▼書籍のご案内-序文

『中医オンコロジー ―がん専門医の治療経験集―』 はじめに

はじめに


 私は,日本の医学部を卒業したあと,漢方医として日本国内で診療をしてきましたが,2014年からは北京の中国中医科学院広安門病院腫瘍科に博士研究員として在籍しています。広安門病院には,進修医制度というものがあり,中国各地から経験を積んだ医師が著名な老中医のもとで勉強するために来ています。そのなかには,西洋医学で専門をもつ医師も多くみられます。
 中国では,がんに対して治癒を目指す中医治療が行われていて,学問として成立している―この事実は日本では一部を除いてあまり知られていません。多くの人は,いかがわしい詐欺まがいの治療だと思っているのが現状でしょう。日本では,がんの治癒や長期の担がん生存を目標として,天然薬物を最大限に応用する腫瘍治療は,積極的には行われていませんから,中国での中医腫瘍治験を紹介することは有意義であると思うようになりました。新たながん治療選択肢の可能性を医学的に示したいという気持ちがわいてきたことが,この本を出版しようとした動機のひとつです。
 本書は,『名中医経方時方治腫瘤』(花宝金ほか編著,中国中医薬出版社,2008年)の症例部分を翻訳・編集したものを中心に,新たに解説などを加筆したものです。この本には,現代の中国各地で,がんの中医治療を行っている名医の治験が集められています。掲載した症例は,経過の良いものばかりですが,「チャンピオンデータだけを示している」「西洋医学的な評価が不十分」(これは医師の責任というよりは社会的背景によります。詳しくは「中国の医療事情」の項に記しました)という非難は覚悟のうえで,治療手段の限られたがんに対する新たな可能性を提示する目的で紹介するものです。
 また「中医学は再現性の低いEBMである(中医学の各々の症例は過去の経験という証拠に基づいたEBMではあるが,その再現性は低い)」と,故・山本巌氏が述べていますが,中医診断名や弁証論治は絶対的なものではなく,診断する中医師の学術的背景や患者の状況により変化するものです。本書においても,そのような曖昧さや多様性を含むものであることをご了承いただきたいと思います。
 編著者の花宝金氏は,広安門病院腫瘍科で長年にわたって中薬による腫瘍治療の臨床と基礎研究に携わってきました。現在は同院の副院長を務め,院内外の中医診療環境の向上に多くの貢献をしています。諸流派の腫瘍治療の考え方を1冊にまとめるという難しい作業を成し遂げたのは,花氏の温厚な人柄と幅の広い交流によるものです。また,花氏は中医腫瘍治療の現状を俯瞰的にみることのできる立場にあることから,本書のために,中医腫瘍治療に関する総論として「中医学によるがん治療の現状と未来」を書き下ろしていただきました。
以下に,いくつか,本書を読むうえで,あらかじめ知っておいていただきたいことを述べます。
・症例提示の後には原書に記載されている考察以外に,日本人医師としての視点からCommentや用語の補足説明を加えました。
・各症例には提示した中医師の名前(敬称は省略)を記載し,巻末にはその中医師の略歴や学説などを記しました。
・各項のはじめには,臓腑別のがんについての総論を入れていますが,それは私が他の中医学書籍も参考にしてまとめたものです。あくまでも各症例を読むときの中医学的な思考方法への導入であり,当然のことながら一般化できるものではありません。
・本書に登場する抗がん生薬のなかで,代表的なものに関しては,古典と臨床および実験データを中心に紹介しました。中医学はエビデンス性に乏しいと思われがちですが,中国国内では科学的な実験手技にもとづいたエビデンスが構築されており,海外でも多数の論文が専門誌に掲載されています。また,これらの抗がん生薬は,創薬のターゲットとなるデータベースとして世界中から注目されています。
・巻末には,中国の医療の周辺に関する情報を記載しました。中国の中医事情に詳しくない読者は,はじめにここを読んで,中医診療のイメージをもったところで症例を読み進めると,より理解が深まることと思います。
 本書の翻訳には,約2年の時間を要しました。中国語と日本語の意味の乖離に閉口しながらも,できるだけ平易にするように努めたつもりです。本書が皆さまの日常診療の参考になれば,この苦労も報われることと思います。


2016年5月  平崎 能郎