▼書籍のご案内-序文

『中医臨床のための医学衷中参西録 第1巻[傷寒・温病篇]』

はじめに


  本書は,近世の名医・張錫純の著作《医学衷中参西録・全三冊》(河北科学技術出版社,1985年)を参照して翻訳・編集したものである。翻訳本は2001年に本会より既に一部が医歯薬出版より出版されたが現在絶版となっている。希有の中医学書であると同時に臨床医学の啓蒙書でもある本書をより多くの読者に知っていただくために,今回全面的に翻訳をしなおし,張錫純自身が執筆した本文と書簡をほぼ収載して読者の臨床の役に立ちやすい組み立てとした。原著は時代順に書かれており,同じテーマであっても張氏の経験から訂正を加えている箇所が多いので,翻訳も原則として時代順に配した。ただ,テーマについては利便性を考えて,大きく傷寒・温病と内傷雑病(薬物講義を含む)に分け,最後に基礎理論および書簡とし,三部に分ける。本巻ではそのうちで傷寒および温病にあたる箇所を時代順に抜粋して翻訳した。
  張錫純は,字を寿甫といい,河北省塩山県の人で,1860年〔清・咸豊10年,日本の万延元年〕に生まれ1933年〔民国22年,日本の昭和8年〕に没した近世の名医である。豊かな教養人であるとともに,「読まない書物はない」と称されるほどの広汎な中医学の学識と,これにもとづく独自の深い認識をもっており,明快な理論のもとに病因・病機・病態および治法方薬についての解説を行った。
  自序にもあるように知識層の家系に生まれ,幼児期から父親の薫陶を受けて育ち,長じて2度の科挙の試験に挑んで失敗したのち,「良相為らざれば,必ず良医為らん」との祖先の垂訓を守って医学の道へ入った。1918年に奉天〔瀋陽〕の立建中医院・院長に就任し,系統的な臨床経験を積むと同時に,多数の論文を医学雑誌に投稿して名声をあげて,当時の「名医四大家」の一人にあげられ,張生甫・張山雷とともに「名医三張」とも称された。1926年に天津に居を移し,中西医匯通医社および国医の通信教育学校を設立し,多くの後継者を養成した。書中に多くの受業〔師に対する弟子の自称〕が登場するのはこのためである。日中は診療し夜間は著述にいそしむ生活を続け,1933年8月8日74歳で病逝した。真面目で熱心かつ慈愛に満ちた人物であることが,自序,経歴および書中の記述からくみとれる。
  自著に「衷中参西」と名づけたように,張錫純は中西医匯通派〔中西医結合派〕と目されている。アヘン戦争以降に欧米列強の侵入を許し半植民地と化した中国では,医学においても西洋医学の影響を受けざるをえなくなったことを反映している。書中に「西洋薬が中国に入って以降,維新主義者は競争してこれに走り,守旧主義者は汚らわしいもののようにみなすので,ついに互いに牴牾〔くい違い〕を生じ,終いには交流し難くなっている。私は凡才であるが,日常の用薬に喜んで多くの西薬の長所を取りいれて中薬の短所を補って,当初から両者に敷居をつくらない。したがって,拙著を衷中参西と命名した。西洋医学の用薬は局部治療で病の標に重点があるが,中医学の用薬は原因治療を求め病の本に重点がある。結局,標・本は当然兼顧すべきで,難治の証に遇った場合は,西薬でその標を治し中薬で本を治せば必ず捷効するはずで,臨床でも確かに手応えを感じている」と述べ,当時の中国での医学界の状況を示すとともに,中・西両医学の特徴を分析している。すなわち,迎合して無批判に西洋医学を取り入れるのではなく,「衷中」すなわち中医学という確固たる土台のもとに,「参西」すなわち西洋医学の学説・化学・薬物などを積極的に学んで有益なものを採用し,中医学をより発展させようとの意図である。
  しかしながら,当時の西洋医学は今日からするとかなり未熟で,治療面でもみるべき所が少なく,当時の薬物も現在では過去の遺物になってしまっており,さらには中医学に立脚する著者に西洋医学に対する誤った理解や牽強附会がみられるために,本書では西洋医学に関連した記述を一部割愛した。また現代医学での治療が確立して,漢方薬での治療が行われないものでは,訳注として説明を加えた。しかし,当時の考え方を知るうえでの重要な資料でもあるので,ほぼ変更を加えずに記載している。本書は現代西洋医学を充分に学ばれた読者を対象としている。水銀製剤や鉛含有物質など現在では治療に用いることは許されないものもあるので,理解してお読みいただきたい。


  《医学衷中参西録》は1918~34年の16年間に次々と刊行され,全七期30巻からなっている〔1957年に遺稿が第八期として加えられた〕。発行の状況は以下のようである。


第一期 各種病証と自製新方 1918年出版。
第二期 各種病証と自製新方 1919年出版。
第三期 各種病証と自製新方 1924年出版。
 以上は,前三期合編上下冊・8巻としてまとめられ,1929年出版。
第四期5巻 薬物解説 1924年出版。
第五期上下冊・8巻 各種医論 1928年出版。
第六期5巻 各種症例 1931年出版。
第七期4巻 傷寒論病証 1934年出版。


  この後,全七期30巻に第八期を加え,《医学衷中参西録》上中下の三冊本が,1934年に河北人民出版社から刊行され,これが現在に至っている。
  以上のように,原著は約16年にわたり次々と増補改訂しながら書かれており,後になって病証を総括したり新たに医論を補充したり,同じ病証の症例を追加するといった配慮がなされているので,相互に参照することが理解を深めるうえで最も望ましい。
  本書によって新たな深い認識が得られ,臨床での成果がより高められることを期待している。


