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2006年11月 アーカイブ

2006年11月16日

中医食療方-病気に効く薬膳

序文

 中医食療は中医学の重要な構成要素であり、長い歴史をもっています。
 二千年以上も前の中国の古籍『周礼』の中には、「食医」に関する記述があり、これによれば「食医」がもっぱら帝王の健康を守る配膳を行っていたことが記されています。唐代の孫思著の『千金要方』食治にも、食療によって病を治す者こそがよい医者であると書かれています。
 また、『黄帝内経』には健康維持のためには人体内の「陰平陽秘」が必要だと書かれていますが、中医食療もまた、陰陽の平衡を調節することを重視しています。
 薬膳とは、中医理論を基礎とする弁証に従って献立を立て調理することですが、薬物的な効能をもつ特殊な加工食品を意味することもあります。薬膳は薬物の効能と食物の味をうまく結びつけて健康維持に役立てることができるだけでなく、病気を治療することもできます。つまり、飲食と医薬はお互いにその力を借り合い、助け合うといった特徴があります。
 現代においても臨床上で、多くの食療方が健康を増進させ、病気に対する免疫力を高め、老化を防止し、回復力を高めるといった働きをもつことが証明され、病気の治療や治療の補助としてすでに役立っています。
 薬物の副作用や、薬原性の疾病が増え続けるなかで、多くの人々が「自然回帰」の生活を理想と考えるようになりました。食療方で用いられる生薬は、作用が穏やかで不快な味が少なく、長期にわたって摂取しても安全な天然物質です。一日三回の食事で、健康の保持・増進、疾病治療を行うことは、現代人の養生保健の方法として最適だといえます。
 本書『中医食療方』は中医学、中薬学、中薬炮製学、調理学、営養学を一体化させた著作です。その内容は広く豊富で、正確な中医理論によって分析され、中医弁証による疾病の分型にも合理性があります。体質、性別、年齢、疾病証候、症状、さらに癌の場合には進行状態の違いなども考慮に入れたうえで弁証を行い、さまざまな食療方を紹介しています。また、実際の調理にも身近な物を多く用い、作り方も簡単で、わかりやすく学びやすく実用的です。それぞれの体に合わせた食療方は、健康に資するのみならず、口福ももたらします。この本は多くの病院や家庭において、頼りになる食医や中医営養師となることでしょう。私は心からこの本の誕生を祝賀し、この本が医療従事者や患者をはじめ、多くの人々の福音となることを確信しております。

北京中医薬大学
廬 長 慶


はじめに

  「すべての食べ物に薬効がある」
 これが薬膳の基本的な考え方です。普段食べているもの、豚肉や白菜、キャベツにもみな薬効があるという考えです。また煎じ薬として使われる生薬のなかにも「食べられる」ものがあります。
 そもそも「薬食同源」と言いますが、「薬」は薬効の高いもの、「食」とは食べておいしいものか、せめてまずくないものであると筆者は考えています。とすると、おいしくて(まずくなくて)しかも薬効の高いものが食養や食療には最適であるということになります。実際、中国の関連文献にあるレシピには、このような食材・薬材が多く使われています。
 薬膳(中医営養学)は中医学の理論を基礎としています。この本の中にも多くの専門用語が出てきます。一見難しそうですが、中医学の理論を理解することで、薬膳を幅広く応用することが可能となります。湯液や鍼灸などの他の療法と同じ考え方で併用することも可能となるのです。
 中医学では証によって治療方法が決まりますが、薬膳の場合も同じです。症状や病気の種類が違っていても証が同じであれば、同じ薬膳を使うことができます。また、証に関係なく、ある症状や病気にとくに効果があるという食材もあります。
 この本には、中国の飲食養生法や飲食療法に関する数々の古典、および近年出版された多くの書籍を参考に、薬効の高い食材、おいしい薬材を多く使った食養・食療レシピを載せました。ただし、原典のレシピを尊重しながらも、現代の日本の食生活に合うように改良を加えています。日本ではなじみのない、手に入りにくいものは採用していませんが、なかには瑰花、山子、仏手柑など日本ではまだ一般的ではないけれども、薬効や使いやすさから是非普及させたいと思うものはあえて使っています。これらは生薬を取り扱ってる薬局や中華食材を扱っている商店で手に入ります。 
 分量についてはおかず類は4人分を目安に、お粥・飲料類は1人分を目安にしていますので適宜加減してください。
 また、他の症状や病名の項の同じ証のレシピも参考にできるよう、それぞれの項に参照頁を示しています。

瀬 尾 港 二

現代語訳◎黄帝内経素問 全3巻



 中国の医学は,長い間の実践をへて,豊富な経験を積み重ね,独特な理論体系を創りあげた。この理論体系は,後代における中医学の学術発展の基礎であり,その中でも,特に人体の生理・病理現象を解釈している陰陽五行説と,人体の内外の環境を統一的に説明している「天人相応」という有機体的生命観とは,臨床医学の上で,終始,指導的役割を果たしてきた。中医学の経典である『黄帝内経』は,中医理論体系の源泉であり,陰陽五行説を用いて人体の生理・病理・診断・治療原則を解釈し,さらに「天人相応」の有機体的生命観によって,人体内外の環境を統一する規範を説明している。そのため,この書は中医学を学習するための必読書となっている。ただし,この書の語意はかなり深遠なので,初学者には,やや困難なところがある。そこで現代語による訳と解釈を加えて,学習者が読解しやすくすることは,大変重要な意義のあることである。
 この『黄帝内経素問訳釈』は,我々の医経訳釈作業のひとつである。原文は基本的に王冰次注本を底本とし,部分的な語句の上では『黄帝内経太素』,『甲乙経』,『新校正』本,および呉崑,馬蒔,張景岳,張志聡,高士宗などの注本を参考にして,校訂してある。また「刺法論」と「本病論」の2つの遺篇を,注本にもとづいて補入し,巻末に加えて研究・参考の用に供した。
 本書は我々のグループと,前後3期の医科研修斑,教授グループの人々によって,共同で編集・著述されたものである。1956年の冬に初稿を完成し,本校の教授・学生,および各地の人々に沢山の貴重な意見をいただいて,1957年に第1次の修正を行った。このたび,この第1次修正版をもととしてさらに改訂を加え出版して,中医学の学習と教授,および中医研究にたずさわる人々のために,参考資料を提供しようとするものである。とはいえ我々の力量のゆえに,内容の解釈の上で錯誤や欠点が必ずや多いことと思う。しかしながら我々はこれを1つの端緒とみなし,今後とも絶えず修正を加えて,質を高めていくつもりである。将来,修正にあたって参考とするために,読者諸賢が貴重な改善意見と批評を寄せられることを希望する。我々はそれを熱烈に歓迎する。

南京中医学院医経教研組
1958年11月


第2版前言

 本書が1959年6月に出版されてから,すでに20年になる。このたび,多くの読者の要望に答えて,再版の運びとなった。再版するにあたって王新華が本書に全面的な修正を加えた。体裁の上では,「詞釈」とあったものを「注釈」と改め,原文については再度照合し,少数の誤りを正した。「解題」と「本篇の要点」などの内容では,必要な修正を行い,現代語訳の語句と文字について修辞を加え,句読点については,かなり多くの改訂を行った。
 第1版に比べて質量ともに向上していることを願うものである。ただし時間と我々の力量の不足により,誤りと欠点はまぬがれがたい。読者の批判と批正を歓迎するものである。

編 者
1979年8月


監訳者のことば

  『黄帝内経素問』,略して『素問』と呼び慣わされているこの書ほど,今日,さまざまな人によって取り上げられることの多い古典は,なかなかないのではないだろうか。中医学や漢方医学・薬学を学ぶ人々がこの書を読むのは,最も古く,最も根本的な医学経典である以上,当然のことだが,最近では,こうした専門家以外の人々が,この何千年も前から伝えられた書物のことを,熱心に語りはじめている。
 その中には,近現代の医療に不信を抱いて,身近な伝統医学である中医学や漢方を学びはじめ,その原点としこの書を知った人もいる。また,医療や健康も含めた,等身大の人間を考えるための,全く新しい思考方法を探し求めた末に,ひとつらなりのシステムとして人をとらえるこの書の思想に魅せられた人々もいる。物質の世界を極限まで追ってみた末に,それが「こころ」と不可分な世界であることを認識し,そうした「こころ」の領域を扱いうるような「医学の知」こそ,来たるべき未来社会を開くものだとして,この書物に注目している人々もいる。更に,言葉ではなく,身体によって確め,知りうるさまざまな世界を探った末に,そうした知が集積されているこの書の「言葉」に,再び戻ってみた人さえいるのである。
 こうした現状にもかかわらず,この書物を最後まで読み通した人の数は,おそらくさほど多くはない。その理由はいくつか挙げられるが,なんといっても大きいのは,この書が有する技術の書特有の難解さだろう。伝統技術の書は,技術が変わってゆくにつれて補われたり改められたりするため,単なる古典としての難しさの上に,謎のようになってしまった古い技術特有の用語を解明するという仕事が加わるからである。したがって単に中国の古典を学んだだけでは,この書を読むことは難しいし,同様に,単に現代の中医学を学んだだけでは,この書を理解することはおぼつかない。
 『素問』を本当に読もうと思うなら,まず必要なのは,『素問』が書かれた当時の言語と医学の知識である。前者は古典学によってある程度修得可能だが,後者は実のところとても学びにくい。『素問』の原資料が書かれたであろう前漢中期位までの医学を知る材料が,ほとんどないからである。このごろ出土した資料の内には,これを補うものもあるが,残念ながらこの時代最高の医学をカルテの形で残してくれた『史記』の倉公伝を上回るレベルのものは,まだ発見されていない。そして,その肝腎の倉公伝の記述が,とてもばくぜんとしたものであるため,私達は結局『素問』を読むためにも倉公伝を読むためにも,最終的には,『素問』に帰っていかざるをえないのである。
 『素問』によって『素問』を読もうとする上で,頼りになるのは歴代の注釈である。そこには,少なくともその注釈者の時代まで伝えられていた医学知識にもとづく『素問』の読み方が書いてあるからだ。だが,その頼り方には,2つの立場がある。その1は,ひとつの注釈のみに依拠して,その注釈者が考えた論理的整合性と,その注釈者の時代の医学に従おうとする立場である。その2は,歴代の諸注釈の中から,最もふさわしいと思われるものを,章句ごとに選んでゆく立場である。前者は,古典学の厳密さを考えれば,最上の方法だが,現代中医学にまでつながる『素問』の意味を探ろうとすれば,各時代ごとの注釈にもとづいて,いく通りもの『素問』読解を試み,訳を作らねばならない。そこで一般には,後者の立場に立ってさまざまな注釈の善を採りつつ,独自の読解をこころみることになる。

 本訳書は,この後者の立場に立って編まれた現代中国の『素問』訳注書の内から,最もコンパクトで,内容的にもすぐれた書として定評のある『黄帝内経素問訳釈』(上海科学技術出版社)を翻訳し,書き下し文を付したものである。この種の書としては,他に『黄帝内経素問校釈』(人民衛生出版社)と『黄帝内経素問校注語釈』(天津科学技術出版社)の2書が著名だが,前者はコンパクトな書とするには大部すぎ,後者は古典学的校注に優れているものの,訳が簡単にすぎるうらみがある。更に前者は,大部であるため,解説の詳しさにおいて他を抜いているけれども,内容的には,よりコンパクトな本訳書の原本と較べると一長一短であるところも多い。注目を集めながら,ごく少数の人々にしか読まれていない『素問』を,私達共有の財産にすべく翻訳にとりかかるにあたって,原訳書を選んだのは,こうした事情を勘案してのことである。厳密な古典学の立場からすると,典故の選択に問題があったり,いささか訳しすぎていると思われるところがあるかもしれないが,前述のような技術の書の性格からすれば,これも意味を明確にするためのひとつの過度的過程として了解していただければと思う。
  『素問』という書物の成立事情については,分からないことだらけである。この書のもとになった『黄帝内経』という書物が,紀元前86年頃から紀元前26 年までの間に,いくつかの医学書をまとめる形で改訂・編纂(最終的な編纂者は李柱国という宮廷医)されたことは確かである。だが,その後,誰が,いつ,この『黄帝内経』をもとに,『素問』という書物を再編纂したのかということになると,私達はほとんど資料を持っていない。『甲乙経』やいくつかの零細な資料から,『黄帝内経』がその編纂から200年も経たない内に失われ,代わってその再編纂書とみなされる『素問』と『鍼経』(『九巻』・『九霊』などとも呼ばれる,今の『霊枢』)という2部の書が流布していたことを知りうるのみである。
 この書の最も早い注釈は,斉・梁頃(5世紀末~6世紀初)に,全元起という人によって著されている。この注釈は12世紀初に失われてしまったが,北宋の医書校訂出版事業の際の校訂文(『新校正』)に大量に引用されているので,大まかな内容と,篇章の構成を知ることができる(全元起本巻目表参照)。これと前後して,皇甫謐の『甲乙経』(3世紀中葉),楊上善の『黄帝内経太素』(7世紀中葉)という2部の再編纂書も現れており(前者は『素問』・『鍼経』・『明堂』,後者は『素問』・『鍼経』を再編纂したもの),『素問』への関心が絶えることなく続いていたことを窺わせる。ただ,原書の内の第7巻は,梁頃までには失われてしまったようである。現存している『素問』のテクストは,いずれも中唐の王冰が著した注釈書にもとづいている。この注釈書は,今日「運気七篇」の名で知られている長大な篇章を,失われた第七巻であると称して付加したものである。この間の事情については,本訳書に新たに付した北宋の林億らの序を参照してほしい。
 王冰が付加した運気七論は,中国の清朝や日本の江戸中・末期の復古考証派の医家によって,鬼子のように取り扱われたけれども,中唐以降,現代中医学に至る医学の展開の上では,とても大切な役割りを果たしている。「弁証」と呼ばれる中国伝統医学独特の方法論が,高度に発展するための基本的な枠組みが,そこに説かれているからである。『素問』の注釈は,元から明朝にかけて数多く現れるが,その大部分のものが,多かれ少なかれ運気論の影響を受けているのも,無理からぬことなのである。もちろんなかには,運気論によって解釈すべきでない古い篇章までも,運気論によって解釈する注釈も多い。そうした注釈については,本訳書の訳注のところで注意を促しておいたが,一方で現代中国の弁証が,こうした「古い篇章の運気論的解釈」にもとづく場合もあることを考えれば,こうした誤った解釈が果たしてきた,あるいは果たしつつある役割りというものも,無視してはならないはずである。
 視点を変えて,現代中医学がその基礎に置いている「伝統医学」とは何か,という方向から『素問』を読むとすれば,むしろこうした明清の注釈の方にこそ,私達は注意を向けるべきなのかもしれない。本書も含めた現代中国の『素問』訳注書が,多く明清の注釈に依拠しているのは,もちろんそれらが代表的な注釈だということもあるが,ひとつにはこうした現代中医学に連なる「伝統医学」の問題があるからである。その意味では,現代中医学を学ぶ人達にとって,本訳書を読むことは,単なるルーツ探しを越えて,自分達の学んだ現代中医学のアイデンティティを知ることにもつながってくるはずである。
  『素問』の全訳書として,現在私達が日本で入手できるのは,柴崎保三氏の膨大な労作『黄帝内経素問霊枢』と,小曽戸丈夫氏の達意の書『意釈黄帝内経素問』だけである。前者は余りにも大部で個人では入手しづらい上に,少し解釈が細部に入り込んで全体が見通しにくい。後者は,古典学的見地からもよく考え尽くされた意釈で,全体を見通しやすいのだが,注釈が省かれているため(これはもちろん全体を見通す上ではすばらしい長所である),さまざまな立場から『素問』を客観的に考えてゆくための材料に欠けるところがある。前者の扱いづらさと細部への立ち入りを避けつつ,後者に欠けていた材料をも補い,全体を見通しやすく,コンパクトなものにと心がけて訳したつもりであるが,原書が有していたさまざまな時代的,政治的制約や,訳者の力量不足,全体の統一の不徹底などから,誤りも多いことと思われる。博雅の士の示教を得ることができれば幸いである。

追記 本訳完成後,原訳書第3版が届けられた。本文はあまり第2版と変わらないが,注の典故などにかなりの改善が見られる。時間の制約でその成果を摂り入れることができなかったことを遺憾に思う。

石 田 秀 実

2006年11月17日

中医基本用語辞典

序文(抜粋)
 
 私は30年余りにわたって,国内外で中医学の教学および臨床に携わってきた。その経験のなかで感じたのは,正確に中医学用語を理解することが,中医学を習得・運用する鍵であり,前提であるということである。そこで,伝統医学を広く発揚し,国内外の中医初学者の切実なる要望に応えるため,本書を出版すべく,中医学の教授および助教授・講師によって,『中医基本用語辞典』編集チームを結成した。
 編集過程では,まず使用頻度の高さを重視し,代表的な用語を抽出し,項目の選定を行った。解説文は可能な限り正確に,わかりやすくし,比喩や豊富な図表を用いている。さらに見出し項目に含まれる難解な字については,簡単な解釈を加えるようにしている。また,特に互いに関連する項目の鑑別・比較には注意を払い,その相違点を明らかにし,理解の助けとしている。本書は,基礎理論の専門家や中医初学者である各国留学生の意見を何度も聴取し,内容を吟味したうえで脱稿したものである。より多くの中医愛好者および志ある中医初学者の,良き友・良き師になることを期待している。 私は中医初学者が一心に研鑽し,深く臨床の実践に身を投じ,中医学の神髄に触れ,伝統医学にいっそうの輝きを与え,人類に貢献することを望む。

天津中医薬研究院 名誉院長
中国中医薬管理局重点学科学術 主任教授
高 金亮

[図でわかる] 中医針灸治療のプロセス


 
 本書との出会いはもう10年程前になる。はじめて手にしたときは,「こんな便利なテキストがあれば,もっと日本で中医鍼灸が普及するだろう!」と感動した。一般に中医学書は系統的にまとめられており,最初からきちんと学習するものにとっては非常にわかりやすい。しかし,いざ自分で勉強しようと思っても,どこからどう学んでよいか戸惑う場合が少なくない。そんなとき,本書では症状が最初に記述され,その中医学的病理,弁病または弁証,病証,配穴,手技等が簡明に表記されていた。本書に感動した理由は,これならば今まで中医学を勉強したことはないけれども,日常臨床のなかで中医学的な治療方法を参考・応用にする者にとっては,うってつけの書になると思われたからである。
 当初,教室内で担当を決めてゼミ生も含めて輪読を始め,それぞれの症候の日本語訳を行った。その結果をふまえて,できればテキストとして発刊してはどうかと考えて,東洋学術出版社の山本勝曠社長に相談したところ実施しようということになった。   ところで,本書に収録された症候は中国で一般的な愁訴を中心にまとめられたものであり,必ずしも日本の現状とはそぐわない面も多々ある。そこで,なるべく日本の現状に即した形で取捨選択させていただいた。したがって,原書と比較するときに若干の欠落があることをお断りしたい。
 訳については,できるだけ理解しやすいように配慮したつもりであるが,中医学の用語についてはすべてを訳すことはしていない。しかし,わかりにくいであろう用語については,注釈を巻末に付して便宜を図った。
 さらに,治療法や配穴等,実際の臨床経験をもとにして,独断と偏見になるかも知れないが,訳者の解説を加えたので参考にしていただければ幸いである。
 今や世界的に注目を集める鍼灸であるが,疼痛や運動器疾患が最適応というのではなく,あらゆる愁訴や疾患,また,治未病といった観点から今後ますますその真価が問われることになると思われる。そのときに求められるのは,圧痛点に対して鍼や灸治療を施す方法ではなく,心と身体を含む全身(人間全体)を東洋医学的な観点から捉え調整するという東洋医学本来の鍼灸治療のはずである。
 本書は,そういった素晴らしい世界に導くための導入書として役立てていただければ望外の幸せである。手技の問題や弁証の荒さ,弁病と弁証の混在など,改善すべき問題が多いことは事実である。しかし,中医学,なかでも最も特徴的な臓腑弁証の初歩の仕組みを学ぶには絶好の書と信じている。
 諸賢のご批判を乞いたい。

明治鍼灸大学東洋医学基礎教室
教授 篠原 昭二
平成18年4月

[症例から学ぶ]中医針灸治療

出版にあたって

 中医学は中華民族の至宝であり,広くかつ深い,悠久の歴史がある。中医教育は,数千年の時代の移り変わりを経て,新中国が成立してからは,新しい中医教育体制が確立され,絶えず完全であるように求められてきているので,いよいよ目をみはるような光を放っている。しかしながら,今日の中医教育は,講義内容や方法など多くの面で,時代の要求に合わなくなっている。なかでも,理論教育と臨床の現場とがかみ合わなくなっている点は,特に問題となっている。講義の質を高め,実践教育の環を強化し,理論と臨床現場との連係を促進し,中医教育における症例不足の現状を改善する必要がある。そこで湖南省中医薬学校を筆頭に,山東・安徽・江西・重慶・黒龍江・陝西・湖北・四川・河南など10カ所の全国重点中等中医薬学校および国家中医薬管理局中等中医薬学校からなる連合組織が,国家中医薬管理局科学教育部の関係指導部門と湖南中医学院および湖南科学技術出版社の協力を得て,この中医教育のための症例集を編纂することになったのである。
 症例研究というのは,間接的な臨床実践として,学習者が他人の診療経験をくみ取るのに役立つだけでなく,さらに重要なことは,学習者の臨床における弁証思考能力を培えるということである。本シリーズの症例は,おもに編者と関連する学校の附属医院の長年の臨床症例資料および出版物から選んできたものである。教育上の必要性から,症例の編纂は,中医の教育的特色を考慮し,書式を統一し,特に「考察」を加え,病因病機・疾病の診断および治療のみならず,さらに入念な分析を行い,学習者が書物の知識からの理解を深めることができるようにし,臨床の分析と問題解決の能力を高めることができるようにしてある。本書の症例内容は要点が簡潔で,書式も要領を得ており,実践教育を強化することと,中医理論と臨床実践との結びつきを促進することを目的としている。しかしながら,臨床の正式なカルテとしての書式に依拠してはいない。本書では,名老中医の症例を一部抜粋してあるが,これは,学習者が過去の簡潔な中医症例のなかから,名老中医の臨床経験の緻密な要点を直接くみ取ってもらいたいからである。ここに記載された症例の原作者に対して,心から感謝の意を表明したい。教育上の便宜のために,本書の病症名は原則的に教科書と一致させてあり,また同時に,現在普及が推進されている「中医臨床診療述語」ともできるかぎり統一するように考慮している。
 本シリーズは,中医類書部門の一連の学習指導資料であり,『中医基礎学教学症例精選』『中医内科学教学症例精選』『中医外科学教学症例精選』『中医傷科学教学症例精選』『中医婦人科学教学症例精選』『中医小児科学教学症例精選』『中医五官科学教学症例精選』『中医針灸学教学症例精選』『中医推拿学教学症例精選』の合計9冊からなっている。各書はそれぞれ1~2カ所の学校が中心になって編纂されており,編纂者はいずれも各校の教育現場における第一線の熟練教師があたっており,教育および臨床において豊富な経験をもっている。期間中に何度も稿を改め,できるだけ体裁を整え,内容を正確にし,文字を簡明にし,実際の臨床に合致しているように努めた。
 中医教学症例シリーズを編纂するということは,創造的な仕事であり,中医教育の質と量の充実をはかるうえで一定の役割を果たすであろう。しかしながら,教材をうまく組み合わせて教育のための補助資料として作り上げることは,長期にわたる非常に骨の折れる仕事である。われわれは全国の各中医学院や大学の幅広い教師や学生および本シリーズのすべての読者に対して,貴重な意見を寄せてくれるように心から期待する。そうすればわれわれの仕事の内容はいっそう改善され,中医教育事業にとってもさらに早くまた建設的に貢献することができるであろう。

「中医教学症例叢書」編集委員会
2000年3月


はじめに

  『中医針灸学教学症例精選』は,「中医教学症例叢書」の1つであり,中医の専門分野である針灸学が対応する各種疾病について,針灸学の臨床教育の特徴を考慮して,相応の症例を編纂したものである。針灸学の理論教育と臨床の現場との協調を促すことを目的とし,針灸学の教育上の重要な参考書籍として実用に供しようとするものである。
 症例は全部で127例。針灸が対応する臨床診療範囲が広く,また疾病の種類が多いという特徴から,内科疾病・婦人科疾病・小児科疾病・外科疾病・五官科〔鼻・眼・口唇・舌・耳の5つの器官〕疾病・急症の6種に分類した。その内容は,感冒・中暑・肺咳・哮病・アク逆・胃カン痛・嘔吐・腹痛・泄瀉・痢疾・便秘・脱肛・脇痛・胸痺・心動悸・不眠・癲病・癇病・リュウ閉〔排尿障害〕・遺精・頭痛・眩暈・中風・面風痛・痺病・痿病・腰痛・痛経〔月経痛〕・閉経〔無月経〕・崩漏・帯下・胎位不正・産後腹痛・欠乳・陰挺〔子宮脱〕・不妊・百日咳・疳病・小児驚風・嬰幼児腹瀉・サ腮〔流行性耳下腺炎〕・乳癰・乳癖・エイ気・痔病・腸癰・捻挫・風疹・円形脱毛症・乾癬・天行赤眼〔急性結膜炎〕・針眼〔麦粒腫〕・近視・暴盲〔突然視力が低下,失明する病症〕・聾唖・膿耳〔化膿性中耳炎〕・鼻淵〔副鼻腔炎〕・乳蛾〔扁桃炎〕・喉イン〔喉頭部疾患による失声〕・高熱・痙病・厥病〔突然失神する病症〕・脱病〔陰陽気血の消耗する危急の病症〕など63種類に及んでいる。
 本書の症例は,「臨床資料」と「考察」の2つの部分からなる。「臨床資料」は,患者の経歴・主訴・経過・検査・診断・治法・取穴・操作の順になっており,臨床の操作部分に重点が置かれている。「考察」は,病因・病機・診断・治法・処方解釈の面から,臨床資料に対して,1つ1つ分析を行っており,針灸処方用穴の理論的分析に重点を置いている。これによって,学習者が針灸学の理論に対して理解を深めることができるだけでなく,臨床分析と問題解決の能力を高めて,針灸学の理論的知識と実際の臨床とを結びつけて考えることができるようになる。また,本書ではできるだけ現在の中医針灸科の臨床で使われている用語と検査単位を用いており,学習者が理論的知識と臨床の実際をすみやかに結びつけられるように配慮している。
 本書は,分担して編纂し,全体で持ち寄ってつき合わせるという形で完成した。内科疾病部分は邵湘寧,徐偉輝,婦人科疾病部分は張志忠,小児科疾病部分および急症部分は陳善鑑,外科疾病部分は金暁東,五官科疾病部分は陳美仁がそれぞれ編纂した。編纂過程で,「中医教学病案叢書」編集委員会・湖南省中医薬学校・山東省中医薬学校・湖南科学技術出版社の関係専門家と指導部門の協力と支持を得ることができた。ここに謹んで心から感謝の意を表す。
 中医針灸学教学症例の編集は,今日なお検討段階にあり,編者の経験も不足しており,レベルにも限界がある。本書のなかにも欠点があるかもしれないが,同業の諸氏および読者の方々の貴重なご意見を提出していただいて,再版の折にはさらに完全なものにしたい所存である。

