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中医学をマスターする5つのステップ

『老中医の診察室』

老中医の診察室
  柯 雪帆 著
  石川 鶴矢子 訳
  A5判 並製 320頁
  (定価:本体3,000円+税)




SOLD OUT


初めての漢方医学小説


伝統医学は難病とどう対決してきたか
――老中医たちのカルテから――


これは小説という形をとったカルテであり,医案集です。老中医・金寿山先生に師事して臨床を学んだ著者の実体験をもとに描き出した中医臨床現場の再現です。中医学とはどんなことをするのか,老中医とはどんな人たちなのか。論文や症例では見えてこない臨床現場の様子や老中医たちの人物像が生き生きと現出されます。
40篇の短編小説の各篇は,難病患者が登場,中医師たちと難治性疾患とのドラマチックな闘いが展開されます。


[中医臨床小説]『老中医の診察室』の誕生まで
     上海中医薬大学教授  柯 雪帆
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『老中医の診察室』は面白い
     北九州市・山本循環器内科医院・九州中医研  山本 廣史

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本書の紹介(PDF)(クリックで拡大できます)>>>『老中医の診察室』
(表紙の写真は初版のものです)

読者の声


◆本文体裁見本PDFでご覧になれます
 第一回 老人性肺炎
  「大葉性肺炎を風寒感冒と弁証する」(p3-7)




 

著者から


[中医臨床小説]『老中医の診察室』の誕生まで

     上海中医薬大学教授  柯 雪帆



 拙著『老中医の診察室』の日本語版が日本で出版された。これは中医学・中薬学の発展という大河においては,ほんのさざ波のようなものでしかないが,私個人にとっては素晴らしい出来事であって,望外の喜びである。

 私はすでに老境に入り,そのうえ病気療養中の身ではあるが,私の学術観点が隣国に伝わり,日本の漢方医療にたずさわる人びとに,人生の余熱を捧げることができたのは,まことに嬉しい限りである。それにつけても東洋学術出版社と山本社長には深く感謝している。拙著が東洋学術出版社発行の『中医臨床』誌に訳載されるようになって20年の歳月が経過した。その間,年月は緩やかにかつスムーズに流れていった。

 1978年11月のことだったが,『上海中医薬雑誌』が上海で復刊されることになり,拙著『医林掇(てつ)英』の第1回の掲載が始まり,その後24回にわたって紹介された。そして,中国医学界の情報は改革開放政策の波に乗って海を渡り,1980年12月から日本の『中医臨床』誌に「鐘医師の診断」と題して訳載されるに至った。1983年5月には,湖南科学技術出版社から第20回までが1冊の単行本にまとめられ,『医林掇英』の書名で出版された。1984年3月には台湾の楽群文化事業公司から同じく『医林掇英』の書名で旧字体版で出版され,1987年には再版,さらに1989年には第24回までの増訂版が出版された。また河南省で出版されている。『中医研究』誌には,第25回から第30回が連載された。そして1997年8月には人民衛生出版社から全30回を収録した『疑難病証思辨録』が出版されたのである。

 1997年4月に,私はガンを告知され,胃の全摘切除の手術を受けた。折から人民衛生出版社からゲラ刷がとどいた。私はあらん限りの力をふりしぼって,老眼をこすりながら一字一句校正にあたった。病室の窓から,はるか西の空を眺めれば,夕焼雲が赤く映えている。日はまだ暮れてはいない。

 1997年12月,龍華病院に入院し,化学療法を受け,体力の消耗がはげしかったさなかに,山本勝曠社長からの出版契約書がとどいた。入院中の療友たちは湧き立ち,私のために競って座談会を開いて祝いの言葉を述べてくれた。厳冬の病棟には春の息吹が感じられ,病気にさいなまれていた私の体に再び生命の炎がともったかのように思えた。