凡  例


1.本書は《医学衷中参西録》上・中・下冊から抜粋し編集しなおしており,当然配列が異なるので,各項に「第○期×巻」と表示して原著を参照しやすくしている。


2.現代文として意訳し,適宜に「 」でくくったり,訳注を附して理解しやすくしており,不必要と考えられる西洋医学的記載は一部割愛した。


3.( )内は張錫純自身の原注であり,〔 〕内は訳注である。


4.自製方剤については,組成と関連部分を罫で囲み,見分けやすくしている。


5.『傷寒論』の条文については,条文をできるだけ訳注のなかに加えた。条文番号については張錫純の用いた番号の他に,《傷寒雑病論》(日本漢方協会学術部編・東洋学術出版社)で用いられている番号を(***)として記載した。


6.巻末には,中医用語・方剤名・薬物・傷寒論条文の索引を附した。


〔参考文献〕
中国医学大辞典:謝観等編纂,中国書店,1990年
中医大辞典(方剤分冊):中医大辞典編輯委員会編,人民衛生出版社,1983年
本草経義疏:王大観主編,人民衛生出版社,1990年
中薬学:顔正華主編,人民衛生出版社,1991年
医史手帳:安井広迪編著,日本TCM研究所,1993年
傷寒六経病変:楊育周著,森雄材・安井広迪訳,人民衛生出版社,1992年
中医名詞術語精華大辞典:李経緯等編纂,天津科学技術出版社,1996年
傷寒論浅注:陳修園著,陳紹宗等校注,福建科学技術出版社,1987年
傷寒論辞典:劉渡舟主編,解放軍出版社,1988年
金匱要略浅述:譚日強編著,神戸中医学研究会・名古屋中医学研究会共訳,医歯薬出版株式会社,1989年


張錫純 自序


  人生には大きな願力〔願いと努力〕があればこそ,偉大な建樹〔功績〕が残る。一介の寒儒で,起居する草茅にはこれといった建樹はないが,もとよりその願力は尽きえない。老安友信少懐〔《論語》老はこれを安んじ,友はこれを信じ,少きはこれを懐けん〕は孔子の願力である。まさに一切の衆生をして皆仏と成らしめんとは如来の願力である。医は小道ではあるが,実は済世活人の一端である。したがって医を学ぶものにして,身家温飽をなさんと計るは則ち願力小さく,済世活人をなさんと計るは則ち願力大である。そしてこの願力が私にあるのは,また私だけの願力ではなく,実は受け継がれてきた祖訓である。私の原籍は山東諸城にあり,明代に直隷塩山の山辺務裏に居を移し代々儒学者を生業とした。先祖は三公〔官僚としての最高位の三つの官職〕を友とし編纂された系譜を受け継いでいるが,垂訓はここにあって,凡そ後世の子孫は,読書のほかに医を学ぶべしと謂う。つまり范文正公〔北宋の政治家,文人〕の「良相たらずんば,必ず良医たれ」の意である。錫純が幼時読書を学んだ先厳〔亡父〕丹亭公は,かつてこの言葉を述べて錫純に教えた。やや年長になると,さらに方書を授け,かつ大意を指し示した。通読のあいまにはここで遊び,多くの良いものを得て,さらにまた祖訓をまもった。ただ当時まさに挙子〔科挙試験受験者〕の勉学をしていたので,これにまだ大きな力を割けえなかった。のちに二回の秋闈〔秋の科挙試験〕に不合格となり,壮年であったが続ける気を失った。そこで広く方書を求め,古くは農〔神農,農業と医薬の神であり,《本経》と略称される《神農本草経》を著したとされる〕軒〔黄帝,軒轅の丘に住んだとされ,《内経》の中心人物〕から,最近の国朝〔清〕の諸家の著述にいたるまで合計するとあらかた100種以上の書籍を読み調べた。《本経》と《内経》は,開天辟地の聖神と医学の鼻祖が貽したもので,これこそ淵海〔内容が深奥,広範であること〕な医学と知った。漢末になると張仲景が現れて《傷寒論》《金匱要略》を著し,《本経》《内経》の功臣となった。晋代の王叔和〔《脈経》を著し,当時すでに散逸していた張仲景の《傷寒雑病論》を撰輯した〕,唐代の孫思邈〔中国史上最初の医学百科全書である《備急千金要方》《千金翼方》を著す〕・王燾〔膨大な前人の医書を編輯し理論研究と治療方剤をはじめて統合整理し《外台秘要》を著す〕,宋代の成無己〔《内経》に基づいて《傷寒論》を分析注釈し,《注解傷寒論》を著す〕,明末の喩嘉言〔《傷寒論》の条文を分類整理研究して《尚論篇》を著す〕らも,やはり張仲景の功臣である。国朝には医学が発展して人才が輩出し,張志聡〔《素問集注》《霊枢集注》などを著す〕・徐大椿〔《医学源流論》《神農本草百種録》などを著す〕・黄元御〔《素霊微蘊》《傷寒懸解》《金匱懸解》などを著す〕・陳念祖〔《神農本草経読》《傷寒論浅注》《金匱要略浅注》などを著す〕らの諸賢は,いずれも張仲景および淵源をなす《本経》《内経》を踏襲しており,したがって彼らの著した医書はいずれも正統な医学である。ただし,晋・唐から現代にいたる諸家の著述はよくできてはいるが,いずれも瑣末にいたるまで旧態の伝承に汲々とし,初めから日進月歩して中華医学を進歩させようという意図がない。古を師として貴ぶということは,古人の規矩準縄に縛られることではなく,それを手段として自分の性霊〔心の霊妙な働き〕を瀹い神智〔精神と知恵〕を益することである。性霊・神智が活発になり充溢すれば,さらに古人の規矩準縄を貴んで取り上げ,これを拡充し,変化し,引伸触長〔意味を推し広め同類のものに出会えばそれらすべてに及ぼす〕して,古人が『後世の者たちもなかなかやるものだ』とし,畏れいるようにすべきである。世の中のことはいずれもそうあるべきで,医学だけが違うはずはない。私,錫純はこうした考えで,何年もたゆまず医学を研究し,たまたま人のために処方をすると,すぐに得心応手〔思い通りの結果が得られる〕し,宿痾の病を挽回することができた。先慈〔亡母〕の劉太君〔身分の高い婦人に与えられる称号〕が家におられたころ,私は親孝行するいとまがなくなることを恐れて,あえて軽々に他人の往診には応じなかった。たまたま急症であるからと診察の求めがあっても,みだりに遽しく応じるようなことはなかった。先慈は『病家が医者を待ち望むのは,水に溺れるものが援けを求めているようなものです。あなたが治せるのなら,急いで往って救けておあげなさい。しかし,臨床では十分に注意し,鹵莽〔粗雑〕なことをして人を害さないように慎まねばなりません』といわれたので,『唯唯〔はいはい〕』と教えを受け,以後臨床家としてほとんど1日たりと休むことなく,今日まで10余年に至る。ここに十数年の経験の方で,多くの効果があった頻用処方を集めると,ちょうど大衍〔五十〕の倍数である。方後には詮解と重要な医案をつけ,また同時に西洋医学の説と方中の筋道を対比して明らかにし,集めて八巻として《医学衷中参西録》と名づけた。ある人は,ざっと目を通して「あなたの書物を読むと,先人が指摘していないことを啓発しており,誠に医学の進歩である。しかし,今般あらゆることが西欧化しており,編中では西洋医学の説を採用したとはいえ,あまり西洋薬を採り入れてないので,恐らくはこの道は最高峰に達してはいない」と問う。そこで「中華の苞符〔河図洛書〕の秘は,三墳〔古代の書〕より啓き,伏羲の《易経》《神農本経》《黄帝内経》がこれである。伏羲が画いた《易》は,文字ができる以前から存在し,従って六十四卦はその象に止まるが,しかしながらよく万事万物の理を包括し,文王,周公,孔子がこれを解明したとはいえ,なおまだ余蘊がある。《本経》《内経》が包括する医理は,極めて精細で奥が深く,ずば抜けて量りがたく,やはり《易経》が万事万物の理を包括するがごときである。周末の秦越人〔扁鵲〕より後,歴代の諸賢は,いずれもそれぞれに新しい考え方があるが,三聖人が《易経》を解明したことと較べれば実際及ばず,したがってその中には余蘊がなお多い。私は古人より後の時代に生まれたので,古人が完成できなかった仕事を完成させねばならず,古いものを助けて新しいものにし,わが中医学の輝きを全地球上に喧伝できなければ,それは私の罪である。私,錫純は毎日このことを心にとめて,老いを忘れてたゆまず努力を続けている。これまで西洋医学を渉猟したが,実はまだその薬物を一つひとつ試験する暇がない。さらにその薬の多くは劇薬であり,また臨床で安易に試しえないので,多くの西洋薬を採用できていない。しかし,本編で取り入れた西洋医学は医学理論を採用しただけではなく,常にその化学理論を採り入れ,方薬の運用には中西医学を融合させて一体化し,その薬を採用した場合にも,記問の学〔いい加減な理解でやたら講釈するような学問態度〕としているのではない。ただ学問の道は,年毎にあらゆる分野で重要な進歩があり,この編が既に完成した後も,西洋医学を広範に読みあさって,さらに信ずるべき説と用いるべき方を採用し,試して確実に有効ならば,続編にする。志があって未だ至らぬ事でも,志さえあれば必ず成就する。

