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2006年11月16日

現代語訳◎黄帝内経素問 全3巻



 中国の医学は,長い間の実践をへて,豊富な経験を積み重ね,独特な理論体系を創りあげた。この理論体系は,後代における中医学の学術発展の基礎であり,その中でも,特に人体の生理・病理現象を解釈している陰陽五行説と,人体の内外の環境を統一的に説明している「天人相応」という有機体的生命観とは,臨床医学の上で,終始,指導的役割を果たしてきた。中医学の経典である『黄帝内経』は,中医理論体系の源泉であり,陰陽五行説を用いて人体の生理・病理・診断・治療原則を解釈し,さらに「天人相応」の有機体的生命観によって,人体内外の環境を統一する規範を説明している。そのため,この書は中医学を学習するための必読書となっている。ただし,この書の語意はかなり深遠なので,初学者には,やや困難なところがある。そこで現代語による訳と解釈を加えて,学習者が読解しやすくすることは,大変重要な意義のあることである。
 この『黄帝内経素問訳釈』は,我々の医経訳釈作業のひとつである。原文は基本的に王冰次注本を底本とし,部分的な語句の上では『黄帝内経太素』,『甲乙経』,『新校正』本,および呉崑,馬蒔,張景岳,張志聡,高士宗などの注本を参考にして,校訂してある。また「刺法論」と「本病論」の2つの遺篇を,注本にもとづいて補入し,巻末に加えて研究・参考の用に供した。
 本書は我々のグループと,前後3期の医科研修斑,教授グループの人々によって,共同で編集・著述されたものである。1956年の冬に初稿を完成し,本校の教授・学生,および各地の人々に沢山の貴重な意見をいただいて,1957年に第1次の修正を行った。このたび,この第1次修正版をもととしてさらに改訂を加え出版して,中医学の学習と教授,および中医研究にたずさわる人々のために,参考資料を提供しようとするものである。とはいえ我々の力量のゆえに,内容の解釈の上で錯誤や欠点が必ずや多いことと思う。しかしながら我々はこれを1つの端緒とみなし,今後とも絶えず修正を加えて,質を高めていくつもりである。将来,修正にあたって参考とするために,読者諸賢が貴重な改善意見と批評を寄せられることを希望する。我々はそれを熱烈に歓迎する。

南京中医学院医経教研組
1958年11月


第2版前言

 本書が1959年6月に出版されてから,すでに20年になる。このたび,多くの読者の要望に答えて,再版の運びとなった。再版するにあたって王新華が本書に全面的な修正を加えた。体裁の上では,「詞釈」とあったものを「注釈」と改め,原文については再度照合し,少数の誤りを正した。「解題」と「本篇の要点」などの内容では,必要な修正を行い,現代語訳の語句と文字について修辞を加え,句読点については,かなり多くの改訂を行った。
 第1版に比べて質量ともに向上していることを願うものである。ただし時間と我々の力量の不足により,誤りと欠点はまぬがれがたい。読者の批判と批正を歓迎するものである。

編 者
1979年8月


監訳者のことば

  『黄帝内経素問』,略して『素問』と呼び慣わされているこの書ほど,今日,さまざまな人によって取り上げられることの多い古典は,なかなかないのではないだろうか。中医学や漢方医学・薬学を学ぶ人々がこの書を読むのは,最も古く,最も根本的な医学経典である以上,当然のことだが,最近では,こうした専門家以外の人々が,この何千年も前から伝えられた書物のことを,熱心に語りはじめている。
 その中には,近現代の医療に不信を抱いて,身近な伝統医学である中医学や漢方を学びはじめ,その原点としこの書を知った人もいる。また,医療や健康も含めた,等身大の人間を考えるための,全く新しい思考方法を探し求めた末に,ひとつらなりのシステムとして人をとらえるこの書の思想に魅せられた人々もいる。物質の世界を極限まで追ってみた末に,それが「こころ」と不可分な世界であることを認識し,そうした「こころ」の領域を扱いうるような「医学の知」こそ,来たるべき未来社会を開くものだとして,この書物に注目している人々もいる。更に,言葉ではなく,身体によって確め,知りうるさまざまな世界を探った末に,そうした知が集積されているこの書の「言葉」に,再び戻ってみた人さえいるのである。
 こうした現状にもかかわらず,この書物を最後まで読み通した人の数は,おそらくさほど多くはない。その理由はいくつか挙げられるが,なんといっても大きいのは,この書が有する技術の書特有の難解さだろう。伝統技術の書は,技術が変わってゆくにつれて補われたり改められたりするため,単なる古典としての難しさの上に,謎のようになってしまった古い技術特有の用語を解明するという仕事が加わるからである。したがって単に中国の古典を学んだだけでは,この書を読むことは難しいし,同様に,単に現代の中医学を学んだだけでは,この書を理解することはおぼつかない。
 『素問』を本当に読もうと思うなら,まず必要なのは,『素問』が書かれた当時の言語と医学の知識である。前者は古典学によってある程度修得可能だが,後者は実のところとても学びにくい。『素問』の原資料が書かれたであろう前漢中期位までの医学を知る材料が,ほとんどないからである。このごろ出土した資料の内には,これを補うものもあるが,残念ながらこの時代最高の医学をカルテの形で残してくれた『史記』の倉公伝を上回るレベルのものは,まだ発見されていない。そして,その肝腎の倉公伝の記述が,とてもばくぜんとしたものであるため,私達は結局『素問』を読むためにも倉公伝を読むためにも,最終的には,『素問』に帰っていかざるをえないのである。
 『素問』によって『素問』を読もうとする上で,頼りになるのは歴代の注釈である。そこには,少なくともその注釈者の時代まで伝えられていた医学知識にもとづく『素問』の読み方が書いてあるからだ。だが,その頼り方には,2つの立場がある。その1は,ひとつの注釈のみに依拠して,その注釈者が考えた論理的整合性と,その注釈者の時代の医学に従おうとする立場である。その2は,歴代の諸注釈の中から,最もふさわしいと思われるものを,章句ごとに選んでゆく立場である。前者は,古典学の厳密さを考えれば,最上の方法だが,現代中医学にまでつながる『素問』の意味を探ろうとすれば,各時代ごとの注釈にもとづいて,いく通りもの『素問』読解を試み,訳を作らねばならない。そこで一般には,後者の立場に立ってさまざまな注釈の善を採りつつ,独自の読解をこころみることになる。

 本訳書は,この後者の立場に立って編まれた現代中国の『素問』訳注書の内から,最もコンパクトで,内容的にもすぐれた書として定評のある『黄帝内経素問訳釈』(上海科学技術出版社)を翻訳し,書き下し文を付したものである。この種の書としては,他に『黄帝内経素問校釈』(人民衛生出版社)と『黄帝内経素問校注語釈』(天津科学技術出版社)の2書が著名だが,前者はコンパクトな書とするには大部すぎ,後者は古典学的校注に優れているものの,訳が簡単にすぎるうらみがある。更に前者は,大部であるため,解説の詳しさにおいて他を抜いているけれども,内容的には,よりコンパクトな本訳書の原本と較べると一長一短であるところも多い。注目を集めながら,ごく少数の人々にしか読まれていない『素問』を,私達共有の財産にすべく翻訳にとりかかるにあたって,原訳書を選んだのは,こうした事情を勘案してのことである。厳密な古典学の立場からすると,典故の選択に問題があったり,いささか訳しすぎていると思われるところがあるかもしれないが,前述のような技術の書の性格からすれば,これも意味を明確にするためのひとつの過度的過程として了解していただければと思う。
  『素問』という書物の成立事情については,分からないことだらけである。この書のもとになった『黄帝内経』という書物が,紀元前86年頃から紀元前26 年までの間に,いくつかの医学書をまとめる形で改訂・編纂(最終的な編纂者は李柱国という宮廷医)されたことは確かである。だが,その後,誰が,いつ,この『黄帝内経』をもとに,『素問』という書物を再編纂したのかということになると,私達はほとんど資料を持っていない。『甲乙経』やいくつかの零細な資料から,『黄帝内経』がその編纂から200年も経たない内に失われ,代わってその再編纂書とみなされる『素問』と『鍼経』(『九巻』・『九霊』などとも呼ばれる,今の『霊枢』)という2部の書が流布していたことを知りうるのみである。
 この書の最も早い注釈は,斉・梁頃(5世紀末~6世紀初)に,全元起という人によって著されている。この注釈は12世紀初に失われてしまったが,北宋の医書校訂出版事業の際の校訂文(『新校正』)に大量に引用されているので,大まかな内容と,篇章の構成を知ることができる(全元起本巻目表参照)。これと前後して,皇甫謐の『甲乙経』(3世紀中葉),楊上善の『黄帝内経太素』(7世紀中葉)という2部の再編纂書も現れており(前者は『素問』・『鍼経』・『明堂』,後者は『素問』・『鍼経』を再編纂したもの),『素問』への関心が絶えることなく続いていたことを窺わせる。ただ,原書の内の第7巻は,梁頃までには失われてしまったようである。現存している『素問』のテクストは,いずれも中唐の王冰が著した注釈書にもとづいている。この注釈書は,今日「運気七篇」の名で知られている長大な篇章を,失われた第七巻であると称して付加したものである。この間の事情については,本訳書に新たに付した北宋の林億らの序を参照してほしい。
 王冰が付加した運気七論は,中国の清朝や日本の江戸中・末期の復古考証派の医家によって,鬼子のように取り扱われたけれども,中唐以降,現代中医学に至る医学の展開の上では,とても大切な役割りを果たしている。「弁証」と呼ばれる中国伝統医学独特の方法論が,高度に発展するための基本的な枠組みが,そこに説かれているからである。『素問』の注釈は,元から明朝にかけて数多く現れるが,その大部分のものが,多かれ少なかれ運気論の影響を受けているのも,無理からぬことなのである。もちろんなかには,運気論によって解釈すべきでない古い篇章までも,運気論によって解釈する注釈も多い。そうした注釈については,本訳書の訳注のところで注意を促しておいたが,一方で現代中国の弁証が,こうした「古い篇章の運気論的解釈」にもとづく場合もあることを考えれば,こうした誤った解釈が果たしてきた,あるいは果たしつつある役割りというものも,無視してはならないはずである。
 視点を変えて,現代中医学がその基礎に置いている「伝統医学」とは何か,という方向から『素問』を読むとすれば,むしろこうした明清の注釈の方にこそ,私達は注意を向けるべきなのかもしれない。本書も含めた現代中国の『素問』訳注書が,多く明清の注釈に依拠しているのは,もちろんそれらが代表的な注釈だということもあるが,ひとつにはこうした現代中医学に連なる「伝統医学」の問題があるからである。その意味では,現代中医学を学ぶ人達にとって,本訳書を読むことは,単なるルーツ探しを越えて,自分達の学んだ現代中医学のアイデンティティを知ることにもつながってくるはずである。
  『素問』の全訳書として,現在私達が日本で入手できるのは,柴崎保三氏の膨大な労作『黄帝内経素問霊枢』と,小曽戸丈夫氏の達意の書『意釈黄帝内経素問』だけである。前者は余りにも大部で個人では入手しづらい上に,少し解釈が細部に入り込んで全体が見通しにくい。後者は,古典学的見地からもよく考え尽くされた意釈で,全体を見通しやすいのだが,注釈が省かれているため(これはもちろん全体を見通す上ではすばらしい長所である),さまざまな立場から『素問』を客観的に考えてゆくための材料に欠けるところがある。前者の扱いづらさと細部への立ち入りを避けつつ,後者に欠けていた材料をも補い,全体を見通しやすく,コンパクトなものにと心がけて訳したつもりであるが,原書が有していたさまざまな時代的,政治的制約や,訳者の力量不足,全体の統一の不徹底などから,誤りも多いことと思われる。博雅の士の示教を得ることができれば幸いである。