編者
2000年3月

針灸二穴の効能[増訂版]

日本語版序

 家父・呂景山は北京中医学院の第1期卒業生である。早くから北京四大名医の1人の施今墨氏について医学を学び,直接指導を受けた。また兄弟子にあたる名医・祝諶予氏の指導も受け,その理解はさらに深まった。施氏は臨床で処方をするとき,常に2つの生薬をセットで並べて書き,2薬の組み合わせとその応用を暗に示した。2薬を組み合わせることにより,互いに効果を高め合ったり,互いに副作用を抑えて有効な作用だけを残したり,相互作用により特殊な効果を現したりなど,有益な反応がみられる。このように2つの生薬を組み合わせ,何らかの効果を引き出すことを「対薬」という。呂氏は師の志を受け継ぎ,四十数年にわたる臨床経験のなかで,一意専心研究に務め,施氏の用薬の精髄を検証し,施氏の臨床用薬の組み合わせの経験を総括した。さらに,古今の文献を参照し,推敲,修正を繰り返し,『施今墨対薬』を書き上げたのである。
  「穴対」の説は,古にその理論が確立されて以来,各家の医籍では二言三言語られてきたに過ぎない。呂氏は「施氏対薬」の啓発を受けて,この理論を針灸の臨床に応用することを考えた。前人の経験を基礎に,自らの体験を重ね合わせ,本書を著述した。「穴対」は「対穴」ともいい,2つの穴位を配伍,使用する針灸学の一分野である。2穴の組み合わせには,一陰一陽・一臓一腑・一表一裏・一気一血・開闔相済・動静相随・昇降相因・正反相輔などの意味があり,治療効果を高めることを目的に応用される。用穴の基本原則は「精疎」である。つまり,証候にもとづき,精緻な選穴を行い,巧妙に配合することによって,選択的により高い効果を発揮させるのである。 ちっぽけな銀針は,四海を伝わり,国際学術交流の至宝となり,世界中の人々から歓迎されている。このほど,日本の友・東洋学術出版社社長山本勝曠氏の丁重なる要請を受け,翻訳書が貴国で出版されることとなった。本書が,日本の鍼灸師や鍼灸愛好者にとって,「良師たらざるも,益友たらん」ことを願うものである。

呂 玉 娥・呂 運 東・呂 運 権
1997年初秋


自序

 針灸学は中国医薬学の偉大なる宝庫を構成する重要な要素であり,中国人民が長期にわたり疾病と格闘した経験の総括である。祖国の医学遺産を継承・発展させ,針灸の臨床効果を高めるため,臨床常用シュ穴の配伍(組み合わせ)の経験を整理編集したものが本書『針灸対穴臨床経験集』である。
 本書には223対の対穴が収録されている。シュ穴の機能(穴性)および主治から23の大項目に分類し,それぞれの対穴については以下のような形式で説明している。
一.対穴:対穴の組み合わせ。本書で収録している対穴は,前賢がすでに使用したもの,現代において創出されたもの,筆者が臨床経験から体得したものを含む。
二.単穴作用:腧穴個々の意味,作用,主治病,主治証について(別項において説明があるものについてはこれを省略する)。
三.相互作用:中国医学の弁証理論の原則に則った,2つの腧穴を配伍することにより生じる機能,作用について。相輔相成,相反相成,開闔相済,動静相随,昇降相承,正反相輔などの作用がある。
四.主治:対穴の主治病および主治証。つまり,一組の対穴の適応範囲。
五.治療方法:腧穴の針刺方法,一部の腧穴では灸法。治療方法が明記されていないものについては,一般的な治療を行う。
六.経験:前人の経験を例示し,また筆者の経験も紹介する。
 本書は,編集過程において,山西省衛生庁長官および職員から多大なる支持と協力を得た。また,北京針灸学院設立事務所の王居易氏からは資料の提供,中国中医研究院の王雪苔副院長および中国北京国際針灸培訓センターの程農主任からは一部の原稿について教えを受け,また審査閲覧をお願いした。また,わが師である中国医学科学院北京協和医院中医科の祝諶予教授および北京中医学院の楊甲三教授に文章の斧正を請い,序文をお願いした。ここに謹んで感謝の意を表したい。

呂 景 山
1985年元旦




 針灸は中国医薬学の偉大なる宝庫を形成する重要な要素である。遠く6~7世紀,朝鮮,日本に伝わり,16世紀末には東欧にまで伝わり,現在では,ほとんど世界中に行きわたっている。中国医学には,「適用範囲が広い」「効果が速い」「使いやすい」「副作用がない」などの特徴があるため,世界各国で受け入れられたのである。今も多くの学者が,人類の健康により寄与するため,日々研究に取り組んでいる。
 中医の神髄は弁証論治にある。それは針灸も例外ではない。中医各科(内科・婦人科・小児科など)には,理・法・方・薬があり,針灸には,理・法・方・術がある。この原則から離れると,頭が痛ければ頭を治療し,脚が痛ければ脚を治療する「対症療法」に陥ってしまう。弁証論治なくして,期待できる治療効果を収め,医療の水準を絶えず高め,その治療法則を探求することは非常に困難なことである。
 呂景山氏は北京中医学院第一期卒業生である。在学中は,私の助手を務め,のちに施今墨先生について臨床にあたった。彼は勤勉な努力家で研鑽を怠ることはなかった。『施今墨対薬』の奥義に関しては特に理解が深く,施氏の学術思想の啓発のもとで,「一を聞いて十を知る」融通無碍な能力により,これを針灸臨床に応用し成果を収めた。さらに研究を重ね,針灸シュ穴配合の経験を一冊にまとめ上げたのが,まさしく本書『針灸対穴臨床経験集』なのである。
 「対穴」に関する論説は古代より散見されるものの,これまで明確に理論化されたことはなく,ただ,各家の医籍中に二言三言述べられているのみであった。呂景山同志の著作は,大胆な挑戦であり,中医界をもり立て,中国針灸医術の世界的な地位を保つための一臂の力となるであろう。本書が針灸界へ貢献することを祈って序としたい。

祝 諶 予
1985年2月1日北京




 針灸治療は一定の腧穴を通して行われる治療法である。穴を用いるのも中薬を用いるのも道理は同じである。複雑に変化する病状に合わせて,中医理論,特に経絡学説を駆使して弁証立法し,選穴処方するのである。薬物治療では単味薬から複数の薬を同時に用いるようになって方剤学という学問が生じた。もしこれを薬物治療の1つの進歩と捉えるならば,単穴治療が二穴に発展し,さらに系統的な配合原則が形成されるにいたったことも,まさしく針灸治療学の大躍進と捉えることができよう。穴位の配合を通じてこそ,多くの複雑な病証に対応でき,穴位の作用を協調,発揮させてこそ,治療効果を高められるのである。
 古人は穴位の組み合わせに関して工夫と研究を重ねてきた。厳格な規則性と柔軟性のある応用をバランスよく取り入れている。「対穴」とは,針灸臨床で習慣的に用いられてきた一種の配合形式である。『内経』にも少なからず記載がみられる。例えば,同肢本経配穴の魚際と太淵で肺心痛を治療し,同肢表裏経配穴の湧泉と崑崙で陰を治療し,腹背兪募配穴の日月と胆兪で胆虚を治療している。用穴は「精疎」が重要であるといわれる。『霊枢』の「先にその道を得,稀にしてこれを疎にし……」からきていると思われる。「対穴」の応用は,まさしく「先にその道を得」,シュ穴の主治効能に精通することが基礎になり,客観的な症状にもとづいて選穴を絞る必要がある。この方法によらなければ「稀にしてこれを疎に」した有効な治療が不可能となるのである。
 景山医師は優秀な成績で北京中医学院を卒業している。その後は臨床に携わり,研鑽に務め,現在にいたるも決して怠ることはない。臨床では主に針と薬を併用し,高い治療効果を上げている。「対穴」は岐黄(岐伯と黄帝)の時代に種が蒔かれ,現代において実を結ぶこととなった。本書の出版によりわれわれは針灸臨床配穴の専門書を手に入れた。本書は針灸処方の研究にも大いに参考価値がある。ここに謹んで衷心からの祝辞を述べたいと思う。

楊 甲 三
1985年3月16日

針灸二穴の効能[増訂版]

著者略歴

呂 景山(ろ・けいざん)(1934~)
 河南省洛陽偃師県人。1962年度北京中医学院第1期卒業生。北京四大名医・施今墨先生および祝諶予教授に師事した。40年あまり医業に携わり,高い学術水準,豊富な臨床経験を有している。その優れた業績により,1992年に政府より特別報奨金を授与されている。
 山西省中医薬研究院主任医師,山西中医学院教授,山西省針灸研究所所長を歴任。学術面では「施氏対薬」理論を受け継ぎ広め,「針灸穴対」を創始している。著書は『施今墨対薬』『施今墨対薬臨床経験集』(1982年度全国優秀科技図書1等)『針灸対穴臨床経験集』『単穴治病選萃』など10部(約100万字),論文は「従施氏対薬看相反相成之妙用〔施氏対薬より見た相反相成の妙用〕」「同歩行針,対穴配伍」など50余篇(約30万字)。内科,婦人科の治療を得意とし,強直性脊椎炎やアレルギー疾患など,治療や診断の困難な疾患に対しても,優れた手腕を発揮している。


訳者略歴

渡邊 賢一(わたなべ・けんいち)
1965年,大阪府生まれ。
1988年,明治鍼灸大学卒業。
1988年~1990年,北京語言学院に留学。
1990年~1992年,北京中医学院に留学。
帰国後,鍼灸・翻訳業務に従事する。
訳書:『風火痰論』(東洋学術出版社)ほか。

2006年11月18日

中国鍼灸各家学説

はじめに

 国家組織によって編纂・審査された高等中医院校の教材は初版以来すでに二十余年が経過した。その間数次にわたる改定と再版がおこなわれ、中医薬理論の系統的な整理や教育体系の整備、中医学教育の質を高める上で大きな効果をあげている。だが、中医学のたえまない発展によって、現在用いられている教材は現今の教育や臨床、科学研究の要求に答えられなくなっている。
 教材の質を高めて高等中医薬教育の発展を促すために、一九八二年十月に衛生部は南京で全国高等中医院校中医薬教材の編集審査会議を招集した。そこで最初の全国高等中医薬学教材編集審査委員会が成立し、三十二の学科にわたる教材編纂グループが組織された。各科の教学大綱は、新たに改正された中医学、中医薬学、鍼灸それぞれの専門分野ごとの教学計画にもとづいて改訂された。各学科の編纂グループは新たな教学大綱にもとづいて懸命に新教材の編纂を推し進めた。各学科の編纂過程には、衛生部が一九八二年に衡陽で開催した「全国中医学院並びに高等中医教育工作会議」で取り決められた精神が貫かれている。それは、それまでの数版の教材の長所を汲み取り、各地の教育関係者の意見をまとめること。新教材ではできる限り中医理論の科学性、系統性、包括性を保つようにつとめること。理論は実際と関連するという原則を守ること。継承と発展の関係を正しく処理すること。教材内容のレベルについては、それぞれ教育課程の性質と役割をまずおさえ、教育現場の要求に合致し、各専門教科の発展にふさわしいレベルであること。各教科の基礎理論、基本知識、基本技能についてはもれなく記述すること。さらにできるだけ各教科間に重複と食い違いが生じないようにすること、などである。編集委員すべての努力と全国の中医院校の協力によって新教材はつぎつぎと編纂されている。
 本シリーズは、医古文、中国医学史、中医基礎理論、中医診断学、中薬学、方剤学、内経講義、傷寒論講義、金匱要略講義、温病学、中医各家学説、中医内科学、中医外科学、中医小児科学、中医婦人科学、中医眼科学、中医耳鼻咽喉科学、中医傷科学、鍼灸学、経絡学、?穴学、刺灸学、鍼灸治療学、鍼灸医籍選、各家鍼灸学説、推拿学、薬用植物学、中薬鑑定学、中薬炮製学、中薬薬剤学、中薬化学、中薬薬理学など三十二部門にわたっている。そのうち、初めて編纂されるものも少しはあるが、多くの教材はもとの教材、とくに第二版の教材をもとにして内容を充実させ改訂して編纂されている。したがって、この新シリーズの教材にはこれ以前の版に携わった編纂者の成果も含まれているのである。
 教材は専門家を養成し、専門的知識を伝える重要な道具である。したがって教材の質のよしあしは人材の養成に直接影響する。教材の質を高めるためには、つねに内容に検討を加え、修正を施すことが不可欠である。本シリーズの教材にも、不十分なところがあるかもしれない。各地の教育関係者と多くの読者には、実際に使用されて貴重な意見を寄せられることを切に希望する。それらの声は、より高い科学性と、優れた教育効果を備えた教材づくりへの基礎となるであろう。このことは、中国社会主義四つの現代化と中医事業の発展に応える道でもある。

全国高等中医薬教材編纂審査委員会
一九八三年十二月


編纂にあたって

  『各家鍼灸学説』は高等中医院校鍼灸専門課程に新設された教科である。教学大綱が設けられたのも、また教材が作成されたのも初めてであるし、大綱が決定されて後にも教材の校訂が幾度かにわたっておこなわれたので、大綱と教材の内容とは完全に一致していないかもしれない。各院校が教育を進める中で必要に応じて調整されたい。
 本教材はもとの大綱の「附論」に収められていた陳延之、王惟一、許叔微、席弘、陳会、劉瑾、王国瑞、徐鳳、汪機、楊継洲、張介賓、呉亦鼎を「各論」に入れたほか、あらたに巣元方、荘綽、李、鄭宏綱、夏春農を付け加えた。教材には八大流派、四十家の学説とその医学史上の功績、および五部の古代医籍がもたらした鍼灸学上の成果が収載されている。
 本書の総論と附論は江西中医学院の魏稼が担当した。各論部分については、何若愚、竇黙、王国瑞らを上海中医学院の呉紹徳が、張従正らを河南中医学院の邵経明が、徐鳳、汪機、高武、呉亦鼎らを江西中医学院の彭榮が、王執中らを南京中医学院の李鋤が、巣元方、竇材、席弘、陳会、劉瑾、李、楊継洲、鄭宏網、夏春農らを魏稼がそれぞれ執筆した。このほか、湖北中医学院の孫国傑、北京中医学院の耿俊英、浙江嘉興市第一人民医院の盛燮が部分的に草稿を執筆した。各論の初稿が出来上がってから、彭榮がまず修正を加え、最後に魏稼と呉紹徳が全書にわたって修訂と文章の統一をおこない、邵経明および江西中医学院の王建新と謝興生がすべての引用文の校訂および訂正をおこなった。また、本書の完成に当っては中国中医研究院鍼灸研究所の鄭其偉のご支援を得た。
 本教材を審査し決定する会議には、上記の各氏の外に、全国高等医薬院校中医教材編集・校閲委員会副主任委員で南京中医学院教授の邱茂良、上海中医学院教授の裘沛然、上海中医学院副教授の李鼎、浙江中医学院副教授の高鎮伍、陜西中医薬研究院の陳克勤、北京中医学院の徐皖生、原の諸氏に加わっていただいた。
 本教材は、中央衛生部が一九八二年十月に南京で開催した全国高等中医院校教材編纂委員会で決定した精神に則って編集・執筆されたものである。三年余の時間をかけ、三度にわたる原稿審査会議をもち、そのあいだ何度も手直しを加えたが、いたらない点があることと思う。それぞれの学校で使用され、どうか御意見をお寄せいただきたい。今後の完全な教材つくりのための参考にさせていただきたい。

編 者
一九八六年十二月


序言

 各家鍼灸学説は鍼灸医学の新しい研究領域で、歴代の医家、鍼灸家の鍼灸学説やさまざまな流派の学問の研究をテーマとする。
 各家には、中医薬の分野において功績を残した歴代の中医専門家だけではなく、実績を残した鍼灸専門家も当然含まれる。
 学説とは学術的に体系づけられた主張、見解、理論のことである。流派とは、学術上の観点や思想、見解、あるいは主張や風格、傾向および臨床に対する方法が基本的に一致する学者が形成するグループのことである。この学説と流派との間には密接な関係があるので、鍼灸流派も研究テーマの一つとなるのである。
 各家鍼灸学説を学ぶ目的は、つぎの二点にまとめられる。
 一、歴代の医家はどのような鍼灸学術思想と理論を持っていたか、どんな功績を残したのか、その思想的な源はどこにあり、どんな影響を後世に残したのか、またどの流派に属していたのかなどを熟知することによって、学ぶべき理論的知識と基本的技能をよりいっそう豊かにすること。
 二、歴代の医家経験から教訓をくみ取り、それを教育、臨床、研究の参考として役立てること。過去の経験から学んで未来への展望を切り拓くために、先人の成果を今に役立てるという原則に徹することは、鍼灸医学の発展をいっそう加速させる効果があるだろう。
 教科過程で学生に教育しなければならないことは以下の諸点である。
 一、新学説が提唱され新流派が成立したことの持つ意義の重要性を理解すること。
 二、各家の生涯とその著作、学説、学術思想、学術成果などに関する知識を十分に身につけること。
 三、各家の鍼灸学説と流派の誕生、形成、発展や、それらが歴史上に占める地位、はたらき、相互の関係、影響について、全体的に把握し正しく評価すること。
 四、鍼灸医学の発展過程を系統的に理解すること。
 五、仕事に従事する中で多くの優れたものを広範囲に収集し、先人の経験から広く教訓を汲み取る能力を身につけること。
 六、古代の鍼灸文献を探して研究する初歩的な方法も習得すること。

全国高等中医薬教材編纂審査委員会
一九八三年十二月

針灸弁証論治の進め方

原著まえがき

 針灸学は中国伝統医学の宝庫の中の重要な一分野であり,炎黄の子孫が数千年にわたる疾病との闘争によって獲得した知慧の結晶である。長期にわたって中国人民の繁栄隆盛と保健事業にとって卓越した貢献をなしてきた。科学が飛躍的に発展した今日において,針灸医学は国内外の有識者の益々重視するところとなり,針灸の学習,研究および応用にたいする熱意は益々盛んになってきている。近年来,多数の針灸関係者の勤勉な努力を通じて,旧態依然であった古医学は生気を放つようになり,多大な喜ぶべき成果を収めている。
 針灸の学術を発展させ,中医学の特色を維持するために,編者は長年にわたって教学と医療実践,特に南京中医薬大学国際針灸養成センターにおける講義と臨床指導を行ってきたが,その経験から,針灸の臨床と研究においては,中医弁証施治の診療体系を堅持し,処方配穴の論理性と実践性を強調し,治療手技を重視する必要性を確信するにいたった。この認識に鑑みて,ここに『針灸弁証論治の進め方』(原著名:『常見病症的針灸弁証施治』)一書を編纂した。本書の編集にあたっては,全国の各種針灸教材の長所を踏まえ,先哲の経験の結実を取り入れつつ,理解するに容易で,簡にして要を得,実情に適合したものにすることに力点をおき,あわせて外国人学習者にとって興味ある問題や針灸臨床における疑問点に対しても要点を押さえて論述した。学習者には本書が示すところの,理論を通じて理解し,治法を通じて運用し,処方を通じてその意味を考察し,取穴を通じて臨床の実際の手掛かりとされることを期待する。
 本書は内科,産婦人科,外科,小児科,感覚器科などにおける常見病,合計58病症の弁証論治を論述したものである。各病症についてそれぞれ,概念,病因病機とその弁証施治について系統的に解説をすすめ,あわせて症例を選んで挙げ,読者の臨床実例への対処の便宜を図った。本書を通じて針灸学の知識を確たるものに深め,分析と解決の能力を養い,診療水準を高めていただきたい。
 本書は中国語,英語の2カ国語で出版され,国内外の多数の医療従事者および中医学に関心を寄せる読者の学習の参考に供している。
 編集に要する時間的制約や知識不足からくる内容の不十分な点については読者の批判と訂正を乞うものである。

編 者
南京中医薬大学
1987年5月

中医針灸学の治法と処方-弁証と論治をつなぐ

内容説明

 本書は数十年間,針灸の臨床と教育に携わった著者の経験の結晶である。本書には全編にわたって針灸処方学の系統性と実用性がいきいきと反映されている。
 総論では,針灸の立法処方,治療原則,処方配穴などを概述しているほか,針灸治療の大法に重きをおき,解表,和解,清熱,去寒,理気,理血……減肥,美容など20法に分けて,経典および各家学説を引証し,簡明に要点を押さえて,論述している。総論は,その次の各論の基礎となるものである。
 各論では,六淫病,痰飲病,気血病などの治法と処方を13章に分けて列記した。臨床実践の必要性に符合するように,各章ではまずその生理,病理,および弁証方法を述べ,その後に証をもって綱とし,治法処方を目とし,また処方用穴の意義を詳しく解釈して,理,法,方,穴の一貫性に努めた。
 本書は中西医高等院校[中国各地の中医薬大学などの総称]の針灸科,推拿科,傷科の教師と学生が,教学,臨床,科学研究のなかで参考にし応用するのに供すべきものである。




 中医学で疾病治療を行うには,理,法,方,薬のうちの1つでも欠けてはならない。理とは弁証分析を通じて疾病の本質を探り当て,発病のメカニズムを明らかにすることである。法とは発病のメカニズムにもとづいて,証に対する治療法則を確定することである。次に,法にしたがって方を選択し,方を根拠に薬が用いられる。つまり,法は理から導き出され,方は法にしたがって立てられ,薬は方に立脚して選ばれるのである。これら4者の間の相互関係は不可分であり,この相互関係性を運用してこそ臨床においてはじめて良好な効果を得ることができる。歴代の医家はこのことを非常に重要視して,不断に研究を積み重ね成果をあげてきた。理,法,方,薬とその間の密接な相互関係は中医学の特色をなすものであり,また中医学の真髄でもある。
 針灸は中医学を構成する要素の1つである。針灸の治療方法には投薬の治療方法と異なった独自性があるが,その基礎理論,弁証方法,治療原則においては,その他の中医学各科となんら異なった点はない。しかし,幾千年にわたって幾多の針灸書が書かれてきたにもかかわらず,なぜか治法と処方に関する専門書は存在しないのである。これはたいへん不思議なことではないだろうか。そこで,これに関連する『内経』の条文を精読して探索したところ,理,法だけでなく処方と用穴についても詳細が尽されており,多くの条文では,用穴の意味までもが明らかになっていることが認識できた(詳しくは本書の第一章「針灸治法と針灸処方概論」を参照のこと)。針灸の治法と処方は『内経』の各篇に散見されるために未整理のままであり,また後世では湯薬を重んじて針灸を軽視したために,重要視されることなく埋もれてしまった。それは現代に発掘されるのを待っていた宝物の如きものである。『内経』の経文を今一度精読して,治法と処方に関して新たな成果を得ることができ,喜びも一しおであった。そこで,私は針灸の治法と処方に関する書籍の編纂を提案し,また,1960年代には治法と処方に関して多くの特別講座を開き,多くの同学の士の賞賛を得た。
 1980年代になると,私は外国から次々に招聘されるようになった。アジア,西欧,北欧,北アメリカ,南アメリカの多くの国で講義を行い,針灸の国際的な影響力を拡大し,中医学が世界に認められるために微力を尽くしてきた。それらの講義の中で各国の諸先生からさまざまなご要望を承り,教材の不足を痛感させられた。そのため『中国針灸治療学』の編纂に着手し,臨床と教育の要求に答えようとした。その執筆編纂を通じて,安徽医科大学の孔昭遐教授と屠佑生教授の協力を得ることができ,百万字に及ぶ大部の書を完成させることができた。これによって,いままでの欠落を少しでも補うことができたかと思うと,いささか喜びを禁じえない。さらに針灸処方の専門書を編纂することを提案し,孔昭遐教授と邱仙霊医師から共著の快諾を得ることができた。しかし,本書の編纂過程では,私と邱仙霊医師は幾度となくイタリアに招かれて講義を行い,また孔昭遐教授も外国での医療援助に従事してきたために,断続的にしかその作業を行うことができず,完成までに5年の歳月を要してしまった。
 本書は約20万字,総論と各論の両部分からなる。総論では針灸の立法処方,治療原則,処方配穴などについて概述しているほか,針灸治療の大法に重きを置き,解表,和解,清熱,去寒,理気,理血,治風,去湿,開竅,安神,止痛,通便,消積,固渋,去痰,保健,減肥,美容,禁煙法・麻薬[薬物]中毒矯正法の20法に分けて検討を加えている。それらを論じるにさいしては,経典や各家の学説を引証して問題提起とし,それに自己の見解を付け加えて敷衍化し,その持つ意味を出来るかぎり簡潔にまとめることを心がけて,次の各論の基礎とした。各論は六淫病,痰飲病,気血病,精髄神志病,臓腑病,胞宮衝任病,胎産病,皮膚病,眼病,耳病,咽喉病,鼻病,口腔病の治法と処方の計13章に分かれている。各章ではまずその生理と病理および弁証方法を概述したあと,証を綱にし治法と処方を目とした構成で述べるとともに,処方と用穴の持つ意味も詳しく説明してある。各論は全部で178の証と254の治法と処方,226の病名を収録し,出来うるかぎり理,法,方,穴の完璧性を期すとともに,臨床実践の需要に役立つことに腐心した。こうして実用に供することができる専門書『針灸治法と針灸処方』は完成した。本書が前人の不足を補うことができることを心から願うものであるが,独善的な所やいたらない点を読者諸氏のご指教に仰ぐことができるならば幸甚である。
 40年来,針灸は飛躍的な発展を遂げるとともに,国内外の医学者や患者の要望も日増しに高まっている。研究の深化と不断に創造を行うことが,われわれ針灸の道に携わる者に課せられた当面の急務であり,また責任でもあることは言うまでもない。わたしはすでに老齢というべき年齢に達したが,このまたとない機会に,残ったエネルギ-を老人は老人なりに捧げ尽くすつもりでいる。葉師の詩に「老夫,喜びて黄昏の頌を作す。満目に青山の夕照,明らかなり」とある。これを読むたびに心が奮い立つ思いがする。願わくば心身を労して中医学の振興のために余生を捧げん。これをもって本書の序とする。