巳酉孟春塩山張錫純寿甫氏書于志誠堂


例言〔前三期合編の凡例〕


1.薬性を解明した初めの書は,《神農本草経》である。この書は文字が使われるようになった最初の書(《易》はそれ以前に存在したが,そのころはまだ文字はなかった)であり,簡策〔簡も策も古代に文字を書くのに用いた竹片。簡策は書籍の意〕の古さがわかる。この書には合計365味の薬が記載され,その数は1年間の日数をあらわす。これを上中下の3品に分け,上品は養生の薬,中品は治病の薬,下品は攻病の薬としている。各品の下には,すべて詳細に気味と主治を記し,気味を明らかにすることにより主治の理由も示している。また,薬性が独自の良能を具備し,気味から外れるものもあるが,古聖はすべてを知り尽してこれら一つひとつを明らかにしており,医学における天地開闢の鼻祖といえる。後人は識見が浅薄なために,薬が独自の良能を具えていても,気味から推し量れなければ,すべて削除し記載していない。たとえば,桂枝は上気吐吸(吸っても下達せずに吐出する,すなわち喘の不納気である)に非常に効果があり,《本経》に記載があるが,後世の本草には記載がない。また,山茱萸は寒熱往来(肝虚が極まった場合の寒熱往来)に非常に効果があり,《本経》に記載があるが,後世の本草には記載がない。このようなことは枚挙に暇がない。私はこれらをみるたびに深く嘆き惜しみ,そのため本書で薬性を論じた箇所ではすべて《本経》に従い,後世の本草は軽軽に採用していない。どの臓腑どの経絡に入るかの明確な記載がないと疑うものがあるが,どんな病を主るのかを知らずして,薬力がどこに至るかを知ろうというのか。つきつめれば,服薬すれば薬は気血に随って流行し至らない所はない。後世,詳細に臓腑経絡に分けるのは,かえって学ぶものに拘墟〔見識が浅く浅薄なこと〕の弊を残すように思われる。