追記 本訳完成後,原訳書第3版が届けられた。本文はあまり第2版と変わらないが,注の典故などにかなりの改善が見られる。時間の制約でその成果を摂り入れることができなかったことを遺憾に思う。

石 田 秀 実

2006年11月20日

現代語訳 黄帝内経霊枢 上・下巻

前言

  『霊枢』は中国に現存する重要な古典医籍の一つである。晋の皇甫謐『甲乙経』の自序に、「『七略』『芸文志』を按ずるに、『黄帝内経』十八巻と。今『鍼経』九巻、『素問』九巻あり、二九十八巻は、即ち『内経』なり」という記載がある。また、唐の王冰の次註本『黄帝内経素問』の自序に、「班固の『漢書』芸文志に曰く、『黄帝内経』十八巻と。『素問』は即ち其の経の九巻なり、『霊枢』九巻を兼ねて、乃ち其の数なり」とある。唐・宋以後、『霊枢』に対する諸家の考証には異なる考え方も併存しているが、この二つの序文に基づいて、『霊枢』はすなわち『鍼経』であり、『黄帝内経』の構成部分であるということについては、歴代の学者の見解はほぼ一致している。
  『霊枢』の医学理論体系は、『素問』と一致している。どちらも陰陽五行説と天人相関説という観念体系によって、蔵象・経絡・病機・診法・治則など医学の基本理論の思想を説明しようとする。具体的内容について見ると、『素問』と内容が同じ部分のほかに、『霊枢』には『霊枢』独自の論を展開している部分がある。なかでも、経脈・穴・刺鍼及び営衛・気血などは、とりわけ系統的で詳細に説明されている。したがって、『霊枢』と『素問』の二書は、中国医学の源泉であり、この二書によって中国医学の主要な理論的基礎が定められたと言える。
  『霊枢』と『素問』は、ともに「文簡にして義深し」(文章は簡略ではあるがその意味するところは深奥だ)とされる古典的著作である。両者を比べると、いくらか違いはあるけれども、初学者にとっては、『霊枢』の原書を読むときのほうが、きっとより困難に感じるだろう。したがって、なんとかして万人に分かりやすく、簡単明瞭、読者が内容を理解して運用できるようにするためには、現代語で訳釈を加えることが、差し迫って必要なことは明らかである。また、中医学の教育と学習にとっては、『霊枢』も重要な参考資料である。そこで、一九五七年、われわれはこの『黄帝内経霊枢訳釈』の初稿を編集し、教育教材として使用する過程で、さらに数回の修正改訂を行ってきた。一九六三年、上海科学技術出版社の要請を承けて、本書の出版計画を立てたが、その後種々の原因により計画通りに出版するにいたらなかった。今回その時の原稿を調べてみると、すでに大半が散逸していた。今回の原稿は、孟景春、王新華両先生が所蔵していた原稿を基礎に、新しく編集し直したものである。錯誤と不当のところがあれば、読者各位に批正と示教を請うしだいである。
 本書の原文は、明の趙府居敬堂刊本を主テキストとし、同時に『医統正脈』本及び『甲乙経』『黄帝内経太素』等を参考にして若干の文字を訂正した。体例は、『黄帝内経素問訳釈』と同じくし、一致を求めた。

編 著 者
一九八〇年八月


監訳者まえがき

  『黄帝内経霊枢』、略して『霊枢』と呼ばれているこの書は、『黄帝内経素問』と並ぶ、最も古い、最も根本的な中国伝統医学の経典である。『素問』と比較すると、『霊枢』は基礎理論も説いているが、むしろ診断・治療・鍼灸施術法などの臨床技術を説くことに力点をおいた医書であると言える。
  『霊枢』という書名が現れるのは、かなり遅く、王冰の「素問序」(七六二)が最初である。それ以前、この書は『九巻』『鍼経』の名で呼ばれ、また『九霊』『九墟』の名で呼ばれていた。『九巻』という書名をもつ医書は、今では散佚して伝わらないが、その書名と佚文は古来多くの書に引用されている。それらの佚文を現存する『霊枢』の文と対照すると、大部分が同じ内容である。一方、『鍼経』は皇甫謐の『甲乙経』(三世紀中頃)にその大部分が、王叔和の『脈経』(三世紀後半)にその一部が引用されて残っている。これらの引用文は、現存する『霊枢』とほぼ重なり合う内容である。さらに、唐代中期に、王冰が『素問』に注釈を付けたとき、『鍼経』から引用しただけではなく、当時あった『霊枢』からも大量に引用している。両者の佚文を分析すると、王冰が見た当時の『鍼経』と『霊枢』は、ほぼ同一内容のテキストであったと推測できる。『霊枢』は、魏晋から唐の時代まで、多様な形の異本として伝えられていたのである。
 『素問』と同様、『霊枢』という書物の成立事情についても、明白なことはあまりない。『素問』と『霊枢』のもとになった『黄帝内経』という書物が、紀元前二十六年までに、宮廷医の李柱国によって、いくつかの医学書をまとめる形で編纂されたことは、確かである。しかし、その後、いつ、誰によって、この『黄帝内経』をもとに、『素問』と『霊枢』という書物が再編纂されたのかは、明らかではない。ただ、現時点での研究成果をまとめると、次のように言えるだろう。「現存する『素問』と『霊枢』の原型は、二世紀の初め頃から三世紀の中頃の間に、『漢書』芸文志に記載されている『黄帝内経』十八巻を中核として、それに大幅な増補を加えて、二つの書として編纂された」と。
 王冰は『素問』を再編纂し、その注釈を作ったが、『霊枢』の注釈は作らなかった。唐末・五代の混乱を経て、北宋に伝えられた『霊枢』の各テキストは、すでに不完全なものであった。そのため、一〇九三年、北宋政府は高麗政府に依頼して『鍼経』を逆輸入し、その写本をもとに、書名を『霊枢』と改めて、初めて刊行した。しかし、南宋初期になると、『霊枢』の各種テキストは、再び散佚の危機に直面した。一一五五年、南宋の史崧が家蔵の『霊枢』を新たに校正し、二十四巻八十一篇として、音釈を付して再刊した。現行の『霊枢』は全てこのテキストに基づいている。
  『霊枢』全体に対する注釈本は、十六世紀になるまで現れない。また、注釈本の数も『素問』に比べると少ない。主要な注釈書は、馬蒔の『黄帝内経霊枢注証発微』(一五八六)と張志聡の『黄帝内経霊枢集注』(一六七〇)である。ただし、『太素』(七世紀後半)は『素問』と『霊枢』二書を合わせて再編纂したものであり、楊上善は『太素』全体に注を付けているから、不完全ながらも古い注は存在する。また、張介賓の『類経』(一六二四)も馬蒔・張志聡と並ぶ重要な注釈である。そして、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』(上海科学技術出版社)が主として依拠しているのも、以上に挙げた楊上善・馬蒔・張介賓・張志聡たちの注釈である。
  『素問』と同様に、あるいは『素問』以上に、『霊枢』を読むことは難しい。最も大きな理由は、この二書が漢代に書かれた古典であり、かつ技術の書だからである。古い技術に特有の用語は難解である。それに加えて『霊枢』の場合は、現行のテキストのもとになった史崧のテキストが、基本的には、唐以前の古い姿を保存している、と考えられるからである。『素問』や『霊枢』を読むために必要なのは、この二書が書かれた当時の言語と医学の知識である。ところで、当時の医学の知識、しかも最高レベルの知識を知るための資料として私たちが手にしうるものは、今のところ、『素問』と『霊枢』だけなのである。
 結局、歴代の注釈を頼りに、『素問』や『霊枢』を読み解いてゆくことになるのだが、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』の立場は、歴代のさまざまな注釈の中から、最もふさわしいと思われるものを、そのつど選んでゆき、さまざまな注釈の善を採りつつ、独自の読解を試みるというものである。しかも、楊上善を除けば、『霊枢』の代表的な注釈は、いずれも明清のものである。この読解の方法は、古典を厳密に読むという立場からは、最上の方法とは言えないが、現代中医学の中に古典をよみがえらせようとする立場からは、許されるものであろう。姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の「まえがき」で、監訳者の石田秀実氏は、次のように述べた。「現代中医学がその基礎においている伝統医学とは何か、という方向から『素問』を読むとすれば、むしろこうした明清の注釈の方にこそ、私たちは注意を向けるべきなのかもしれない」と。『霊枢』についても同じことが言えるであろう。
 原書の原訳は、主に明清の注釈家たちの読み方に依拠しつつも、独自の訳として作成された、一つの解釈である。そして、本訳書の現代語訳は、原訳をできる限り忠実に翻訳したものであり、書き下し文も原書の読みに合わせている。厳密な古典学の立場から見ると、問題もあるだろうし、訳しすぎていると思われるところもある。しかし、姉妹編と同様、技術の書に特有の難解な用語の意味を明確にするための試みとして、了解していただければと願う。
  『現代語訳黄帝内経素問』が出版されてから、すでに六年が過ぎ、今ようやくその姉妹編を世に送ることができた。現代中医学を学ぶ人たち、中国伝統医学に興味を持つ人たちに、中国伝統医学の経典である『素問』と『霊枢』を古典原文の形で通読していただければ幸甚である。原訳をさらに日本語に訳すという重訳である。誤りも多いことと思われる。また、訳者諸氏のせっかくの努力の成果を、監訳者がだいなしにしてしまってはいないかと恐れる。ご批正ご教示を心より願うしだいである。
 本訳書は、当初、姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の監訳者でもある石田秀実氏を監訳者とし、私も翻訳者の一人として加わるというかたちでスタートした。その後、石田氏は体調をくずされ、私が監訳を手伝うことになった。二年前の春のことであったか、ほとんど死の世界を覗いて生還した氏から、後はまかせる、と言われた。そのとき、この困難で忍耐を強いられる監訳の仕事を断らなかったのは、氏の病の重さを知っていたことと、氏の遺言ともとれる手紙のためであった。幸い、石田氏は、生還したばかりか、以前と変わりない旺盛な研究活動を再開するまでに回復された。元気な氏とともに、本訳書の出版を見届けることができたことは、望外の喜びである。
 本訳書が形をなす間に、悲しい出来事もあった。翻訳メンバーの一人であった小林清市氏が急逝されたことである。氏は、京大時代の私の先輩であり、日本における数少ない中国科学史研究者の一人であった。残念ながら、氏の翻訳を本書に載せることはできなかったが、当初の翻訳メンバーの一人として、ここに小林清市氏の名を記し、ご冥福を祈りたい。

白 杉 悦 雄

黄帝内経概論

まえがき

 新中国が成立してからのち,筆者はもっばら世界医学史との比較に重点をおきながら,中国医学史を研究してきた。そこでまず最初に手がけたのが『黄帝内経』である。以来12年,『黄帝内経集解』48巻(『素問集解』24巻,『霊枢集解』24巻)を完成したが,整理して手を加えるのに,なお日時を要する。ここに,あらかじめ『黄帝内経』に関する数篇の論文を発表し,識者の御指正を仰いで,誤りは正し,拙著が一日も早くより完璧なものとなることを希う次第である。
 その他,『神農本草経』や『張仲景方』,漢魏六朝の亡佚医書や唐宋の医方等についても初歩的な研究を行い,原稿は机上にうず高く積まれている。それらは整理して後日発表したい。
 わが国の医学史は,いまだ世界医学史上に空白となっている。この空白を填めることは,我々自身の努力を俟たねばならない。もし,本書が同好の者の関心を喚起し,奮気を促し,力を結集せしめることができるならば,近い将来その空白を完璧に填め,我々の祖先の偉大な業績を発揚して,向学心を一段と強化できるであろう。これこそが,私の願いに他ならない。