邱 茂 良
齢八十のとき 南京にて
1992年8月

針師のお守り 針灸よもやま話

まえがき

 本書は過去十数年にわたって、雑誌『中医臨床』に掲載してきた「針灸よもやま話」を『中医臨床』創刊二十周年を期して、一冊にまとめたものである。
 「針灸よもやま話」は『中医臨床』の埋草的なものとして、とかく理論的で堅くなりがちな誌面に対し、新聞の四コマ漫画のように一片の清涼剤にでもなればと思って書きはじめたものである。字数はなるべく一ページ(一五〇〇字前後)に納まる程度とし、その時々に思いついたテーマに対し、かなりくだけた表現と内容で論を展開している。
 文章自体は稚拙であっても、本書の内容は誰かの模倣ではなく、すべて筆者のオリジナリティであることを自負している。したがって、針灸理論の一般常識とはかけ離れた持論が展開されている部分もあるが、本書を一読していただければ、そこに筆者の針灸師としての視点をご理解いただけるものと推察する。
 本書の上梓にあたっては、内容別に分類する意見も寄せられたが、内容に分量がなく、系統だっているわけでもないので、筆者の意向で『中医臨床』の掲載順とした。読者諸氏が目次から面白そうな所を選んで、アトランダムに読んでいただければ、それで十分である。
 本書に登場する石山淳一先生と稲垣源四郎先生が筆者と同じ高校(市立一中=都立九段高校)の卒業生であることを後日、知った。不思議なご縁である。

浅 川 要
二〇〇〇年三月末日
東京白山にて

中国刺絡鍼法



 このたび,『中国刺絡療法』(原書名は『中国実用刺血療法』)が関係者の努力によって,翻訳出版される運びになったことは,鐵灸治療技術の幅を広げるためにも,また各種疾病の治療効果を拡大するためにも大きく役立つものと信じている。
 そもそも刺血,刺絡,瀉血療法は,名称は異っていても人類の発展過程において,津の東西を問わず古くから行なわれてきた治療である。
 中国の医学史をみても石携時代から尖った石の先で血を出す治療は行なわれてきた。これが「?石」といわれる鍼の基礎になった。
 鍼灸治療の原典とされる『黄帝内経』のなかにも,刺血,刺絡は重要な手段の1つとして「血を取る」言葉が頻繁にあらわれる。
 治療法は気血の補瀉には欠かせない治療法として,古くから行なわれてきたにもかかわらず,なぜか明治時代になって禁止されているかのようにうけとめられてきた。西洋医学崇拝の観念から,伝統のあるこの療法,特に鍼灸治療の一分野としての方法を無視されてしまったというしかない。
 本治療法は,中国の研究では,非常に広範囲な疾患に利用されていて,日本で今日まで見すごされてきたのが不思議な位である。消毒を完全に行い感染を予防する限り危険な治療でないことは明白である。
 この書が多くの鍼灸師の方々に読まれて,刺血治療が一般化されることを願って序と致します。

日本刺絡学会会長
森 秀太郎
平成11年5月30日

写真でみる脳血管障害の針灸治療

まえがき

 中風-脳血管障害の予防と治療は,中国のみならず世界の医学界で大きな課題とされています。本病は人類の健康を多大に脅かす疾病の1つであり,死亡率ならびに後遺症を残す確率は現在でも非常に高いものとなっています。地球上での本病の発症は1日数十万人とも言われており,本人およびその家族に極めて深刻な苦痛をもたらしています。
 したがって本病の予防ならびに治療に対する研究は,人類およびその家庭の切実な要望であり,また私ども医療スタッフの大きな課題でもあります。この点から出発して,私は1973年から中風病の臨床研究ならびに発症原理について20年にわたって研究を行い, 一定の独自の成果をおさめてきました。この治療法の大きな特徴は針灸を主な手段としたところにあり,治療研究およびそのメカニズムの研究において,驚くべき突破口を切り開くことができました。これは中風病の治療と予防という課題に対し,まったく新しくかつ有効な道を開くものであります。
 本書では,私どもが行ってきた「針による中風治療-醒脳開竅法」の全臨床研究過程とその内容,また実験データを紹介しております。数年来,私はこの独自の治療法を日本の医療専門家に紹介してきましたが,この治療法により日本国のより多くの中風患者に福音をもたらすことができれば,このうえもなく光栄であり,喜ばしいことであります。
 最後に,本書中には意図したところが十分にはたされなかった点が多々あろうかと存じますが,御一読の上,御批判,御教示をいただければ幸いです。

著者 石 学 敏
中国,天津にて 1991年3月15日

写真でみる脳血管障害の針灸治療

著者略歴

石学敏教授略歴
1937年 生まれ
1962年 中医学院大学卒業
1965年 大学院卒業
1968年 1968年から4年間,アルジェリアにて医療活動に従事。
 この30年来, カナダ,ドイツ,イタリア,フランス,ミャンマー,ブルガリア等,数十カ国で数十回にわたり教育講演を行い,各国との共同研究にもたずさわっている。
1980年 天津中医学院第1付属医院副院長に就任
1985年 同医院院長に就任, 併せて大学院博士課程の指導教授となる。
 石学敏教授の専門は,針灸学と内科学である。天津中医学院第1付属医院は,中国七大重点医院の1つであり,とりわけ針灸部門においては全国一の実力と規模を有している。中国針灸臨床研究センターも同医院に設置されている。同医院は石学敏教授の指導のもとに針灸部には13の科が設置されており,中国でも最大規模の針灸臨床および基礎研究基地となっている。
 著 書 『針灸配穴』主要著者,1978年出版,『実用針灸学』主編, 1982年出版,『霊枢経証状と臨床』,『針灸治療急証手冊』
 近年の著書 『中国針灸臨証精要』,『中国針灸治療学』,『石学敏針灸医案』
 論 文 この28年来, 発表論文は30余篇におよぶ。また中風治療のために開発された中薬「脳血栓片」は,中国では中風患者の不可欠の薬とされている。「醒脳開竅法治療における実験研究」,「脳血栓に対する針灸治療の原理研究」,「針刺手法量学研究」,「脳に対する針刺作用の形態学研究」,「針灸による中風後遺症治療の研究」等の研究成果は,国家および関係研究部門から非常に高い評価をうけている。

2006年11月19日

朱氏頭皮針

序文

 朱氏頭皮針はまたの名を頭穴透刺療法ともいい,頭部有髪部位にある特定の経穴透刺治療帯に針を刺すことによって全身の疾病を治療する専門療法のひとつである。いわゆる微刺療法〔特定の局所に刺針して全身の疾患を治療する刺針法〕の範疇に属している。
 この治療法は著者が中国伝統医学の理論をもとに,臓腑・経絡学説を基礎として,長期にわたる臨床実践と万を数える症例の治療経験を経てそれらを総括して作り上げたものである。
 著者は頭部有髪部位の経絡・経穴の分布と全身の肢体・臓腑・五官七竅とのあいだにある密接な関係に基づいて経穴透刺治療帯を確定した。また伝統的な刺針手法と『内経』にみえる手法の基礎の上に,「頭部の経穴には浅刺,透刺を行うべし」という原則を結びつけ,頭穴の透刺に独特な操作法を編み出して,用いている。これが「抽気法」と「進気法」である。さらに各病症に応じて適切な導引法,吐納法などを組み合わせ患者に行わせることで,ほぼ完璧な治療法となり,疾病の予防と治療という目的にかなうものとなった。こうして独自の性格を備えた「朱氏頭皮針」が形成されたのである。
 本治療法は適応範囲が広く,安全かつ有効で,しかも効果が早くて確実に現れるにもかかわらず副作用がないのを特徴とする。治療帯はかなり覚えやすいし,刺針及び操作は時間や場所,気候,環境,さらに体位による影響を受けない。また重篤症,急性症,マヒ,疼痛症に対して著効が現れるが,臨床所見に悪影響を与えることがないので,患者を危険な状態から救って延命の手助けをすることができる。このため医師と患者から非常に歓迎されている。つまりこの治療法は,中国医薬学の宝庫のなかの貴重な遺産のひとつであるとともに,従来の針灸医術には登場しなかったまったく新しい創造ということができると考えている。
 本書の内容は大きく総論と各論の二つによって構成されている。まず総論では頭皮針療法の起源とその発展について簡単に述べたあと,朱氏頭皮針の治療帯の位置とその主治および臨床治療を説明する。さらに治療帯と伝統的な経穴との関係,また朱氏頭皮針法の基礎についても述べる。各論では特に急性症と系統別疾患の治療を紹介する。最後に症例を付して参考に供することにした。
 頭皮針療法は今まさに発展段階にあり,始まったばかりであって,その作用原理や臨床治療などの面で,今後一層の探索と研究がなされなければならない。したがって本書の出版が引き金となって西洋医,中医,中西医結合医及び医療・教育・科学研究にたずさわる人々が臨床や教育の現場でこれを参考とし,また応用してくださるようになれば幸いである。さらには今後それぞれが協力しあって頭皮針療法を研究し,これをしっかりとした体系をもった確固とした専門療法として確立させて,人類のための医療事業として役立てることができるようになることを,心から願っている次第である。

朱 明 清・彭 芝 芸
1989年1月 中国・北京にて

針灸手技学

王 序

 悠久の歴史を有する針灸療法は,中国医薬学の中で重要な位置を占めており,古くから国内で隆盛を極めたばかりでなく,海外にも広く伝播しているものである。癰を破るのには必ず大小のヘン石を必要とし,金針で病を治すには必ず調気治神をはからなければならない。『黄帝内経』では何よりもまず刺針補瀉の理を論じており,そこには徐疾,迎隨,開闔,呼吸などの補瀉法に関する諸文字がすでに登場する。宋・金代以降,刺針治療における手技が重要視されるようになり,席弘,張元素,陳会,凌雲,徐鳳,汪機,高武,李梃,呉昆といった優れた針灸家が陸続として世に現れ,それぞれ,その手技には長ずる所が見られた。明代の万暦年間,浙東の楊継洲は『衛生針灸玄機秘要』を撰し,楊氏家伝の手技の秘奥をすべて明らかにしたが,さらに後にそれを拡充し歴代の刺針補瀉法を広く集めるとともに,問答の体裁を借りて経絡迎随の是非得失を論じ,刺針手技に関する大作『針灸大成』一書を書きあげている。
 刺針手技は非常に重要なものであるにもかかわらず,各家の手技が一致せず,さまざまな流派が輩出して互いに自己の正当性を唱えて争ったので,人々の目には刺針手技を学ぶことが何か空漠としてなかなか手の出しにくいものに映じてしまった。そのため,今日に至るまでその分野の研究者がほとんど存在していないのが現状である。
 清代の李守先は針灸の難しさを論じたところで「難しさはツボにあるのではなく手技にこそあるのだ」と指摘したが,実に至言というべきである。
 私は多年にわたって針灸の研究にかかわってきたが,刺針手技を継承発展させなければならないと常々,考えていた。それゆえ,私の妻陳克彦副主任医師が刺針手技の研究に専門的にとりくむことを支持したのである。彼女の研究は初歩的成果をおさめたが,さらに研究が進む過程で,惜むらくは急逝してしまった。
 今日,陸寿康,胡伯虎両先生が刺針手技の古今の文献を系統的に整理し,『針灸手技学』一書を編纂した。本書は詳細で確実な資料にもとづく豊富な内容を簡単明瞭で要点をつかんだ文章表現で示し,さし絵も優れており,針灸の臨床家・教育者・科学研究者にとって貴重な参考書となるであろう。
 本書の出版が刺針手技の学習と研究に与える有益性に鑑み,広範な読者諸氏に本書を推挙し,これをもって序とする次第である。

王 雪 苔
1988年12月 北京にて


黄 序

 針灸医学は中華民族の貴重な文化遺産の1つである。『霊枢』9針12原には,「病を治すのに,単に薬やセン石を用いるだけでなく,毫針を用いて滞った経脈を通じさせ,血気の調和をはかり,経脈における気血の正常な運行を回復させたいと思う。同時にこの治療法を後世に伝えるためには,刺針の方法を明らかにしなければならない……」と記されている。『黄帝内経』の時代から始まり形成されてきたわが国の医学の中にあって,針灸医学は外に治を施して内を調える独特の治療法である。刺針手技とはとりもなおさず刺針治療における操作技術である。私が針灸の臨床にたずさわってすでに50年がたつが,その中で刺針手技は治療効果を高める上で重要な要素であることを深く体得してきた。
 病の深浅に伴い刺法には浮沈があり,症の虚実にしたがって補瀉に手技が分かれるように刺針手技の運用は,臨床における弁証と密接な関連性をもっている。金元代から明代にかけて刺法に対する幾多の流派が輩出し,簡単な操作から複雑な操作まで種々の名称が付せられたが,それぞれ一長一短でなかなか後学の規範となりえないものであった。
 陸寿康・胡伯虎両先生は古今の各家針法を集約するために,文献資料を広範に捜し求め,各種の刺針手技の理論的源流,具体的方法,臨床応用,注意事項に対して1つ1つ整理を行い,本書を執筆編纂した。発刊の暁には必ずや臨床,教学,科学研究の参考に供し,針灸医学の継承と新たな創造のために貢献するであろう。
 それゆえ,序をもって同道の士に本書を推挙するものである。

黄 羨 明
1988年12月 上海中医学院にて


邱 序

 針灸は,わが国がその発祥の地であり,秦漢以降,現代に至るまでの2000年余りの歴代の医家の絶ゆまぬ努力によって,今や全世界に公認された医学の一角を占めるまでになっている。『黄帝内経』から始まった刺針手技の追求は,現在,100種余りの手技を生みだすまでに至った。刺針手技が良好な治療効果を得る上で果たす役割は臨床上,衆知のことであるが,現代の実験研究を通じて,その科学的根拠も今日,明らかにされている。
 しかし,刺針手技はこれまで歴代の各家の著作の中に未整理の状態で散在したままで,手技を学ぶ者にとって不便この上なかった。そこで中国中医研究院の陸寿康・胡伯虎両先生はこうした状況に鑑み,辛苦をいとわず,仕事の余暇を使って『針灸手技学』一書をしたためた。本書は古今の医学著作の中から刺針手技に関する内容を部門別に分類し,各手技を詳細に述べるとともに,単なる手技の解釈にとどまらず,古きを今に役立てる必要から臨床と結びつけてそれを紹介しており,後学に大きな恵みを与えるものとなっている。私は50有余年にわたって針灸の研究にたずさわり,刺針手技に対しても多大の関心を注いできたので,今,本書を閲読できたことは大いに喜ばしいことであり心が安んずる思いである。
 本書は針灸学術の高揚のために真に寄与しうるに足るものであり,広範な読者諸氏に本書を心から推挙する次第である。

邱 茂 良
1988年12月 南京中医学院にて

針灸経穴辞典

訳者まえがき

 本書は,山西医学院の李丁著『十四経穴図解』と天津中医学院編『ユ穴学』を訳出し,編纂したものである。
 本書では経穴361穴,経外奇穴61穴,計422穴にすべて,〔穴名の由来〕〔出典〕〔別名〕〔位置〕〔解剖〕〔作用〕〔主治〕〔操作〕〔針感〕〔配穴〕〔備考〕の項目を設けて,ツボに関する必要な知識をほぼ完全に網羅し,なぜその名称がつけられたのかから,針を刺した時の感覚まで,読者諸氏のツボに対する全面的理解に役立つようにした。
 現在,中国では中医学院にこれまで包括されていた針灸科が針灸学部として独立し,近い将来には,針灸大学へと発展する趨勢にあり,高次の教学を保証しうる体系的針灸理論の必要性が叫ばれている。そうした中で国家的事業として,過去の針灸文献の整理と,これまでの実験研究・臨床実践の全面的総括が行なわれ,全国統一教材を作る基礎作業が各地の中医学院で進められている。本書に用いられた天津中医学院編『ユ穴学』はそうした統一教材を目指した同学院の『経絡学』『ユ穴学』『針法灸法学』『針灸治療学』『実験針灸学』の5試用教材の1冊であり,とくに同書の各穴につけた「作用」は天津中医学院が自らの長年の臨床経験と中国各地の研究文献・資料および過去の資料をふまえてまとめあげたツボの性質・効能である。全経穴に「作用」がつけられたことによって,針灸ははじめて「理法方穴」という句で言いあらわせる,理論から実際の治療まで一貫した体系をもったことにより,「針灸学」と呼ぶにふさわしい内容にまで高められたのである。すなわち「作用」は針灸理論にもとづいて証を決定し,治則をたて,治則にみあった処方を導き出し,ツボを選択するうえで不可欠なものであり,今後の中国針灸の弁証施治で処方選穴における中心的役割をはたすものである。
 したがって,本書は今後,日本に登場してくるであろう中国の針灸学体系(経絡学,針灸治療学,実験針灸学,針灸医学史等)の一構成部分であり,中国針灸を全面的に理解する端緒となるものである。
 今日,数多くの経穴辞典の類が日本で出版されているが,中国針灸の真髄ともいうべき臓腑経絡の弁証施治に立脚して書かれた経穴学書は皆無であり,針灸治療家が中国針灸を試みる上で,本書は必ず座右におくべき書となりうるものである。
 本書の前半部分(第1章~第2章第7節)を浅川要と生田智恵子が担当し,後半部分(第2章第8節~第3章第5節)を木田洋と横山瑞生が担当したが,全篇にわたり4人が共同でその責を負う。また附1の「穴位作用の分類表」と附2の「配穴分類表」は兵頭明(東京衛生学園)が訳出作成したものである。
 本書を手にした読者諸氏の御批判,御指教を仰ぐとともに,日本の針灸治療の今後の発展にいささかでも寄与できれば幸いである。
 最後に本書の刊行に際し,日本での翻訳出版を快諾下さいました李丁先生はじめ,中国側の御好意にお礼申しあげます。また出版に御尽力下さいました東洋学術出版社の山本勝曠氏及び編集の青木久二男氏に深く感謝いたします。

訳 者
1986年3月

中医鍼灸臨床発揮

日本の鍼灸医療に従事している皆さんへ

 孔子は「三人で行けば,その中に必ず師となる者がいる」と述べている。『常用腧穴臨床発揮』(日本語版:『臨床経穴学』)に継いで,『鍼灸臨床弁証論治』(日本語版:『中医鍼灸臨床発揮』)の日本語版が出版されることとなった。日本における多くの鍼灸医療に従事している先生方から本書に対する貴重な意見を賜り,相互に経験交流を行うことによって長をとって短を補いあい,一緒になって鍼灸医学を広め,人類に幸福をもたらすことができることを,ここに衷心より希望する。
 鍼灸の発展史からみると,内経や難経から甲乙経,鍼灸大成にいたるまで,また標幽賦から勝玉歌にいたるまで,鍼灸医学は徐々に系統化,理論化をすすめてきた。しかしそのなかには「一症一方」,つまり某経穴が某病を治すとか,某病には某経穴を取るといったものが多々ある。さらに後世においては鍼灸に従事する医家が歌賦の影響をかなり受けたことによって,臨床経験の総括を重視するあまり,基礎理論の研究を軽視する傾向にあった。このため鍼灸医学はたえず低い水準を徘徊することとなったのである。
 1950年代初めの頃であったが,中南衛生部の主催する鍼灸教師班において,私はいくつかの経穴の効能や弁証論治について紹介したことがある。合谷に鍼で補法を施すと補気をはかることができ,復溜に鍼で補法を施すと滋陰をはかることができるといった内容や,合谷と三陰交を配穴して鍼で補法を施すと八珍湯に類似した効果を得ることができるといった内容を紹介すると,会場の専門家たちは驚きをおぼえるとともに非常に新鮮に感じたということだった。その後,何度も全国各地の鍼灸界の諸先輩方,専門家たちと家伝である諸穴の効能,経穴の効能と薬効との関係,弁証取穴,全体治療といった経験について交流を行い,専門家たちから非常に高い賞賛を得ることができた。整体弁治,経穴効能研究の先駆けとして認められたのである。とりわけ『常用?穴臨床発揮』の出版は,鍼灸界から鍼灸発展史の上における新たな一里塚となるものであると誉め称えられた。
 2冊目の『鍼灸臨床弁証論治』を出版したこの3年の間に,中国国内ではまた1つの小さな高まりが巻き起こっている。中国各地からの研修希望者が絶えないばかりか,国外の留学生も日増しに増えるようになった。南京中医薬大学鍼灸推拿学院は,本書を同学院の大学院生の必修書として指定し,同学院の院長である王玲玲教授はさらに本書に対して「中医理論研究を運用した近代まれにみるまことに得がたい鍼灸専門書であり,また鍼灸臨床の指導を可能にしたすばらしい専門書である。本書の貴ぶべきところは,五世代にわたる精華を集積し,理論と臨床の実際を結びつけているところにある。つまり実践経験を理論に昇華させ,さらにその理論により臨床実践を指導していることが重要なのである。本書は臨床に則した実用書であるとともに,さらに重要な点は本書が科学研究と教育面において極めて高い価値をもっていることにある。」と書評を記してくれている。
 私はすでに古稀を迎え,臨床および教育に従事して50幾年になるが,上述の2つの著書のためにほとんどすべての心血を注いできた。しかしながら「老驥伏櫪,壮心不已」[老いても志が衰えないこと]の気概をもち,現在さらに『鍼灸配穴処方学』を執筆中である。この書は家伝経験の重要な構成部分をなしている。これらの3部書が一体化することによって,先祖伝来5世代にわたる鍼灸経験の全貌を示すことができるのであり,一体化した鍼灸弁証論治の理論体系を構成することができるのである。
 私の弟子たちがあいついで育ち私の有力な助手となりえていること,家伝鍼灸事業に後継者がいることは,私にとってこれ以上の喜びはない。
 最後に『鍼灸臨床弁証論治』が日本で出版され,これが中日医薬文化交流の契機となり,鍼灸医学が人類医薬学のなかでいっそうの役割を発揮することを希望する。

李 世 珍
1999年

臨床経穴学

前言

  『常用腧穴臨床発揮』は,4代100余年の家伝である針灸実践経験を世に伝えるために著したものである。最初は1962年に上梓された。執筆にあたっては,寝食を忘れてすべての時間をこれにあて,全精力を注ぎ込んだ。今ようやく世に出すことができ,至上の喜びを感じている。
 亡父である李心田は,50年にわたり針灸医術の臨床と研究に専念した。亡父は自身の臨床実践と祖父の指導にもとづき,経穴の効能,経穴の配穴,経穴と薬物の効果の比較,針(灸)による薬の代用,針灸弁証施治を中心に検討をくわえ,『針薬匯通』を著した。この書には前人が触れておらず,古書にも記載されていない独自の体得が整然と述べられている。1945年にこの書の初稿が脱稿すると,多くの同業者や学者たちがこの書稿を回覧しあい転写した。そして実際に臨床に応用して意外なほどの効果が得られたため,多くの専門家たちから称賛を得るにいたった。亡父は後学の啓迪のため,晩年身体が弱く多病であったにもかかわらず,さらに10余年をかけて改訂・増補に没頭し,本書をより完全なものとした。しかし遺憾なことに,脱稿をまじかにひかえて亡父は世を去り,生前にこれを刊行するにはいたらなかった。
 私は亡父の遺志をついで,『針薬匯通』を基礎とし,私自身の30年の臨床経験(数千の典型症例を集め,のべ1万余回にわたる追跡調査を行った)を加えて『針灸医案集』(釣30万字)を著したが,これが実践的にも理論的にも『常用腧穴臨床発揮』の基礎となったのである。
 本書は16章,89節からなる。14経経穴と経外奇穴から常用穴86穴を選んでいる。第1章総論の3節を除くと,他の章は各経絡ごとに章をすすめている。各経絡は,まず概論として経脈・絡脈・経別・経筋の分布と病候,その経絡に対応する臓腑の生理と病理,経穴の分布,経穴の治療範囲および特徴を述べ,その後に節に分けて常用穴を論述している。各常用穴は概説,治療範囲,効能 主治,臨床応用,症例,経穴の効能鑑別,配穴,参考という9つの内容に分けて説明した。
 各常用穴の[概説]では,経穴の特徴,主治範囲を述べた。[効能]では,補・瀉・灸・瀉血等により生じる経穴の作用を述べるとともに,経穴の効能に類似した作用をもつ中薬処方を紹介した。[主治]では,当該穴の治しうる病証を列挙した。[臨床応用]では,[主治]の病証のなかからいくつかの代表的な病証をあげ,その経穴がどのような病証を治療するか,どのような作用が生じるか,どのような禁忌があるか,配穴によりどのような治療効果が生じるかを述べた。[症例]では,当該穴を用いて治療した2ないし6つの典型症例を提示し,治療効果を示した。[経穴の効能鑑別]では,効能が類似する経穴について,それぞれの特徴の比較鑑別を行った。[配穴]では,ある経穴またはいくつかの経穴の配穴によってどのような治則になるかを述べ,あわせて経穴の配穴に相当する湯液の処方名をあげた。[参考]では,針感の走行,古典考察,臨床見聞,注意事項,歴代医家の経験等を述べた。また問題点の検討および異なる見解についても触れておいた。
 本書は亡父の教えである「針灸に精通するためには,臓腑経絡を熟知し,経典経旨を広く深く読み,経穴の効能に通暁し,弁証取穴を重視し,『少にして精』という用穴方法を学びとる必要がある。これができれば,臨床にあたってどのような変化にも対応でき,融通無碣に対処することができるようになる」という原則をよりどころとしている。この観点にたって臓腑・経絡の生理・病理および経絡と臓腑のあいだの関係,経穴の所在部位および所在部位と臓腑・経絡との関係,臨床実践という角度から,経穴の分析と考察をおこない臨床に応用しているわけである。けっして経穴をある病証に教条的にあてはめて経穴が本来もっている作用を発揮できないようにしてはならない。治療面においては,局部と全体との関係,経絡と臓腑,臓腑と臓腑,経穴と臓腑経絡,疾病と臓腑経絡との関係に注意をくばり,全体的視野に立った弁証取穴,同病異治,異病同治,病を治すには必ずその本を求むという治療法則を重視する必要がある。
 前述した内容から,本書を『常用ユ穴臨床発揮』と名づけた。この書で,経穴の効能と治療範囲について述べた部分,経穴の効果が湯液の薬効と同じであり,針をもって薬に代えうることについて述べた部分,弁証取穴について述べた部分,そして古典と歴代医家の経験について行った考察--これらの内容こそ本書の精髄といえるものである。これらは針灸学科の内容を豊富にしており,針灸医療,科学研究,教学のために参考となる資料を提供したものといえる。
 本書は4代にわたる100余年の実践経験を基礎としているが,個人の医学知識と臨床経験には限界があり,とりわけ書籍として著す初歩的な試みであることから,誤謬あるいはいたらぬところは避けがたい。読者からのご指摘ならびにご鞭撻を切に乞い,今後の改訂において向上をはかる所存である。
 本書は編集,改訂,校正,転写の過程にあって,王暁風,李春生,呉林鵬,李伝岐,および本院針灸科一同から大きな協力と貴重な意見を賜ったことに対し,ここに謹んで謝意を表す。