 日本語版の『老中医の診察室』は,私の筆になるものだが,ここに記されている学術思想と臨床上の経験は,いうまでもなく私一個人の成果ではない。この本の出版にあたって思い出されるのは1960年代初めの上海曙光病院である。この病院は西洋医学系の四明病院と中医学系の上海第十一人民病院が合併してできたものである。ここでは中医学と西洋医学の勢力が伯仲していたので,協力して医療にあたることが可能だった。立ち合い診察をおこなうにしても,面倒な手続きをとる必要はなかったし,その時どきに西洋医に声をかければ,一緒に治療法を検討することができ,心置きなく相談し,具体的かつ詳細に施療法を決定したものである。また患者に病変がみられれば,いついかなる時でも互いに連絡を取り合うことができた。

 中医師のあいだには,いくつかの学派が存在していた。生粋の温病学派は処方にさいして桂枝を絶対に使わなかったが,張仲景学派は麻黄や桂枝を好んで用いた。先祖伝来の秘方を重んじる医師たちは,それぞれの処方をたくみに用いた。中医学の学校を出た医師たちは中医学の経典や著作を系統的に学んでいた。根からの中医師は医学院や医大に入って西洋医学を系統的に学んでいたし,逆に西洋医だった者は中医学を系統的に学んでいた。学問もあり,経験豊かな老練な中医師もいれば,若年のインターン生もいる,といった具合である。このようにさまざまな医学思想を網羅し,豊かな人材が集結しているのであるから,互いに意見の交流をはかり,協力しあうなかで,互いに頭の中で閃きの火花がたびたび現れたりして,成果もあげていた。このように恵まれた医学の環境に身を置けたことは,私にとってまことに幸いであった。生き生きとした多くの物語を『老中医の診察室』に盛り込むことができたのは,私がその当時の曙光病院で医療にたずさわっていたからである。

 曙光病院で医師を務めていた数年間に,私は多くの老中医にめぐり合ったが,そのなかで最も忘れがたいのは劉鶴一医師である。還暦をすぎていた劉医師を,人びとは尊敬の念をこめて「劉老(ラオ)」と呼んでいた。上背があって,面長の顔立ち,強い意志の持ち主である。その劉老が大葉性肺炎の患者に麻黄加朮湯を投与するという果断な処置をとったのである。この症例についての記憶はまことに鮮やかで,生涯忘れることはない。高熱を出した患者に温薬を使うことができる,白血球値の高い患者にも温薬を使える,というのである。だが,肝機能検査でGOTの数値が高かった患者を前にして,劉老は頭を抱えてしまった。脈象も舌象もすべて正常であり,自覚症状もなく,体に異常が認められない患者だった。「はて,薬はなにを使ったものか? どう弁証すればよいのか? 何かよい方法を考えねばならない」と。

 若い医師の中には中医学の理論に出てくる「気化」の意味が理解できない者がいた。「気化」の現象は肉眼で見て取ることができる,と劉老は言われた。そして,自らコップに熱蕩を注ぎ,お茶の葉を入れた。お茶の葉はガラスのコップの中で,ゆっくりと浮きあがってから,またゆっくりと沈んでいった。

 「ごらんなさい。これがつまり『気化』なのです。お茶の葉は陽熱の気を受けて運動をしながら変化していった。この現象がすなわち『気化』なのです。」

 劉老のその時の解釈も私は決して忘れることはない。古代医学の理論を素朴で具体的な事物を通して,誰にでも理解できるように説明してくださったのだ。

 『老中医の診察室』に登場する応医師のモデルになったのは曙光病院の李応昌医師である。李応昌医師は少年時代にある中医師の弟子となって学び,30代になってから北京医科大学に進学して西洋医学を5年ほど学んだ。中医学を身につけてのちに西洋医学を学んだ人は,中国においては数が少なく,こうした人びとは中医学史に重鎮としての足跡を残すであろう。本書の第1回に出てくるエピソードだが,麻黄加朮湯を処方したのが劉老であったことは,前述の通りだが,それをすぐさま劉老の処方であることを見抜いたのは,ほかならぬ応医師,つまり李応昌医師であった。患者は1剤を服用後,汗をかいて熱が下がったものの,再度の発熱を予期したのも李医師であった。麻黄加朮湯に柴胡,黄芩を加味したのも,患者が汗をかいて解熱し,快便があったのちに,私たちに『傷寒論』の230条をひもとかせ,患者の病状と照合するようにと指示をあたえたのも,ほかならぬ李応昌医師であった。これは『傷寒論』のなかでも重要な一節であることを教示してくださったのだ。こうした内容を理解できないようでは,自信を持って麻黄湯の類の薬を使うことはできないのである。

