマを設けた。ここには、文献学・訓詁学と語法・工具書などの基礎的な知識が含まれている。これらは今までほとんど取り上げられることがなく、かなり難しく、水準が高い内容である。しかしながら、確実な研究基礎を築き、独力で研鑽し文献を整理する能力を養うためには、どうしても身につけなければならないので重点的に紹介した。それぞれのテーマの末尾に白文の練習問題を付し、学習効果を深め、古典に句読をほどこす能力を鍛えるための補助とした。
 下編は、虚詞要説・難字音義・古韻22部諧声表・中編の練習問題の訳文、である。虚詞要説では例文をあげて説明した。難字音義では難字の発音とその意味を明らかにした。古韻22部諧声表は調べるのに便利で時間が節約できる。練習問題の訳文は、白文を句読する際の参考とした。
 本書を編集するに当たり、陸宗達教授、任応秋教授および黄粛秋教授の御指導を賜った。また兄弟中医学院の多くの同志からも激励と協力が寄せられた。中医研究班での講義において得られた有益な意見も一部採り入れた。いずれもみな我々に多大な利益をもたらした。ここに謹んで感謝する次第である。しかしながら、浅学非才のため、欠点や不注意による誤りはきっと少なくなく、多くの読者からの御批判御示教を衷心より歓迎する。
 出版に際して、曹辛之同志に装丁の労をとっていただいた。とくにここに記して感謝する。

原 書 編 者


編訳者まえがき

「医古文」

 「医古文」は中国医学古典を読むための「語学」である。日本風に訳せば「中国医学古典学」になろうか。中国の人にとっては自国語の古文、私たちにとっては外国語の古文、それを読むための知識の提供が主たるテーマであるが、単に文章を読むことにとどまらず、辞典のこと、漢字のことなど広い範囲に及び、古典を読むために必要な総合的な知識が網羅されている。銭先生が序文でいわれる通り、「医古文」は多くの学生を育てた。近年、相継いで古典の活字本・現代語訳本が出版されているが、それを支えているのが「医古文」で育った学生である。現在の中医学の中心的な人材も「医古文」で育った学生が多数になりつつある。中医学の基礎体力は「医古文」で養成されていたといえる。わが国では「難しそう」を理由として古典は遠ざけられている。この古典アレルギーによって、大いなる知識の宝庫が埋もれているかと思うと残念である。なぜ難しいのだろうか。簡単にいえば、何のトレーニングもしていないからである。武器も能力もなく、素手で猛獣に向かっていくようなもので、敵わないのは道理である。古典アレルギーを治すには「医古文の学習」が最も有効だと考えている。

原塾と井上雅文先生

 昭和59年(1984)、島田隆司・井上雅文・岡田明三の3先生は、古典学習塾─原塾─を創設した。月曜日は『難経』(岡田)、火曜日は『素問』(島田)、水曜日は『霊枢』(井上)と、週1回の、今考えてみればハードな塾であった。井上先生は『霊枢』講座で『医古文基礎』を講義した。訓読しか(あるいは訓読も)知らない面々が、訓詁学だとか、音韻学だとか、新しい知識に驚き、圧倒された。先生は、誰より早く本書の重要性に気づき、誰より早く本書を題材にして講義したのである。かくして、本書はわが国でも第1の教材となり、少しずつ古典研究の世界に浸潤していった。学んだ者の数は中国には到底及ばないが、わが国でも『医古文基礎』で育った若者が相当いるはずで、今回の邦訳に参加した人の大半もその恩恵にあずかった者たちである。本書の邦訳の端緒は、すでに井上先生の講義に発していたといえる。先生の学識と先見性に脱帽する次第である。