李 世 珍
1983年中秋 豫苑にて

2006年11月20日

現代語訳 黄帝内経霊枢 上・下巻

前言

  『霊枢』は中国に現存する重要な古典医籍の一つである。晋の皇甫謐『甲乙経』の自序に、「『七略』『芸文志』を按ずるに、『黄帝内経』十八巻と。今『鍼経』九巻、『素問』九巻あり、二九十八巻は、即ち『内経』なり」という記載がある。また、唐の王冰の次註本『黄帝内経素問』の自序に、「班固の『漢書』芸文志に曰く、『黄帝内経』十八巻と。『素問』は即ち其の経の九巻なり、『霊枢』九巻を兼ねて、乃ち其の数なり」とある。唐・宋以後、『霊枢』に対する諸家の考証には異なる考え方も併存しているが、この二つの序文に基づいて、『霊枢』はすなわち『鍼経』であり、『黄帝内経』の構成部分であるということについては、歴代の学者の見解はほぼ一致している。
  『霊枢』の医学理論体系は、『素問』と一致している。どちらも陰陽五行説と天人相関説という観念体系によって、蔵象・経絡・病機・診法・治則など医学の基本理論の思想を説明しようとする。具体的内容について見ると、『素問』と内容が同じ部分のほかに、『霊枢』には『霊枢』独自の論を展開している部分がある。なかでも、経脈・穴・刺鍼及び営衛・気血などは、とりわけ系統的で詳細に説明されている。したがって、『霊枢』と『素問』の二書は、中国医学の源泉であり、この二書によって中国医学の主要な理論的基礎が定められたと言える。
  『霊枢』と『素問』は、ともに「文簡にして義深し」(文章は簡略ではあるがその意味するところは深奥だ)とされる古典的著作である。両者を比べると、いくらか違いはあるけれども、初学者にとっては、『霊枢』の原書を読むときのほうが、きっとより困難に感じるだろう。したがって、なんとかして万人に分かりやすく、簡単明瞭、読者が内容を理解して運用できるようにするためには、現代語で訳釈を加えることが、差し迫って必要なことは明らかである。また、中医学の教育と学習にとっては、『霊枢』も重要な参考資料である。そこで、一九五七年、われわれはこの『黄帝内経霊枢訳釈』の初稿を編集し、教育教材として使用する過程で、さらに数回の修正改訂を行ってきた。一九六三年、上海科学技術出版社の要請を承けて、本書の出版計画を立てたが、その後種々の原因により計画通りに出版するにいたらなかった。今回その時の原稿を調べてみると、すでに大半が散逸していた。今回の原稿は、孟景春、王新華両先生が所蔵していた原稿を基礎に、新しく編集し直したものである。錯誤と不当のところがあれば、読者各位に批正と示教を請うしだいである。
 本書の原文は、明の趙府居敬堂刊本を主テキストとし、同時に『医統正脈』本及び『甲乙経』『黄帝内経太素』等を参考にして若干の文字を訂正した。体例は、『黄帝内経素問訳釈』と同じくし、一致を求めた。

編 著 者
一九八〇年八月


監訳者まえがき

  『黄帝内経霊枢』、略して『霊枢』と呼ばれているこの書は、『黄帝内経素問』と並ぶ、最も古い、最も根本的な中国伝統医学の経典である。『素問』と比較すると、『霊枢』は基礎理論も説いているが、むしろ診断・治療・鍼灸施術法などの臨床技術を説くことに力点をおいた医書であると言える。
  『霊枢』という書名が現れるのは、かなり遅く、王冰の「素問序」(七六二)が最初である。それ以前、この書は『九巻』『鍼経』の名で呼ばれ、また『九霊』『九墟』の名で呼ばれていた。『九巻』という書名をもつ医書は、今では散佚して伝わらないが、その書名と佚文は古来多くの書に引用されている。それらの佚文を現存する『霊枢』の文と対照すると、大部分が同じ内容である。一方、『鍼経』は皇甫謐の『甲乙経』(三世紀中頃)にその大部分が、王叔和の『脈経』(三世紀後半)にその一部が引用されて残っている。これらの引用文は、現存する『霊枢』とほぼ重なり合う内容である。さらに、唐代中期に、王冰が『素問』に注釈を付けたとき、『鍼経』から引用しただけではなく、当時あった『霊枢』からも大量に引用している。両者の佚文を分析すると、王冰が見た当時の『鍼経』と『霊枢』は、ほぼ同一内容のテキストであったと推測できる。『霊枢』は、魏晋から唐の時代まで、多様な形の異本として伝えられていたのである。
 『素問』と同様、『霊枢』という書物の成立事情についても、明白なことはあまりない。『素問』と『霊枢』のもとになった『黄帝内経』という書物が、紀元前二十六年までに、宮廷医の李柱国によって、いくつかの医学書をまとめる形で編纂されたことは、確かである。しかし、その後、いつ、誰によって、この『黄帝内経』をもとに、『素問』と『霊枢』という書物が再編纂されたのかは、明らかではない。ただ、現時点での研究成果をまとめると、次のように言えるだろう。「現存する『素問』と『霊枢』の原型は、二世紀の初め頃から三世紀の中頃の間に、『漢書』芸文志に記載されている『黄帝内経』十八巻を中核として、それに大幅な増補を加えて、二つの書として編纂された」と。
 王冰は『素問』を再編纂し、その注釈を作ったが、『霊枢』の注釈は作らなかった。唐末・五代の混乱を経て、北宋に伝えられた『霊枢』の各テキストは、すでに不完全なものであった。そのため、一〇九三年、北宋政府は高麗政府に依頼して『鍼経』を逆輸入し、その写本をもとに、書名を『霊枢』と改めて、初めて刊行した。しかし、南宋初期になると、『霊枢』の各種テキストは、再び散佚の危機に直面した。一一五五年、南宋の史崧が家蔵の『霊枢』を新たに校正し、二十四巻八十一篇として、音釈を付して再刊した。現行の『霊枢』は全てこのテキストに基づいている。
  『霊枢』全体に対する注釈本は、十六世紀になるまで現れない。また、注釈本の数も『素問』に比べると少ない。主要な注釈書は、馬蒔の『黄帝内経霊枢注証発微』(一五八六)と張志聡の『黄帝内経霊枢集注』(一六七〇)である。ただし、『太素』(七世紀後半)は『素問』と『霊枢』二書を合わせて再編纂したものであり、楊上善は『太素』全体に注を付けているから、不完全ながらも古い注は存在する。また、張介賓の『類経』(一六二四)も馬蒔・張志聡と並ぶ重要な注釈である。そして、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』(上海科学技術出版社)が主として依拠しているのも、以上に挙げた楊上善・馬蒔・張介賓・張志聡たちの注釈である。
  『素問』と同様に、あるいは『素問』以上に、『霊枢』を読むことは難しい。最も大きな理由は、この二書が漢代に書かれた古典であり、かつ技術の書だからである。古い技術に特有の用語は難解である。それに加えて『霊枢』の場合は、現行のテキストのもとになった史崧のテキストが、基本的には、唐以前の古い姿を保存している、と考えられるからである。『素問』や『霊枢』を読むために必要なのは、この二書が書かれた当時の言語と医学の知識である。ところで、当時の医学の知識、しかも最高レベルの知識を知るための資料として私たちが手にしうるものは、今のところ、『素問』と『霊枢』だけなのである。
 結局、歴代の注釈を頼りに、『素問』や『霊枢』を読み解いてゆくことになるのだが、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』の立場は、歴代のさまざまな注釈の中から、最もふさわしいと思われるものを、そのつど選んでゆき、さまざまな注釈の善を採りつつ、独自の読解を試みるというものである。しかも、楊上善を除けば、『霊枢』の代表的な注釈は、いずれも明清のものである。この読解の方法は、古典を厳密に読むという立場からは、最上の方法とは言えないが、現代中医学の中に古典をよみがえらせようとする立場からは、許されるものであろう。姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の「まえがき」で、監訳者の石田秀実氏は、次のように述べた。「現代中医学がその基礎においている伝統医学とは何か、という方向から『素問』を読むとすれば、むしろこうした明清の注釈の方にこそ、私たちは注意を向けるべきなのかもしれない」と。『霊枢』についても同じことが言えるであろう。
 原書の原訳は、主に明清の注釈家たちの読み方に依拠しつつも、独自の訳として作成された、一つの解釈である。そして、本訳書の現代語訳は、原訳をできる限り忠実に翻訳したものであり、書き下し文も原書の読みに合わせている。厳密な古典学の立場から見ると、問題もあるだろうし、訳しすぎていると思われるところもある。しかし、姉妹編と同様、技術の書に特有の難解な用語の意味を明確にするための試みとして、了解していただければと願う。
  『現代語訳黄帝内経素問』が出版されてから、すでに六年が過ぎ、今ようやくその姉妹編を世に送ることができた。現代中医学を学ぶ人たち、中国伝統医学に興味を持つ人たちに、中国伝統医学の経典である『素問』と『霊枢』を古典原文の形で通読していただければ幸甚である。原訳をさらに日本語に訳すという重訳である。誤りも多いことと思われる。また、訳者諸氏のせっかくの努力の成果を、監訳者がだいなしにしてしまってはいないかと恐れる。ご批正ご教示を心より願うしだいである。
 本訳書は、当初、姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の監訳者でもある石田秀実氏を監訳者とし、私も翻訳者の一人として加わるというかたちでスタートした。その後、石田氏は体調をくずされ、私が監訳を手伝うことになった。二年前の春のことであったか、ほとんど死の世界を覗いて生還した氏から、後はまかせる、と言われた。そのとき、この困難で忍耐を強いられる監訳の仕事を断らなかったのは、氏の病の重さを知っていたことと、氏の遺言ともとれる手紙のためであった。幸い、石田氏は、生還したばかりか、以前と変わりない旺盛な研究活動を再開するまでに回復された。元気な氏とともに、本訳書の出版を見届けることができたことは、望外の喜びである。
 本訳書が形をなす間に、悲しい出来事もあった。翻訳メンバーの一人であった小林清市氏が急逝されたことである。氏は、京大時代の私の先輩であり、日本における数少ない中国科学史研究者の一人であった。残念ながら、氏の翻訳を本書に載せることはできなかったが、当初の翻訳メンバーの一人として、ここに小林清市氏の名を記し、ご冥福を祈りたい。

白 杉 悦 雄

黄帝内経概論

まえがき

 新中国が成立してからのち,筆者はもっばら世界医学史との比較に重点をおきながら,中国医学史を研究してきた。そこでまず最初に手がけたのが『黄帝内経』である。以来12年,『黄帝内経集解』48巻(『素問集解』24巻,『霊枢集解』24巻)を完成したが,整理して手を加えるのに,なお日時を要する。ここに,あらかじめ『黄帝内経』に関する数篇の論文を発表し,識者の御指正を仰いで,誤りは正し,拙著が一日も早くより完璧なものとなることを希う次第である。
 その他,『神農本草経』や『張仲景方』,漢魏六朝の亡佚医書や唐宋の医方等についても初歩的な研究を行い,原稿は机上にうず高く積まれている。それらは整理して後日発表したい。
 わが国の医学史は,いまだ世界医学史上に空白となっている。この空白を填めることは,我々自身の努力を俟たねばならない。もし,本書が同好の者の関心を喚起し,奮気を促し,力を結集せしめることができるならば,近い将来その空白を完璧に填め,我々の祖先の偉大な業績を発揚して,向学心を一段と強化できるであろう。これこそが,私の願いに他ならない。

1962年 労働節の日に
龍 伯 堅

難経解説

はしがき

 このたび,『難経訳釈』の,日本語による完好の翻訳が,ここにできあがった。
 中国医学の古典著作として,この『難経』が,『黄帝内経』の趣意を継受したものとして,古来ながく尊重されてきたことは,周知のことがらである。
 この古医書の,生理・病理・診断・治療の,おのおのの基本的な考え方にたいして,古くから高い評価があたえられてきた。ことにその診脈について,「独取寸口」説は,後世の脈診学にふかい影響を伝えている。
 さて,本『難経訳釈』は,中国医学を学ぼうとする中国本土の初学者にむけて,原書の主旨と原文そのものを平易に紹介する内容の,中医書シリーズとして刊行されたものの,1冊である。


・難経訳釈 第2版 南京中医学院医経教研組編著
上海科学技術出版社 (1961・11初版) 1980・10 第2版

 これが,このたび翻訳を行ったそのテキストである。ちなみに,南京中医学院が各古医書の教研組編著として公刊してきた同じシリーズのものとしては,

・黄帝内経素問訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・6初版) 1981・10 第2版
・黄帝内経霊枢訳釈 第1版 上海科学技術出版社 (1986・3初版)
・傷寒論訳釈 第2版 上・下冊 上海科学技術出版社 (1959・4初版) 1980・10 第2版
・金匱要略訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・10初版) 1981  第2版

などがある。
 この『難経訳釈』書の全体の構成については,すなわち原書『難経』の“81難”を6章にわかち,

 第1章 脈学(第1難--第22難)
 第2章 経絡(第23難--第29難)
 第3章 臓腑(第30難--第47難)
 第4章 疾病(第48難--第61難)
 第5章 ユ穴(第62難--第68難)
 第6章 針法(第69難--第81難)

の,“81難”の各「難」節ごとに,この漢魏期に成立した医学古典の原文を掲載し,その本文にみえる語彙の解釈(「注釈」)と現代中国語による逐語訳(「語訳」)をほどこし,そのあとに各「難」節についての本文解説(「釈義」)と当該「難」のポイント(「本難要点」)を加えることによって,原書『難経』がそなえている系統的かつ完整な内容を闡明している。
 そもそも,本『難経』についてはもちろん,中国医学の古典著作といわれる古医書群と,その背景をなす奥行きの広い中医全般に関して,私は知識も低く,関心もそれほど強いものではなかったのである。このたびの監訳という役目は,したがってそんなに軽いものではなかった。
 陰陽思想といった中国に固有の有力な考え方があり,およそ中国文化を見るものにはそれを抜きにしては,何もはじまらないほどの中国思想史のうえの重大な思考形態である。その陰陽五行思想の基本的な構造について,史的展開とその特徴をとらえようとして,われわれはかつて共同研究の報告を行った。『気の思想--中国における自然観と人間観の展開』(東京大学出版会,1978)がそれである。
 秦漢の交に主要思潮となったこの陰陽家説は,司馬談の「六家の要指」によって伝えられるのによると,則天主義を軸とする自然運動理論である。すなわち宇宙のひろがりと時間の流れのなかで自然世界,それは人間の生の営みをも包含しており,この自然--天地,万物の世界に関する運行とその生滅のしかたを説明する理論である。天体運動と人間世界,特に治政行為とが照応しあうとする,陰陽五行説による天人感応の休祥災異思想は,暦数に代表されるように,この陰陽家理論の応用をきわめた一分野でもあった。中国における政治理論にみられる治民思想は,ほとんど董仲舒いらい,おおむねこの陰陽災異説の思考形態を基礎とする天人相関の考えであり,それは,天体の正常な運行に人治を順応させようとする,人間社会の調和理論でもある。天候の順不順と人事のそれが照応しあうのであって,為政当局はその調節可能な治政行為を操縦する政術--道芸の執行者にほかならない。つまり,則天主義の政治形態である。
 しかしながら,他方この陰陽説は,ひろく生命体にも適用された。生物の生育・盛衰・枯死のサイクル運動も,陰陽両気の変相と調和の理論の掌中にあった。中国古来の医術にみられる治病理論は,この陰陽家理論の展開する,また一方の大きい分野である。
 この医学理論については,私はほとんど無知である。すでに5年以上もまえ,北京に滞在していたとき,魏正明・王碧雲夫妻の両先生から中医の諸理論のほんの緒ぐちを手ほどきされたことがある。その魏正明先生はもう故人になられた。烏兎勿勿,年月を経るうちに,ある日,この『難経訳釈』1書を選定したといって,山本勝曠氏が現れた。
 山本氏は,季刊『中医臨床』を刊行している東洋学術出版社の経営者である。と同時に,ひろく中国医学の水準とわが国の中医学の現況に通じた,熱意あふれる出版文化人である。もう30年近くになるが,かつて京都の極東書店で,中国専門書のお世話になった篤実の書肆マンであって,この人の依頼はすべて拒みがたく,非専門の私が,ここに一文を書いている次第である。
 すでに,浅川要・井垣清明・石田秀実・勝田正泰・砂岡和子・兵頭明の6氏によって,訳出されていた本書を枚正するかたちで私は審閲の機会を得た。石田秀実・浅川要両氏には,特にその専門とする分野から全体の訳語や文章の整理を心がけてもらった。
 なお,原書にはなくて,本書に新たに加えられたものに,「原文」にたいする「書き下し」の部分があって,これはいわゆる原文の訓読である。医学を活用して臨床に従事する人たちが,東洋医学の分野では漢文に習熟しているという慣わしを考慮しなければならない現況をふまえて,一応の「書き下し」文を附することとした。ただし,この部分を読んで,ただちに原文の意味を理解しえたと,即断しないでいただきたい。必ず「現代語訳」を熟読し,「注釈」をあわせて読んでほしい。いろいろな疑問が,この間に伴って生起してくることが予想されるが,そのときこそ,本書がこの『難経』そのものの研究の向上に果す起動力となってくれるはずなのである。

戸 川 芳 郎
東京大学中国哲学研究室にて
1987年1月10日

現代語訳・宋本傷寒論

まえがき

  『傷寒論』は東漢時代の末に、高名な医学家である張仲景によって著された書物である。『黄帝内経・熱論篇』に記載された六経分証の考えに着目し、仲景は六経弁証を核心に据えた、理〔理論〕、法〔治療法則、治療方法〕、方〔処方〕、薬〔用薬〕からなる体系を創りあげた。中医学の理論と実践をみごとに統一し、その模範を示したのが、『傷寒論』である。この偉大な医学経典は、後世の中医方剤学、臨床弁証学、および臨床治療学の発展に大きな貢献を果した。また、中国のみならず、世界の医学薬学史上でも、重要な位置を占める文献である。
 中医薬学を学ぶ者にとって、『傷寒論』は疑いもなく、必読の古典である。それは、古代文献として価値があるというだけでなく、さらに次のような理由があるからだ。
(1)『傷寒論』は極めて系統的に書かれており、学習に便利である。
(2)『傷寒論』が最も実用的であるのは、理論、処方とその薬味、仲景の経験を載せているからで、一つの治療法を会得すれば、それに応じて治療範囲も広がる。
(3)『傷寒論』を学んでおけば、その源流である『内経』や『難経』の理解が深まる。
(4) 唐宋代以降におこった各医学流派の学術思想を学ぶ場合の参考となる。
 これらの理由から、『傷寒論』をしっかり勉強しておけば、学問的にも、また実地臨床の面からも充分な基礎的能力が養われるので、『傷寒論』をおろそかにしてはならない。

 しかしながら、『傷寒論』の学習は、決して容易なことではない。『傷寒論』は宋の成無己によってはじめて注釈されて以来、宋元以降にこれを注解した人の数は、数百人を下らず、その中には、大家名家と呼ばれる人々も数多い。『傷寒論』の勉強に注釈本を用いるなら、原典を使用するよりずっと容易なことには違いない。しかし注釈本では、各注釈家の個人的見解や一面的な解釈が少なからず入り込むことは避けられない。さらに、何百とある注釈本の中から、どれが一番よいのかを決定することも困難である。別の言い方をすると、『傷寒論』は注釈本で勉強するよりも、原文で勉強した方が、ずっと正確にこの本の精神が把握されるだろう。そうは言っても、現代人が『傷寒論』の原文を読みこなすのは難しい。その最大の理由は、これが古代漢語で書かれている点である。よって、『傷寒論』がよりわかりやすく読めるよう、現代語に翻訳したのが本書である。これこそが、私たちがこの度『宋本傷寒論』を編著した動機と目的である。
 翻訳作業を進める前に、解決しておかねばならないいくつかの問題がある。
 その一。全条文を収載。『傷寒論』の注釈には、ほとんどすべての医家は、『太陽病の脈証并びに治を弁ず』に始まり、『陰陽易差えて後の労復病の脈証并びに治を弁ず』で終わる、いわゆる三百九十八条の節本を使用している。このような条文の取捨を行った節本をテキストとして選ぶと、『傷寒論』の全貌を系統的かつ全面的に理解する上で、不利益とならないか懸念される。そこで、『傷寒論』の全貌を客観的に示すため、テキストとして、北宋の治平二年(一〇六五年)に宋朝医務官僚であった林億らが校訂し、明代の趙開美が復刻した全十巻二十二篇の版本を使用することにした。
 その二。翻訳のスタイル。古文を翻訳する場合、直訳するのが一番よい。この方法ならば、原文の文字が持っている特徴や意味を比較的正確に表現できる。よって本書では、原則として直訳のスタイルをとった。しかし、時には直訳で意味がはっきりしない場合もあり、適宜、意訳した。
 その三。難解な文字や単語の処理。原文には読みや意味がわかりにくい文字や単語が、いくつかでてくる。これらの意味がよくわからないと、原文の正確な理解は困難である。それゆえ、本書ではこのような文字や単語は、「小注」として解説を加えた。
 その他。読者の学習の助けとなるよう、条文ごとに、その内容を要約した「要点」を記した。適当な箇所に、そこまでの概略を表した図表を掲げ、全体的な流れが理解できるようはかった。
 最後に少し説明を加える。『傷寒論』の「すべき病」や「すべからざる病」諸篇、例えば、「発汗すべからざる病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗すべき病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗後の脈証并びに治を弁ず」などの諸篇中の多数の条文は、「三陽」篇と「三陰」篇に既出である。それで、既出の条文については、書き下し文、口語釈、記載箇所は示したが、小注と要点は省略したので、必要があれば「三陽」「三陰」篇を参照して頂きたい。


宋本(版)『傷寒論』について

 現在『傷寒論』と呼ばれている医学経典は、もとの名前を『傷寒雑病論』と言い、東漢末期に、張仲景によって著された。なお、『傷寒卒病論』の名もあるが、「卒」は「」の俗訛(「」は「雑」の元字)と考えられている。仲景の著した『傷寒雑病論』の原書は、完成して半世紀もたたないうちに失われ、今日まで伝わっているわけではない。仲景の著作は散逸したあと、歴史上のさまざまな時代において、それらを蒐集、保存、復元する努力がなされた。その結果、『傷寒論』は現代まで伝来してきたのだが、現行のものがはたしてどれだけ正確に、仲景の原著を再現しているか、現状では知るすべがない。以下に伝来の歴史的経緯について概述する。
 張仲景は、漢代末期の南陽の人で、名を機と言い、仲景は字である。官吏登用試験である考廉に挙され、長沙の太守に任官した。はじめ、医学を同郡の張伯祖より学んだが、学識技術は師をしのいだとの評判であった。自序によれば、多数の親族を傷寒で失い、これが動機となって、『傷寒雑病論』を著した(紀元二〇六年頃)。しかしこの書はまもなく戦火に遇い、散逸してしまう。その後約半世紀を経た頃、西晋の太医令であった王叔和は、仲景の残した文章を蒐集して、彼の著作の『張仲景方論』(現存せず)及び『脈経』に収めた(二五〇年頃)。これらは、歴代の医家たちによって書き写され、それがまた別の書に引用されたりをくり返すうち、種々の異なる伝写本が出現する結果となった。例えば、唐代の孫思が著した『千金要方』、同じく孫思?の晩年の著作である『千金翼方』(六五五年頃)、そして王燾の『外台秘要方』(七五三年)などは、仲景の文章を収録しているが、それぞれの記述に相違があることから、異なる伝写本から引用したと考えられる。なお、日本に伝わる「康平本」、「康治本」も唐代の数ある写本に由来するものと考えられる。
 唐代末、高継沖は傷寒論を整理復元した(高継沖本)。宋が国をうち立ててまもなくの開宝年間(九六八年~九七五年)、継沖は節度使に任ぜられた際、この書を朝廷に献上した。高継沖本は政府の書庫に収められたが、出版されるには至らなかった。しかしその後、宋政府が諸家の医方を蒐集して『太平聖恵方』を編纂した時(九九二年)、高継沖本がとり入れられた。『太平聖恵方』中の傷寒部分は、「淳化本」と呼ばれているが、現行の傷寒論とは大分異なっている。
 宋政府は医書を整理校定する機関である校正医書局を設立(一〇五七年)し、林億らの儒臣を作業にあたらせた。彼らは『傷寒論』(一〇六五年)、『金匱要略』(一〇六六年?)、『千金要方』(一〇六六年)、『千金翼方』(一〇六六年?)、『脈経』(一〇六八年)、『外台秘要方』(一〇六九年)その他を校刊した。傷寒論は、先の高継沖本を藍本とし、当初は大きい文字で印刷した大字本が出版された。しかし高価なため普及せず、その後、小字本が出版された(『傷寒論』の牒符にこの経緯が記されている)。宋朝が刊行した大、小字本の傷寒論を「宋本」という。しかし小字本も、内容自体が難解なため、広く流布するには至らなかった。替って、宋本をもとに成無己が注解を施した、いわゆる『注解傷寒論』(或いは「成無己本」、一一四四年撰成、一一七二年初刊)が普及した。
 明代、当時の蔵書家であった趙開美は、傷寒論を復刻(翻刻)した。彼の「仲景全書刊行の序」によれば、当時入手できたのは、成無己本であり、まずこれを校定復刻した。その後、幸いにも宋本を手に入れたので、併せてこれも複刻し、『仲景全書』と名づけて刊行した(一五九九年)。彼は、明代すでに宋本は稀少となっていたと記述しており、もちろん現存していない。『仲景全書』に収められた傷寒論(趙開美本)が最もよく宋本の面影を留めていると考えられる。それ以降の宋本は、ほとんどが趙開美本を写したものなので、字句の相違を生じている可能性がある。だから、テキストとしては、趙開美本そのものが使用できれば、最善である。
 明代に出版された『仲景全書』は、少なくなってしまったが、北京図書館、中医研究院、日本内閣文庫などに現存している。今回底本として用いたのは、北京図書館の所蔵(銭超塵氏によれば、中医研究院所蔵のものと同一版本)になる明刻の仲景全書に収められた傷寒論である。
 この趙開美本では、弁太陽病脈証并治上第五以降の毎篇(弁不可吐第十八、弁可吐第十九を除く)の最初、従来の条文の前に「小目」を載せている。小目はその篇の内容をまとめて条文化したものである。一般には省略されることが多いが、趙開美本の全貌を示すため、今回これらを収録した。
 以上は、次の文献にもとづき、生島忍が書いた。