 桂枝湯証と麻黄湯証との違いは,汗をかいているかどうかの違いだけではなく,もともと2種類の異なった疾病に分属している可能性が高いという見解を李医師はもっていた。もし,肺炎であるなら,たとえ汗をかいていても桂枝湯を使ってはならないが,肺炎後期の余熱の残存している場合には,桂枝湯の投与は可能である,と。また心筋梗塞の患者には,外科で用いる活血止痛薬を使ってもよく,その主薬となるのは三七である,ということも教えてくださった。李応昌医師の見解は,初めのうちは理解できないこともままあったが,じっくりと考えていくうちに,心から納得がいくようになる。

 私はその後の1960年代に入ってから上海中医薬大学に付属する基礎理論研究室に転勤となり,金寿山先生のもとで研究にたずさわることになった。これは『老中医の診察室』を執筆するさいの理論的な分析と弁証上の思惟を育んでくれた場所である。そこでは金寿山先生の講義がおこなわれていたが,私はその講義にすっかり魅了されてしまった。金先生は難解で奥の深い中医学の古典を具体的かつ生き生きとした言葉を用いて,分かりやすく解釈して下さった。それらは臨床にさいして施療の導き手となり,処方の法則を示したものであった。こうした指導のもとで,私は中医学の古典の研究に長い歳月をかけても決して惜しくはないという心がまえが固まっていったのである。

 そのなかで金寿山先生の2つの教えは,私の脳裏に今もしっかりと焼き付いていて忘れることはない。1つは古典の医学書に記されている文章を理解するにあたって,その時代の人びとの思考法を汲みとっていかなければならないということで,軽々しく現代的な思考の枠にあてはめてはならない,ということである。もう1つは,古代の医学書に書かれていることは臨床に結び付けねばならないが,間違った結びつけ方をしないように注意しなければならない,ということである。たとえば『傷寒論』に出てくる「霍乱」と,現在の病名である「霍乱」(コレラ)についていえば,両者の臨床症状は似かよっていても,実際には2つの異なる疾病に属している,などである。

 金寿山先生は,代々中医師の家に生まれたが,幼いころに父を亡くしたため,学費をつくることができず,やむなく独学の道を歩んだ。そして中薬を商う薬局で働きながら,店に持ち込まれる処方箋を見ては,理論を実際に結びつけるという学習法をとって,苦学の末に成就した医師である。金先生は才能豊かで,気転のきく人物である。ある時,校外での会議に行かれたが,大学へもどられると会議の内容について私と話していたが,その時またポケットから何枚かの原稿用紙を取り出した。会議の開催中に2000字近い論文を書きあげたとのこと。まことに驚きであった。私はどちらかといえば,一つ事に集中するたちだが,金先生は頭の回転がすこぶる速く,到底私の及ぶところではなく,羨ましい限りであった。

 ここ20年らい,現代医学の発展はめざましく,次々に新しい検査法が編み出され,新薬も少なからず開発されている。そうした中で中医学は臨床や理論の面であまたの課題を抱えるようになり,新たな挑戦に直面している。こうした状況下にあっては,これまでにもまして,その人,その時,その土地に適応し,融通性のある,変化にとんだ施療法を取り入れて,具体的な患者に対処し,その時々の疾病の段階に則した治療法を施していかなければならない。そうしてこそ初めて,複雑かつ変化の多い病証に対処していけるのである。とりわけ年ごとに増え続けている心身症にたいしては,なおいっそう研究の余地が残されており,中医学の特徴である弁証論治を研究し,発揮していくことが大切といえよう。