1962年 労働節の日に
龍 伯 堅

難経解説

はしがき

 このたび,『難経訳釈』の,日本語による完好の翻訳が,ここにできあがった。
 中国医学の古典著作として,この『難経』が,『黄帝内経』の趣意を継受したものとして,古来ながく尊重されてきたことは,周知のことがらである。
 この古医書の,生理・病理・診断・治療の,おのおのの基本的な考え方にたいして,古くから高い評価があたえられてきた。ことにその診脈について,「独取寸口」説は,後世の脈診学にふかい影響を伝えている。
 さて,本『難経訳釈』は,中国医学を学ぼうとする中国本土の初学者にむけて,原書の主旨と原文そのものを平易に紹介する内容の,中医書シリーズとして刊行されたものの,1冊である。


・難経訳釈 第2版 南京中医学院医経教研組編著
上海科学技術出版社 (1961・11初版) 1980・10 第2版

 これが,このたび翻訳を行ったそのテキストである。ちなみに,南京中医学院が各古医書の教研組編著として公刊してきた同じシリーズのものとしては,

・黄帝内経素問訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・6初版) 1981・10 第2版
・黄帝内経霊枢訳釈 第1版 上海科学技術出版社 (1986・3初版)
・傷寒論訳釈 第2版 上・下冊 上海科学技術出版社 (1959・4初版) 1980・10 第2版
・金匱要略訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・10初版) 1981  第2版

などがある。
 この『難経訳釈』書の全体の構成については,すなわち原書『難経』の“81難”を6章にわかち,

 第1章 脈学(第1難--第22難)
 第2章 経絡(第23難--第29難)
 第3章 臓腑(第30難--第47難)
 第4章 疾病(第48難--第61難)
 第5章 ユ穴(第62難--第68難)
 第6章 針法(第69難--第81難)

の,“81難”の各「難」節ごとに,この漢魏期に成立した医学古典の原文を掲載し,その本文にみえる語彙の解釈(「注釈」)と現代中国語による逐語訳(「語訳」)をほどこし,そのあとに各「難」節についての本文解説(「釈義」)と当該「難」のポイント(「本難要点」)を加えることによって,原書『難経』がそなえている系統的かつ完整な内容を闡明している。
 そもそも,本『難経』についてはもちろん,中国医学の古典著作といわれる古医書群と,その背景をなす奥行きの広い中医全般に関して,私は知識も低く,関心もそれほど強いものではなかったのである。このたびの監訳という役目は,したがってそんなに軽いものではなかった。
 陰陽思想といった中国に固有の有力な考え方があり,およそ中国文化を見るものにはそれを抜きにしては,何もはじまらないほどの中国思想史のうえの重大な思考形態である。その陰陽五行思想の基本的な構造について,史的展開とその特徴をとらえようとして,われわれはかつて共同研究の報告を行った。『気の思想--中国における自然観と人間観の展開』(東京大学出版会,1978)がそれである。
 秦漢の交に主要思潮となったこの陰陽家説は,司馬談の「六家の要指」によって伝えられるのによると,則天主義を軸とする自然運動理論である。すなわち宇宙のひろがりと時間の流れのなかで自然世界,それは人間の生の営みをも包含しており,この自然--天地,万物の世界に関する運行とその生滅のしかたを説明する理論である。天体運動と人間世界,特に治政行為とが照応しあうとする,陰陽五行説による天人感応の休祥災異思想は,暦数に代表されるように,この陰陽家理論の応用をきわめた一分野でもあった。中国における政治理論にみられる治民思想は,ほとんど董仲舒いらい,おおむねこの陰陽災異説の思考形態を基礎とする天人相関の考えであり,それは,天体の正常な運行に人治を順応させようとする,人間社会の調和理論でもある。天候の順不順と人事のそれが照応しあうのであって,為政当局はその調節可能な治政行為を操縦する政術--道芸の執行者にほかならない。つまり,則天主義の政治形態である。
 しかしながら,他方この陰陽説は,ひろく生命体にも適用された。生物の生育・盛衰・枯死のサイクル運動も,陰陽両気の変相と調和の理論の掌中にあった。中国古来の医術にみられる治病理論は,この陰陽家理論の展開する,また一方の大きい分野である。
 この医学理論については,私はほとんど無知である。すでに5年以上もまえ,北京に滞在していたとき,魏正明・王碧雲夫妻の両先生から中医の諸理論のほんの緒ぐちを手ほどきされたことがある。その魏正明先生はもう故人になられた。烏兎勿勿,年月を経るうちに,ある日,この『難経訳釈』1書を選定したといって,山本勝曠氏が現れた。
 山本氏は,季刊『中医臨床』を刊行している東洋学術出版社の経営者である。と同時に,ひろく中国医学の水準とわが国の中医学の現況に通じた,熱意あふれる出版文化人である。もう30年近くになるが,かつて京都の極東書店で,中国専門書のお世話になった篤実の書肆マンであって,この人の依頼はすべて拒みがたく,非専門の私が,ここに一文を書いている次第である。
 すでに,浅川要・井垣清明・石田秀実・勝田正泰・砂岡和子・兵頭明の6氏によって,訳出されていた本書を枚正するかたちで私は審閲の機会を得た。石田秀実・浅川要両氏には,特にその専門とする分野から全体の訳語や文章の整理を心がけてもらった。
 なお,原書にはなくて,本書に新たに加えられたものに,「原文」にたいする「書き下し」の部分があって,これはいわゆる原文の訓読である。医学を活用して臨床に従事する人たちが,東洋医学の分野では漢文に習熟しているという慣わしを考慮しなければならない現況をふまえて,一応の「書き下し」文を附することとした。ただし,この部分を読んで,ただちに原文の意味を理解しえたと,即断しないでいただきたい。必ず「現代語訳」を熟読し,「注釈」をあわせて読んでほしい。いろいろな疑問が,この間に伴って生起してくることが予想されるが,そのときこそ,本書がこの『難経』そのものの研究の向上に果す起動力となってくれるはずなのである。

戸 川 芳 郎
東京大学中国哲学研究室にて
1987年1月10日

現代語訳・宋本傷寒論

まえがき

  『傷寒論』は東漢時代の末に、高名な医学家である張仲景によって著された書物である。『黄帝内経・熱論篇』に記載された六経分証の考えに着目し、仲景は六経弁証を核心に据えた、理〔理論〕、法〔治療法則、治療方法〕、方〔処方〕、薬〔用薬〕からなる体系を創りあげた。中医学の理論と実践をみごとに統一し、その模範を示したのが、『傷寒論』である。この偉大な医学経典は、後世の中医方剤学、臨床弁証学、および臨床治療学の発展に大きな貢献を果した。また、中国のみならず、世界の医学薬学史上でも、重要な位置を占める文献である。
 中医薬学を学ぶ者にとって、『傷寒論』は疑いもなく、必読の古典である。それは、古代文献として価値があるというだけでなく、さらに次のような理由があるからだ。
(1)『傷寒論』は極めて系統的に書かれており、学習に便利である。
(2)『傷寒論』が最も実用的であるのは、理論、処方とその薬味、仲景の経験を載せているからで、一つの治療法を会得すれば、それに応じて治療範囲も広がる。
(3)『傷寒論』を学んでおけば、その源流である『内経』や『難経』の理解が深まる。
(4) 唐宋代以降におこった各医学流派の学術思想を学ぶ場合の参考となる。
 これらの理由から、『傷寒論』をしっかり勉強しておけば、学問的にも、また実地臨床の面からも充分な基礎的能力が養われるので、『傷寒論』をおろそかにしてはならない。

 しかしながら、『傷寒論』の学習は、決して容易なことではない。『傷寒論』は宋の成無己によってはじめて注釈されて以来、宋元以降にこれを注解した人の数は、数百人を下らず、その中には、大家名家と呼ばれる人々も数多い。『傷寒論』の勉強に注釈本を用いるなら、原典を使用するよりずっと容易なことには違いない。しかし注釈本では、各注釈家の個人的見解や一面的な解釈が少なからず入り込むことは避けられない。さらに、何百とある注釈本の中から、どれが一番よいのかを決定することも困難である。別の言い方をすると、『傷寒論』は注釈本で勉強するよりも、原文で勉強した方が、ずっと正確にこの本の精神が把握されるだろう。そうは言っても、現代人が『傷寒論』の原文を読みこなすのは難しい。その最大の理由は、これが古代漢語で書かれている点である。よって、『傷寒論』がよりわかりやすく読めるよう、現代語に翻訳したのが本書である。これこそが、私たちがこの度『宋本傷寒論』を編著した動機と目的である。
 翻訳作業を進める前に、解決しておかねばならないいくつかの問題がある。
 その一。全条文を収載。『傷寒論』の注釈には、ほとんどすべての医家は、『太陽病の脈証并びに治を弁ず』に始まり、『陰陽易差えて後の労復病の脈証并びに治を弁ず』で終わる、いわゆる三百九十八条の節本を使用している。このような条文の取捨を行った節本をテキストとして選ぶと、『傷寒論』の全貌を系統的かつ全面的に理解する上で、不利益とならないか懸念される。そこで、『傷寒論』の全貌を客観的に示すため、テキストとして、北宋の治平二年(一〇六五年)に宋朝医務官僚であった林億らが校訂し、明代の趙開美が復刻した全十巻二十二篇の版本を使用することにした。
 その二。翻訳のスタイル。古文を翻訳する場合、直訳するのが一番よい。この方法ならば、原文の文字が持っている特徴や意味を比較的正確に表現できる。よって本書では、原則として直訳のスタイルをとった。しかし、時には直訳で意味がはっきりしない場合もあり、適宜、意訳した。
 その三。難解な文字や単語の処理。原文には読みや意味がわかりにくい文字や単語が、いくつかでてくる。これらの意味がよくわからないと、原文の正確な理解は困難である。それゆえ、本書ではこのような文字や単語は、「小注」として解説を加えた。
 その他。読者の学習の助けとなるよう、条文ごとに、その内容を要約した「要点」を記した。適当な箇所に、そこまでの概略を表した図表を掲げ、全体的な流れが理解できるようはかった。
 最後に少し説明を加える。『傷寒論』の「すべき病」や「すべからざる病」諸篇、例えば、「発汗すべからざる病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗すべき病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗後の脈証并びに治を弁ず」などの諸篇中の多数の条文は、「三陽」篇と「三陰」篇に既出である。それで、既出の条文については、書き下し文、口語釈、記載箇所は示したが、小注と要点は省略したので、必要があれば「三陽」「三陰」篇を参照して頂きたい。