〈参考文献〉
中医文献学 馬継興著 上海科学技術出版社 一九九〇年。
傷寒論校注 劉渡舟主編 人民衛生出版社 一九九一年。
傷寒論 臨証指要・文献通考 劉渡舟・銭超塵共著 学苑出版社 一九九三年。
傷寒論・金匱玉函経解題 小曽戸洋著(明・趙開美本『傷寒論』他全三巻に収載)燎原書店 一九八八年。

[原文]傷寒雑病論(三訂版)

前言

 この度、日本漢方協会は、創立十周年を記念して、同協会学術部より、『傷寒論』と『金匱要略』を合刻して、『傷寒雑病論』として出版する運びとなった。
 月日のたつのは速いもので、根本光人氏より協会設立の相談をうけて、日本漢方協会が創立されてから、十年の歳月が流れた。そしてこの十年間には、日本の漢方界は種々の変動を経験した。健康保険診療の漢方薬採用、日中国交回復による日中学術交流の深まり、それに従う針麻酔や中医学理論の流入などがあった。しかし漢方界全体としてみれば、一般民衆の漢方に対する認識が高まったばかりではなく、医療界においても、ようやく漢方に対する関心が深まる傾向になってきた。このような状況の中で漢方を学ぶものは、更に心して正しい漢方の研究に十分な努力をしなければならない。
 『傷寒論(古くは傷寒雑病論)』『黄帝内経素問』『神農本草経』は、中国医学の三大古典であることは、昔も今も変わりはない。その中で『傷寒論』は中医学を学ぶ者にとっては、研究すべき必須の古典であるという。現在の中国においても、『傷寒論』関係の出版が続々と行なわれ、その研究の重要さがうかがわれる。
 さて、日本の漢方、特に古方派漢方は、傷寒、金匱の研究から出発していることは周知の通りである。『傷寒論』は『傷寒論』の理論で解釈するという考え方、それに腹診の発達が加わり、親験実施を精神とした古方派漢方は中医学と違う発展をとげて今日に至っている。『傷寒論』の最も古いとみられる章句(古方派はこれを本文と称する)は、病気の症状、経過を述べ、それに対する治療法(薬方)をあげているだけで、特別の理屈で説明していない。もしその臨床的観察が正しく、適用した薬方が有効であるなら、後世の人がそれを追試しても同じ効果をあげ得る筈である。事実を正しく把握していたら、二千年を経ても、その事実には変りはない筈である。後世、何千何万の人が『傷寒論』を追試して、『傷寒論』の事実の把握の正しさを確認してきたわけで、これが『傷寒論』を今日に至るまで、最も価値ある医書として継承してきた所以であると考える。西洋医学を学んだ者も、『傷寒論』を研究し理解すれば、臨床に応用してその効果を確認し得るのであるが、これは『傷寒論』が正しく事実に立脚していると考えれば、了解できることである。従って西洋医学を学ぶ者にも、『傷寒論』研究は稗益するところが大きいと考える。
 以上、『傷寒論』は、日本の漢方にとっても、中医学にとっても、研究すべき必須の原典であることは論をまたない。しかし漢方が西洋医学的治療と伍して、日本の医療界に貢献するためには、今後の『傷寒論』研究は、科学的実証精神に立脚すべきである。
 奇しくも今秋、張仲景ゆかりの地南陽で、張仲景生誕の記念祝典が催されるという。この期に臨んで本書が出版されるのは、誠に意義が大きく、因縁深く感じる次第である。

日本漢方医学研究所理事長
伊 藤 清 夫
昭和五十六年四月

中国傷寒論解説

『中国傷寒論解説』の出版にあたって

  『傷寒論』という医書は,まことに奇妙な書物である。ごくわずかな字数で書かれた医書であるにかかわらず,医学の理論と技術に関する膨大な内容を包蔵している。だから,原典そのものは小さくても,これの注釈書は汗牛充棟もただならざる有様を呈する。
 この書をよく読み,深く理解したものは,その理と術のあまりの周到さにただただ圧倒され,あるものはこの書の成るのは人わざにあらずといい,またあるものはこの書1冊があれば医のすべては足りるとまでいう,ことほどさように,この書は研究すればするほど,そしてこれを実地に行えば行うほど,その奥行きの深さがわかり,同時に臨床上での無限の可能性を感じさせるのである。

 『傷寒論』には理論がないとか,『傷寒論』はすでに過去の遺物であるとかの言葉を弄するものもあるが,さらに深く研究が進めば,憶面もなく出した不用意な己の言葉に,いたたまれぬ思いをするときが来るであろう。
 『傷寒論』が『内経』由来だとする見方と,しからずとする考え方は,往時から議論の尽きないところであるが,現在では大雑把にいって,中国の『傷寒論』研究の大部分は前者であり,わが国の古方出身者ないしはその系統の研究者のほとんどは後者に属するのではないかと思う。
 『傷寒論』の奇妙さのもう一つは,『傷寒論』という医書は『内経』を土台として研究しても,またそうでなくても,ともに立派に臨床に役立つということである。
 ところで,今回,東洋学術出版社によって出版された北京中医学院・劉渡舟教授の著『中国傷寒論解説』は,まさに『内経』を土台として研究されたものの成果である。私もそうであるが,日本の漢方研究家の大抵が『傷寒論』は『内経』とほとんど関係がないという立場をとっているが,この劉渡舟教授の書はそういう私どもにとっても大変参考になり,かつためになる本である。かつて大塚敬節先生は,他派の学説をこそよく聴くべきであると,しばしば述べられたが,本書を熟読するに及んでつくづくその言葉の本当であることを感じさせられる。したがって,本書は日本の漢方研究家にとっては,かなり異質な面もあるが,同時にまた,同じ『傷寒論』を学ぶもの同士の深く同感しあうところも多く持っている。私ども日本のすべての漢方研究家は,本書をよく読むことによって,その考え方においても臨床応用の面においてもより大きな広がりを持つことになろう。
 中国の『傷寒論』研究書は,ことに最近のものは,私どもが読みたくても簡体字のせいもあって制約を受けていたが,訳者・勝田正泰氏らの大変読みやすい訳文によって,このような名著がごくたやすく入手でき,読むことができるようになったことは,いくら感謝しても感謝しきれない。
 劉渡舟教授とは,1981年1月に『中医臨床』誌座談会の席でお会いして忌憚ない意見交換をし,その学識の深奥さと温いお人柄に心から尊敬の念をいだいたのであったが,一昨年10月,北京での「日中傷寒論シンポジウム」で再びお目にかかり,ますますその感を強くしたものである。本書の出版は,私にとっても誠に嬉しいことであり,また日中の学問の橋渡し,両国の友好にとっても貴重な役割を果すものと疑わない。わが国のすべての漢方研究家が本書を熟読されるよう推奨するものである。

日本東洋医学会評議員
藤 平 健

金匱要略解説

監訳者はしがき

 私どもが先年翻訳した劉渡舟教授の『中国傷寒論解説』(原名『傷寒論通俗講話』)は,幸いにも好評で版を重ねることができた。そこでこのたびは『傷寒雑病論』の「雑病」部である『金匱要略』解説書の翻訳紹介を企図したのである。
 最初に選んだのは『傷寒論通俗講話』と並んで中国のベストセラーであった何任教授の『金匱要略通俗講話』であったが,何任教授はその後に同書を底本にして新たに『金匱要略新解』を著述され,これには前著と異なり金匱要略の原文が記されていた。余談であるが『中国傷寒論解説』には傷寒論原文が併記されていないので,同書に條文を書き込んで読んでいるという読者が多い。実は私もそうしているのである。そこで,この点も考慮して『金匱要略新解』を選定してでき上ったのが本書である。
 『金匱要略』22篇の400余条と200余の方剤は中国医学の基礎であり,中国医学を学ぶ者にとって必須の原典である。しかしその成立過程からも判るように,所々に不正確な記載があるのは当然であり,歴代の注釈家を悩ませている。本書は『金匱要略』の単なる逐條解釈ではなく,著者の学識と臨床経験に裏付けされた洞察力が,「解説」の部に適確な見解や批判として生かされている。従って初学者にとっての恰好の学習書であると同時に,立派な注釈書ともなっている。
 例えば第3篇で,狐惑病とべーチェット症候群との類似性から清熱解毒滲出の治療原則を指摘するなど,現代医学との関連も配慮されている。
 また第14水気病篇では,その臨床価値については検討を加える必要があるとし,その後に目ざましい発展をした後世の方剤で水気病の臨床内容を充実させるべきであると述べている。これは,大塚敬節先生が『金匱要略講話』の中で,水気病の治療は『金匱』だけでほ不充分であるとして,浅田宗伯の『雑病翼方』や和田東郭の『導水瑣言』を紹介しているのと軌を一にしている。
 本書の「『金匱要略』概説」は『金匱要略』の内容,思想,注釈本,学習方法などについて,これほど簡明適切に記した解説は少ないので,「前言」と重複する部分もあるが,あえて集録したわけである。これを一読すれば,古今のあらゆる『金匱』注釈書に精通している著者の深い造詣と,『金匱』に対する真撃な熱意をはっきりと知ることができる。著者は多紀元簡の『金匱要略輯義』について,「細心の注意を払って証拠を求め,的確に結論を下している。」と評価し,『金匱』研究に欠かせぬ存在であると述べている。
 日本の一部には,中国でほ傷寒金匱のような古典が軽視され,あまり読まれていないと思っている人がいるようだが,本文を読めばそれが妄説であることがはっきり判ると思う。
 現代中国の『金匱』研究の第一人者である何任先生に始めて会ったのは,1981年10月に北京で開催された「日中傷寒論シンポジウム」の際である。『日中傷寒論シンポジウム記念論集』(中医臨床臨時増刊号)に書いた私の印象記には,
 淅江中医学院の何任教授は,私が座右において愛読している『金匱要略通俗講話』の著者であるが,講演は始めて聴いた。何教授は『傷寒論』の学習は「博渉知病,多診識脈,屡用達薬」によって達せられると語っている。広く書物を読み,臨床経験を重ね,更に薬の使用法に精通し熟達しなければならないというわけである。
と記してある。
 1985年の年末に東京で何任先生と再会し,改めて身近に先生の温厚な風貌に接して本書の翻訳出版について歓談したのである。何任先生は「知れば知るほどその魅力に取り付かれる」と述べて『金匱』研究の奥深さを指摘している。本書が読者諸賢の『金匱』研究の一助となり,併せて日中両国の医学交流に貢献できることを祈念して擱筆する。

勝田 正泰
1988年4月7日


『金匱新解』日本語版序

 『金匱要略』は臓腑経絡を基本として論述した中医雑病の専門書である。内容は内科を主として,一部には外科や産婦人科などの病証も含まれている。『金匱要略』は分類が簡明で,弁証は適切で,治療法則は厳格であり,方剤の組成は精密で,理法を兼備しているので,真に臨床実用に適合している。後漢以前の豊富な臨床経験を結集して,弁証論治と方薬配伍の基本原則を提供し,中医臨床の基礎を定めたのである。
 『金匱要略』の版本ほ色々ある。最初の註釈本は趙以徳の『金匱方諭衍義』である。清代以後は註家が次第に多くなり,比較的有名なものとしては徐彬の『金匱要略論註』,沈明宗の『金匱要略編註』,尤在涇の『金匱要略心典』,魏レイトウの『金匱要略本義』などがある。このほか周揚俊の『衍義補註』,『医宗金鑑・金匱註解』,黄元御の『金匱懸解』など多数のものが伝っている。
 専門註釈書以外にも,歴代の多数の医家がその著書の中に『金匱要略』の文章と方剤を引用して解説している。早くも唐代に孫思バク『千金要方』,王トウ『外台秘要』および『脈経』,『肘後方』,『三因方』が『金匱』から引用して述べている。その後,宋代の朱肱,金元の劉守真,李東垣,張潔古,王海蔵,朱丹渓などは,すべて各自の著書の中に『金匱』の方剤と理論を収め伝えている。例えば朱丹渓は彼の著書『局方発揮』の中で,『金匱』を非常に推奨して,「万世医門の規矩準繩」「引例推類これを応用して窮まりなしと謂うべし」などと称えている。喩嘉言『医門法律』,徐洄渓『蘭台軌範』などの著作は,『金匱』に対して独特の意見を述べている。
 比較的近代の『金匱』専門注釈書もまた少なくなく,枚挙にいとまがない程である。中でも日本の丹波氏父子の『金匱要略述義』,『金匱要略輯義』などの著作はよく知られている。
『金匱要略新解』は,連載したものを集めて,1980年に初稿が完成したものである。その註解はできる限り原文の精義に符合するように努め,文章は晦渋を避けてなるべく判り易いようにし,また『金匱』の方剤を臨床に用いた著者の治験例を適当に付加し,読者の参考に供した。
 昨年,私が講学のため東京を訪問した際に,東洋学術出版社社長山本勝曠先生と会い,『金匱新解』を日本で翻訳し,出版することを依頼された。これは大変に結構なことである。本書の出版は,両国の文化と医学の交流,友好の促進に,必ずや積極的な働きを作すものと信じている。

中国・杭州 何 任
1986年5月


前言

  『金匱要略』は,中国医薬学文献中の古典医籍の1つであり,『金匱要略方論』ともいい,『金匱要略』あるいは『金匱』と略称する。本書は後漢の張機の著作中の重要な一部である。
 張機,字・仲景は,2世紀頃に生れた。彼は博学多才で,『傷寒雑痛論』を著述した。『傷寒雑病論』は「傷寒」と「雑病」の2大部分から組成されていたが,原書は早い時期に亡失してしまった。医史学の考証によると,『傷寒雑病論』はもともと16巻であったが,晋代に王叔和が整理編成して『傷寒論』10巻とした。これは『傷寒雑病論』中の「傷寒」の部分である。「雑病」の部分は当時は発見されていなかったのである。宋代に至って林億らが『傷寒論』を校正し,『傷寒論』と『金匱要略』の両書を編成したのであるが,その序文の中に『金匱』は残存した虫喰い本の中から発見されたと記されている。これがつまり『傷寒雑病論』の「雑病」の部分なのである。
 『金匱要略』は中国医学の最初の内科雑病の書物である。その特徴は,比較的簡明に全体を22篇に分類し,各篇それぞれを独立させて注解していることである。当然のことながら,ある篇ではいささか矛盾する部分や,理解しにくい部分もある。2000年も前から伝えられた古代医籍であるから,これらの欠点は避けられないのである。
 弁証の方面ではかなり要点を押えていて,以下の病証が記されている。
 痙,湿,エツ,百合,狐惑,陰陽毒,瘧病,中風,歴節,血痺,虚労,肺痿,肺癰,咳嗽,上気,奔豚気,胸痺,心痛,短気,腹満,寒疝,宿食,五臓風寒,積聚,痰飲,消渇,小便不利,淋,水気,黄疸,驚悸,吐衄,下血,胸満,オ血,嘔吐,エツ,下利,瘡癰,腸癰,浸淫,趺蹶,手指臂腫,転筋,狐疝,蛔虫,婦人妊娠,産後雑病。
 作者はこれらの疾病の中で,病因や病磯の類似したもの,証候が似ているもの,病位が接近しているものを,大づかみに合わせて1篇としている。
 例えば痙,湿,エツの3病は,すべて外感によるものであり,発病時には多くは太陽病から始まるので,合わせて1篇としている。
 百合,狐惑,陰陽毒の3者は,あるいは熱病の転帰によるものであり,あるいは邪毒の感受によるものであるが,その性状が相似しているので,合わせて1篇としている。
 また中風には半身不随があり,歴節には移動する関節痛などの症状があるが,両者の病勢の進行状態は非常に変化しやすいので,往々にして「風」の字で形容され,その病機が似ているので,合わせて1篇としている。
 血痺病は外邪の感受と関係があるが,主な原因は陽気が阻まれ,血行がゆきわたらないために起るのである。虚労病は五労,七傷,六極によつて引き起される内臓気血虚損の疾病である。この両者は病機が相似しているので,合わせて1篇としている。
 また胸痺,心痛,短気の3者を1つに合わせたのも,病機と病位の関連によるものである。というのは胸痺と心痛の両者は,胸陽あるいは胃陽が不振のため,水飲痰涎が胸あるいは胃に停滞して引き起されたものであり,両者の病機と病位が接近しているので,合わせて1篇としたのである。
 驚悸,吐衄,下血,胸満,オ血などいくつかの病の発病の成り立ちと,心肝の両臓とは関係が深い。心は血を主り,肝は血を蔵しているので,心肝両臓の機能が失調すると,驚悸,吐血,衄血,下血あるいはオ血が引き起されるのである。そこでこれらの病を合わせて1篇としている。
 また消渇,小便不利,淋病は,すべて腎あるいは膀胱の病変に属しているので,合わせて1篇としている。
 また肺痿,肺癰,咳嗽上気の3者は,病機は同じでなく,証候も異なるけれど,すべてが肺の範囲に属する病なので,合わせて1篇としている。
 同じような事情で,腹満,寒疝,宿食の3者は病因は異なるが,発病部位はすべて胃腸と関係があり,しかもすべてに脹満あるいは疼痛の症状があるので,合わせて1篇としている。
 そのほか嘔吐,エツ,下利の3者は,発病原因と発病のしくみは同じではないが,すべてが胃腸の病証なので,合わせて1篇としている。
 上記の合篇以外に,瘧病,水気,黄疸,奔豚気などそれぞれ単一の篇がある。そのほか,趺蹶,手指臂腫,転筋,狐疝,ユウ虫などのように,単一の篇とすることもできないし,類似性でまとめるのも不適当だが,合わせて1篇としたものもある。「五臓風寒積聚病并治第11篇」は,主として五臓の発病の病理と証候を述べている。
 本書第1篇の「臓腑経絡先後病脈証」は,全篇の理論的基礎であり,すべての証候は臓腑の病理変化によって起ることを,臓腑経絡学説で明白に論じている。これはこの方面の問題についての概括であり,その基本的な観点は全書各篇の中に滲透している。それゆえ臓腑の病機をもとにして弁証を進めることが,本書の主要精神となっている。
 以上の内容から『金匱要略』1書を通観すると,本書は内,外,婦,皮膚科など各科の疾病にわたっており,更にいくつかの伝染病をも含んでいる。各種の病を必ずしも全面的に集めているわけではないが,すべてにわたって初歩的な規律による一定の分類がなされている。
 22篇の中には,重要なものと副次的なものとの差もあり,総則である「臓腑経絡先後病脈証第1」以外には,「瘧病」,「肺痿」,「肺癰」,「咳嗽」,「上気」,「胸痺」,「痰飲」,「嘔吐」,「エツ」,「下利」,「腸癰」および「婦人妊娠」,「産後雑病」などの病証は,すべて非常に重要な内容を含んでいる。しかし,「五臓風寒積聚病脈証并治第11」篇中の五臓風寒などのある部分は,必ずしも意味が明確でない。
 22篇中には400余の条文があり,200以上の処方(各版本の条文処方がすべて同じわけではない)がある。これらの処方の多くは古代の医師が臨床実践中に得たものであり,大多数の処方が現在でもなお中医師らの臨床治療の有力な武器となっている。
『金匱要略』は,臓腑経絡学説を基本論点として,証候はすべて臓腑病理変化の反応であるとしている。この基本論点は本書の脈法中にも現われている。疾病治療の方面では,人体内臓間の総合性をもとにして,未病の臓腑を治療して病勢の発展を予防することや,治病の根本として人体の正気を重視し,同時に去邪もゆるがせにしないことなどが,非常に重要な問題であるとしている。
 本書では方剤の運用面で,一方で多病を治療すると同時に,また1病の治療に数万を用いており,「異病同治」と「同病異治」の精神を具体的に示している。前述のように『金匱』の方薬は非常に有効であり,例えば蜀漆散が瘧疾〔マラリヤ〕を治し,大黄牡丹皮湯が腸癰を治し,沢瀉湯が水気病を治し,白頭翁湯が痢疾を治し,菌陳蔦湯が黄疸を治すなど,これらは現在でも我々が臨床に用いて良効を得ている。薬物の配伍の面でも,本書は独創的な所がある。
 『金匱要略』は,要するに分類が簡明で,弁証が適切で,治療法が厳格で方薬の組成が精密であり,理法を兼備した,実用にかなった本であり,中医の内科,婦人科の臨床上で,一定の指導的価値を持っている。『金匱要略』は中医学を学習するのに必読の重要古典の1つである。現在でほ中医学院で中医古典文献を学習する際の必修の本となっており,西医が中医を学習する場合にも,学ばなくてはならない医書の1つとなっている。
 筆者は1958年に,『金匱要略』22篇について,通俗講話の方式で,各篇を要約分析し,原文の精神を生かし,各家の注釈を参酌し,昔を今に生かすという主旨に従い,臨床実践にもとづいて,『金匱要略通俗講話』を著述した。これは読者が『金匱要略』に対する概括的な認識と初歩的な知識を修得して,それをもとにして更に原書を探求するのに役立てようとしたものである。

 いまこの『金匱要略新解』は,『金匱要略通俗講話』をもとにして,いささか原文内容を増加し,余分な文字を削除し,同時にある方剤については必要な臨床治験例を補充したものである。文字は読みやすく,理論は判りやすいようにし,原書に対するより一層の理解を助け,臨床実践に役立つことを期したものである。
 本書は,中医学院学生,「経文」を学んだことのない中医学独習者,臨床中医師,西医で中医学を学習している人達などすべてにとって『金匱要略』学習の際の参考書となるものである。
 本書の内容は,1978年から1980年にかけて『浙江中医学院学報』に「金匱要略浅釈」と題して連載し,非常に読者の好評を得たものである。いま浙江科学技術出版社によってまとめて出版されることとなった。多くの読者の御批判を希望する次第である。

勝 田 正 泰

日中傷寒論研究 (日中傷寒論シンポジウム記念論集)

本書について

 本記録集は,1992年2月22・23日の2日間, 北京市の長富宮飯店大会議場で開催された「第7回日中漢方医学シンポジウム」での全講演論文を収録したものである。
 本シンポジウムは,中華人民共和国衛生部の賛助のもとに, 株式会社ツムラと中華人民共和国衛生部医療衛生国際交流中心が共催し,財団法人日本東洋医学会が後援して開催された。本シンポジウムは1986年以来毎年1回中国で開催されてきた。過去6回は下記のように開催された。


第1回 1986年3月1~2日
第2回 1987年2月28日~3月1日
第3回 1988年2月27~28日
第4回 1989年2月25~26日
第5回 1990年2月24~25日
第6回 1991年2月23~24日  北京・中日友好医院国際会議場
北京・中日友好医院国際会議場
西安・解放軍第四軍医大学科学会堂
北京・友誼賓館科学会堂
北京・シャングリラホテル大会議場
北京・長富宮飯店大会議場

 本シンポジウムは,日本で使用されている漢方方剤の中国における臨床経験及びその使い方・考え方を学ぶとともに,日本における最新の医学及び漢方療法の研究・臨床成果を中国に紹介して,日中双方の理解を促進しながら,漢方医学の発展と普及に寄与することを目的として開催されている。毎回,主要疾患をテーマとして日中双方が特別講演,一般講演を行い,双方から質疑とそれに対する説明が行われる。
 今回は, 「痛みに関する漢方治療」といったテーマをもとに計14題の講演が行われた。日本より漢方の臨床経験豊かな臨床家と研究者約50名と報道関係者約10名が参加し,中国側からは約 400名が参加した。