『医古文基礎』

  『医古文基礎』は1980年の初版第1刷に始まり、最新のものは初版第6刷を数え、累計14万部に達している。いかに人口が多いといっても、この部数は驚異的である。中医学を目指す学生がこうした教材で学び、そして古典を学んでいるかと思うと、羨ましい限りである。近年のわが国の古典研究は、漢学の素養のある人に支えられてきた。最近はその人たちが少なくなり(皆無になり)つつあり、古典研究は重大な局面に直面している。本書がその対応策の1つになるだろうと思う。大多数の鍼灸学校では「医古文」の講座を設定していない。それを指をくわえて待っている時間的な余裕はないはずである。それよりもまず、本書で独学して、中国伝統医学の基礎体力を養うのが今のところの最善策である。その効力は、銭先生の序文に書かれている通りである。鍼灸学校や医科大学・薬科大学の漢方講座に、単に鍼灸・湯液の学問や技術だけでなく、教科として「医古文」が設定され、語学教育も重視されることを望むものである。
 本書は小冊子ながら内容が濃い。漢文を読むための知識に始まり、辞書類の使い方、版本や目録のことまで、幅広い知識が網羅されている。同系の書に、漢文を読むための知識を中心として編集され、内容がより専門的な、大型の『医古文』(人民衛生出版社)がある。専門性と分量からいって初学者には荷が重い。やはり、コンパクトで要領よくまとめられた本書が最適である。また、合理的な学問の方法も示されているので、回り道をしなくてすむし、迷路に入り込むこともない。いいかえれば、本書を学ぶことは、中国伝統医学を学ぶ近道だといえる。本書を訳出した最大の意義はここにある。

『医古文基礎』の構成と特徴

 原書は上編・中編・下編に分かれている。上編は文選(古典選集)で、医話、医論、伝記、序文、内経、詩の6部門を設定し、いろいろな文章を読むことを課している。中編は古代漢語を読むための基本知識を網羅し、総合的な知識の獲得を目的としている。下編は、虚詞の解説、難字の発音と意味、古韻22部諧声表、12種の文章(中編の各章末にある練習問題)の現代語訳、という構成になっていて、付録的な要素をもつ。その中でも虚詞の解説は大いに役立つ内容である。各編いずれも価値あるものだが、古代漢語を読むための基本知識が網羅されている中編を重点的に翻訳することにした。
 中編の内容は次の通りである。
   第1章 工具書の常識
   第2章 古書の句読
   第3章 語法
   第4章 訓詁学の常識
   第5章 古韻
   第6章 古籍の現代語訳
   第7章 目録学の常識
   第8章 版本と校勘
 特徴をあげれば次の通り。
(1)中国伝統言語学は、文字学(漢字学)・音韻学・訓詁学で構成されている。第4章の「訓詁学の常識」と第5章の「古韻」がそれに相当するが、文字学が設定されていないのは残念である。
(2)文字学・音韻学・訓詁学が古典の中身の学問とすれば、目録学・版本学・校勘学は外側の学問ともいえる。それを第7章・第8章に備えたのが本書の大きな特徴である。これらは、医学に限らず、中国古典を研究するために必要不可欠の基礎知識でもあり、用例が医学書から採用されていることを除けば、中国古典研究のための基礎を学ぶためには必修だといっても過言ではない。
(3)句読と語法学は、中国伝統言語学からみれば新しい内容で、とくに語法学は漢文を古代漢語(外国語)として扱うなら履修すべき学問である。
(4)第6章の「古籍の現代語訳」は私たちにはさほど重要ではない。

本書の構成

 以上の特徴を踏まえながら、第3章「語法」には下編の「常見虚詞解説」を組み入れ、第6章の「古籍の現代語訳」と各章末の練習問題を削除した。足りない「漢字学」は付録として追加した(段逸山主編『医古文』中の「漢字」の抄訳)。章の順序は基本的には原書のままとした。結果として次のような構成となった。
   第1章 工具書
   第2章 句読
   第3章 語法
   第4章 訓詁学
   第5章 古韻
   第6章 目録学
   第7章 版本と校勘
   付 章 漢字