2.明解な医学理論は《黄帝内経》に始まる。この書は黄帝と臣下である岐伯・伯高・鬼臾・雷公の間の問答形式で書かれており,《素問》と《霊枢》に分かれる。《素問》の要旨は薬による治病にあり,《霊枢》の要旨は針灸による治病にある。ただし,年代が非常に古いので欠落がないとはいえない。古代の相伝は口授によることが多く容易に亡失したので,晋代の皇甫謐〔《甲乙経》を著す〕はこの書は不完全であるといい,宋代の林億はこの書には偽托〔偽作〕があるのではないかと疑っている。さらに仲景は《傷寒論》の序で「《素問》9巻を用いて文章を書いた」と述べているが,現在《素問》は24巻あり,その中には偽托があることがわかる。しかし,その核心部分は聖神の残した言葉であることは確実で,断じて偽托者の為せるわざではない。たとえば,針灸による治療は今では世界中で認識されているが,もし古聖が始めていなければ,後世に創造できたであろうか? 西洋医学で詳しく解剖を講義するものが創造できるだろうか。《内経》を読む方法とは,ただ信じうる部分を詳しく研究して会得することであり,そうすれば無限の法門〔勉学に入る順序方法〕を開くことができる。信じられない部分は,後世の偽托かもしれないので,論及しなくてもかまわない。これは孟子のいわゆる「書尽くは信じ難し」の意である。現在西洋的な方法を重視するものは,《内経》の信じるにたる部分の研究に努力せず,信用し難い部分を極力指摘するのみである。その意見を推し進めると,《内経》の真本はとうに失われており,世に伝わるものはすべて偽托であることになる。こんな理屈があるだろうか? われわれすべての同胞はみな黄帝の子孫であるにもかかわらず,先祖が後人に与えた典籍を慈しみ一層大切に保存しようともせず,些細な瑕疵をいい立てて破棄してしまうのは,まったく嘆かわしいことである。したがって,本書の各門中では《内経》にのっとって述べた部分が非常に多いが,《難経》《傷寒論》《金匱要略》などのように《内経》にのっとった後世の医書も時に採用している。


3.本書に記載した方剤の多くは私が創製したもので,時に古人の成方を用いた場合でも多くが加減している。方中に独自の見解をもっている場合には,その方も一緒に載せて詳細に解説した。また各門の方の後に西洋医学の常用方,および試して実際に効果があった西洋薬を付録として記した。臓腑経絡を論じる際に,多く道家の説を併せて採用したのは,もともと授受があるからである。また時に西洋医学の説を採用したのは,解剖で実際的な考証があるからである。


4.古人の用薬の多くは,1度に大量を煎じて3回に分けて服用させ,病が癒えれば必ずしも剤を尽くさず,癒えなければ必ず1日ですべて服用させる。この方法に今の人々が注意をはらわなくなって久しい。私は傷寒・瘟疫とすべての急性疾患には必ずこの方法を用いる。これらの証の治療は消火に似ており,水をぶっかけると火勢はやや衰えるが,次々に水をかけつづけなければ火の勢いが再び熾んになり,それまでの効果がまったくなくなる。他証の治療では,必ずしも1日に3回服用する必要はないが,朝夕各1回服用(煎じた残渣をもう1度煎じて服用するのは1回とみなす)して薬力を昼夜継続させると,効果が早く現れる。


5.裕福な家では服薬する際に次煎〔二番煎じ〕を用いないことが多いが,元来は次煎を止めてはならないことを理解していない。慎柔和尚〔明代の僧。《慎柔五書》を著す〕は陰虚労熱の治療に専ら次煎を用いた。次煎は味が淡で能く脾陰を養う。「淡気は胃に帰す」と《内経》にも記載がある。「淡は能く脾陰を養う」の意味は,もともと「淡気は胃に帰す」からきているが,その理由を理解していないものが多い。徐霊胎〔清代の医家。徐大椿〕は,「洪範〔天地の大法。書経の洪範を指す〕は五行の味について『水は潤下を曰い,潤下は鹹を作す。火は炎上を曰い,炎上は苦を作す。木は曲直を曰い,曲直は酸を作す。金は従革を曰い,従革は辛を作す』というが,いずれもそのものの本味を述べている。土については,その文を変え『土は稼穡〔種まきと収穫〕を爰け,稼穡は甘を作す』とする。土は本来無味であり,稼穡の味を借りて味とするのである。無味とはすなわち淡であり,したがって人の脾胃は土に属し,味が淡であるものはすべて能く脾胃に入る」と述べる。また,陰虚の治療で重要なのは専ら脾であることも理解していないものが多い。陳修園〔清代の医家,陳念祖〕は「脾は太陰,すなわち三陰の長である。故に陰虚を治すには,脾陰を滋すことを主にすべきで,脾陰が足りれば自ずと諸臓腑を灌漑する」と述べる。


6.白虎湯中に用いる粳米は,古方では生を用い,現代でも生を用いる。薏苡仁・芡実・山薬の類も,粳米と同じである。諸家の本草では,「炒用」と注釈するものが多いが,炒用は丸散についてのみである。現在では湯剤に用いる場合にも必ず炒熟するのは理解し難い。専ら健脾胃のみに用いるなら炒してもよいが,止瀉利に使用するなら炒してはならない。生は汁漿が稠粘なので腸胃に留恋しうるが,炒熟したものは煮ても汁漿はないからである。滋陰に用いるなら淡滲を用いる,すなわち炒熟すべきでないことは,極めて明白である。


7.現代の党参は古代の人参であり,山西地方上党の山谷に生育するので党参という。山西の五台山に生えるものは最も優れ,特別に台党参という。現在の遼東人参とは本来種が異なり,気温・性和であり,実際に遼東人参より使用しやすく,さらに非常に廉価で貧しいものでも服用でき,誠に済世の良薬である。現在は遼東地方でも党参が多く,すべてが山西産ではない。しかし必ず党参の皮には横紋があり,胡萊菔〔食用の人参〕の紋のようで胡萊菔の紋よりさらに密ならば野山に自生する党参であり,これを人参の代用にすれば非常に効果がある。横紋がなければ,その地方独自の栽培であり,使用に堪えない。また,本書で用いる人参はすべて野党参で代用してもよいが,遼東で栽培した人参を代用してはならない。遼東で栽培した人参は俗に高麗参と呼ばれ,薬性が燥熱であるから軽用すべきでなく,傷寒・瘟疫の諸方中に使うのは最もよくない。また潞党参は,皮の色が微紅で,潞安の紫団山に生育するので,紫団参ともいう。潞党参の補力は台党参に匹敵し,薬性が平で熱性ではないので,気虚有熱に最も適する。