傷寒論医学の継承と発展

張仲景学説シンポジウム

第1回大会に参加して

 詩経に「道は時と偕(とも)に行わる」といい,中国の詩に「野火焼けども尽きず,春風吹きてまた生ず」とある。悠久の歴史の流れは常に興亡消長を繰返しているが,陰陽論歴史観の流転に根ざしている。
 日本は7世紀のはじめより,中国の隋・唐・宋より金・元を経て,明・清の各時代の医学に学び,時とともに推移してきた。日本化された漢方医学は,18世紀以降江戸時代において,百花繚練乱と開花し,中国に劣らぬいくつかの研究が集大成されてきた。しかし19世紀明治初期になって,日本の漢方医学は国政の変革とともに法的抑圧に遇い,衰亡の一途を辿っていた。しかるに以来50年にして漸く復活の兆しを示し,いま興隆の黎明期に際会するようになった。漢方製剤の薬価基準登載によって,一般医師が漢方薬を採用すること多く,僅か数年にして,一挙に約数万を数える程になっている。
 中国においては,20世紀のはじめ,国民政府が日本と同じように漢方禁止令を発布してこれを禁圧しようとしたが,中医は団結してよくこれを克服し,革命後は中西合作の指導によって,30年間,中西医結合による新境地を開拓した。しかし,近年中国の医学界では新しい路線が協議決定され,中医・西医・中西医の3本建てとなり,丁度鼎の3本脚のように,バランスをとり,即ち鼎立してそれぞれの研究を進めてゆくこととなった。
 革命当初の中医の数は約50万といわれていたが,現在はその半数となり,このままでは伝統の中医学は自然に衰退することを憂え,新しくその基礎を確立し,後進を指導育成すべきであるとの主張が強く打ち出されてきた。
 その第1着手として,中医学の原典『傷寒雑病論』の著者,医聖漢の張仲景を最前線に高く掲げ,去る1982年10月18日より4日間に亘り,中華全国中医学会の主催で「張仲景学説シンポジウム・第1回全国大会」が,仲景誕生の地であり,三国史ゆかりの舞台でもある河南省南陽市において,華々しく開催された。
 中国側からは,全国各省の傷寒論研究者代表300名が選ばれて参加,その中より34題の研究発表があり,日本側からは,日本東洋医学会代表団13名中9名,日本医師東洋医学研究会代表団7名中2名が発表を行ない,発表後討論会が催されて,今後引続いて日中合同による相互提携交流の企画について懇談した。
 第1日の発会式では,日本東洋医学会代表団の持参した,日本における張仲景関係の医史資料6品と,参加者の著書24冊を一括して目録を添えて贈呈し,満場の拍手を浴びた。
 大会4日目,この日も雲1つない晴天に恵まれ,張仲景の墓祠を中心に新しく建築された,壮大な城廓を思わせる医聖祠・医史文献資料館の奥深く整備された墓碑前において,厳粛な追薦祭,日中両代表団の献花参拝,記念撮影,将軍柏の植樹祭などの行事が行われた。
 恰も日中国交正常化10周年,また日中平和友好条約締結4年に当たり,私は幸い毎年機会を得て,第4回目の招待訪中に参加,この大聖典に列席できたことは生涯の感銘であった。
 中医学会では,更に素問学説研究会を発足させ,中医学の原典に帰って徹底的再検討を続けるということである。
 南陽市は,その昔古都洛陽の栄えた頃は要衝の地であったが,10年前にはじめて鉄道が敷かれたという僻地で,その頃人口2万人の小都市であった。いまは26万人に膨脹したというが,街の佇いはまことに静かであった。しかも未開放地区でホテルと名のつくものもなく,私達には党の幹部の宿舎があてがわれるという予報だったので,心の中で案じながら到着したが,宿舎は新築間もない3階建ての南陽友誼賓館で,全員1人1室という思いがけぬ豪華な優遇ぶりであった。中華全国中医学会呂炳奎・任応秋両副会長ほか準備委員が北京より出張して,南陽市衛生局がこれに協力し,市を挙げての熱烈歓迎と万全の設営であった。
 漢方医学を学ぶ者が南陽市を訪れて心躍るのは,仏教徒がインドの釈尊生誕地や滅度の地を訪れて感極まるのと同じことである。
 この大会で多くの新しい交友関係が生れたが,私にとって特筆すべきことは,42年来著書や機関誌の交換,文書の往来をしてきた河北医学院楊医亜先生に初めて親しくお会いできたことであった。
 かって私達が昭和15年頃,束亜医学協会を結成し,漢方医学を通じて日中親善交流を主唱し,機関誌「東亜医学」を発行したとき,楊医亜先生は北京で「国医砥柱」誌を発行し,相互に交流を行っていた。当時,私達が中国の中医師で頻繁に学術交流をしていたのは,僅かに3人であった。
 私は翌日催された歓迎宴のとき,日本側を代表して謝辞を述べたが,その時楊先生のことにふれ,「40年来瞼の友」にめぐり会えた奇しくも嬉しい大会であったと述べて喝采を博した。楊先生も感激して,直ちに席を立って私のところにきて,しばらく握手の手を放さなかった。私の隣におられた任応秋先生から,その3人の名は,ときかれた。
 42年前,交流僅かに3名であったが,この度の大会には全中国代表300名が参加している。まさに今昔の感に耐えないことである。そのときの3人とも現在全国中医学会の理事にその名を連ねている。最長老は,南京薬学院副院長の葉橘泉先生で今年87歳,楊医亜先生は69歳,もう1人は長春市の吉林省中医中薬研究所名誉所長の張継有先生75歳である。
 「海内知己存す,天涯比隣の如し」,まことにこの言葉が実感として心に沁みたことである。
 3日目の朝,大会の運営委員代表から,このたびの日本訪中団の参加を永く記念するため,医聖祠内に記念碑を建立することになったので,仲景を賛える一文を揮毫して欲しいと紙墨が運ばれてきた。突然の申し出に恐カク困惑した私は,一日中部屋に籠って沈思黙考の末,次の如き文字をしたため,任応秋先生と団員に計り,これを任先生に委託した。南陽市を後にし,委員の方々に送られて洛陽に向い,龍門石窟や少林寺を訪れて,旅程10日間の帰路についたが,中国側の優遇は身に余るもので,この大祭典にめぐり合わせたことは生涯忘れ得ぬ,まさに千載一遇の幸運であった。ここに運営委員会の呂炳奎,任応秋両先生をはじめ,委員の先生方に対し,満腔の感謝を捧げ,さらに日中友誼の樹は常に青く,学術交流の水は長く流るることを衷心より祈るものである。

   張仲景敬仰之碑文

       医聖張仲景逝いて千七百六十余年

       傷寒金匱の論述燦として千古に耀く

       日中両国の後学故里南陽に参集し

       遺徳を翅謄して和気法筵に満つ

1982年10月21日
日中国交正常化10周年に当り張仲景学説シンポジウムに出席して
                 日本東洋医学会学術交流団代表
                 北里研究所附属東洋医学総合研究所長
                                 矢数 道明

傷寒論医学の継承と発展(仲景学説シンポジウム記録)

現代語訳 奇経八脈考

題記

 奇経八脈は経絡学説の重要な組成部分であり、早くも『内経』の各篇に散見されるが、『難経』では始めて集中的に解説されている。後の『明堂孔穴』には各経に連係する孔穴(_穴)が論じられている。『明堂孔穴』の原書は伝わっていないが、その内容は晋代の皇甫謐が編纂した『鍼灸甲乙経』の中に保存されている。このほか隋唐時代の医学書としては、楊上善の『明堂類成』残巻、王冰の『素問』注、孫思_の『千金方』、王_の『外台秘要』などがある。これらには当時はまだ見ることができた『明堂孔穴』の内容が、さまざまのかたちで伝えられている。そこで各書を参考にすると、『甲乙経』の経穴交会の記載を考証し補充することができる。
 奇経八脈と十二経脈との重要な差は、十二経脈はそれぞれ直属の経穴があるが、奇経八脈では督脈と任脈とを除くと、それ以外の衝脈、帯脈、陰_、陽_、陰維、陽維の六脈は、すべて十四経脈(十二経脈プラス任、督二脈)と交会していて、つまり交会穴があるのみである。交会穴は経絡と経絡との間の交通点である。奇経八脈中の督脈は各陽経と交会し、任脈は各陰経と交会し、その他の六脈は十四経脈のそれぞれと交会している。このため元代の滑伯仁の『十四経発揮』では十四経脈の循経と経穴が論述されているが、奇経八脈については詳しくは記されていない。明代の瀕湖李時珍はこの点を考慮して、特に『奇経八脈考』を著述した。これは文献を博く引用して旁証したこの方面の専門書である。
 奇経八脈の理論は鍼灸や気功などの医療実践の根源であり、これらの実際の指導にも役立つものである。歴代の医学書の中にも論述されており、特に道家では内気運行の通路として奇経が論証されている。李時珍は関係文献を博く捜し集めて、この奇経理論を大きな実り多いものとしたのである。
 『奇経八脈考』は完成してから、もとは『瀕湖脈学』、『脈訣考証』と合せて板刻され、幾度も出版されて後世の医家の絶大な称賛を受けた。清代の医家葉天士などは内科婦人科の弁証用薬の方面で大いに利用しており、これも本書の影響であるということができる。
 王羅珍医師は、ちかごろ上海気功研究所に勤務し、中医臨床から気功にも足を踏み入れたわけであるが、気功の学理は奇経八脈と関連が深いので、李時珍の『奇経八脈考』の探求が要務であると考えたのである。惜しむらくは同書に引用されている古代文献は必ずしも正確ではなく、あるいは原書がすでに散逸していて考証できないものもある。あるいは原書は現存するが、文字が不適当であったり、條文が乱雑であったりして読解しにくいものもある。その源流を明らかにするためには、全文に対して校注を作ることが何よりも必要である。出典を調べ、原文と照合し、異同を分析し、疑義を解釈するのである。
 書中の丹道家の言葉は、〔この分野に詳しい〕私の父とよく検討して可否を相談し、「返観」〔訳注:閉目して体内の臓器や経脈などを意念し観照することで、それで得られた情報により内気を調整する〕によって得たことを加えて指し示している。また原本には図はないので、清代の『医宗金鑑・刺灸心法要訣』と陳恵畴『経脈図考』を補入して、古典の意味を判りやすくしている。そのほか附図として巻末に新考証図を加えて形象を更に理解しやすいものとしている。校注に加えて処々に検討を加え、その趣旨をわかりやすくしている。
 巻末には本書引用方剤、交会穴総表、八脈八穴源流、および奇経八脈弁証用薬の探討なども記されている。本書には奇経学理の研究がおおむね記されているわけであり、本書の刊行は医療と養生の両面に大いに裨益するであろう。

李 鼎
一九八五年二月 上海中医学院にて

医古文の基礎

日本語版への序

  『医古文基礎』は1980年の初版以来、今日まで20年余を経過し、何度も版を重ねている。本書は、中国大陸で大いに読者の歓迎を受け、このたびさらに日本語版が出版されることとなった。これは我々の夢想だにしないことであった。当時本書を執筆したのは、北京中医学院(現北京中医薬大学)医古文教研室の5人の青年講師である。歳月は流れ、黒髪は霜雪に変じ、現在みな中国の著名な教授となっている。
 執筆当時の情景が昨日のことのように思い出される。1978年は中国の歴史における大変革の年であり、高等中医教育事業は飛躍的発展をとげ、教材の革新・充実・向上・改善が議事日程にのぼっていた。当時の北京中医学院医古文教研室の主任は劉振民先生であった。1978年の7月に、劉振民先生とともに広州・南京・長沙など各地の中医学院の医古文教研室を訪問し、医古文の教科書の革新・改善・向上に関して討議した。浩瀚な中国医学の古典はみな古代漢語で綴られており、滞りなく読み解き、広範なうえに精細な内容を把握するためには、古代漢語の基礎の構築が必須であるとの認識を深めた。それ以前の医古文の教科書は、「文選(古典選集)」と「語法」に重点がおかれ、各分野の基礎知識は軽視されていたので、中国医学古典が読める優秀な中医師を養成するという要請にこたえるようにはなっていなかった。医古文の教材に、工具書(辞典類)・版本学・目録学・校勘学・文字学・音韻学・訓詁学・句読・現代語への翻訳法、これらを増補して、学生にもっとも必要な古代漢語の基礎知識を身につけさせねばならいないとほとんどの医古文担当教師が考えていた。そこで1978年の8月に、新しい編集企画と立案構想にもとづいて、5人の青年教師が分担して執筆したのがこの『医古文基礎』である。本書が出版されると、すぐさま斯界の好評を博し、本科生(学生)や研究生(大学院生)の教材として採用する高等中医院校もあらわれた。
 1970年代末に、中国中央衛生部(日本の旧厚生省に相当する)は全国の高等医薬院校の教授の一部を組織して、20冊からなる『全国高等医薬院校試用教材』を編集した。その中に『医古文』がある。周篤文先生とわたしは、この教科書の編集作業に参加した。全国の高等医薬院校で共通して用いられるこの『医古文』には、『医古文基礎』に啓発された形跡がはっきりとみとめられる。この教科書には、「文選」だけでなく、古代漢語の基礎知識の内容も盛り込まれた。その「編集説明」は、「本書の内容は、文選・古漢語基礎知識・付録の3部門からなる。古漢語基礎知識の部分では、文字・語義・語法・古書の句読・古書の注釈・工具書の使用法および古代文化の常識について概説し、学生が医学古典を読解する能力を増進させるための助けとする」と掲げている。その後、衛生部と国家中医薬管理局の指導のもとに、さらに3種の全国高等中医院校共通の医古文の教科書が編集されたが、それらには例外なく古漢語に関する基礎知識が加えられた。これからわかるように、『医古文基礎』の編集形式と内容設定は、全国高等中医院校共通の教科書『医古文』の足がかりになり、雛型的な役割を果たしたのである。1980年代、衛生部と国家中医薬管理局の指導のもとに、底本の選定・校勘・訓詁・句読・現代語訳など、数百種にのぼる中国医学古典の整理研究が行われたが、『医古文基礎』と『医古文』共通教科書の「基礎知識」は、非常に重要な働きをしたのである。
 『医古文基礎』はつまるところ20数年前の著作であり、歴史的には建設的なはたらきをして、多数の青年学者を育成したとはいえ、「文選」に選んだ文章がやさしすぎたり、「古漢語基礎知識」の部分が簡略にすぎるなど、欠点や不足のところがあるのは否めない。
 中日両国は一衣帯水の友好的な隣国であり、『医古文基礎』は日本の中国医学古典の研究者や医古文入門者にとっても、閲読するに足る書物である。本書の出版は、両国の伝統的な友好関係をさらに深め、伝統的中国医学の向上と発展を推進するにあたり、大変有意義な企画である。初代日本内経医学会会長の島田隆司先生は、生前本書の日本語版出版のために、骨身を惜しまず多大な尽力をなされた。残念なことに先生はこの書が世に問われる前に、突然不帰の客となられた。まことに悲痛きわまりないことである。新たに日本内経医学会会長職をひきつがれた宮川浩也先生は、島田隆司先生の御遺志を継承し、ついに『医古文基礎』の日本語版の出版をなしとげた。このたゆむことなき誠実さに、さらに深く心打たれる。
 『医古文基礎』が中国と日本の医学文化交流をより強固にする紐帯あるいはかけ橋となり、中国と日本の伝統ある友好関係という燦爛たる花が、より一層艶やかで美しく咲くための一助となることを願ってやまない。

銭 超 塵
2001年 4月16日 北京中医薬大学にて


原書の前言

 中国医学は偉大なる宝庫である。そこには先人の数千年にわたる疾病との戦いの貴重な経験が凝集されている。中国の文化遺産の中でも最も活力があり、最も光り輝く部分である。万里を流れる長江や黄河のように、今日でもなお生き生きと、そして力強く新中国の生活を潤してくれている。
 しかしながら、4千種余り、7~8万冊を超えるこの貴重な遺産は古語で記されている。このことが中国医学を学習するための妨げになっている。この問題を解決するために、1959年より衛生部は関連中医学院を組織し、前後4回にわたり『医古文講義』を編集した。これらの教材が中国医学古典の学習に大きく寄与したことは疑いない。しかし、新たな長征(困難かつ壮大な事業)の進軍ラッパは、多くの人材の早急な育成を求めている。この要求に応じて我々の行ってきた仕事を点検すれば、そこに大きな隔たりがあることは明白である。今日熱心に中国医学を勉強する青年は甚だ多く、中医学院の生徒以外にも、多くの中国医学愛好者や西洋医学に従事している同志がおり、また中国医学文献の研究を志す青年もいる。彼らにとって、古典を読み文献を整理するための基礎知識とその研究方法を獲得することは焦眉の急である。こうした状況を鑑みて、北京中医学院医古文教研室が編集したのが、この『医古文基礎』である。
 古文を理解する力を早く養成するにはどうすればよいか。それにはどういった基礎知識を身につけたらよいのか。絶えず考え、模索すべき問題である。例文に語法の説明を加えるという従来の教授法では、範囲が限られているのみならず、咀嚼されすぎて、説明されれば理解できるが、説明なしでは理解できないことが多い。そのうえ学生が原文を消化吸収する力を鍛え、独力で研鑽し問題を解決する能力を育てるためにも不都合である。このため、1963年に工具書・目録学・版本と校勘・音韻学・訓詁学などの内容を加えて『古文入門知識』を編集し、基本的な訓練の強化を試みた。数年にわたって『古文入門知識』を副教材としたところ、かなりよい効果を収めることができた。さらに兄弟校での有益な経験を参酌し、整理・修正・拡充して本書を編集した。それは、中国医学古典の読解・整理に役立つことを目的とする。
 本書は上・中・下の3編からなる。
 上編は「文選」である。医話・医論・伝記・序文・内経・詩の6つに分け、洗練された、影響力の大きい、医学に関連深い代表的文章38編を収録し、医学関連書の文体を理解し、読解する能力を訓練するための導入部とした。
 中編は系統的な解説である。目録学・版本と校勘・工具書・句読・語法・訓詁学・現代語訳・古韻の8つの専門テーマを設けた。ここには、文献学・訓詁学と語法・工具書などの基礎的な知識が含まれている。これらは今までほとんど取り上げられることがなく、かなり難しく、水準が高い内容である。しかしながら、確実な研究基礎を築き、独力で研鑽し文献を整理する能力を養うためには、どうしても身につけなければならないので重点的に紹介した。それぞれのテーマの末尾に白文の練習問題を付し、学習効果を深め、古典に句読をほどこす能力を鍛えるための補助とした。
 下編は、虚詞要説・難字音義・古韻22部諧声表・中編の練習問題の訳文、である。虚詞要説では例文をあげて説明した。難字音義では難字の発音とその意味を明らかにした。古韻22部諧声表は調べるのに便利で時間が節約できる。練習問題の訳文は、白文を句読する際の参考とした。
 本書を編集するに当たり、陸宗達教授、任応秋教授および黄粛秋教授の御指導を賜った。また兄弟中医学院の多くの同志からも激励と協力が寄せられた。中医研究班での講義において得られた有益な意見も一部採り入れた。いずれもみな我々に多大な利益をもたらした。ここに謹んで感謝する次第である。しかしながら、浅学非才のため、欠点や不注意による誤りはきっと少なくなく、多くの読者からの御批判御示教を衷心より歓迎する。
 出版に際して、曹辛之同志に装丁の労をとっていただいた。とくにここに記して感謝する。

原 書 編 者


編訳者まえがき

「医古文」

 「医古文」は中国医学古典を読むための「語学」である。日本風に訳せば「中国医学古典学」になろうか。中国の人にとっては自国語の古文、私たちにとっては外国語の古文、それを読むための知識の提供が主たるテーマであるが、単に文章を読むことにとどまらず、辞典のこと、漢字のことなど広い範囲に及び、古典を読むために必要な総合的な知識が網羅されている。銭先生が序文でいわれる通り、「医古文」は多くの学生を育てた。近年、相継いで古典の活字本・現代語訳本が出版されているが、それを支えているのが「医古文」で育った学生である。現在の中医学の中心的な人材も「医古文」で育った学生が多数になりつつある。中医学の基礎体力は「医古文」で養成されていたといえる。わが国では「難しそう」を理由として古典は遠ざけられている。この古典アレルギーによって、大いなる知識の宝庫が埋もれているかと思うと残念である。なぜ難しいのだろうか。簡単にいえば、何のトレーニングもしていないからである。武器も能力もなく、素手で猛獣に向かっていくようなもので、敵わないのは道理である。古典アレルギーを治すには「医古文の学習」が最も有効だと考えている。

原塾と井上雅文先生

 昭和59年(1984)、島田隆司・井上雅文・岡田明三の3先生は、古典学習塾─原塾─を創設した。月曜日は『難経』(岡田)、火曜日は『素問』(島田)、水曜日は『霊枢』(井上)と、週1回の、今考えてみればハードな塾であった。井上先生は『霊枢』講座で『医古文基礎』を講義した。訓読しか(あるいは訓読も)知らない面々が、訓詁学だとか、音韻学だとか、新しい知識に驚き、圧倒された。先生は、誰より早く本書の重要性に気づき、誰より早く本書を題材にして講義したのである。かくして、本書はわが国でも第1の教材となり、少しずつ古典研究の世界に浸潤していった。学んだ者の数は中国には到底及ばないが、わが国でも『医古文基礎』で育った若者が相当いるはずで、今回の邦訳に参加した人の大半もその恩恵にあずかった者たちである。本書の邦訳の端緒は、すでに井上先生の講義に発していたといえる。先生の学識と先見性に脱帽する次第である。

『医古文基礎』

  『医古文基礎』は1980年の初版第1刷に始まり、最新のものは初版第6刷を数え、累計14万部に達している。いかに人口が多いといっても、この部数は驚異的である。中医学を目指す学生がこうした教材で学び、そして古典を学んでいるかと思うと、羨ましい限りである。近年のわが国の古典研究は、漢学の素養のある人に支えられてきた。最近はその人たちが少なくなり(皆無になり)つつあり、古典研究は重大な局面に直面している。本書がその対応策の1つになるだろうと思う。大多数の鍼灸学校では「医古文」の講座を設定していない。それを指をくわえて待っている時間的な余裕はないはずである。それよりもまず、本書で独学して、中国伝統医学の基礎体力を養うのが今のところの最善策である。その効力は、銭先生の序文に書かれている通りである。鍼灸学校や医科大学・薬科大学の漢方講座に、単に鍼灸・湯液の学問や技術だけでなく、教科として「医古文」が設定され、語学教育も重視されることを望むものである。
 本書は小冊子ながら内容が濃い。漢文を読むための知識に始まり、辞書類の使い方、版本や目録のことまで、幅広い知識が網羅されている。同系の書に、漢文を読むための知識を中心として編集され、内容がより専門的な、大型の『医古文』(人民衛生出版社)がある。専門性と分量からいって初学者には荷が重い。やはり、コンパクトで要領よくまとめられた本書が最適である。また、合理的な学問の方法も示されているので、回り道をしなくてすむし、迷路に入り込むこともない。いいかえれば、本書を学ぶことは、中国伝統医学を学ぶ近道だといえる。本書を訳出した最大の意義はここにある。

『医古文基礎』の構成と特徴

 原書は上編・中編・下編に分かれている。上編は文選(古典選集)で、医話、医論、伝記、序文、内経、詩の6部門を設定し、いろいろな文章を読むことを課している。中編は古代漢語を読むための基本知識を網羅し、総合的な知識の獲得を目的としている。下編は、虚詞の解説、難字の発音と意味、古韻22部諧声表、12種の文章(中編の各章末にある練習問題)の現代語訳、という構成になっていて、付録的な要素をもつ。その中でも虚詞の解説は大いに役立つ内容である。各編いずれも価値あるものだが、古代漢語を読むための基本知識が網羅されている中編を重点的に翻訳することにした。
 中編の内容は次の通りである。
   第1章 工具書の常識
   第2章 古書の句読
   第3章 語法
   第4章 訓詁学の常識
   第5章 古韻
   第6章 古籍の現代語訳
   第7章 目録学の常識
   第8章 版本と校勘
 特徴をあげれば次の通り。
(1)中国伝統言語学は、文字学(漢字学)・音韻学・訓詁学で構成されている。第4章の「訓詁学の常識」と第5章の「古韻」がそれに相当するが、文字学が設定されていないのは残念である。
(2)文字学・音韻学・訓詁学が古典の中身の学問とすれば、目録学・版本学・校勘学は外側の学問ともいえる。それを第7章・第8章に備えたのが本書の大きな特徴である。これらは、医学に限らず、中国古典を研究するために必要不可欠の基礎知識でもあり、用例が医学書から採用されていることを除けば、中国古典研究のための基礎を学ぶためには必修だといっても過言ではない。
(3)句読と語法学は、中国伝統言語学からみれば新しい内容で、とくに語法学は漢文を古代漢語(外国語)として扱うなら履修すべき学問である。
(4)第6章の「古籍の現代語訳」は私たちにはさほど重要ではない。

本書の構成

 以上の特徴を踏まえながら、第3章「語法」には下編の「常見虚詞解説」を組み入れ、第6章の「古籍の現代語訳」と各章末の練習問題を削除した。足りない「漢字学」は付録として追加した(段逸山主編『医古文』中の「漢字」の抄訳)。章の順序は基本的には原書のままとした。結果として次のような構成となった。
   第1章 工具書
   第2章 句読
   第3章 語法
   第4章 訓詁学
   第5章 古韻
   第6章 目録学
   第7章 版本と校勘
   付 章 漢字

参考書について

 本書は読者を初学の独学者に想定し、小型の漢和辞典を使いながら、何とか読み切れるような内容とし、専門用語はできる限りわかりやすい言葉に替えたり、注釈や補注をつけた。それでも難しさが残ったところがある。とくに「語法」と「古韻」の章である。『医古文基礎』は、当然のことながら、中国の学生を対象として執筆しているので、「語法」と「音韻」に関する基礎を省略している。それを補うためには、相当の紙幅と、それを遂行する能力が必要であるが、本書はいずれの条件も満たすことができないので、参考書を紹介することにする。その第1は、『中国語学習ハンドブック』(大修館書店)である。現代漢語から古代漢語までの基礎知識が網羅されているし、現代の文学・芸術、社会と生活などにも及ぶ知識が書かれているので役立つものと思われる。「音韻」だけでいえば『音韻のはなし』(光生館)があれば理解しやすくなるし、「語法」だけでいえば『全訳漢辞海』(三省堂)の付録「漢文読解の基礎」が役立つ。『虚詞』だけでいえば『漢文基本語辞典』(大修館書店)が有用である。参考書はいずれも書末に一括しておいた。

読者へ望むこと

 私たち、および私たちの仲間は、『医古文基礎』の原書を、中日辞典を片手に一字一字読み解いてきた。その結果、医古文学を学びとるだけでなく、さらに現代中国語に習熟することにもなった。つまり、『医古文基礎』の原書は現代中国語を学ぶ絶好の教材にもなっていたわけである。この日本語版は、その現代中国語を学ぶ格好の機会を奪ってしまった。これは大きな過ちだったのではないかと思っている。読むだけでも現代中国語には習熟しておいた方がよい。独学するなら、単純な方法であるが、適当な教材を見つけて一字一字読み解く方法をお薦めする。遠回りのようであるが必ず成果があり、のちのち必ず役立つはずである。
 医古文学は本書で語りつくされたわけではない。是非とも書末の参考書などにも目を通してもらいたい。現代中国語で書かれている参考書も多いが、ステップアップのためには読んでもらいたい。

荒 川   緑
宮 川 浩 也


凡例

(1)本書は、劉振民・周篤文・銭超塵・周貽謀・盛亦如編『医古文基礎』(人民衛生出版社)の中編の「第1章 工具書の常識」「第2章 古書の句読」「第3章 語法」「第4章 訓詁学の常識」「第5章 古韻」「第7章 目録学の常識」「第8章 版本と校勘」と下編の「常見虚詞選釈」、および段逸山主編『医古文』(人民衛生出版社)の「第2章 漢字(部分)」を訳出したものである。
(2)原書には( )内に注釈が施されていたが、分量が少ないので本文に組み入れることにした。本文に組み入れることができなかったものは(原注: )とし、不必要と思われるものは削除した(注音など)。
(3)翻訳にあたり、新たに( )内に訳注を補ったが、長文のものは脚注とし、分量が多いものは補注とし書末に付した。
(4)原書では出典を示すのに、書名だけだったり篇名だけだったりと統一されていない。本書では書名と篇名を併記することにしたので、書名あるいは篇名を補った。また、著者名も補った。この場合、訳注を表す( )を用いなかった。
(5)原書の引用文は次のように処理した。
 (1) 原文が必要であれば、訓み下し文と並記した。
 (2) 原文がなくとも差し支えない場合は、訓み下し文だけにした。
 (3) 原文にも訓み下し文にもこだわる必要がなければ、意訳文とした。
(6)書影1から書影9は原書では活字化されているが、本訳書では原本の書影を採用した。書影10は編者が補った。
(7)原書には、引用文等に誤字・脱文が散見する。明らかな誤りとみなしうるものは訂正した。その場合は訳注をつけなかった。説明内容に沿ったものであれば敢えて改めなかった。