参考書について

 本書は読者を初学の独学者に想定し、小型の漢和辞典を使いながら、何とか読み切れるような内容とし、専門用語はできる限りわかりやすい言葉に替えたり、注釈や補注をつけた。それでも難しさが残ったところがある。とくに「語法」と「古韻」の章である。『医古文基礎』は、当然のことながら、中国の学生を対象として執筆しているので、「語法」と「音韻」に関する基礎を省略している。それを補うためには、相当の紙幅と、それを遂行する能力が必要であるが、本書はいずれの条件も満たすことができないので、参考書を紹介することにする。その第1は、『中国語学習ハンドブック』(大修館書店)である。現代漢語から古代漢語までの基礎知識が網羅されているし、現代の文学・芸術、社会と生活などにも及ぶ知識が書かれているので役立つものと思われる。「音韻」だけでいえば『音韻のはなし』(光生館)があれば理解しやすくなるし、「語法」だけでいえば『全訳漢辞海』(三省堂)の付録「漢文読解の基礎」が役立つ。『虚詞』だけでいえば『漢文基本語辞典』(大修館書店)が有用である。参考書はいずれも書末に一括しておいた。

読者へ望むこと

 私たち、および私たちの仲間は、『医古文基礎』の原書を、中日辞典を片手に一字一字読み解いてきた。その結果、医古文学を学びとるだけでなく、さらに現代中国語に習熟することにもなった。つまり、『医古文基礎』の原書は現代中国語を学ぶ絶好の教材にもなっていたわけである。この日本語版は、その現代中国語を学ぶ格好の機会を奪ってしまった。これは大きな過ちだったのではないかと思っている。読むだけでも現代中国語には習熟しておいた方がよい。独学するなら、単純な方法であるが、適当な教材を見つけて一字一字読み解く方法をお薦めする。遠回りのようであるが必ず成果があり、のちのち必ず役立つはずである。
 医古文学は本書で語りつくされたわけではない。是非とも書末の参考書などにも目を通してもらいたい。現代中国語で書かれている参考書も多いが、ステップアップのためには読んでもらいたい。

荒 川   緑
宮 川 浩 也


凡例

(1)本書は、劉振民・周篤文・銭超塵・周貽謀・盛亦如編『医古文基礎』(人民衛生出版社)の中編の「第1章 工具書の常識」「第2章 古書の句読」「第3章 語法」「第4章 訓詁学の常識」「第5章 古韻」「第7章 目録学の常識」「第8章 版本と校勘」と下編の「常見虚詞選釈」、および段逸山主編『医古文』(人民衛生出版社)の「第2章 漢字(部分)」を訳出したものである。
(2)原書には( )内に注釈が施されていたが、分量が少ないので本文に組み入れることにした。本文に組み入れることができなかったものは(原注: )とし、不必要と思われるものは削除した(注音など)。
(3)翻訳にあたり、新たに( )内に訳注を補ったが、長文のものは脚注とし、分量が多いものは補注とし書末に付した。
(4)原書では出典を示すのに、書名だけだったり篇名だけだったりと統一されていない。本書では書名と篇名を併記することにしたので、書名あるいは篇名を補った。また、著者名も補った。この場合、訳注を表す( )を用いなかった。
(5)原書の引用文は次のように処理した。
 (1) 原文が必要であれば、訓み下し文と並記した。
 (2) 原文がなくとも差し支えない場合は、訓み下し文だけにした。
 (3) 原文にも訓み下し文にもこだわる必要がなければ、意訳文とした。
(6)書影1から書影9は原書では活字化されているが、本訳書では原本の書影を採用した。書影10は編者が補った。
(7)原書には、引用文等に誤字・脱文が散見する。明らかな誤りとみなしうるものは訂正した。その場合は訳注をつけなかった。説明内容に沿ったものであれば敢えて改めなかった。