宋本(版)『傷寒論』について

 現在『傷寒論』と呼ばれている医学経典は、もとの名前を『傷寒雑病論』と言い、東漢末期に、張仲景によって著された。なお、『傷寒卒病論』の名もあるが、「卒」は「」の俗訛(「」は「雑」の元字)と考えられている。仲景の著した『傷寒雑病論』の原書は、完成して半世紀もたたないうちに失われ、今日まで伝わっているわけではない。仲景の著作は散逸したあと、歴史上のさまざまな時代において、それらを蒐集、保存、復元する努力がなされた。その結果、『傷寒論』は現代まで伝来してきたのだが、現行のものがはたしてどれだけ正確に、仲景の原著を再現しているか、現状では知るすべがない。以下に伝来の歴史的経緯について概述する。
 張仲景は、漢代末期の南陽の人で、名を機と言い、仲景は字である。官吏登用試験である考廉に挙され、長沙の太守に任官した。はじめ、医学を同郡の張伯祖より学んだが、学識技術は師をしのいだとの評判であった。自序によれば、多数の親族を傷寒で失い、これが動機となって、『傷寒雑病論』を著した(紀元二〇六年頃)。しかしこの書はまもなく戦火に遇い、散逸してしまう。その後約半世紀を経た頃、西晋の太医令であった王叔和は、仲景の残した文章を蒐集して、彼の著作の『張仲景方論』(現存せず)及び『脈経』に収めた(二五〇年頃)。これらは、歴代の医家たちによって書き写され、それがまた別の書に引用されたりをくり返すうち、種々の異なる伝写本が出現する結果となった。例えば、唐代の孫思が著した『千金要方』、同じく孫思?の晩年の著作である『千金翼方』(六五五年頃)、そして王燾の『外台秘要方』(七五三年)などは、仲景の文章を収録しているが、それぞれの記述に相違があることから、異なる伝写本から引用したと考えられる。なお、日本に伝わる「康平本」、「康治本」も唐代の数ある写本に由来するものと考えられる。
 唐代末、高継沖は傷寒論を整理復元した(高継沖本)。宋が国をうち立ててまもなくの開宝年間(九六八年~九七五年)、継沖は節度使に任ぜられた際、この書を朝廷に献上した。高継沖本は政府の書庫に収められたが、出版されるには至らなかった。しかしその後、宋政府が諸家の医方を蒐集して『太平聖恵方』を編纂した時(九九二年)、高継沖本がとり入れられた。『太平聖恵方』中の傷寒部分は、「淳化本」と呼ばれているが、現行の傷寒論とは大分異なっている。
 宋政府は医書を整理校定する機関である校正医書局を設立(一〇五七年)し、林億らの儒臣を作業にあたらせた。彼らは『傷寒論』(一〇六五年)、『金匱要略』(一〇六六年?)、『千金要方』(一〇六六年)、『千金翼方』(一〇六六年?)、『脈経』(一〇六八年)、『外台秘要方』(一〇六九年)その他を校刊した。傷寒論は、先の高継沖本を藍本とし、当初は大きい文字で印刷した大字本が出版された。しかし高価なため普及せず、その後、小字本が出版された(『傷寒論』の牒符にこの経緯が記されている)。宋朝が刊行した大、小字本の傷寒論を「宋本」という。しかし小字本も、内容自体が難解なため、広く流布するには至らなかった。替って、宋本をもとに成無己が注解を施した、いわゆる『注解傷寒論』(或いは「成無己本」、一一四四年撰成、一一七二年初刊)が普及した。
 明代、当時の蔵書家であった趙開美は、傷寒論を復刻(翻刻)した。彼の「仲景全書刊行の序」によれば、当時入手できたのは、成無己本であり、まずこれを校定復刻した。その後、幸いにも宋本を手に入れたので、併せてこれも複刻し、『仲景全書』と名づけて刊行した(一五九九年)。彼は、明代すでに宋本は稀少となっていたと記述しており、もちろん現存していない。『仲景全書』に収められた傷寒論(趙開美本)が最もよく宋本の面影を留めていると考えられる。それ以降の宋本は、ほとんどが趙開美本を写したものなので、字句の相違を生じている可能性がある。だから、テキストとしては、趙開美本そのものが使用できれば、最善である。
 明代に出版された『仲景全書』は、少なくなってしまったが、北京図書館、中医研究院、日本内閣文庫などに現存している。今回底本として用いたのは、北京図書館の所蔵(銭超塵氏によれば、中医研究院所蔵のものと同一版本)になる明刻の仲景全書に収められた傷寒論である。
 この趙開美本では、弁太陽病脈証并治上第五以降の毎篇(弁不可吐第十八、弁可吐第十九を除く)の最初、従来の条文の前に「小目」を載せている。小目はその篇の内容をまとめて条文化したものである。一般には省略されることが多いが、趙開美本の全貌を示すため、今回これらを収録した。
 以上は、次の文献にもとづき、生島忍が書いた。

〈参考文献〉
中医文献学 馬継興著 上海科学技術出版社 一九九〇年。
傷寒論校注 劉渡舟主編 人民衛生出版社 一九九一年。
傷寒論 臨証指要・文献通考 劉渡舟・銭超塵共著 学苑出版社 一九九三年。
傷寒論・金匱玉函経解題 小曽戸洋著(明・趙開美本『傷寒論』他全三巻に収載)燎原書店 一九八八年。

[原文]傷寒雑病論(三訂版)

前言

 この度、日本漢方協会は、創立十周年を記念して、同協会学術部より、『傷寒論』と『金匱要略』を合刻して、『傷寒雑病論』として出版する運びとなった。
 月日のたつのは速いもので、根本光人氏より協会設立の相談をうけて、日本漢方協会が創立されてから、十年の歳月が流れた。そしてこの十年間には、日本の漢方界は種々の変動を経験した。健康保険診療の漢方薬採用、日中国交回復による日中学術交流の深まり、それに従う針麻酔や中医学理論の流入などがあった。しかし漢方界全体としてみれば、一般民衆の漢方に対する認識が高まったばかりではなく、医療界においても、ようやく漢方に対する関心が深まる傾向になってきた。このような状況の中で漢方を学ぶものは、更に心して正しい漢方の研究に十分な努力をしなければならない。
 『傷寒論(古くは傷寒雑病論)』『黄帝内経素問』『神農本草経』は、中国医学の三大古典であることは、昔も今も変わりはない。その中で『傷寒論』は中医学を学ぶ者にとっては、研究すべき必須の古典であるという。現在の中国においても、『傷寒論』関係の出版が続々と行なわれ、その研究の重要さがうかがわれる。
 さて、日本の漢方、特に古方派漢方は、傷寒、金匱の研究から出発していることは周知の通りである。『傷寒論』は『傷寒論』の理論で解釈するという考え方、それに腹診の発達が加わり、親験実施を精神とした古方派漢方は中医学と違う発展をとげて今日に至っている。『傷寒論』の最も古いとみられる章句(古方派はこれを本文と称する)は、病気の症状、経過を述べ、それに対する治療法(薬方)をあげているだけで、特別の理屈で説明していない。もしその臨床的観察が正しく、適用した薬方が有効であるなら、後世の人がそれを追試しても同じ効果をあげ得る筈である。事実を正しく把握していたら、二千年を経ても、その事実には変りはない筈である。後世、何千何万の人が『傷寒論』を追試して、『傷寒論』の事実の把握の正しさを確認してきたわけで、これが『傷寒論』を今日に至るまで、最も価値ある医書として継承してきた所以であると考える。西洋医学を学んだ者も、『傷寒論』を研究し理解すれば、臨床に応用してその効果を確認し得るのであるが、これは『傷寒論』が正しく事実に立脚していると考えれば、了解できることである。従って西洋医学を学ぶ者にも、『傷寒論』研究は稗益するところが大きいと考える。
 以上、『傷寒論』は、日本の漢方にとっても、中医学にとっても、研究すべき必須の原典であることは論をまたない。しかし漢方が西洋医学的治療と伍して、日本の医療界に貢献するためには、今後の『傷寒論』研究は、科学的実証精神に立脚すべきである。
 奇しくも今秋、張仲景ゆかりの地南陽で、張仲景生誕の記念祝典が催されるという。この期に臨んで本書が出版されるのは、誠に意義が大きく、因縁深く感じる次第である。

日本漢方医学研究所理事長
伊 藤 清 夫
昭和五十六年四月

中国傷寒論解説

『中国傷寒論解説』の出版にあたって

  『傷寒論』という医書は,まことに奇妙な書物である。ごくわずかな字数で書かれた医書であるにかかわらず,医学の理論と技術に関する膨大な内容を包蔵している。だから,原典そのものは小さくても,これの注釈書は汗牛充棟もただならざる有様を呈する。
 この書をよく読み,深く理解したものは,その理と術のあまりの周到さにただただ圧倒され,あるものはこの書の成るのは人わざにあらずといい,またあるものはこの書1冊があれば医のすべては足りるとまでいう,ことほどさように,この書は研究すればするほど,そしてこれを実地に行えば行うほど,その奥行きの深さがわかり,同時に臨床上での無限の可能性を感じさせるのである。

 『傷寒論』には理論がないとか,『傷寒論』はすでに過去の遺物であるとかの言葉を弄するものもあるが,さらに深く研究が進めば,憶面もなく出した不用意な己の言葉に,いたたまれぬ思いをするときが来るであろう。
 『傷寒論』が『内経』由来だとする見方と,しからずとする考え方は,往時から議論の尽きないところであるが,現在では大雑把にいって,中国の『傷寒論』研究の大部分は前者であり,わが国の古方出身者ないしはその系統の研究者のほとんどは後者に属するのではないかと思う。
 『傷寒論』の奇妙さのもう一つは,『傷寒論』という医書は『内経』を土台として研究しても,またそうでなくても,ともに立派に臨床に役立つということである。
 ところで,今回,東洋学術出版社によって出版された北京中医学院・劉渡舟教授の著『中国傷寒論解説』は,まさに『内経』を土台として研究されたものの成果である。私もそうであるが,日本の漢方研究家の大抵が『傷寒論』は『内経』とほとんど関係がないという立場をとっているが,この劉渡舟教授の書はそういう私どもにとっても大変参考になり,かつためになる本である。かつて大塚敬節先生は,他派の学説をこそよく聴くべきであると,しばしば述べられたが,本書を熟読するに及んでつくづくその言葉の本当であることを感じさせられる。したがって,本書は日本の漢方研究家にとっては,かなり異質な面もあるが,同時にまた,同じ『傷寒論』を学ぶもの同士の深く同感しあうところも多く持っている。私ども日本のすべての漢方研究家は,本書をよく読むことによって,その考え方においても臨床応用の面においてもより大きな広がりを持つことになろう。
 中国の『傷寒論』研究書は,ことに最近のものは,私どもが読みたくても簡体字のせいもあって制約を受けていたが,訳者・勝田正泰氏らの大変読みやすい訳文によって,このような名著がごくたやすく入手でき,読むことができるようになったことは,いくら感謝しても感謝しきれない。
 劉渡舟教授とは,1981年1月に『中医臨床』誌座談会の席でお会いして忌憚ない意見交換をし,その学識の深奥さと温いお人柄に心から尊敬の念をいだいたのであったが,一昨年10月,北京での「日中傷寒論シンポジウム」で再びお目にかかり,ますますその感を強くしたものである。本書の出版は,私にとっても誠に嬉しいことであり,また日中の学問の橋渡し,両国の友好にとっても貴重な役割を果すものと疑わない。わが国のすべての漢方研究家が本書を熟読されるよう推奨するものである。