8.黄耆を湯剤に入れるなら,生用すなわち熟用となり,必ずしも先に蜜炙する必要はない。丸散剤中で熟用すべき場合は,蜜炙すればよい。瘡瘍の治療では,丸散でも炙用すべきではない。王洪緒〔清代の医家〕はこのことを《証治全生集》で詳しく述べている。「発汗には生を用い,止汗には熟を用いる」という説に至っては,まったくでたらめである。気分の虚陥が原因で汗が出るものは,黄耆を服用すればすぐに止まるが,陽強陰虚が原因で汗が出るときは,黄耆を服用すればかえって大汗が出る。気虚で逐邪外出できない場合は,発表薬と同服すれば汗を出すことができる。したがって,止汗するか発汗するかは生か熟の違いではなく,いかにこれを用いるかによる。


9.石膏は寒で発散に働くので,外感実熱の治療には金丹の価値がある。《神農本経》には「微寒」とあり,薬性が大寒ではないことがわかる。さらに「産乳を治す」とあるので,薬性が非常に純良であることがわかる。世人の多くは大寒と誤認して煅用するために辛散の性質を収斂に変えてしまっている(豆腐の製造に少し加える石膏を必ず煅くのは,収斂したいからである)煅石膏を外感実熱に用いると1両用いても傷人するのは,外感の熱は散じるべきで収斂すべきではないからである。大量に煅石膏を用いて治療を誤ると,過ちは煅いたためで石膏のせいではないことがわからず,逆に「石膏は煅用してもこれほど猛悍であるから,煅かなければおして知るべしである」といい,ついには生石膏を怖がることになる。そこで思い切って用いてもせいぜい7~8銭に止めるが,石膏の質は非常に重く,7~8銭でも一撮みに過ぎない。極めて重症の寒温証を挽回するのに微寒薬一撮みでは,とうてい効果を期待できない。そこで私は外感実熱の治療には,軽証でも必ず1両程度,実熱が熾盛なら大量3~4両使用することが多い。薬を茶碗数杯に煎じて3~4回に分けて温飲させるのは,病家の疑いを免れたいためと,薬力をできるだけ上焦にとどめて寒涼が下焦を侵して滑瀉を引き起こさないようにしたいからである。石膏を生用して外感実熱を治療するなら断じて人を傷害するはずはなく,さらに思い切って大量使用すれば断じて熱が退かないはずはない。ただし,薬局で細かく挽いた石膏は煅石膏が多く,処方箋に明確に生と書いても煅石膏を充てることが多い。もともと備蓄してあるものが煅石膏であるうえに,さらに薬局自ら慎重になっているのが原因である。したがって,生石膏を用いる場合は,はっきりと整った石膏塊を購入すべきで,細かく挽くところを自分で監視しなければ確実ではない。
問い:同じ石膏なのに,なぜ生は能く散じ,煅けば性質が散から急に斂に変わるのか? 答え:石薬の性質は草木薬とは異なり,煅いたものと煅かないものでは常に性質が際立って異なる。丹砂は無毒であるが,煅けば有毒になる。石灰岩を煅くと石灰になり,燥烈の性質が急に現れ,水を注ぐと火のように熱くなる。石膏はもともと硫黄・酸素・水素・カルシウムが化合してできたもので,煅けば硫黄・酸素・水素がすべて飛んでしまい,残ったカルシウムは変成して石灰になり,異常に粘渋になる。そこで焼洋灰は必ず石膏を多用するが,洋灰〔セメント〕を服用できるだろうか。したがって,石膏を煎じて缶の底に残渣が凝結するなら煅石膏なので,その薬は絶対に服用すべきではない。


10.細辛は「1銭以上服用してはならない」との説があり,後世の医者にはこれを否定する者が多いが,この説は元来おろそかにすべきでないことを知らないのである。細辛に限らず花椒・天雄・生半夏のように,味が辛で同時に口がしびれるような薬は,たいていみな弊害がある。口をしびれさせるものは肺もしびれさせ,肺がしびれると呼吸がすぐに停まる。かつて胃中が冷えたので花椒約30粒を嚼服して飲みこむと,すぐに気が上達しなくなるのがわかり,しばらくして呼吸がようやくもとにもどった。そこで,古人は主君を諌めると禍が生じることを恐れ,花椒を搗いて携帯する〔花椒を口に含んで痺れさせ不用意に諌めたりしないようにする〕ことがある意味を悟った。これからみても用薬には慎重であらねばならない。


11.半夏は降逆止嘔の主薬であるが,現在薬局では白礬で製している。降逆気・止嘔吐に用いると服用後に逆に症状がますます劇しくなる恐れがあるのは,明礬味が吐き気を誘発するからである。私は半夏で嘔吐を治療する際には,必ず微温水で半夏を数回洗って明礬味をすっかり洗い流すように努めている。しかし,洗う際には含まれる明礬量を考慮して決められた量以外に多少の半夏を加えておき,きれいに洗い流して晒し干ししたものがもとの分量に足りるようにする。薬局の質のよい清半夏は明礬が比較的少ないが,用いる際にはやはり洗うべきである。利痰の目的なら,清半夏を洗わなくても構わない。


12.竜骨・牡蛎は収澀を目的とする場合は煅用してもよい。滋陰・斂火あるいは収斂に兼ねて開通(竜骨・牡蛎はいずれも斂して能く開く)が目的なら,煅いてはならない。丸散中に用いるなら微煅してもよい。現在,すべて煅を用いているがもってのほかである。