 そうした時代にあって,『老中医の診察室』が弁証論治を学んでおられる日本の方々のあいだでお役に立つことを願ってやまない。

1999年6月29日 (訳:石川鶴矢子)

「中医臨床」通巻78号に掲載





 
  『老中医の診察室』は面白い

       北九州市・山本循環器内科医院・九州中医研  山本 廣史


 「今,おっしゃったこと,全く同じことを老中医が言ってましたよ」
 ある夜の学習会,共に伝統中医学を学ぶ垣替医師が言う。「同じことって,どんなこと?」「『老中医の診察室』という書物で読んだんですがね,そこで老中医が『現代医学で得られる臨床検査のデータを中医診療に生かせ』と若い中医師に指導してるんですよ。小説の形をとってますので読みやすいんです」
 といったことで,この書を求め読み始めた。もともと,私が貪り読むのは,チャンバラもの,歴史書,囲碁の本ぐらいで,時の経つのを忘れさせてくれる医学書には久しく出合えなかった。ところが,この書,読み始めると止められない。やがて,垣替医師の言葉を裏づけるところにやってきた。

――たとえばです。先ほどの患者は,中医学から見れば,腎水と心火のバランスがくずれ水虧火旺になったとみます。西洋医学から見ますと,自律神経の機能がアンバランスになり,交感神経と副交感神経の機能のバランスがくずれたということになります。これについては,研究する価値が大いにあると思います。――と,老中医。

 こうして,若手医師の手により,中医学でいう陰虚火旺の概念は,カテコールアミンが高値を,17-OHCSが低値を示す病態であるとの報告がなされた。

 伝統中医学を学ぶ同志,諸兄姉,どう思われますか。もう少し書の引用をお許し願いたい。

――そこまで討議を進めたときに,鐘医師は思わず声を上げて笑いだした。「私はこれまで病因を拠りどころにして弁証論治の法則を厳格に守って処方してきました。それが,今日は生化学検査のデータを拠りどころにして処方を改めるとは,全く考えてもみなかったことです。この分ですと,生化学検査は将来中医四診の延長線上におかれるかもしれませんね。――

 この老中医の言葉に,「温故知新」の息吹きを感じる。一方では,こうした引用が,「木に竹を接ぐような,安易な中西医学結合」と諸兄姉に誤解されるのを私はおそれる。だが本文に展開される「めまい」の10例を読んでいただければ,この書が,断固,伝統中医学の立場に立っていることを認めていただけることだろう。

 この書は300ページ余から成り,30回に分かれているが,その中で8回もが循環器病となっており,この分野に興味をもたれる諸兄姉には,とくに楽しい内容であろう。

 さて,自身のことを書くのは面映ゆいが「循環器病の中西医学結合」を生涯の目標と決心して,20年余の月日が流れた。何故か苦しい思い出,失敗?例は忘却のかなたに消え,楽しい思い出,成功?例が去来する。

 心筋梗塞後の重症心不全と人参湯,八味丸の合方例,気陰両虚の心室性期外収縮例への灸甘草湯,夜間の動悸(心室性期外収縮)と不眠例への柴胡加竜骨牡蛎湯,あと半年の寿命と宣告された拡張型心筋症の男性が10年経ってまだ働いている,冠心Ⅱ号方,血府逐瘀湯,田七参,牛黄,楽しい思い出である。

 「その先生,大丈夫なの?」と,私の仕事の内容をいぶかったのは,現在,私のクリニックでアドバイザーをつとめてくれている任競学中医師の奥様。彼が私と御縁を結ぶときである。だって,当時,中医学の本場中国でも,心臓病と聞くと,「危い,危い」と中医師は逃げるのが実態。循環器病を漢方で治そうとする医者が日本にいる,とは信じがたかったらしい。私がこの道を歩いてこれたのは,現代医学の場で循環器疾患ととり組む先生方,共に中医学を学ぶ諸兄姉,心臓病患者さんはじめ,多くの方々のお励ましあってのこと。それに報いるのは唯「誠実」の二文字,と思っている。


「中医臨床」通巻80号に掲載




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