日本東洋医学会評議員
藤 平 健

金匱要略解説

監訳者はしがき

 私どもが先年翻訳した劉渡舟教授の『中国傷寒論解説』(原名『傷寒論通俗講話』)は,幸いにも好評で版を重ねることができた。そこでこのたびは『傷寒雑病論』の「雑病」部である『金匱要略』解説書の翻訳紹介を企図したのである。
 最初に選んだのは『傷寒論通俗講話』と並んで中国のベストセラーであった何任教授の『金匱要略通俗講話』であったが,何任教授はその後に同書を底本にして新たに『金匱要略新解』を著述され,これには前著と異なり金匱要略の原文が記されていた。余談であるが『中国傷寒論解説』には傷寒論原文が併記されていないので,同書に條文を書き込んで読んでいるという読者が多い。実は私もそうしているのである。そこで,この点も考慮して『金匱要略新解』を選定してでき上ったのが本書である。
 『金匱要略』22篇の400余条と200余の方剤は中国医学の基礎であり,中国医学を学ぶ者にとって必須の原典である。しかしその成立過程からも判るように,所々に不正確な記載があるのは当然であり,歴代の注釈家を悩ませている。本書は『金匱要略』の単なる逐條解釈ではなく,著者の学識と臨床経験に裏付けされた洞察力が,「解説」の部に適確な見解や批判として生かされている。従って初学者にとっての恰好の学習書であると同時に,立派な注釈書ともなっている。
 例えば第3篇で,狐惑病とべーチェット症候群との類似性から清熱解毒滲出の治療原則を指摘するなど,現代医学との関連も配慮されている。
 また第14水気病篇では,その臨床価値については検討を加える必要があるとし,その後に目ざましい発展をした後世の方剤で水気病の臨床内容を充実させるべきであると述べている。これは,大塚敬節先生が『金匱要略講話』の中で,水気病の治療は『金匱』だけでほ不充分であるとして,浅田宗伯の『雑病翼方』や和田東郭の『導水瑣言』を紹介しているのと軌を一にしている。
 本書の「『金匱要略』概説」は『金匱要略』の内容,思想,注釈本,学習方法などについて,これほど簡明適切に記した解説は少ないので,「前言」と重複する部分もあるが,あえて集録したわけである。これを一読すれば,古今のあらゆる『金匱』注釈書に精通している著者の深い造詣と,『金匱』に対する真撃な熱意をはっきりと知ることができる。著者は多紀元簡の『金匱要略輯義』について,「細心の注意を払って証拠を求め,的確に結論を下している。」と評価し,『金匱』研究に欠かせぬ存在であると述べている。
 日本の一部には,中国でほ傷寒金匱のような古典が軽視され,あまり読まれていないと思っている人がいるようだが,本文を読めばそれが妄説であることがはっきり判ると思う。
 現代中国の『金匱』研究の第一人者である何任先生に始めて会ったのは,1981年10月に北京で開催された「日中傷寒論シンポジウム」の際である。『日中傷寒論シンポジウム記念論集』(中医臨床臨時増刊号)に書いた私の印象記には,
 淅江中医学院の何任教授は,私が座右において愛読している『金匱要略通俗講話』の著者であるが,講演は始めて聴いた。何教授は『傷寒論』の学習は「博渉知病,多診識脈,屡用達薬」によって達せられると語っている。広く書物を読み,臨床経験を重ね,更に薬の使用法に精通し熟達しなければならないというわけである。
と記してある。
 1985年の年末に東京で何任先生と再会し,改めて身近に先生の温厚な風貌に接して本書の翻訳出版について歓談したのである。何任先生は「知れば知るほどその魅力に取り付かれる」と述べて『金匱』研究の奥深さを指摘している。本書が読者諸賢の『金匱』研究の一助となり,併せて日中両国の医学交流に貢献できることを祈念して擱筆する。

勝田 正泰
1988年4月7日


『金匱新解』日本語版序

 『金匱要略』は臓腑経絡を基本として論述した中医雑病の専門書である。内容は内科を主として,一部には外科や産婦人科などの病証も含まれている。『金匱要略』は分類が簡明で,弁証は適切で,治療法則は厳格であり,方剤の組成は精密で,理法を兼備しているので,真に臨床実用に適合している。後漢以前の豊富な臨床経験を結集して,弁証論治と方薬配伍の基本原則を提供し,中医臨床の基礎を定めたのである。
 『金匱要略』の版本ほ色々ある。最初の註釈本は趙以徳の『金匱方諭衍義』である。清代以後は註家が次第に多くなり,比較的有名なものとしては徐彬の『金匱要略論註』,沈明宗の『金匱要略編註』,尤在涇の『金匱要略心典』,魏レイトウの『金匱要略本義』などがある。このほか周揚俊の『衍義補註』,『医宗金鑑・金匱註解』,黄元御の『金匱懸解』など多数のものが伝っている。
 専門註釈書以外にも,歴代の多数の医家がその著書の中に『金匱要略』の文章と方剤を引用して解説している。早くも唐代に孫思バク『千金要方』,王トウ『外台秘要』および『脈経』,『肘後方』,『三因方』が『金匱』から引用して述べている。その後,宋代の朱肱,金元の劉守真,李東垣,張潔古,王海蔵,朱丹渓などは,すべて各自の著書の中に『金匱』の方剤と理論を収め伝えている。例えば朱丹渓は彼の著書『局方発揮』の中で,『金匱』を非常に推奨して,「万世医門の規矩準繩」「引例推類これを応用して窮まりなしと謂うべし」などと称えている。喩嘉言『医門法律』,徐洄渓『蘭台軌範』などの著作は,『金匱』に対して独特の意見を述べている。
 比較的近代の『金匱』専門注釈書もまた少なくなく,枚挙にいとまがない程である。中でも日本の丹波氏父子の『金匱要略述義』,『金匱要略輯義』などの著作はよく知られている。
『金匱要略新解』は,連載したものを集めて,1980年に初稿が完成したものである。その註解はできる限り原文の精義に符合するように努め,文章は晦渋を避けてなるべく判り易いようにし,また『金匱』の方剤を臨床に用いた著者の治験例を適当に付加し,読者の参考に供した。
 昨年,私が講学のため東京を訪問した際に,東洋学術出版社社長山本勝曠先生と会い,『金匱新解』を日本で翻訳し,出版することを依頼された。これは大変に結構なことである。本書の出版は,両国の文化と医学の交流,友好の促進に,必ずや積極的な働きを作すものと信じている。

中国・杭州 何 任
1986年5月


前言

  『金匱要略』は,中国医薬学文献中の古典医籍の1つであり,『金匱要略方論』ともいい,『金匱要略』あるいは『金匱』と略称する。本書は後漢の張機の著作中の重要な一部である。
 張機,字・仲景は,2世紀頃に生れた。彼は博学多才で,『傷寒雑痛論』を著述した。『傷寒雑病論』は「傷寒」と「雑病」の2大部分から組成されていたが,原書は早い時期に亡失してしまった。医史学の考証によると,『傷寒雑病論』はもともと16巻であったが,晋代に王叔和が整理編成して『傷寒論』10巻とした。これは『傷寒雑病論』中の「傷寒」の部分である。「雑病」の部分は当時は発見されていなかったのである。宋代に至って林億らが『傷寒論』を校正し,『傷寒論』と『金匱要略』の両書を編成したのであるが,その序文の中に『金匱』は残存した虫喰い本の中から発見されたと記されている。これがつまり『傷寒雑病論』の「雑病」の部分なのである。
 『金匱要略』は中国医学の最初の内科雑病の書物である。その特徴は,比較的簡明に全体を22篇に分類し,各篇それぞれを独立させて注解していることである。当然のことながら,ある篇ではいささか矛盾する部分や,理解しにくい部分もある。2000年も前から伝えられた古代医籍であるから,これらの欠点は避けられないのである。
 弁証の方面ではかなり要点を押えていて,以下の病証が記されている。
 痙,湿,エツ,百合,狐惑,陰陽毒,瘧病,中風,歴節,血痺,虚労,肺痿,肺癰,咳嗽,上気,奔豚気,胸痺,心痛,短気,腹満,寒疝,宿食,五臓風寒,積聚,痰飲,消渇,小便不利,淋,水気,黄疸,驚悸,吐衄,下血,胸満,オ血,嘔吐,エツ,下利,瘡癰,腸癰,浸淫,趺蹶,手指臂腫,転筋,狐疝,蛔虫,婦人妊娠,産後雑病。
 作者はこれらの疾病の中で,病因や病磯の類似したもの,証候が似ているもの,病位が接近しているものを,大づかみに合わせて1篇としている。
 例えば痙,湿,エツの3病は,すべて外感によるものであり,発病時には多くは太陽病から始まるので,合わせて1篇としている。
 百合,狐惑,陰陽毒の3者は,あるいは熱病の転帰によるものであり,あるいは邪毒の感受によるものであるが,その性状が相似しているので,合わせて1篇としている。
 また中風には半身不随があり,歴節には移動する関節痛などの症状があるが,両者の病勢の進行状態は非常に変化しやすいので,往々にして「風」の字で形容され,その病機が似ているので,合わせて1篇としている。
 血痺病は外邪の感受と関係があるが,主な原因は陽気が阻まれ,血行がゆきわたらないために起るのである。虚労病は五労,七傷,六極によつて引き起される内臓気血虚損の疾病である。この両者は病機が相似しているので,合わせて1篇としている。
 また胸痺,心痛,短気の3者を1つに合わせたのも,病機と病位の関連によるものである。というのは胸痺と心痛の両者は,胸陽あるいは胃陽が不振のため,水飲痰涎が胸あるいは胃に停滞して引き起されたものであり,両者の病機と病位が接近しているので,合わせて1篇としたのである。
 驚悸,吐衄,下血,胸満,オ血などいくつかの病の発病の成り立ちと,心肝の両臓とは関係が深い。心は血を主り,肝は血を蔵しているので,心肝両臓の機能が失調すると,驚悸,吐血,衄血,下血あるいはオ血が引き起されるのである。そこでこれらの病を合わせて1篇としている。
 また消渇,小便不利,淋病は,すべて腎あるいは膀胱の病変に属しているので,合わせて1篇としている。
 また肺痿,肺癰,咳嗽上気の3者は,病機は同じでなく,証候も異なるけれど,すべてが肺の範囲に属する病なので,合わせて1篇としている。
 同じような事情で,腹満,寒疝,宿食の3者は病因は異なるが,発病部位はすべて胃腸と関係があり,しかもすべてに脹満あるいは疼痛の症状があるので,合わせて1篇としている。
 そのほか嘔吐,エツ,下利の3者は,発病原因と発病のしくみは同じではないが,すべてが胃腸の病証なので,合わせて1篇としている。
 上記の合篇以外に,瘧病,水気,黄疸,奔豚気などそれぞれ単一の篇がある。そのほか,趺蹶,手指臂腫,転筋,狐疝,ユウ虫などのように,単一の篇とすることもできないし,類似性でまとめるのも不適当だが,合わせて1篇としたものもある。「五臓風寒積聚病并治第11篇」は,主として五臓の発病の病理と証候を述べている。
 本書第1篇の「臓腑経絡先後病脈証」は,全篇の理論的基礎であり,すべての証候は臓腑の病理変化によって起ることを,臓腑経絡学説で明白に論じている。これはこの方面の問題についての概括であり,その基本的な観点は全書各篇の中に滲透している。それゆえ臓腑の病機をもとにして弁証を進めることが,本書の主要精神となっている。
 以上の内容から『金匱要略』1書を通観すると,本書は内,外,婦,皮膚科など各科の疾病にわたっており,更にいくつかの伝染病をも含んでいる。各種の病を必ずしも全面的に集めているわけではないが,すべてにわたって初歩的な規律による一定の分類がなされている。
 22篇の中には,重要なものと副次的なものとの差もあり,総則である「臓腑経絡先後病脈証第1」以外には,「瘧病」,「肺痿」,「肺癰」,「咳嗽」,「上気」,「胸痺」,「痰飲」,「嘔吐」,「エツ」,「下利」,「腸癰」および「婦人妊娠」,「産後雑病」などの病証は,すべて非常に重要な内容を含んでいる。しかし,「五臓風寒積聚病脈証并治第11」篇中の五臓風寒などのある部分は,必ずしも意味が明確でない。
 22篇中には400余の条文があり,200以上の処方(各版本の条文処方がすべて同じわけではない)がある。これらの処方の多くは古代の医師が臨床実践中に得たものであり,大多数の処方が現在でもなお中医師らの臨床治療の有力な武器となっている。
『金匱要略』は,臓腑経絡学説を基本論点として,証候はすべて臓腑病理変化の反応であるとしている。この基本論点は本書の脈法中にも現われている。疾病治療の方面では,人体内臓間の総合性をもとにして,未病の臓腑を治療して病勢の発展を予防することや,治病の根本として人体の正気を重視し,同時に去邪もゆるがせにしないことなどが,非常に重要な問題であるとしている。
 本書では方剤の運用面で,一方で多病を治療すると同時に,また1病の治療に数万を用いており,「異病同治」と「同病異治」の精神を具体的に示している。前述のように『金匱』の方薬は非常に有効であり,例えば蜀漆散が瘧疾〔マラリヤ〕を治し,大黄牡丹皮湯が腸癰を治し,沢瀉湯が水気病を治し,白頭翁湯が痢疾を治し,菌陳蔦湯が黄疸を治すなど,これらは現在でも我々が臨床に用いて良効を得ている。薬物の配伍の面でも,本書は独創的な所がある。
 『金匱要略』は,要するに分類が簡明で,弁証が適切で,治療法が厳格で方薬の組成が精密であり,理法を兼備した,実用にかなった本であり,中医の内科,婦人科の臨床上で,一定の指導的価値を持っている。『金匱要略』は中医学を学習するのに必読の重要古典の1つである。現在でほ中医学院で中医古典文献を学習する際の必修の本となっており,西医が中医を学習する場合にも,学ばなくてはならない医書の1つとなっている。
 筆者は1958年に,『金匱要略』22篇について,通俗講話の方式で,各篇を要約分析し,原文の精神を生かし,各家の注釈を参酌し,昔を今に生かすという主旨に従い,臨床実践にもとづいて,『金匱要略通俗講話』を著述した。これは読者が『金匱要略』に対する概括的な認識と初歩的な知識を修得して,それをもとにして更に原書を探求するのに役立てようとしたものである。