13.山茱萸の核〔種〕は小便不利を来たすのでもともと薬に入れるべきではない。しかし,田舎の薬局で売っている山茱萸は往々にして核と果肉が半々で,甚だしい場合は核が果肉より多いことがある。処方中に「核をすべて除く」と明確に注意書きをいれても,やはり除去していないことが多いので,治療の妨げになること甚だしい。本書では山茱萸を大量に使用した重篤な証の治験例が非常に多い。私は使用時に必ず自分で点検するか,核をすべて除く必要があると説明して病家に点検させ,除いた分量をまた補うようにすると,間違いが起きない。山茱萸の効用は救脱に長じているが,能く固脱する理由は酸味が極めて強いことにある。しかし,嘗めると時々酸味がほとんどないものがあり,こうした山茱萸は使用に堪えない。危急の証には,必ず嘗めて酸味が極めて強いことを確かめてから用いなければ,優れた効果が得られない。


14.肉桂は気味ともに厚く,長時間煎じるのが最もよくない。薬局では搗いて細末にしてあるものが多く,数回沸騰させると薬力がすぐに減じ,数10回も沸騰させるとなおさらである。石膏は気味ともに淡で石質であるから,細かく搗いて煎じなければ薬力が出ないが,薬局では細かく搗いてないものが多い。そこで私は,石膏は必ず細末に搗いてから煎じ,肉桂は粗皮を除去するだけで塊のまま煎じる。肉桂や石膏に類する薬は,肉桂・石膏にならうのがよい。


15.乳香・没薬は生用が最もよく,カラカラに炒してはならない。丸散中に用いる場合は,まず挽いて粗い粉末にし,紙を敷いた鍋に入れて半ば溶けるまで焙り,冷ましてから挽いて細末にする。これが乳香・没薬から油分を除去する方法である。


16.威霊仙・柴胡などは本来根を薬用とする。薬局のものには必ず茎や葉が混在しているので,医者に選別する知識がないと事を誤る可能性がある。細辛の葉の効用は根と比べようもないので,李瀕湖〔明代の医家,李時珍〕も《本草綱目》で「根を用いる」と述べている。樗白皮と桑白皮は,いずれも根の皮を用いるが,それが本物か否かは最も弁別し難いので,使用する場合は自分で採取するのが確実である。樗根白皮は大いに下焦を固渋する。一方,皮付きの樗枝を煎じた湯は大便を通じる。俗伝の便法では,大便不通に節の長さが1寸ほどの皮付きの樗枝7節を湯に煎じて服用すれば非常に効果がある。その枝と根の性質はこのように異なるので,使用にあたっては慎重でなければならない。


17.代赭石は鉄と酸素の化合物で,性質は鉄錆と同じであり,もともと煅くべきではない。徐霊胎は「これを煅いて酢に浸けたものは傷肺する」と述べている。本書の諸方中にある代赭石は,すべて生代赭石を細かく挽いて用いるべきである。


18.薬には修治していなければ絶対に服用してはならないものがあり,半夏・附子・杏仁などの有毒薬はすべてこれである。古方中の附子は,たまたま「生用」とあっても実際には塩水に漬け込んだものであり,炮熟した附子ではないが,採取後すぐ使用するのではない。このような薬物は,方中にどのように炮製するのか明確な注がなくても,薬局では必ず修治して無毒にしてある。本来毒がない薬物で,もともと生用してよいものは,本書の方中で修治についての明確な注がないものは,すべて生用すべきである。本書の処方を用いる場合は,薬の本来の性質を失うような別の修治を加えてはならない。


19.古人の服薬方法は,病が下にあれば食前に服用し,病が上にあれば食後に服用するのが決まりである。後世の人には,「服薬すると必ず脾胃が消化したのちに薬力が四達する。病が上にあって食後に服用すれば,脾胃は必ずまず宿食〔前からの食物〕を消化し,その後に薬物を消化するので,速さを求めても逆に遅くなる」というものがある。この説は理屈に合うようでも,間違いであることを知らないのである。薬力が全身を行るのは,人身の気化を借りて薬力を伝達するのであって,ちょうど空気が声を伝えるようなものである。両方の間に空気がなければ,どこで声を発しようとその場で止まる。人身の気化をなくせば,脾胃が薬物を消化しても全身に伝達できない。人身の気化の流行にはもともと臓腑の境界はなく,咽を下った薬物はすぐに気化とともに行り,その伝達速度は極めて速く,あっという間に全身に行き渡る。ただし,空気が声を伝えるのは速いが,遠く離れるほど声はだんだん小さくなる。このことから気化による薬の伝達を推測すると,遠く離れると薬力は次第に減退する。したがって,病が下にあれば食前に服用し,病が上にあれば食後に服用するのは,薬を病変部位に近づけさせて直達する力を最も速くさせるためである。


20.湯剤では薬を煎じる液量が少ないのはよくない。少ないと薬汁の大半が煎じ渣の中に残る。滋陰清火の薬では,特に薬汁を多くして煎じなければ効果がない。したがって本書では,重剤を用いる場合は必ず煎汁を数杯として数回に分けて服用する。また,誤って薬を煎じ過ぎて干上がった場合に,水をもう1度入れて煎じても薬は本来の性質を失っており,服用すると病は必ず劇しくなるので,廃棄すべきで服用してはならない。


21.煎じるときに突沸しやすい薬は,医者があらかじめ患家に伝えておくべきである。たとえば,知母は5~6銭になるととろ火で煎じても突沸し,1両にもなると煎じることはできない。しかし,知母は最も容易に煎じ終えることができるので,まず他薬を煎じて10数沸させ知母を加えて蓋を開けっ放しにしたまま数沸させれば湯ができる。山薬・阿膠などの汁漿の薬,竜骨・牡蛎・石膏・滑石・代赭石などの末に搗いた薬は,いずれも突沸しやすい。煎薬は初めに沸き立つときが最も突沸しやすいので,煎じて沸き立つころに,あらかじめ蓋を開けて箸でかき混ぜるとよい。初めの沸き返りが過ぎ,その後も沸いておれば蓋を開けたままで差し支えなく,沸かないときに初めて蓋をして煎じるとよい。危急の証では,安危はその薬1剤にかかっているので,もしこれを下男や下女に押しつけ,薬を煎じる際の沸出をはっきりといっておかないと,事を誤ることが多い。したがって古の医者は,薬餌は必ず自分の手で修治し,湯液を煎じるにもやはり必ず自分で監視していた。


