▼書籍のご案内-序文

『中国医学の身体論――古典から紐解く形体』まえがき

 
 
まえがき
 
 
 鍼灸師が実際の治療において遭遇するのは,それこそ頭のてっぺんから足の先までの各組織・器官の無数の症状である。それらの症状のほとんどは,さまざまな現代医学的治療が効を奏さず,鍼灸治療までたどり着いたものである。筆者自身も長い鍼灸治療の経験のなかで,数多くの症状と向き合ってきた。たとえば,毎日同じ時刻になると起こる頭皮痛,声帯には異常がないのに裏声になって会話ができない,足の爪は大丈夫なのだが手の爪だけがどれも数週間の間に爪床から剝がれてくる,何年も続くしゃっくりなどなど,例を挙げればそれこそ枚挙に暇がないほどである。
 こうした経験は鍼灸治療に携わる鍼灸師ならば多かれ少なかれ誰でももっているものである。
 どのような症状の場合も,当然,四診合参による弁証診断を行い,臓腑・気血・経絡の変動をとらえてその治療を本治とするのだが,「標本同治」の原則に立つならば,同時に各組織器官の側から症状を把握することも必要なのではないだろうか?
 たとえば,「よく物が見えない」「目がかすむ」といった眼の「目内障」の症状を扱う場合,「肝は目に開竅している」から肝の病変ととらえるのは,いささか乱暴すぎる。眼は目系を介して脳と繋がり,目系には肝経・心経・胃経が流注しているので,物がよく見えるためには,腎精から変化した髄が脳に充分に蓄えられ,また肝血・心血・胃気がおのおのの経脈を通して目系に滞りなく注がれていることが必須だからである。したがって「目内障」の場合,腎・肝・心・胃もしくはそれらの臓腑に内属している各経脈の,いずれかの臓腑もしくは何経に変動があるのかを分析しなければ,治療は成り立たない。
 結論として,各組織・器官はどのような経絡が流注し,経絡を通じてどの臓腑と関係が深いのかを各組織・器官の側からとらえる視点が必要である。
 ところが,日本で出版されている既存の中国医学書や東洋医学書のほとんどは,一般的に陰陽五行説から始まり,五臓六腑を中心に身体論を展開し,「五官」「五主」「五華」といった身体の諸組織・器官を「肝は五官では目,五主では筋,五華では爪」といった五臓六腑との関連で説明するだけであり,まして,それ以外の咽喉・前後陰・乳房など全身のさまざまな組織・器官に対してはほとんど触れることもない。これでは筆者を含め鍼灸の現場での必要性を十分に満たすことはできない。
 本書のベースになっているのは,東京医療福祉専門学校 教員養成科での筆者の授業である。これまで毎年,養成科1年生に対し,1年間をかけて「中国医学の身体論」の授業を続けてきた。鍼灸師の国家試験に向け各鍼灸学校の「東洋医学概論」が陰陽五行論でこま切れにした身体の棒暗記に終始する現状では,鍼灸師になっても中国医学にもとづいた総体的身体認識がまったくできていない。そこで教員養成科では,改めて「中国医学の身体論」を学び直してもらっている。
 本書はその授業で毎回配布してきた膨大な資料から,「気血学説」「経絡学説」「精神論」を省き,その代わりに中国医学の古典にもとづいた諸組織・器官を数多く盛り込み,引用した古典に対してはすべて現代語訳を付けた。
 本書が鍼灸の治療現場で中国医学の立場から日々治療に携わる鍼灸師・医師の方々に,いささかでも益するものがあるならば執筆の労は報われるであろう。


2021年11月
浅川 要