 いまこの『金匱要略新解』は,『金匱要略通俗講話』をもとにして,いささか原文内容を増加し,余分な文字を削除し,同時にある方剤については必要な臨床治験例を補充したものである。文字は読みやすく,理論は判りやすいようにし,原書に対するより一層の理解を助け,臨床実践に役立つことを期したものである。
 本書は,中医学院学生,「経文」を学んだことのない中医学独習者,臨床中医師,西医で中医学を学習している人達などすべてにとって『金匱要略』学習の際の参考書となるものである。
 本書の内容は,1978年から1980年にかけて『浙江中医学院学報』に「金匱要略浅釈」と題して連載し,非常に読者の好評を得たものである。いま浙江科学技術出版社によってまとめて出版されることとなった。多くの読者の御批判を希望する次第である。

勝 田 正 泰

現代語訳 奇経八脈考

題記

 奇経八脈は経絡学説の重要な組成部分であり、早くも『内経』の各篇に散見されるが、『難経』では始めて集中的に解説されている。後の『明堂孔穴』には各経に連係する孔穴(_穴)が論じられている。『明堂孔穴』の原書は伝わっていないが、その内容は晋代の皇甫謐が編纂した『鍼灸甲乙経』の中に保存されている。このほか隋唐時代の医学書としては、楊上善の『明堂類成』残巻、王冰の『素問』注、孫思_の『千金方』、王_の『外台秘要』などがある。これらには当時はまだ見ることができた『明堂孔穴』の内容が、さまざまのかたちで伝えられている。そこで各書を参考にすると、『甲乙経』の経穴交会の記載を考証し補充することができる。
 奇経八脈と十二経脈との重要な差は、十二経脈はそれぞれ直属の経穴があるが、奇経八脈では督脈と任脈とを除くと、それ以外の衝脈、帯脈、陰_、陽_、陰維、陽維の六脈は、すべて十四経脈(十二経脈プラス任、督二脈)と交会していて、つまり交会穴があるのみである。交会穴は経絡と経絡との間の交通点である。奇経八脈中の督脈は各陽経と交会し、任脈は各陰経と交会し、その他の六脈は十四経脈のそれぞれと交会している。このため元代の滑伯仁の『十四経発揮』では十四経脈の循経と経穴が論述されているが、奇経八脈については詳しくは記されていない。明代の瀕湖李時珍はこの点を考慮して、特に『奇経八脈考』を著述した。これは文献を博く引用して旁証したこの方面の専門書である。
 奇経八脈の理論は鍼灸や気功などの医療実践の根源であり、これらの実際の指導にも役立つものである。歴代の医学書の中にも論述されており、特に道家では内気運行の通路として奇経が論証されている。李時珍は関係文献を博く捜し集めて、この奇経理論を大きな実り多いものとしたのである。
 『奇経八脈考』は完成してから、もとは『瀕湖脈学』、『脈訣考証』と合せて板刻され、幾度も出版されて後世の医家の絶大な称賛を受けた。清代の医家葉天士などは内科婦人科の弁証用薬の方面で大いに利用しており、これも本書の影響であるということができる。
 王羅珍医師は、ちかごろ上海気功研究所に勤務し、中医臨床から気功にも足を踏み入れたわけであるが、気功の学理は奇経八脈と関連が深いので、李時珍の『奇経八脈考』の探求が要務であると考えたのである。惜しむらくは同書に引用されている古代文献は必ずしも正確ではなく、あるいは原書がすでに散逸していて考証できないものもある。あるいは原書は現存するが、文字が不適当であったり、條文が乱雑であったりして読解しにくいものもある。その源流を明らかにするためには、全文に対して校注を作ることが何よりも必要である。出典を調べ、原文と照合し、異同を分析し、疑義を解釈するのである。
 書中の丹道家の言葉は、〔この分野に詳しい〕私の父とよく検討して可否を相談し、「返観」〔訳注:閉目して体内の臓器や経脈などを意念し観照することで、それで得られた情報により内気を調整する〕によって得たことを加えて指し示している。また原本には図はないので、清代の『医宗金鑑・刺灸心法要訣』と陳恵畴『経脈図考』を補入して、古典の意味を判りやすくしている。そのほか附図として巻末に新考証図を加えて形象を更に理解しやすいものとしている。校注に加えて処々に検討を加え、その趣旨をわかりやすくしている。
 巻末には本書引用方剤、交会穴総表、八脈八穴源流、および奇経八脈弁証用薬の探討なども記されている。本書には奇経学理の研究がおおむね記されているわけであり、本書の刊行は医療と養生の両面に大いに裨益するであろう。

李 鼎
一九八五年二月 上海中医学院にて

2007年03月22日

臨床力を磨く 傷寒論の読み方50

はじめに

 今からおよそ1800年前の後漢の末に,張仲景によって著されたとされる傷寒論は,古今東西を通じて漢方治療を行う者の必読の書となっている。
 それはその中に示されている治療法が時代を越えて生きているからであり,傷寒論は治療学における人類の至宝と言っても過言ではない。
 傷寒論は証候とその治療法について詳しく述べている。しかし,病機についてはそうではない。その点,裴氏の著した『傷寒論臨床応用五十論』は,著者自身の長年の臨床経験にもとづいた傷寒論に対する緻密な考察が書かれたものであり,たいへん示唆に富み,教えられるところが多い。わが国には,これに類したものに山田業広の著した『経方弁』があるが,裴氏のこの『傷寒論臨床応用五十論』には,症例を交えた深い考察が示されているので,われわれはぜひとも本書を翻訳して紹介したいと考えた。
 幸いにも東洋学術出版社の山本勝曠社長のお世話により,著者の快諾が得られ,さらに論文の追加もされて,ここに翻訳出版の運びとなった。
本書が日中両国の学術交流の一助となり,傷寒論を研究・実践される諸賢のお役に立つならば,われわれの喜びこれに過ぐるものはない。

2003年3月 藤原了信

 


 裴永清君は,黒竜江中医学院を卒業したのち,1978年に北京中医薬大学へ入学し,私の指導する最初の大学院生となった。これが私と彼との出会いであった。
 裴君は師を尊敬し,学問を重んじ,古人の風格を有し,聡明で理解力に優れている。彼は私について数年余りだが,勤勉で,私の教える学問をよく継承しており,それにもとづいて臨床実践を行い,弁証論治の見解は抜きん出て優れている。また,仲景の理論を研究し,問題点を提起し,細かく分析しており,それらの多くは刮目に値する。まさに世に言う「青は藍より出て,藍より青し」である。最近,裴君が著書『傷寒論臨床応用五十論』の原稿を私に見せてくれた。それは10数万語をはるかに越えるもので,歴代の注釈家より新しい見方を示していて,読むと目から鱗が落ちる思いがした。今日,中医学を継承する人材が差し迫って必要とされているが,裴君のような人は,実に中医界においてその役割を担うべき人物である。ゆえに私は,ここに喜んで序文を記す。

77歳の老人 劉渡舟 北京にて  甲戌年仲夏 


自  序
 中国医学は1つの偉大な宝庫である。その宝庫のなかには数多くの宝石があり,『黄帝内経』と張仲景の『傷寒論』は,そのなかでも最も輝かしく得難い珍品である。しかし年月を経たため,言葉は古くなり意味も奥深いので,この宝石は徐々に埃をかぶって,忘れられ失われる危険にさらされている。これは非常に心配な,また惜しまれる事態である。私は40年近くにわたって中医学に携わってきた。学習したことを,内科・外科・婦人科・小児科の各科で幅広く応用してきたことにより,以前は無名であったがいくらか名を知られるようになった。泰山に登るには道がなければ行けないが,疑難雑病の治療において,特に西洋医学的診断がつかないか,または難治性の病証を治療する際に,仲景の方と法を用いれば,すぐに効果をあげることができる。これは本当に喜ばしいことであり,まことに仲景の理論はすばらしいものである。そのことは,古今内外の医家たちが仲景の学説に対して心血を注いで研究した結果,これまでに千冊を超えるほどの著作が生まれていることからもうかがえる。さまざまな知見があり成果が出ているが,1つの医学書がこのように広く世界に知られていることが,仲景理論の価値の高さを証明している。私の著した『傷寒論臨床応用五十論』は,仲景理論に対するわずかな理解と経験であり,大河の1滴にすぎないが,後世の人の誤りを修正し仲景の原意を明らかにし,宝石についた埃や汚れを拭い去ることで仲景の学問を顕彰し,その恩恵を世の人に与えることができればと思っている。私が仲景の学問を明らかにするために学んできたことによって,多少なりとも貢献できれば幸いである。
 徐文波女史はもともと北京中医薬大学で学び,その後日本へ渡ったが,以前より仲景の学を好み,私と学術上において緊密に交流し合う師弟関係にあった。近年女史は私と何度も会って話し,私の『五十論』を日本へ紹介したいと希望され,多くの労を執られた。この『五十論』の日本での翻訳出版に際して,私は「麻黄湯証について論じる」の1章を新たに加筆し,中国語版の『傷寒論臨床応用五十論』第二刷にも同章を追加した。本書の日本語版の出版に際し,ぜひ日本の読者諸氏のご叱正を仰ぎたい。また,翻訳の労をとっていただいた藤原了信,藤原道明,両先生に心から感謝を述べたい。あわせて中日両国の中医薬学術交流に努力されている,東洋学術出版社の山本社長と両国の学者の皆さまに感謝申し上げる。