22.本書に収載されている諸方で,方中の重要な薬物の性味・能力を確実に知らないならば,四期の薬物学講義に収載された薬の注解を詳しくみるとよい。私は諸々の薬物について,巴豆や甘遂のような劇薬といえども,必ず自分で嘗めて試験している。用いた薬は,すべて性味・能力について深く知りぬいており,諸家の本草にある以外の新たな知見も加えている。


23.古方の分量を今の分量に換算する場合に,諸説があって意見が一致しない。従来私は古方を用いるのにもともと分量には拘泥しないが,たまたま古い分量を使用する場合は陳修園の説を基準にしている。(詳しくは麻黄加知母湯の項にある〔陳修園は古方を用いる場合は必ずしも古いものに拘泥する必要はなく,《傷寒論》《金匱要略》の方中の1両は今の3銭に換算できると述べている〕)


24.本書の諸方は,数種類の古方を除いた160余方が私の創製である。これはうぬぼれで新奇な異論を述べて古人に勝とうとしたいのではない。医者は人の命を救うものであるからこつこつと天職をまっとうすべきであり,難治の証に遭遇しあれこれ成方を試して効果がなければ,苦心惨憺して自分で治法を考案せざるを得ない。創製した処方が有効で,何度も用いてすべて効果があれば,その方を放棄するに忍びずに詳しく記録して保存した。これが160余方であり,努力を惜しまず人命を救おうという熱情に迫られ,日ごと月ごと累積して巻帙をなしたのである。


例言〔第五期の凡例〕


1.この編は各省の医学雑誌に掲載された論文を集めたものである。初回出版は民国17年(1927年)であるが現在絶版である。ここで又数年集めた各地域の医学雑誌に掲載された約六万余字の医論をこの五期に加えたので増広五期と名付けた。


2.この編の論文では,こちらの篇とあちらの篇とで重複がおおいのは,そのもとになっている雑誌がもともと同一ではないからである。今集めて一つの編とし,重複を除いた節にしたいが,全篇の文章の筋道や文の流れがいずれも損なわれるので,旧のままとした。どうかお許し願いたい。


3.諸論文の著作は,医学雑誌を読んで触発されたり,読者の質問であったり,時の情勢でその論証であったり,新聞社から意見を求められたもので,元来各疾患全体を論じた文書ではない。


4.諸薬について私が多く生用を好むのは,生薬の本性を残したいからである。石膏については硫黄・酸素・水素・カルシウムが化合したものであり,これを煅くと硫黄・酸素・水素は飛んでしまい,涼散の力が急に失われて,残るカルシウムが煅かれて洋灰に変わるので,断じて服用すべきではない。したがって本篇中では生石膏が人を救い,煅石膏が人を傷ることを繰り返し述べ,生命の関わる非常に重大なことであると再三にわたって注意している。また代赭石は鉄と酸素の化合物で,その重墜涼鎮作用は降胃止血に最もすぐれ,さらによく血分を生じ,気分を少しも傷らない。薬局で売る代赭石は必ず石炭の火で煅いてあるので,鉄と酸素が分離しているため血を生じることはできず,さらに酢で焼き入れするため,薬性が開破に変化して,多く使用するとすぐに泄瀉をきたす。また赤石脂については元来粉末で,宜興茶壺〔江蘇省宜興で作られる素焼きの急須で最高の茶道具とされる〕はこれを素焼きにするが,その性質は粉末と同じく粘滞で,細かい粉末にして服用すると胃腸の内膜を保護し,大便滑瀉の治療によいとする。天津の薬局ではあろうことか赤石脂を細末にし水を加えて泥状にして小さな餅状に捏ね,石炭の火で煅くので宜興の壺瓦〔素焼き土器〕となんら異ならない。もしこれを末にして服用すれば必ず脾胃を傷る。また山茱萸は性質が酸温で補肝斂肝に働き,肝虚自汗を治し,脱寸前の元気を固め,実際に極めて危険な症候にある人命を挽回する。薬局で多く用いている酒に浸して黒く蒸したものは,斂肝固気の力が急減している。このようなものは実際枚挙し難く,私が薬をしばしば生用するのは,本来の薬性を残すからである。


5.医家が常用する薬を,私が通常用いることはなく,常用しない薬を私は好んでよく用いる。なぜなら用薬には治病を宗旨とし,医者は処方に通常は薬品二十余味に至り,その分量はほぼいずれも2~3銭の間で大差はない。すなわち病を治癒させるのが,どの薬かも理解していない。しかし,私が臨床を始めたころは,通常証に合った薬を選び,一味を大量に用いて数時間煎じ,徐々に服用させて,つねに極めて重症の病を挽回し,さらにこうして実際の薬力を確かめることができた(拙編中に,一味の薬を大量に用いて危険な証を挽回したものは非常に多い)。そこで常用薬ではないのに,私がしばしば用いるのは,かつてこれを用いて実際に効果を得たからである。常用薬であっても,私が一度も用いていないのは,以前に用いて実際の効果がなかったからである。何事も必ず実際に試せばわかるので,敢えて人の話の受け売りはしない。