中医学の基礎

まえがき

 日中の国交回復以来,伝統医学の分野でも交流が盛んになり,中国での伝統医学の在り方と中医学の活発な現況が知られるようになるにつれて,日本の医療従事者の間にも,中医学を学ぼうという機運が高まってすでに久しい。中医学は独自の体系をもっており,系統的に中医学体系を理解するためには,学習の入り口である中医基礎理論の習得が不可欠である。しかしながら,日本で中医学を学ぼうとする者にとって,系統的な教育を受ける機会は極めて少なく,その習得は各自の独習にゆだねられているのが現状である。このため,初心者にとってわかりやすく効率的に学べる基礎理論の学習書が強く求められている。
 1991年に東洋学術出版社から刊行された『針灸学』[基礎篇]は中医針灸学を学ぶ者が,基礎理論を学ぶ入門書として企画されたが,編集方針の上でも編集作業の進め方の上でも画期的な書であった。すなわち,日中両国で中医学・針灸学を教える立場にある編集スタッフにより,日本の初学者のために学ぶべき項目と順序が吟味され,日本側の要望にもとづいて,天津中医学院の教員スタッフが草稿を作成し,両者で検討を重ねた上で,東京衛生学園中医学研究室のスタッフにより翻訳され,最終的に兵頭明氏の監修により脱稿された。このようにすぐれた企画のもとに,ていねいに編集が進められた同書は,きわめて時宜を得た出版物として,広く針灸界に受け容れられ,版を重ねていると聞く。
 『針灸学』[基礎篇]の内容がすぐれており,入門者の学習に適していることに鑑み,筆者は針灸学を学ぶ者ばかりでなく,漢方薬を用いる湯液治療家にとっても基礎理論の教科書としてふさわしいものと推薦してきた。しかし,湯液治療にとって重要な外感熱病弁証の記述が不足しているなど,物足りない部分があるのは仕方のないことであった。
 『針灸学』[基礎篇]が高い評価と広範な支持を得たことにより,同書をもとにして,中医学基礎理論の書を再編集しようとする企画が持ち上がったのは,時代の要求に答える必然ともいえることであった。当初,その再編集の作業は,部分的な手直しをすれば事足りるとも考えられたのだが,再結集した編集スタッフの間では,折角新たに出版するのであれば,内容を全面的に見直し,さらにわかりやすさと読みやすさを追求した,より理想的な基礎理論書に仕立て上げようという欲張った方針が,一致した意見として採用された。
 『針灸学』[基礎篇]の編集スタッフのうち,日中それぞれの代表であった兵頭明氏と劉公望氏に加えて筆者と路京華氏が監修者として新たに参加することとなった。筆者は漢方治療を専門とする臨床家である。漢方医学を学んだ後,中医学を独習し,後に北京の中医研究院広安門医院に留学した。基礎理論は,主として中国の統一教材で自習したが,留学中に臨床研修のかたわら,中医研究院の冉先徳氏(四川の老中医,冉雪峰氏の子息)に統一教材の『中医基礎理論』を教材として,一対一の贅沢な講習を受けた。筆者の質問を冉氏に答えていただくという形で講習を進めたので,長年の疑念をいくつも解決できるなど,筆者にとっては有意義な学習体験であった。また,路京華氏は,高名な北京の老中医,路志正氏(筆者の留学中の恩師でもある)の子息であり,現在日本で中医学の普及と教育を主な仕事としている。路氏に監修をお願いしたのは,中医師としての路氏の特異な経歴による。文化大革命の教育破壊の被害世代に当たる路氏は,中医学院での教育を受けることなく,尊父路志正老中医に学んで中医師となり,文化大革命の終焉後,再整備された中医研究院の大学院に進み,最高峰の臨床中医学を学んでいる。すなわち,中医学院の統一教材を金科玉条とすることなく,『易経』や『黄帝内経』などの古典にもとづく基礎理論を身につけている。『針灸学』[基礎篇]の内容に満足することなく,厳しい視点で見直し作業を進める上で,路氏が大きな戦力となってくれた。
 編集作業は,兵頭氏・路氏・筆者があらかじめ原書の『針灸学』[基礎篇]の内容の問題点を吟味し,三者が集まって持ち寄った問題点を検討するという形で進められた。できるだけ早く基礎理論の学習を終えられるようにわかりやすい内容を追求するとともに,正確な内容になるよう心掛けた。原書は日本の初学者向けに大きな配慮が払われてはいるが,当然中国の統一教材を骨格としている。初学者向けの説明として,現代医学の知見を援用してあいまいな表現になったり,理論の整合性を追求するあまり『黄帝内経』などの記載と矛盾する無理な解説が施されるような部分も見られる。不正確で過剰な説明を削ぎ落とし,簡潔な表現に改める作業が主となったため,全体には贅肉を削る内容となった。また,全面的に書き改めたり新たに書き加える部分も三者で検討して,こちらの要望にもとづいて中国側に出稿してもらうか,兵頭氏があるいは筆者が執筆するかを判断した。中国からの新たな原稿は,兵頭氏が翻訳に当たった。
 時には劉公望氏の参加も得て,日本側の編集姿勢を理解していただき,このような検討会を10回重ね,ようやく全面的に見直すことができた。問題点ひとつの解決に,3人で多数の書を調べながら討論しても,結論を出せずに次回への宿題に残したことも少なくなく,路氏の指摘する問題点が,統一教材の常識にまみれた筆者の頭では理解できず,路氏の根気のよい説明でようやく問題が認識されたり,問題点が浮かび上がっても正確でわかりやすい説明に差し替えるのに四苦八苦したり,と作業は必ずしも順調ではなく,毎回毎回ヘトヘトに疲れ切ったことが,今では心地よい思い出としてよみがえってくる。原書に翻訳調の文体が残っていたため,日本文として読みやすくするため,まず出版社のスタッフに文体の全面的な訂正を委ね,最終的には校正段階で兵頭氏と筆者とで読みやすい表現を心掛けて大幅な修正を加えた。
 本書は,このようないきさつで成立した。監修者たちは誠心誠意取り組んだが,さらにわかりやすい書を目指すべきであろうし,まだまだ見直すべき内容も含んでいるだろう。諸賢のご批判を仰ぐ次第である。原書が針灸学の教材として広く受け容れられたように,本書も中医学の初学者や独習者に,中医学の体系を理解する基礎教材として活用していただければこのうえない喜びである。

監修者  平 馬 直 樹

やさしい中医学入門

はじめに

 私が今回この本を著述しようと考えたきっかけは,日本ではまだ中医学を学べるシステムが確立されておらず,かといって独学で学ぼうと思っても,初めての人に適したやさしい入門書が見当らなかったことがあげられます。
 よく現代医学はミクロを分析する医学であり,中医学は人体を全体的に見るマクロの医学だといわれます。私はこのマクロの医学を学習するには,マクロの観念である統一観念や系統観念が身につくように,常に全体のつながりを考えながら,各部分を学習することが必要だと考えています。
 何故なら,中医学の内容が豊富すぎるため,独学では全体のつながりからみて,重要な部分とそうでない部分が区別できず,興味のある部分は詳しく知っているが,そうでない部分はあまり知らないという人が多いように感じたためです。このような人が臨床にあたると,自分の知っている部分からしか判断ができないので,かたよった診断をしがちになります。
 例えば,病邪が人体を障害した場合の病証は実証であり,瀉法を施して治療することは知られていますが,これと同じような症状が出現していても,臓器機能が減退している場合の病証は虚証なので,補法を施して治療しなければなりません。しかし診断にあたって生体生理の知識は充分であっても,病邪の知識が不充分であると,虚実の判断ができずに,病証はすべて虚証にみえてしまいます。このことは私自身が中国で臨床実習した際に体験した問題であり,帰国いらい講座や臨床で指導してきた経験からも,日本で独学している人に共通した最も多い問題点であると思います。
 そこで私がベストと考える中医学の学習方法は,始めは最低限のことだけでかまわないから,とりあえず基礎生理から弁証までを通して学び,全体のつながりが分かってきたところで,内容を深めて再度基礎から学習し直すという方法です。
 本書は中医学の基礎生理を学ぶためのものですが,最初に中医学全体の構成を把握してもらい,臨床にあたるまでにどれだけの内容の習得が必要であるかを知ってもらうように配慮しています。そして基礎生理の学習については,中医学全体のつながりを考慮したとき,最低限必要だと考えられる範囲にしぼって学べるようにしたつもりです。
 初めて中医学に接する方々に,少しでもわかりやすく学習できる本になれば幸いです。

中医診断学ノート

はじめに

 私は1984年,中華人民共和国南京中医学院に留学しました。この本は,その際に受けた授業をもとに,「中医診断学」の内容をわかりやすく整理したものです。
 「中医診断学」は,中医基礎理論を臨床に応用するための橋渡しを担う学科です。中医学における診断とは,四診と弁証の方法によって疾病を認識するものですが,そのためには当然,中医基礎理論を理解していなければなりません。また,中薬学,方剤学も学習する必要があります。本書は,すでにそれらを習得した人を対象としていますが,基礎理論に関しては,必要と思われる箇所に,簡単な説明を加えました。本文中に記載した方剤に関しては,その組成を巻末に紹介してあります。
 授業について少し触れたいと思います。
 中医学院での教学方法は,系統的に教えることに重点がおかれ,概念を明確にし,比較・対照によって理解を促すという方針にのっとったものでした。毎回の授業に対しては,復習課題が与えられ,それらは学生間の討論によって相互に検討され,教師がそれを総括します。その上で,理解を完璧なものにするため,補習の時間が組まれていました。これは他の課目についても同じです。
 このような徹底した教学システムに加えて,指導する先生方の熱意はすさまじく,それを受ける学生の側もまた,極めて勤勉でした。まだ日の明けやらぬ早朝の校庭では,教科書を片手に,古典の条文やら,中薬,方剤の暗記に励む学生の姿が,あちこちに見うけられました。
 留学生に対しては,特別に配慮された指導が行われ,授業の際は私たち1人1人の隣に選ばれた優秀な学生がついて,学習の手助けをしてくれました。また,留学生だけを対象にした補習の時間ももうけられ,各科とも担当の先生が直接指導して下さいました。
 当時,日本人留学生は3人。それも,日本からは初めての留学生でした。私は,中医学の勉強を思いたつや,いきなり中国に渡ってしまったわけですが,このような恵まれた環境の中で勉強できたことは,とても幸運だったと思っています。
 留学から帰って始めに考えたことは,何とか,この中国での素晴らしい授業を再現できないかということでした。幸いにも,東洋学術出版社社長,山本勝曠氏がその機会を与えて下さいました。心より感謝申し上げます。さらに,編集,レイアウト等を含めて,思いどおりの本をつくらせていただけたことも,重ねてお礼申し上げます。
 中医学は,非常に実際的な学問だと思います。古い伝統医学が,より多くの人に実践できるよう体系づけられ,現在に活きていることに,私は敬服します。その意味で,この本も実際の応用に便利なように,複雑な内容をできるだけ整理したつもりですが,気持ちのみはやって,十分なものができたとは言えません。内容に関しても,理解不足の点がたくさんあると思います。今後の課題として,努力して勉強を続けていくつもりです。
 帰国後すでに2年を越す月日が流れました。南京の街を緑でおおう街路樹の美しさを,今でも忘れることができません。
 本書の出版にあたり,南京中医学院の諸先生方,特に,診断学の王魯芬先生,基礎理論の王新華先生,宋起先生,中薬学の陳松育先生,方剤学の恵紀元先生,張浩良先生,瞿融先生,共に学んだ83年級,84年級の同学たちに,深く感謝の意を表します。また,帰国後御指導いただく機会に恵まれました,胡栄先生,王昌恩先生にも,厚くお礼申し上げます。
 日中間の医学交流が,今後益々盛んになることを願いつつ……。

内 山 恵 子
1988年 春


本書を読む人に

内 山 恵 子

●内容について

 本書は,「四診」と「弁証」の2篇に別れている。四診篇は,文章による説明を極力避け,内容の簡略化を図った。弁証篇は,各証候の特徴を理解しやすくするため,概念,病因病機,症状,分析,治法,方薬等の項目に分けて,整理してある。その他に,鑑別のポイントとして,証候間の比較を試みた。また,臓腑弁証以後では,各病証の症状を表にまとめてあるので,各自で比較してみると良いと思う。
 授業では,四診については舌診と脈診,弁証については八綱弁証と臓腑弁証に力点がおかれた。六経弁証,衛気営血弁証,三焦弁証については,臨床における実用的価値からみて,他の弁証方法ほどは,重要視されなかった。本書もこれにしたがい,六経及び衛気営血弁証は,概略を説明する程度にとどめてある。三焦弁証については,衛気営血弁証と重複する点が多いため,また紙面の都合もあって省略した。

●中医学用語について

 中医学用語については,できる限り注釈をつけるよう心掛けた。その内容は,基本的には授業の際に受けた説明に基づいているが,他に,中医研究院,広東中医学院合編の『中医名詞術語選釈』も参考にした。読み方は,創医会学術部主編の『漢方用語大辞典』にしたがった。
 中医学の病名については,一部に簡単な注釈をつけ加えた。場合によっては,類似した西洋医学の病名を付記したが,これは,カッコをつけて区別してある。

●その他

 本文中に出てくる--→は,ある病証において,一般的な状況ではみられないが,はなはだしい場合に生じる症状の前につけてある。あるいは,単に症状の悪化を意味している場合もある。
 四診篇に出てくる“脈象の比較”の図は,劉冠軍編著の『脈診』に収載された28脈の模示図に基づいている。

●再版での修正部分

 再版にあたって,いちぶの誤字を修正した。また,末尾に方剤索引を新たにつけ加えた。

[詳解]中医基礎理論

日本語版のための序文

 私が東京で講義を行っていた1994年に,東洋学術出版社の山本勝曠氏の来訪を受けて初めてお会いした折り,同氏が,拙著『中医基礎理論問答』を日本の医学界の同道の士に紹介したいと考えていることを知った。これは中日の中医学交流にとって実に素晴らしいことである。山本氏は博識豊富で,長年来,中医学の学術交流と出版事業に尽力し,わが国の中医界からも高く評価されておられる方である。酒を酌み交して歓談し,伝統医学の発展と前途について思う存分話し合い,おおいに意気投合した。知り合ったのは最近でも,旧知の如く親しくなれたのは,これもまた人生の楽しみと言えよう。
 原著『中医基礎理論問答』は1980年に書かれた。本書は本科,研究科,西学中班(西洋医が中医を学ぶ班)の学生が抱いていた疑問に答え彼らの迷いを解くのに適したものであった。本書はまた当時の中医理論の教学に存在していた一部の概念や疑問点に対し,初歩的な検討と解釈を試みたので,中医学の教学の実践と理論研究に有益なものであった。1982年の出版以来,何回も増刷され,発行部数は10万冊を越え,国の内外に広く流布し,医学界の同道の士の推奨を博し,清新な観点で透徹した論述の優れた著作であるとのお褒めを戴いた。内容が不十分で名実が伴っていないのではと当初は思っていたが,確かに中医の教学と理論研究に対して一定の啓蒙作用と疑問を解く作用を果たしたことを鑑みるとき,その功績は決して無に帰すことはないと,今では,なんら臆することなく言うことができる。
 しかし,指摘しておかなければならないことは,本書を撰述した時期は,中医理論の整理の初期段階であり,その当時の情勢の影響を受けて,その思想観点の一部には偏った所が存在することが避けられなかったことである。特に陰陽五行学説の内包性に対して,まだその発掘と整理が充分なされていなかったことと,気一元論(元気論)などの重要な内容に言及しておらず,欠如させてしまったことである。したがって本書は内容において,前半は疎略,後半は詳細といった誤りを犯している。
 この13年来,中医理論は系統的な研究の面で著しい成果を収め,理論観点も絶えず深まり完成の域に近づいてきたので,今回の日本語版出版の機会に,緒論と陰陽五行の部分に対し,必要な拡充を行った。主要な補充は,中医学理論体系の中の唯物弁証観,中医学の基本研究方法,気一元論(元気論),陰陽五行学説の源流・沿革・発展,五行の制化と勝復調節,陰陽五行学説の現代的認識,陰陽学説と五行学説の相互関係及び総合運用などである。このように中国語版の不足を補ったことによって『中医基礎理論問答』は,日本の医学界の面前にまったく新たな姿で登場することとなった。中日両国の医学界の友人が,相互に切磋琢磨し,手を携えてともに歩み,中医学の理論体系の発展のために共同して奮闘努力する上で,本書はその一助となるであろう。

劉 燕 池
1995年8月 北京中医薬大学において


原著まえがき

 中医学の基礎理論を深く掘り下げて学習し全面的に把握することは,中医学のその他の各部門を学ぶための基礎となる。中医学理論の基本概念・基本内容・基本法則・基本方法を正確に理解し体得することはまた,中医学の基礎理論知識を的確に学ぶためのカギである。とりわけ学習過程において分からない問題を解決することは,学習に対する熱意を鼓舞し,学習の進度を速め,学習のレベルを高めるうえで,ことさら重要な意義を持っている。
 筆者は長年にわたって中医理論の教学と臨床実践に従事し,学生が提起した質問や疑問に対して答え,また世間の人が手紙で質問してきた基礎理論に関する問題に書面で答えてきたが,そうしたことを通じて,中医学の基礎理論における一部の概念や疑問点に対してはさらに研究を行い,討論を深める必要性があることを強く実感した。そこで,これまでの中医学院本科および西学中班(西洋医が中医を学ぶ班)の基礎理論の教学過程で,学生が提起した問題と一般の人が手紙で訊ねてきた問題の一部を集め,学院と教研室の関係各位の積極的な支援の下に,本書を共同で編纂執筆した。その意図するところは,中医理論の教学の中の一部の概念や疑問点に対し,一定の深みと幅をもった検討と解答を行って,学生,教師,及び中医理論を自習し研究している同道の士の学習の手助けとなり,おおいに益するものとなることにある。
 本書は中医学院本科や西学中班の教学指導の参考資料となるだけでなく,中医基礎理論を自習する者の補助参考書となるであろう。
 本書で取り上げている問題は一定の普遍的意義をもっている。また,その解答内容は当面の中医基礎理論教材に立脚しているだけでなく,中医理論体系を尊重し伝統的概念を明らかにするという基礎を踏まえている。さらに本書は一連の新たな見解や解釈を試み,できるだけ掘り下げた内容を平易な表現で示し,また全般的視野を持って特定の意見に偏ることを避けるようにしているので,中医学の基礎理論の問題を深く理解し把握するという目的に合致するものである。しかし,我々の教学レベルには限りがあり,医療経験も不足しているので,問題をはっきりさせて解答する点において,欠点や誤り,さらには曖昧な所が存在することは充分に考えられることである。したがって広範な読者諸氏のご批判とご指導を切に仰ぐものである。
 本書の執筆と編纂の過程で賜った,任応秋教授,印会河教授,程士徳助教授のご指導とご校閲に対し,ここに感謝の意を表する。

編 纂 者
1981年3月 北京中医学院において


本書の発行にあたって

 本書『詳解・中医基礎理論』は,『中医基礎理論問答』(上海科技出版社1982年刊)を底本として全文を翻訳したものである。ただし,巻頭の「緒論」と「気一元論・陰陽学説・五行学説」の部分は,本書主編者の劉燕池教授が,日本語版のために特別に全面的に書き改めたものを翻訳した。
 本書の原本が出版された80年代初期は,文革によるさまざまな制約から解放された中医派が,中医の再興を目指して最も精力的に活躍した輝かしい時代であり,歴史に残る優れた書籍が数多く出版されている。本書は,そうした活気に満ちた時代に,当時の最先端を行く執筆者たちが全精力を注いで書いた極めて意欲的な書籍である。
 本書は,創設されたばかりの大学院の学生向けに,中医学の真髄をより深く理解させるために編纂された中級用副読本である。初級用教材『中医学基礎理論』を学んだ学生たちが,貪るように読んだといわれる。教科書についで最も多く読まれた定評ある本である。
 初版原本の哲学部分は,文革時代の思考方法が色濃く残っていて,今日の時代思想と合わない表現が随所に見られたため,95年にちょうど来日された劉燕池教授に相談をし,新たに書き下ろしていただいた。原本よりも相当字数が増えたが,約10年間に発展してきた中国の研究成果が十分に盛り込まれており,新鮮な内容となっている。陰陽・五行学説を統合する形で新たに「気一元論」が加えられ,気の位置づけがより鮮明になった。五行学説の項は,これまでの平面的・静止的な五行関係が立体的・動態的なものとして描かれている。そのほか,全体を通じて大変充実した内容であるが,「症例分析」の項はとりわけ本書の特色をなすもう1つの部分だろう。中医学基礎理論を学んだあと,その知識を臨床にいかに応用するかは,われわれ日本人にとって一番の関心事であるが,このような問題に親切に応えてくれる書籍は残念ながら,中国ではあまり出版されない。一挙に高レベルな老中医の医案集になってしまう。多分,そのような初級から中級への過程は,大学の臨床実習において教師が丁寧に教えてくれるからだろう。われわれが接した数多くの書籍の中で,本書が唯一われわれの願望に応えてくれる書籍である。「症例分析」の項は,症例を挙げて,中医弁証論治の進め方を実に丁寧に解説してくれている。読者にとっては,この症例分析のモデルがきっと臨床へ進むにあたっての水先案内になってくれるであろう。
 本書は,複数の訳者が翻訳をし,浅川要氏が全体の統一と監訳を行ない,編集部が日本語表現において修正を加えた。

東洋学術出版社 編集部

中医弁証学

序文

 教材の制作は,中医高等教育事業の基本事業の1つであり,また資質の高い人材を育成する鍵となるものである。中医学院の創立30年来,中国では全国の統一教材を制定してきたが,これは中医学理論の系統的な整理および教育の質の向上に対して,非常に良い作用を発揮してきた。しかし社会の発展につれて,中医高等教育に対してより高い要求が課された。もともとの中医教材の学科構成は,基本的に宋代以来の学科分類にもとづいたものであり,ある種の自然発生的傾向と不合理性が存在することは免れず,すでに現在の教育,臨床,科学研究のニーズに適応できなくなっている。中医学科の分化の改革は,時代のニーズに応じるべき時期にきており,また建国以来の中医学のたゆまぬ発展も,学科の分化を可能ならしめている。
 1984年,我々は全学院の教員と学生により中医基礎学科の分化問題について,真剣な討論と研究を行った。その結果,まず中医学導論,中医臓象学,中医病因病機学,中医診法学,中医弁証学,中医防治学総論,中医学術史等の新しい中医基礎学科を提案し,関連する専門家の判断をあおいだ後,本学院の専門教師を組織して中医基礎学科系列教材の執筆に着手した。このプロジェクトは衛生部中医司の指導者の支持と承認を得ることとなり,2年余の努力により現在,この一系列の教材をついに世に問う運びとなった。
 この教材シリーズは次の10学科からなる。
  『中医学導論』は主として中医学科の性質,特徴,学科体系,中医学の古代哲学基礎などの内容を紹介している。
  『中医臓象学』は主として人体の組織構造と生理機能活動の法則を論述している。
  『中医病因病機学』は主として疾病の発生の原因と変化の一般機序について述べている。
  『中医弁証学』は主として中医弁証の理論と方法について紹介している。
  『中医診法学』は主として中医の疾病診察の一般法則と方法について述べている。
  『中医防治学総論』は主として中医の疾病予防と治療の原則および方法について述べている。
  『中薬学』は主として中薬の理論と応用知識について紹介している。
  『中医方剤学』は主として方剤の組成原則と成分,効用,適応範囲について述べている。
  『中国医学史』は主として中国医薬学の起源,形成と発展の史実について述べている。
  『中医学術史』は縦横2つの方面から中医学術理論の形成と発展法則について述べている。
 我々がこの教材シリーズを執筆した主旨は,学科の性質と研究範囲にもとづき,中医薬基礎理論の知識を系統的に分化,総合することにある。内容的には歴代の中医学の精華をできるだけ総合し,現代研究の成果を反映させるように努めた。さらに全国統一教材の成功した経験を取り込み,中医薬学の特色の保持と発揚に努めることにより,教育,臨床,科学研究のニーズを満たすように努めた。
 このような中医基礎学科の分化改革という仕事は,我々にとってはまだ初歩的な試みである。いろいろな点において,問題があることは避けられないことである。多くの読者からこの教材に対しての貴重な意見をいただけることを切望する。

上海中医学院
名誉院長 王 玉 潤
院長 陸 徳 銘


まえがき

 中医弁証学の起源は『内経』にあり,『傷寒卒病論』で成熟して今日に至っている。その歴史は2000余年におよび,たえず中医学の基本的な内容の1つとされてきた。しかしながら1つの独立した学科となったのは,近年において中医学科が分化するなかにおいてである。弁証学は,1つの中医基礎学科である。この学科は中医臓象学,病因病機学,診法学を基礎にして,中医弁証の理論と方法を研究する学科であり,臨床各科の弁証論治のためのものである。
 本書は本学院が執筆した中医基礎系列教材の1つである。本書は総論と各論からなり,総論では症,証と弁証という3つの基本問題について論述しており,弁証の理論的基礎,弁証の内容と方法および弁証の綱領である八綱について詳細に論述を行った。各論は病邪弁証,病性弁証,気血陰陽弁証,病位弁証,臓腑弁証,経絡弁証,六経弁証,衛気営血弁証,三焦弁証といった内容を含んでおり,260余りの証候について論述を行った。病邪弁証から始まり,簡単な内容から複雑な内容へと論述を進め順序だって学習が行えるように配慮した。それぞれの証については,その主症,症状・所見,証状分析,本証の進行と影響,関連する証候との鑑別,弁証ポイントが紹介されている。
 本書では八綱を弁証の綱領として位置づけ,臓腑弁証の内容を充実させており,さらに奇経八脈弁証をつけ加えている。それぞれの証候の主症をはっきりと提示し,証と証との間の関係と区別を明確にしている。内容を詳細で確実なものとし,臨床の実際に符号させ,臨床で活用できるように努めた。
 弁証学という新しい教材を執筆することは,初めての試みである。その内容は複雑であり,執筆にあたって若干の誤りは避けがたいところである。読者の批評ならびに指摘を歓迎する次第である。