裴永清 北京にて  2002年10月26日

 

2007年06月01日

臨床力を磨く 傷寒論の読み方50[チラシ]

チラシ

2008年04月28日

『傷寒論を読もう』

序       

 『傷寒論』一書は中国漢代以前の張仲景の著で、医学的に集大成された重要な経典医書である。原書は『傷寒雑病論』であるが、宋の時代にいたり『傷寒論』と『金匱要略』の二部に分けられ、中国医学発展史上、画期的な意義と承前啓後の役割を具えている。
 『傷寒論』は、多種の外感病の弁証論治についての論述を主としているが、論中に創造された六経弁証論治の体系は、理・法・方・薬がともに備わり、理論体系は実践的であり、その臨床的価値は歴代医家によって称賛され、「衆法の宗」「衆方の祖」として今日にいたるまで伝承されてきたのである。
 しかれども、昔日『傷寒論』を初学し、その古文の深奥、涵義のはなはだ深きことに悩まされ、条文を理解することができず、かつ論中の証と省文・衍文と合せて諸家の注釈にはそれぞれの見解があり、往々にして条文の本質的精神を理解することが困難であった。さらに学習難度のために、常に茫然として適従するところがなかった。しかし、『傷寒論』を反復熟読し、その理解を深めるにつれて、証ごとの主方と方ごとの証を掌握して、臨床と結び付けて応用することで、『傷寒論』の学習は「始め難きと雖も、既にして易きなり」と痛感するのである。
 このたび、髙山宏世先生の『傷寒論を読もう』が世に問われることになった。誠にめでたいことである。先生は一九八五年(昭和六〇年)より、福岡において「漢方を知る会」を主催し、『傷寒論』を約八年(計三十五回)にわたり講義され、その講義録を集積して『傷寒論を読もう』なる一書を著された。
 この書は、『内経』の学術思想と理論的原則を継承しているのみならず、後世の八綱弁証の内容をも包括し、かつ『傷寒論』における複雑な証候について、属性(陰・陽)、病位(表・裏)、病性(寒・熱、虚・実)、臓腑経絡、気血の生理機能と病理変化を分析し、人体抗病力の強弱・病因の属性・病勢の進退緩急などの素因を根拠に、疾病の伝変過程の中で出現する各種証候について分析・総合・帰納を行ったものである。しかも方証の証候・病機・治法・方薬などの方面についても、詳細かつ透徹な解説を行い、その弁証論治の精神と理論は全書を貫く一本の主線をなしている。これらの内容は、『傷寒論』を学習する者にとって、必ずや理解するうえでの助けとなり、多大な効果と啓蒙をもたらすものと確信する。
 髙山宏世先生は私の師友であり、親交することかれこれ三十数年になるが、常に互いに学たる道を論じ、意気投合し、絶えず会晤して、医学全般について互いに切磋琢磨し、その心得と見解を交流してきたのである。先生の学問に臨む態度は真摯、かつ中医学理論の造詣は深く、約四十年の臨床経験にもとづく潜心研鑽のなかで、系統的にその学術を整理し、自ら体系をなし、『内経』『本草経』および『傷寒論』に精通し、古今を集めて一身とし、医学・教育・研究・著作などに精力を注ぎ、その数々の著作の条理は明晰、文筆は流暢、理論は実践的である。代表作である『腹証図解・漢方常用処方解説』は、日本東洋医学会奨励賞(二〇〇五年)を受賞し、その業績は燦然としている。先生には大家の風格が備わり、令名は全国に響き、誠に道深く医の方術は精にして究めにいたる。
 本書はこれから『傷寒論』を初学する者、あるいはより深く『傷寒論』の世界に足を踏み入れ、その弁証論治の精神を理解し習得しようとする者にとって、一条の捷径を開き、その奥義に直達せしむるものである。
 以上が私の『傷寒論を読もう』を全面的に推薦するところであり、かつ本書がただちに臨床実践を指導する手助けになることを切望するものである。ゆえに謹んで筆を取り、小志を以て記し、序となす。

二〇〇七年十二月吉日
原 田 康 治

2009年05月25日

『中国傷寒論解説[続篇]』

監訳者まえがき

 1983年に出版された劉渡舟教授の前著『中国傷寒論解説』は幸いにも版を重ねており,訳者の1人として非常に嬉しく思っています。このたび前著の続篇ともいえる本書の訳出にも参加し,前著に勝るとも劣らない内容を熟読玩味し,堪能しながら監訳しました。
 本書の内容については,劉先生の「まえがき」と共訳着生島忍氏の「訳者あとがき」に簡要に記されていますので重複は避けますが,弁証論治の基本的な指導書であり,臨床に直結した,生きている古典である『傷寒論』の有力な参考書が,もう1冊誕生したわけです。本書記載の多数の臨床例に対する適確な弁証と卓抜な治療は,理論的な解説に裏付けされて,『傷寒論』の真価をゆるぎないものとしています。本書は前著と併読されるのが望ましいのですが,本書のみ読まれても充分に『傷寒論』の理解に役立ち,臨床実践の参考になると思います。「『傷寒論』の気化説」はユニークな論説であり,難解なテーマですが,岳父である劉先生の意を帯して生島氏が明解に訳出しています。本書の特色の1つであり,御参考になると思います。
 前著では文中引用の『傷寒論』条文や関連事項に,私が勝手に条文番号を付けて読者の便宜を計りました。条文番号は成都中医学院主編『傷寒論釈義』に依ったもので,前著巻末の条文索引では「成都」とされています。ところが本書で劉教授が記されている条文番号は,南京中医学院編著『傷寒論訳釈』と同じであり,前著巻末の条文索引では「南京・上海」とされているものです。本書を読む際にはこの点に留意して頂きたいと思います。因みに私は奥田謙蔵著『傷寒論講義』に2種の条文番号を併記して使用しています。
 本書の劉先生の「まえがき」に,「五臓・五行の理や,経絡府兪,陰陽会通の妙が理解できなくて,どうして死生を判断できるであろうか。」という厳しい言葉が記されています。私事ですが,少林一指禅功を学んで経絡の流注が体感できるようになったおかげで,劉先生の言葉も頭ではなく肌で理解できるような気がします。東方医学は洪大で深遠な宝庫です。本書が読者各位の東方医学学習の一助となることを祈念して擱筆します。

勝田 正泰
1992年4月21日

2016年06月01日

『金匱要略も読もう』 まえがき


まえがき


 この本は先に二〇〇八年に出した『傷寒論を読もう』の続篇あるいは姉妹篇のつもりで書いたものです。前書を出した直後から、続きの『金匱要略』の本を書かなくてはと思いながら、なかなか取りかかれずにいましたが、東京四ツ谷の主婦会館で毎月開いている漢方三考塾で毎回『金匱要略』の話をする機会に恵まれたので、そのための講義原稿としてこの本を書きました。
 一般的には、『金匱要略』と『傷寒論』は本来『傷寒雑病論』という一冊の書物であり、『傷寒論』は外感病を、『金匱要略』では内傷雑病を論じたとされています。
 『傷寒論』では、病は進展変化するという観点から捉えて経時的に観察し、五臓六腑・十二経脈の病気の所在を論じるときも、病が現在移動しつつある場所という視点から観ています。一方、『金匱要略』では体のどこからどのような病気が発生するかが主題で、病を俯瞰的に観察しています。『傷寒論』のほうは張仲景の原典の主旨が比較的よく伝承されているようで、太陽病から厥陰病に至る一本の流れに沿って読んで行けば何とか理解できましたが、『金匱要略』のほうは一条一条が独立して存在している感じでした。原典の伝承も不完全なようで、条文の構成も整っておらず、脱落や省略されたと思われる部分も多く、一読しても意味不明な箇所も少なくありません。条文をただ現代の言葉に置き換えてみても、意味不明な点はそのままで、単なる現代語訳は試みてもあまり意味がありません。
 結局、『金匱要略』に盛られた理論の内容は、『内経』(『素問』『霊枢』)および本草の知識を基礎に『傷寒論』で学習した成果を参考にしながら、自分で一条一条理解してゆく他はないようです。また大部分の条文はそれぞれ証候に対応する処方が述べられています。それらのなかには一見複雑な証候にみえても本治を行わせる条があるかと思えば、一方ではまず標治を先行させた後、本治に取り掛からせる場合もあります。また同病異治・異病同治の実例も随所に述べられており、読み進むうちに、単純ではない弁証論治の実際を教えられます。同書こそまさに『金匱要略』という書名がぴったりな臨床医学の貴重な経典であると、今さらながら痛感させられました。
 『傷寒論』も『金匱要略』も書かれてから二千年余も経っているので、多くの人びとがいろいろなことを今までに述べてきましたが、今回はそのことにはほとんど触れず、各条ごとに、自分が理解できて納得したことだけを書き連ねてみました。
 今回、本書が出版されるに当たっては、東洋学術出版社の井ノ上匠社長のお計らいと、編集を担当してくださった森由紀さん、原稿を校正してくださった漢方三考塾の須賀久美子さんに多大なご尽力をいただきましたことを心から感謝いたします。この本が少しでも皆様のお役に立ち、いつまでも可愛がっていただけるように願っています。


二〇一六年 立春の日 東京虎ノ門の寓居にて
髙山 宏世



『金匱要略も読もう』 凡例

凡 例


一.本書の内容
 本書はいまから『金匱要略』を学習しようとしている人はもちろん、『傷寒論』と『金匱要略』はあくまでも一体不可分のもので、両者は同時に学習すべきだと考えている人のご要望にも添えるように、前に出版した『傷寒論を読もう』(髙山宏世、東洋学術出版社、二〇〇八年)の続篇あるいは姉妹篇として、新たに執筆・編集したものである。
 内容は臓腑経絡先後病脈証第一より婦人雑病脈証并治第二十二まで、全二十二篇、四百三十八箇条である。 
 従来の参考書では後世の衍文として省略されがちであった条文や、附方も収録した。


二.原 典
 『金匱要略』の条文および番号は日本漢方協会学術部編『傷寒雑病論』(『傷寒論』『金匱要略』)三訂版(東洋学術出版社、二〇〇〇年)に拠った。
 各条文は『傷寒論を読もう』と同じ基準に従い、仮名混じりの読み下し文とし、読み方・句読点・段落などについては必ずしも従来の参考書のそれには捉われず、一読して意味が取りやすい平易な文章となるように心がけた。常用漢字がある漢字は常用漢字を用いた。
 なお、原典の明らかな誤りと思われる箇所については、『善本翻刻 傷寒論・金匱要略』(日本東洋医学会、二〇〇九年)を参考に適宜修正を加えた。


三.各篇の構成 
 各篇の冒頭に、その篇の内容を条文番号に従って短くまとめ、各条文に書かれている内容があらかじめわかるようにした。


四.使用漢字
 条文の読み下し文、および解説にはなるべく原典の文字を用いたが、読みやすさを考慮して常用漢字やよく馴染んだ漢字に改めた。


五.処方図解 
 『傷寒論を読もう』で図解に示した処方は除き、『金匱要略』のなかから繁用される五十処方を選び、処方の要点を一頁の図解にまとめ、挿入した。
 1、方意 その処方の性質・特徴あるいは主治する病態の病理機序などを
       要約した。
 2、方証 証候と同義で、その処方が用いられるべき症状・腹証・脈・舌の
       所見などを記した。
       適応証を鑑別するうえでのキーワードを「弁証の要点」として
       箇条書きにして示した。 
 3、方解 処方の君臣佐使と、現代に用いられている標準的分量や、
       構成生薬の性味や薬効などを記した。
 4、臨床応用 その処方が臨床の場でどのような状況や疾病で
          用いられるか、その一端をあげた。