6.中医理論はもともと西洋医学理論を包括するものが多い。《内経》に論じられる諸厥証のように,「血の気と並びて〔類経:並は偏盛なり〕走く」〔《素問》調経論〕,および「血の上に菀し,……薄厥をなす」〔《素問》生気通天論篇〕,肝当に治すべくして治さず「煎厥」〔《素問》脈解篇〕になるのは,西洋医学でいう脳充血である。中医学では「肺は百脈を朝〔謁見する〕す」〔《素問》経脈別論篇〕といい,《難経》には「肺は五臓六腑の終始するところたり」というが,これは西洋医学の動脈および静脈の循環である。しかし古代人の用語は茫漠とし実際の解剖の裏付けはないので,記載があっても明確ではない。さらに中医学の治病はつねに病の由来を深く追求するがこれが病の「本」を治すことであり,西洋医学の治病はその局部の治療に努めるが,これは病の「標」を治すことである。危急の証および難治の証に遭遇すれば,西洋薬でその標を治すのは差し支えなく,中薬でその本を治せば必ず速い効果がえられる。したがって西洋薬の薬性が和平に近く,その原物質が確かなものなら中薬と一時併用するのは差し支えがない。原物質がよくわからず,中薬との併用禁忌のおそれがあれば,数時間の時間をあけて前後でこれを用いてもかまわない。


7.およそ薬性が和平なものなら多用すれば必ず奏効する。地黄・山薬・山茱萸・枸杞子・竜眼肉などがそうである。石膏は,《本経》でもともと微寒といい,やはり和平の品であるが,もし寒温大熱に遭遇すれば人命を挽回する見地から,時として多用せざるを得ない。私の処方をみて一剤で通常7,8両に至るので,その分量が多すぎると畏れて敢えて軽々に使おうとしない人は,いずれもまだ薬性を理解していないからである。


8.編中の多くの書簡では起結〔手紙文の起語と結語〕を略したが,起結は世事の挨拶であり,医学的には益するところはない。内容について私の創製した処方については,加減が詳細なものはこれを記録し,通り一遍なものならやはり省いた。というのも本編には至るところで事実であることを証拠立ててあり,三四句間でも読むものが役立てたいと望めば,実際に臨床で実施できる。


9.各地の薬局で販売する薬は,すべてに違いがある。戊午〔西暦1918年〕私がはじめて奉天に赴任し,方中に白頭翁を用い,でてきた薬を点検すると白頭翁は白いキノコで下の2分ほどに根がついている。薬局に「この根っこは何をつかったのか?」と質問すると,「その根は漏蘆です」と答えた。これ以降,あちらの土地の臨床では,白頭翁を用いるときは,すべて漏蘆と処方する。またかつて赤小豆を処方して,できてきた薬を点検すると想思子であったのは,これを紅豆とも呼ぶことによる(唐の王維の詩に「紅豆は南国に生ず」の句がある)。これを薬局に質問すると,「処方箋にただ赤小豆と書いてあればすべてこれを出す」という。これ以降,再び赤小豆を用いるときは,必ず赤飯にいれる赤小豆と処方する。また丙寅〔西暦1926年〕に天津に行き,䗪虫を処方してでてきた薬を点検すると,黒色光背甲虫である。薬局に質問して「䗪虫すなわち土鱉虫になぜこんなものが出てくるのか?」というと,薬局の主人は「この地方では䗪虫と土鱉虫は別物です」といった。その後䗪虫を処方したいときには,処方に必ず土鱉虫と書くように改めた。また鮮小薊を使いたいがまだなく,便宜上の処置として薬局にある乾燥したものを代用にして,でてきたものを点検すると,あろうことか食用の曲麻菜で,これは大薊である。薬局に質問すると,この地方ではもともと小薊を大薊といい,大薊を小薊というのだと知った。これ以外の錯誤をすべて列挙するのは難しい。したがって,慣れない土地での臨床では,処方に際して自ら薬味を点検すべきことが,第一の重要事項である。


10.学問の道は,重要なことが年毎に進展し,精通すればますます真髄を求める。私はかつて胸中の気を元気としたが,後になって元気は臍にあり,大気が胸にあると知り,かつて心中の神明を元神としたが,後になって元神は脳にあり,識神が心にあると知った。この編の論説では,時に前の数期とは異なる記載があるが,この編のものが正しい。


例言〔第六期の凡例〕


1.石膏はもともと硫黄・酸素・水素・カルシウムが化合してできており,生で用いるべきで煅いて用いるべきではない。生用すれば薬性は涼でよく散じ,煅用すれば洋灰〔石灰〕即ち鴆毒〔鴆は猛毒をもつ毒鳥〕となり,断じて用いてはならない。


2.赤石脂はもともと陶土である。津沽〔天津〕の薬局ではよく水をまぜて焼いて陶瓦にして丸散に入れるので必ず脾胃を傷る。したがって津沽で赤石脂を処方するときには必ず生と書いておく必要がある。しかし生赤石脂と本書中に記載しにくい。症例中の赤石脂はすべて生なので生の字を加えるまでもない。


3.杏仁の皮は有毒であるが,桃仁の皮は無毒であるから,桃仁は皮付きで用いるべきで,その色は赤くて活血の効能がある。しかし,薬局で皮のついた杏仁を間違って入れるおそれがあるので,症例中の桃仁も皮を去ると処方しているが,桃仁であることに間違いなければ皮付きを用いるとさらによい。


4.䗪虫は即ち土鱉虫で,これは《名医別録》にもある。しかし津沽の薬局ではあろうことかこれを2種に分けるので,処方に䗪虫とすればすべて偽である光背黒甲虫を充てるので,土鱉虫と書いて処方しなければ本物の䗪虫がでてこない。そこで症例中の䗪虫を用いるときには,すべて土鱉虫と処方した。


5.鮮小薊根は肺病治療の止血には最もよいが,症例中に用いていないのは薬局には新鮮な小薊根がないためである。もし近隣の山野で自分で新鮮なものを自ら採取できれば,肺病および吐血薬中に加える。小薊についての知識がなければ,第四期薬物講義にかつてその形状を詳しく記述している。


6.すべての症例中で大剤を用い数回で服用とあれば,その方を用いるときにはやはり必ずその服用方法に準ずるのが穏当である。また病人の家族にも方法通りに服用するように必ず命じておくべきで,おろそかにしてはならない。病が癒えれば薬はすぐに中止して必ずしもすべてを服用する必要はない。