六.各篇の総括  
 各篇の最後に、必ずしも条文番号の順には捉われず、その篇の内容を整理・要約して理解の便をはかった。

2021年11月19日

『中国傷寒論講義』まえがき

 
 
まえがき
 
 
 中国教育部と中国中医薬管理局は中医教育推進のため,基礎諸科目の講義(各科目は約50分の講義で計80回前後から成る)の映像教材を作成した。各教科には中国全土からその道の第一人者が選ばれ,『傷寒論』は北京中医薬大学の郝万山教授が担当された。
 映像教材が完成して数年後,映像教材をもとに,講義者自身の加筆訂正などを経て,『講稿』シリーズと命名されて人民衛生出版社から発刊された。
 この度出版される本書は,上記の『郝万山傷寒論講稿』(人民衛生出版社,2008年)をもとに,日本の読者向けに大幅に加筆したものだ。収録の条文には,すべて訓読と現代語訳を付けた(多くは『現代語訳・宋本傷寒論』(東洋学術出版社,2000年)から引用したが,解釈が異なる場合は,これを反映させた)。また,郝先生講義の上記映像資料からも,参考資料として多くを引用した(本文中では「ビデオ教材より」と明記)。その他にも,興味ある資料を多く追加した。
 
本書の特徴:
1.そもそも『傷寒論』は,『傷寒雑病論』として張仲景によって著されたが,その伝承の過程で『傷寒論』へと,その名前と内容とを変化させた。『傷寒論』中になぜ「雑病」の内容も含まれているのか,その理由を詳述している。
2.全56条から成る「厥陰病篇」には,もともと条文はわずか4条しかなかった。残りの52条文は,その後に続く「厥利嘔噦篇」の条文である。現行の『傷寒
論』では,この「厥利嘔噦篇」の篇名が脱落し,元来ここにあった条文は前の
「厥陰病篇」に移行・編入された。このことが,厥陰病を理解困難にしている一因だと指摘している。
3.王叔和が張仲景の「直弟子」である説が紹介されている。
4.成無己が注釈した「項背強(こわば)ること𠘧𠘧(しゅ しゅ)」の誤りを指摘・修正している。
5.「蒸蒸と発熱」,「翕翕と発熱」,「淅淅と悪寒」など,『傷寒論』中に頻用される「連綿詞」は「音」だけを使用しており,字義とは関係ないことを説明している。
6.「満」の字について,「腹満」はそのままでよいが,「胸満」は「胸悶」と読み換える必要があることを指摘している。
7.仲景は『傷寒論』の中で,「中風」と「傷寒」をそれほど厳密に区別して使用しているわけではない。同様に本書において郝先生も,「風邪」「寒邪」
「風寒の邪」の区別もそれほど厳密ではない。
8.当時,白虎加人参湯に配合された人参は,現在の人参とは別物であった。50年前に絶滅した山西省上党地区に産した「上党人参」が,当時の人参に近いと考えられる,とのこと。
9.「煩躁」と「躁煩」とは,病機・症状が異なることを説明している。
10.少陽病の「往来寒熱」の病機について「分争」の点から説明している。これに関しては,郝先生の師である劉渡舟教授の見解を継承しているが,別の解釈に至っている。また,少陽病に現れる発熱は,「経証」で出現する往来寒熱だけでなく,「腑証」の場合は持続的な発熱が現れることを説明している。さらに「少陽腑実証」の概念を提起している。
11.『傷寒論』の傷寒は6日,中風は7日で治癒するという記載にもとづき,これを発展させ,動物の体内時計の問題に言及している。
12.従来は「太陽と少陽の合病」とみなされている柴胡桂枝湯証に対し,郝先生は「太陽・少陽・太陰の同病」との自説を紹介している。
13.太陽病に消化器症状が伴う場合の病機,「太陽と陽明の合病で下利する」場合の病機について,明解な説明がある。
 
 以上,本書に述べられた,従来の『傷寒論』解説書には見られない話題のいくつかを列挙した。『傷寒論』学習者にとって,興味津々の見解を満載した本書は,きっと読者の知的好奇心を満たすものと確信する。


生島 忍



2021年12月03日

『長沢道寿 漢方処方の奥義 ~現代語訳『医方口訣集』~』はじめに

 
 
はじめに
 
 
 本書は『医方口訣集』(1672年刊)の千福流の現代語訳です。この口訣集には全部で164の処方解説があります。しかし,下巻の丸剤処方の部になると,工夫を凝らして併用などしてもエキス剤で作成できないものばかりで,この本では,これらの処方は思い切って割愛しました。つまり,保険収載エキス製剤か,それに近似する方剤か,あるいは,併用で簡単に作成可能な処方のみを抜粋しています。ただし,長沢道寿(?-1637)は本書の流れによって漢方概念を解説しようとしている部分もあるので,そこの処方は使用不能であっても掲載しました。
 道寿は日本漢方の歴史で考えると,後世(方)派に属します。すなわち,宋・金元・明代の処方を重視しているグループになります。書物では『和剤局方』(宋政府官製),『脾胃論』『内外傷弁惑論』(李東垣〈1180-1251〉),『格致余論』(朱丹渓〈1281-1358〉),『万病回春』(龔廷賢〈16-17世紀〉),『保嬰撮要』(薛鎧・薛己〈1486?-1558〉),『医方考』(呉崑〈1551-1620?〉)などが重視されます。
 ところで,現在の書店にある医学書コーナーには『傷寒論』『金匱要略』,すなわち,日本漢方の歴史上の分類によれば「古方」に関する書籍は多く見られますが,上記した「後世方」の原書・解説書はほとんど目にしません。一方,第3回NDBオープンデータ H28年度レセプト情報による「漢方製剤の医薬品処方量ランキング(エキス顆粒)」を参考にすると,そのベスト10は,1位から大建中湯(古),芍薬甘草湯(古),抑肝散(後),葛根湯(古),牛車腎気丸(後),六君子湯(後),防風通聖散(後),当帰芍薬散(古),加味逍遙散(後),補中益気湯(後),(古:古方,後:後世方)となっており,10位内に後世方の6処方がランクインしています(https://p-rank.462d.com/520/)。つまり,多忙な医師は頻用6処方を含め,後世方のオフィシャル版の取扱説明書を読まずに,添付文書の効能・効果を唯一の頼りとする「病名漢方」で処方する状態なのです。西洋医学では基礎医学を踏まえて治療薬を選定するのが常道ですが,後世方においては,基礎医学に相当する古典が蔑ろにされているといえるでしょう。この状況下において,後世方の漢方薬に関して「基礎医学から臨床のtipsまで」を簡単に解説してくれている書物が渇望されます。それが『医方口訣集』なのです。
 ところで,道寿は後世方派なので古方を蔑ろにしているでしょうか? これは「否」です。本書を読めばすぐに理解されることですが,古方の著者である張仲景を尊敬し,彼の原典を引用して古方の解説も十分に加えています。この立脚点は,江戸時代後半に古方と後世方の長所を取り上げて治療する「折衷派」に近似しています。もし「古方・後世方の両者を活かして,流派を越えて人命を救う」というのが「折衷派の定義」であるならば,道寿は「折衷派の先駆け」ではないかと思っています。
 このような柔軟な頭脳を持つ道寿ですが,彼の能力はそれだけではありません。所々にユーモアたっぷりに漢方初学者を笑わせながら指導してくれる姿も見られます。読者が道寿のファンになること間違いなし,と思っています。
 なお,「割愛された処方についても読みたい」という意欲的な方は,『医方口訣集』の原書で読むことをお薦めします。原書は,「京都大学貴重資料アーカイブ」のWEBサイト(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/)に入り,検索で書名を入力すると無料で閲覧可能です。このサイトは無料ダウンロードも可能で,しかも,講演スライドなどへの2次利用が可能となっています。
 漢方古典を直接読むことは手間ですが,読解できたときはクイズが解けたみたいで楽しいです。ぜひ,この原書で古典の読解練習をしてみてください。返り点や再読文字など,「漢文」の基本を復習したいときはYouTubeの漢文講座を利用すると便利です。予備校などの有名講師の授業は抜群です。しかも,受験生に戻ったような感じがして懐かしいです。最後に,高校漢文の学習項目にない重要なこととして,送りがなで,①「合字(ごうじ)」が頻用されること,②「寸」が「時(とき)」の略字であること,③「子」は「ネ」であることを頭に入れておいてください。
 
本書の使い方
 
 『医方口訣集』における漢方処方の収載順序は,(1)長沢道寿の好み,(2)読者の漢方医学学習を向上しやすくするための2要因で決められたものと想像します。したがって,時間的に余裕のある方は,最初の二陳湯から読み進めていくことをお薦めします。なお,一瞥すればわかりますが,2要因の影響で初めのほうに収載される薬方は説明が詳しく,しかも長文になっています。解説内容は引用した古典名著を道寿が十分に咀嚼してくれたものになっています。しかし,簡明に記載されているとはいえ,『黄帝内経』の『素問』(前漢時代)・金元四大家の学説などの引用が多く,漢方初学者にとっては読書スピードが落ちるものと考えます。
 千福は,最初は難解なところを飛ばして読めばよいと考えます。漢方医学は学習が進むと,文献学習に加えて臨床経験からも自然と意味がわかるようになるからです。しかし,解説文中の含蓄を早く知りたいと感じる初学者もいることでしょう。そのため,本書を読むときに便利と考える「読解のための基礎知識」を千福がまとめてみました。時々,このページを参考にして読んでみてください。なお,この「基礎知識」なるものを漢方中級者以上の方が読まれると,一笑に付されるかもしれません。千福の「方便」と思ってお許しください。


編訳者



『長沢道寿 漢方処方の奥義 ~現代語訳『医方口訣集』~』凡例

 
 
凡 例
 
 
一.本書は,長沢道寿編集,中山三柳新増の『新増愚案口訣集』三巻(1672年刊)の千福流現代語訳である。
二.底本は,京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/)収載の『新増愚案口訣集』(京都大学附属図書館所蔵)を使用した。
三.『医方口訣集』の原著は,長沢道寿(?~1637)『古方愚案口訣集』一巻(刊年不明)で,これを弟子の中山三柳(1614-1684)が増補し『新増愚案口訣集』三巻(1672年刊)となり,さらに北山友松子(?-1701)が補注し『増広医方口訣集』三巻(1681年刊)となった。
四.本書では,『新増愚案口訣集』に収載された全164処方のうち,保険収載エキス製剤かそれに近似する処方,あるいは併用で再現できる現在の日本で応用可能な処方を中心に60処方を収載している。
五.巻頭に『医方口訣集』を読解するために便利と思われる基礎知識をまとめた。
六.各処方の解説中,罫線で囲んだ「効能と証」(出典,効能又は効果,証に関わる情報)および組成は,株式会社ツムラ発行の手帳『ツムラ医療用漢方製剤』を参考にした。〔 〕の数字は製品番号を示す。
七.巻末の附録に,原著(『新増愚案口訣集』)収載の処方の一覧および医療用漢方製剤の一覧を附した。
 
 

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