編 者
1987年4月

中医病因病機学

序文

 宋鷺冰教授主編の『中医病因病機学』は,中医病因・病機学における学術成果を,系統的かつ余すところなく継承した著書であり,本学科における学術レベルの高さを示すものです。本書を広範な読者の皆様にご紹介できることは,本書のプロデュースに携わった者の一人として,喜びに耐えません。
 分化と統合とは,科学を発展させるために不可欠な要素であります。中医学は,『内経』および『傷寒雑病論』が登場するに及び,中国医学史上第一段階の統合を果たすとともに,天人相応論という総体論と,弁証論治とを統合することにより,科学的な医学体系を作り上げました。そして仲景以降,隋,唐に至るまで,科学・文化の発展にともない,中国医学は一貫して科学的分化を発展させてきました。その結果,『諸病源候論』のような,病因病機学の専門書を生み出し,13の臨床学科を創設しました。統合と分化は,中国医学の発展を促すとともに,これを地域的な民族医学から,東洋の医学へと押し上げました。
 ところが,唐,宋以降は,中薬学と温熱病学が発展したほかには,これ以上の細分化や高度な統合は見られなくなりました。中医学は,中国文化と共生してきたという歴史の制約を受けているために統合性は高いが,分化という面,特に理論面での分化は,立ち後れています。それが中医学の発展を遅延させる一因ともなっています。
 古代に形成された原初的理論を系統的に整理・研究し,専門書および新しい学科を創設し,中医学をさらに細分化することは,研究を促し,人材を養成して,中医学全体を発展させます。そしてこれこそが,本書を編集した目的であります。
 いかなる科学も,過去業績を継承することによってはじめて発展します。しかし,継承は目的ではなく,科学発展のための手段にすぎません。多くの専門家,老中医,青年中医が一堂に会し,テーマを選び,整理研究と討論を繰り返すことは,古代医学家と現代の専門家の経験を継承し,人材を養成するための有効な手段となります。『中医病因病機学』は,このような方法によって目的を達成しようとするものです。
 ただし,科学研究とは,とりもなおさず創造的な作業であります。中国医学を継承発展整理・向上させることは,長い年月を要する壮大な事業であり,本書だけで完成できるものではありません。したがって,本書は,千年の梅の古木に生えた若木のような,わずかな成長の兆しでしかありえません。私たちは園丁のような気持ちでその若木を守り,水を注ぎ,剪定し,科学というフィールドでたくましく育てていきたいと思います。

侯 占 元
1983年9月 蓉城にて

症例から学ぶ中医弁証論治

日本の読者諸氏へ

 このたび,拙著『症例から学ぶ中医弁証論治』が生島忍氏の翻訳により,日本の読者諸氏に読まれるはこびとなった。このことは中日両国の文化交流・友好関係を積極的に推進するものと信じる。この機会を借りて生島忍氏そして東洋学術出版社に対し,心からの感謝の意を表したい。以下日本の読者諸氏に私の考えをいくつか述べる。本書を読まれる際の参考にされたい。
 医聖・張仲景先師は『内経』,『難経』その他の医学理論を「勤めて古訓を求め,博く衆方を采る」とともに,自己の臨床経験に照らし合わせて,「弁証論治」なるものを提起した。この「弁証論治」とは一種の医学的思考方法であり,また一種の有効な治療体系でもある。さらに仲景自身の特徴と規則性を具備し,まさに中医学における精華である。弁証論治がうまく運用されてはじめて治療効果が高められ 疾病治療が行える。これに反して,弁証論治の法則を無視すれば,あたかも大工が準縄をなくしたごとくで,患者の病を治療することはできず,起死回生という神聖な職責をまっとうすることができない。
 独学で中医学を学ばれている方々に申し上げたいのは,中医の基礎理論を学習された後は,さらに進んで弁証論治のやり方を学ばれたい,ということである。もっとも,基礎理論が充分に把握できてはじめて,弁証論治がよく理解できるということはいうまでもない。なぜならば,弁証論治と中医理論は密接に関連しており,どこからどこまでがどっちと分けることができないからである。もしも中医理論の学習のみを重視して,弁証論治の学習がおろそかになると,中医理論の臨床における実際的かつ正確な運用はおぼつかなく,結果として治療効果は向上しない。またもし弁証論治の学習のみに努力が払われ,中医理論がおろそかにされると,今度は弁証論治の奥行が深くならず,正確な弁証論治はできず,さらには臨機応変な弁証論治の運用に支障をきたすようになる。よって弁証論治と中医理論は,表面上は2つのものであるが,根源は1つの関係にある。
 本書第7章の「弁証論治学習上の問題点」は,弁証論治の初学者に対して,どのようにしてこれを学習していけばよいのかについて,筆者なりの見解を示したものである。言い換えれば,弁証論治の入門章といえる。この章を学ばれた後,もう一度第1章から読み直していただければ,弁証論治の実際的運用がさらによく理解されよう。全体として本書は弁証論治の入門書という目的に沿って書かれてある。
 日本の漢方学習者から,「弁証論治と方証相対とはどう違うのか」との質問を受けたことがある。筆者は,両者は基本的には同一のものであると考える。いわゆる方証相対という考え方は,現代中医学にはない。また『傷寒雑病論』のなかにも出てこない。しかし後世の人びとは,学習と暗記に便利なように,某某湯(方)は某某証を主治するとか,某某証は某某湯(方)が主治する,といった方法が採られたため,「方証相対」という方法が次第に形成されていったと考えられる。それで,これも実際は「弁証論治」の範疇に属すものと考えられる。なぜなら,「証」というからには弁別・認識という思考過程を必要とするからである。桂枝湯を例にとってしめす。
 「太陽の中風,陽浮にして陰弱。陽浮は熱自ら発し,陰弱は汗自ら出づ。嗇嗇として悪寒し,淅淅として悪風し,鼻鳴乾嘔する者は,桂枝湯之を主る」とあるが,ここで述べられている桂枝湯の「方証」とは,仲景先師が「弁太陽病脈証併治」という診断基準にもとづいて,弁別・提起した証候とその治療法のことである。仲景先師が『傷寒雑病論』で「弁証論治」という臨床思考方法を唱えて以来,歴代の医家たちはこの方法を自分たちの臨床経験および医学理論に結びつけてきたため,弁証論治の内容は次第に豊富となり完成されたものとなった。中医学の精華である。
 いわゆる「相対」とは,機械的固定的な関係をいうのではない。例えば桂枝湯の方証中にはさらに,「桂枝は本(もと)解肌と為す。若し其の人脈浮緊に,発熱して汗出でざる者は,与う可からざるなり。常に須らく此を識り,誤らしむる事勿かるべきなり」とか,「若し酒客の病,桂枝湯与う可からず」などがある。これらから解るように,1つの薬方は1つの病証を治療するが,時・地・人などの要因によって薬方の使用は制限を受け,具体的な病情にもとづいて弁証論治を行ってはじめて,方と証とが相い応じて疾病が治療できると,仲景先師はすでに述べているのである。もし方と証とを機械的に絶対固定的なものとしてしまうと,人の命を危うくし,また壊病をつくる原因ともなる。

 清代の医家呉儀洛は,その著書『成方切用』の序文の中で,「仲景の時代から今日に到るまで,治病においては病機を審(しら)ペて病態の変化を察知せねばならないということに変わりはない。……病には標本・先後の違いがあり,治療においても緩急・順逆の相違がある。医の大事な点は,病態の変化をいちはやく察知して適当な薬を処方することである。かりそめにも1つの処方に固執して数知れない変化に対応しようとすれば,実証を実して虚証を虚し,不足を損ない有余を益することになり,病人を死に至らしめる結果となる」と言っている。
 私の個人的な見解を述べさせてもらうなら,中医学の学習研鑽には,いわゆる「方証相対」の方法を用いてもよい。この方法を用いると暗記やまとめに便利であるばかりか,学習や研究の助けともなる。しかし実地臨床においては,必ず「弁証論治」の法則を指導原則として,臨機応変にこれを活用していくことが肝要である。まさに古人の言う「薬を用いるは兵を用いるが如く」,あるいは孫子の言う「戦争にはきまった情況というものはない」という言葉で表現されるように,疾病治療には画一的で固定した処方などというものはない。そのため医者たる者は,『素間』『霊枢』を深く究め,医理に精通してはじめて,複雑に変化する病態がよく把握でき,理・法・方・薬の選択も適切となる。
 人類の疾病は宇宙間の万事万物と同様,それぞれに特徴があり,また非常に複雑でかつとどまることなく変化して行く。弁証論治の方法を用いることによって,疾病の認識と治療は行えるのであるが,人の居住場所・風俗習慣・体質などはそれぞれ異なり,また体質にもとづく病性の変化,風雨寒暑の影響などの違いも考慮に入れねばならない。そのため弁証論治を行う際には,「同じものの中に異なったものがある」とか「異なったものの中に同じものがある」といった情況もあり得るから,必ず詳細に弁別して混乱しないよう務めなければならない。
 弁証論治の運用面について言えば,歴代医家達の学術観点や学派の違いなどから,非常に多くのまたさまざまな経験が蓄積されている。それゆえ,弁証論治といっても,一種の絶対的画一的で融通性のないもの,とみなしてはならない。
 疾病は複雑で変化し易いが,しかし認識して規則性を求めることは可能である。弁証論治とは中医理論を指導原理として,陰・陽・寒・熱・虚・実・表・裏・真・仮・合・併・営・衛・気・血・臓・腑・経・絡などの各種病証について弁別してゆくものである。それゆえ弁証論治とはかなり厳格で規範性をもつものではあるが,臨床的によく見られる陰中に陽あり,陽中に陰あり,陰陽転化,寒熱錯雑,虚実兼挟,伝変従化,同中有異,異中有同,風寒暑湿,気至遅早,老幼壮弱などの複雑な状況をも注意して混乱なく弁別しなければならない。このように弁証論治もまた,人・時・地の制限を受けるから,融通性をもたせて活用すべきである。この辺のことが理解されれば,仲景先師の「思い半ばに過ぎん」の境地である。

 まとめると,弁証論治は中医学の精華であり,臨床的には疾病治療に有効な医療技術である。人類の知識は絶え間なく蓄積され,科学や医学理論も日増しに進歩しているのにしたがい,弁証論治の水準も次第に高まってきている。特に近代以来は,西洋医学の長所や科学技術もとり入れるようになった。それゆえ,弁証論治もとどまることなく進歩・充実・向上している。そして多くの医家たちによって実践され,補充・発展しており,人類の健康・長寿に貢献している。
 最後に,生島忍氏はじめ各位に対し,もう一度感謝を申し上げたい。
 浅学非才の筆者ゆえ,書中に欠点や誤りもあろうかと思う。読者諸氏の御批判・御教示をお願いする次第である。

焦 樹 徳
1988年12月 北京にて

いかに弁証論治するか 「疾患別」漢方エキス製剤の運用

序文

 胡栄先生(菅沼栄女史)が,東洋学術出版社から本書を出版されるにあたって,序文を書くようにと求められた。私と胡栄先生は,親と子ほどの年令差があるが,胡先生は私が中医学を学んだ教師(日本では恩師,中国では老師と呼ぶ)であり,とても序文を書くような立場ではないが,10年ばかりの長い交際であり,私の了解している先生の人となりや学識について紹介し,この書を読まれる方の参考にしていただければ幸甚と思い,拙文を草して執筆をお受けした次第である。
 胡栄先生は北京中医薬大学を優秀な成績で卒業された才媛である。附属の東直門医院で中医内科の臨床を研修中に,同じ学院に留学し卒業された菅沼伸先生と結婚され日本に来られることになったとき,中医学院の幹部や教授連から渡日を延期してもっと才能を伸ばしてはどうかと,惜しまれ,引きとめられたが,夫君の菅沼氏の引力のほうが強かったというエピソードも伝わっている。
 1980年,故間中喜雄先生を会長とする医師東洋医学研究会が,北京中医学院から故任応秋教授をはじめ有名な教授達を招いて中医学セミナーを開催したとき,菅沼伸先生は音吐朗朗とした名通訳で,私たちの聴講と中医学の学習をたすけられた功は大であった。
 その後,日本の医師,薬剤師,針灸師などの間に中医学に対する関心が高まり,胡栄先生を講師とするイスクラ産業の薬剤師向けに企画した中医学の基礎から臨床までの定期的な講習会が新宿で開かれ,私も参加して聴講した。胡先生には失礼ながら,来日後まだ日が浅く,日本語に少したどたどしさがあり,スライドもあまり綺麗とはいえなかった。だがしかし,先生の講義には熱意と迫力が感じられ,言葉やスライドの物足りなさを補なって受講者を惹きつけるものがあったと思われた。
 さらにその後,信濃町の東医健保会館で,故人になられた木下繁太郎先生や中村実郎先生らが世話人で運営されていた東京漢方臨床研究会(株式会社ツムラ後援)で,私も世話人に加えられ,聴講者の減少に対する対策について意見を求められ,中医の弁証論治をテーマにして,張瓏英先生にも講義をお願いしたこともあった。しかし当時の聴講者から中医学基礎理論につかわれる用語は理解しにくいという意見もあり,しばらく胡栄先生の系統的講義をお願いしようということになり,スライドを新しくしたり,講義内容の要点がプリントして配布されるようになった。やがて聴講者が増加して,毎回50名以上になり,会場から溢れるほどの盛況になった。
 豊島区でも,永谷義文先生らを中心とする中医学の勉強会を担当されていたこともあり,先生の日本語は急速な進歩を遂げられ,ときには早口で聴きとりにくいことさえあるほどになった。先生は2時間の講義のために,自宅で5~6時間以上をかけて準備され,その内容をノートにびっしり書き止めて持参されるという。先生の真面目な責任感と受講者の臨床に役立つ,わかりやすい内容にしようとする熱意が,講義をいきいきとした雰囲気にし,先生の人となりと相待って,講座を盛況にみちびいたと思われる。他の講習会に見られないのは,定刻の少し前から集まり始める受講者が最前列から着席し,開会の頃には最も後ろの席まで埋まるという状態で,受講者の熱心さを物語っている。
 本書にも紹介されているように, 先生は日本に来られてから,イスクラ関係の薬局で,薬剤師さん達のいろいろな相談に応じるうちに,日本の漢方の使いかたや,患者さんの特徴などを理解されるようになった。先生の体験は講義の中でもいかされ,中医学の生薬や漢方ばかりでなく,使えるようなエキス剤があれば,それを紹介するというように,日本の医師や薬剤師が日常の臨床で利用できるように配慮されている。本書の読者は随所にこの事実を理解されるだろうと思う。
 1980年に任応秋教授の陰陽五行学選についての講義を聴いたとき,カルチュア・ショックを感じたのは,私一人だけではなかったであろう。それから15年を経て,中医学の基礎理論,弁証論治,経絡学説,中薬学,方剤学などについて,未熟ながらも多少は理解し,日常の婦人科,とくに不妊患者の診察にかなり役立つようになっているように思う。
 長期間にわたって胡栄先生から受けた薫陶が,今後の私の中西医結合の臨床に大きな援助になることを確信し,この機会に心から感謝申し上げ,擱筆する。

産婦人科菅井クリニック
菅 井 正 朝
1996年4月1日


はじめに

 4年後,21世紀を迎えたとき, 日本における中医学の普及・応用はどうなっているだろうか? これを考えると私はとても楽しい気分になります。「光陰 矢の如し」,日本に来てすでに16年の歳月が経過しました。来日当初は,大変な緊張状態におかれ,とても生活を楽しむゆとりなどありませんでした。日本語も日常会話からではなく,中医学の翻訳・通訳の仕事をやるなかで,中医学用語から徐々に覚えていったのです。ですから来日2年後に,初めて中医学の講義を依頼されたときも,中途半端な日本語に自信がもてず,失敗が怖くてお断りしていました。しかし,受講する先生達から「日本語が話せないときは,中国語を書けばよい」と励まされ,なんとか講義をスタートさせることができたのです。
 あれから,講義や臨床相談の仕事をするようになって気づいたことは,日本で漢方を研究される先生は多いが,中医学理論の知識はまだ浅いということでした。
 複雑な疾患を,古文の条文にあてはめて解決しようとしても,治療は困難です。
 中医学の真髄は「弁証論治」に集約されています。「弁病」と「弁証」を結合することができれば,自由に臨床応用の巾を拡大することができるでしょうし,「小柴胡湯」の副作用問題などにも惑わされることなく,よい結果を得られるに違いありません。第一線で働く医師や薬剤師に,この中医学理論を伝えたいと,私は強く思うようになりました。
 本書は,参加者の要望にもとづいた漢方講座の講演内容と,『中医臨床』誌に執筆したものをまとめたものです。臨床各科のうち27疾患について,病症をどう弁証し,日本で入手できるエキス剤と中成薬を用いて,どう論治するかをのべました。私は,この本によって,まず弁証論治というシステムの流れを理解していただければと願っています。治療には,主にエキス剤と中成薬を使用するようにしました。本来,治療は漢方生薬を調剤して用いるほうがよいのですが,日本の臨床現場では,まだ無理な点が多いと考えたからです。しかし,将来,中医学の処方を自由自在に使えるようになれば,どんなに素晴らしいことでしょう。そんな21世紀を想起すると楽しくなってくるではありませんか。
 浅学な私の著作が,「拠磚引玉」(瓦から玉を引き出す)となって,先生方のご高見や,ご批判を得られるきっかけとなれば,なにより嬉しく思います。ぜひ,ご指導・ご鞭撻をお願いいたします。
 中国に梅を詠んだ有名な詩があります。「寒梅は美麗を競わず,ただ春を告げるのみ。山の花が爛漫と咲くとき,叢(草むら)にあってひとり微笑む」といった内容です。私の拙い著作が,日本の中医学普及に少しでも役だつようであれば,望外の喜びです。
 この本の出版にあたって,私の最も尊敬する菅井正朝先生に序文をいただきました。本文の基礎となった漢方講座に推薦していただき,誠意をもって私を励まし続けて下さった先生のご厚情に心から感謝の意を表したいと思います。

菅 沼 栄
1996年4月2日

漢方方剤ハンドブック

序文

 胡先生がこのたび,東洋学術出版社より,『漢方方剤ハンドブック』を出版されることになりました。本書は,東京中医学研究会での講義を下敷きにしてまとめられたものです。私は15年にわたって先生の講義を聴講し,御指導をいただいてきましたので,多少なりとも先生のお人柄や勉強に対する態度について述べることが,本書を読もうとされる方への予備知識になるのではないかと思い,拙文を顧みず,一筆啓上することにいたしました。
 東京中医学研究会は,昭和52年頃,豊島区長崎の医師・薬剤師の有志10名ほどが集まって,医師の黄志良先生を囲んで寺子屋式で針灸の勉強会を始めたのがそもそもの始まりです。当時は,漢方薬82処方が保険薬として認められて,1年目の頃ではないかと思います。私は日本漢方や中医学の勉強会をとび廻っておりましたが,系統だった勉強会はありませんでした。55年,黄先生の針灸学講義の最終回に,漢方82処方の中医学的概要の講義をお聞きしました。その後,昭和57年にツムラ順天堂(株)の紹介によって,胡先生とめぐり会うことができ,それ以来,先生の中医学講習会は今日に到っております。今日では,医師,薬剤師が常時20名以上出席する勉強会を催しています。
 胡先生は講義開始30分前頃には会場に来られて,会員の色々の相談に応じて下さいます。会員自身の健康は勿論,会員の患者についても御指示いただき,これは非常に助かります。なんと申しましても,どの疾患に対しても即座に方剤なり,生薬処方が解答される知識の深さ,応用力の柔軟さには驚くばかりです。先生の講義態度は実に真面目で,講義の内容も相当の時間をかけて準備されるそうです。内容は誠に有意義で豊富な内容です。教わっている者をぐいぐいと引きつける充分な力を感じます。私自身,胡先生の講義を聞いてはじめて,漢方はよく効くものだなあと実感するようになりましたし,漢方を使う楽しみを味わった気がいたします。講義時間も実に正確に終了されます。これも講義の準備が周到であること,不十分な終わり方をさけようとされる先生の真剣な態度のあらわれといえるでしょう。
 今回出版されます本書は効能にしたがって大分類,中分類と分け方剤名をわかりやすく解説されております。したがって,どんな病気にどの方剤を使用すべきか,一目で判断できるようになっています。臨床に応用し日常の診療にすぐに役立つことと思います。
 この機会をかりて東京中医学研究会で長期にわたり御指導いただいておりますことを深く感謝申し上げます。

東京中医学研究会元会長
永谷義文・遠藤延三郎
平成8年秋

中医対薬 ―施今墨の二味配合法―

日本語版序文

 我が模範であり恩師である施今墨先生は,生前に60年あまり医業に携わった。その医術は深く,治療効果は卓越し,旧時,北京四大名医として広く知られていた。
 『施今墨対薬』は『施今墨薬対』ともよばれる。1962年初夏,施先生の高弟である祝諶予教授の指導のもと,「対薬」に対し表の形式で整理を行った。これを施先生に校閲,修正していただき,お墨付きを得たのち,北京中医学院(北京中医薬大学の前身)において,『施今墨臨床常用薬物配伍経験集』という小冊子にまとめた。1963年には,医学雑誌『中医薬研究通訊』にその内容が載録された。その後,20数年の検証を経たのち,臨床経験を取り入れるなど手を加えて『施今墨対薬臨床経験集』を編集し,1982年10月に山西人民衛生出版社より出版した。同書は1982年度の全国優秀科学技術図書1等を獲得している。その10数年後,改訂・増補・再編集を行い,書名を『施今墨対薬』に改め,1996年9月,北京人民軍医出版社より出版した。同書は多くの読者を獲得し,1年あまりの間に3たび増刷を行い,読者の要望に応えた。
 隣国である中日両国の友好的な往来,学術交流は長い歴史を有している。唐代には鑑真が数々の困難を乗り越えて日本へ渡り,医術・仏教を伝えている。年月の推移にともない,こういった交流は日増しに増加している。今回,東洋学術出版社の山本勝曠社長の丁重なる要請を受け,本書『施今墨対薬』の日本語版を発行する運びとなった。中医事業を広く高揚し,人類に長寿・健康・幸福をもたらし,日本の同士および中医愛好者とのさらなる交流を深めるため,本書がいささかでも寄与できればこれ以上の喜びはない。

呂 景 山
丁丑仲秋 山西中医学院七蝸楼にて




 先輩(施今墨先生)は詳細な弁証にもとづき巧みに中薬を用いた。「臨床は戦いに臨む軍隊の様なものであり、兵隊の如く薬を用いるべきである。弁証を明確に行い薬物を慎重に選択してその効果を活かすことが必要である。医学理論を知らなければ弁証は困難であり,弁証が明確でなければ治療方法は立たず,薬物をただ書き並べただけでは効果は得られない」と言われた。
 古人の治療法は単味薬物から始まったと思われる。いわゆる単方である。その後、薬物を組み合わせて用いることを見出し単味薬物に比較して治療効果が強まることを経験した。その後,七方の分類が生まれるに至った。充分に薬物配伍の効果が経験,蓄積された結果である。
 施今墨先生は処方に常に二薬の組み合わせを用い薬物配合を応用した。配合により協同作用を示すもの、副作用が抑えられるもの、長所を引き立たせるもの、相互作用により特殊な効能を示すものなどがあり、これら全てが対薬と称される。私は施先生の処方から百数十種の対薬を集めて北京中医学院で講義していた。呂景山は当時学生でその後、私の助手になり施今墨先生の臨床に立ち会う機会を得た。その後に研究,整理,注釈を加えて対薬の効用を説明する臨床的に有用な本書を著した。北斉の除之才は『雷公薬対』を基にさらに書き加えて『薬対』を著し薬物配合応用の意味を示したが,呂景山の著作は現代の『薬対』ともいえよう。
 対薬に関する知識を必要とする人は多いので、この本が出版され、広い範囲の医療関係者に役立ててもらえることを嬉しく思う。

祝 諶 予
1981年3月 北京にて


自序

 「対薬」は「薬対」とも呼ばれる。その起源はいつ頃であるか未だ定説はない。歴史唯物主義と弁証唯物主義の観点にもとづいて,漢代以前からすでに多くの経験が蓄積されてきた。『中薬概論』では「薬物は単味から複合へ,そして複合から方剤が形成された。これは発展の過程である」と述べている。文字に記載されたものを見てみると,最初に『内経』の半夏米湯(半夏と米の配伍)の胃不和,睡眠障害に対する治療が見られる。また,後漢張仲景『傷寒雑病論』には統計にもとづけば147対が見られる。後世になり薬対は1つの学問に発展した。それを扱った専門書籍には『雷公薬対』『徐之才雷公薬対』『新広薬対』『施今墨薬対』などがある。
 『雷公薬対』について『漢書・芸文志』に記載は見られない。梁朝『七録』の中の『本経集注』陶弘景序文に「桐(桐君)・雷公に至り初めて著書に記載した。『雷公薬対』4巻では佐使相須を論じた」という記述がある。また,『制薬総訣』の序で陶氏は「その後,雷公・桐君はさらに『本草』の内容を加えた。後の『薬対』では主治が広範囲になり種類も豊富になった」と述べている。しかし,惜しいことにこれらの書籍はすでに失われて,現在見ることのできるのは5対のみである。
 『徐之才雷公薬対』は『新唐志』によると2巻あったがすでに亡失した。北宋・掌禹錫は「『薬対』は北斉時代の尚書令,西陽王であった徐之才が著したもので,多くの薬物を君臣佐使の配伍法,毒性,配合禁忌,適応症に分類して記載したもので2巻ある。これまでの本草はよくこれを引用するが,治療における薬物の用い方が詳細に記されているからである」と述べている。
 『新広薬対』については,宋代『崇文総目輯釈』3巻に『新広薬対』3巻,宋令?撰との記載があるのみである。『宋史・芸文志』には宋令?『広薬対』,『通志・芸文略』には3巻,逸と記載されている。
 元代以降は目録学上,薬対に関係する記載は見あたらない。すなわち薬対に関する専門書はすでに亡逸してしまったと思われる。
 『施今墨薬対』は1958年北京中医学院第一教務長であった祝諶予教授が我々を引率して下京西鉱務局医院で実習を行った際に,詳しく講義した「施氏薬対」100余対を整理して書籍にしたものである。

 1961年卒業実習の際に祝先生は私の指導教官であった。豊富な臨床経験の指導を受け,時には施今墨先生の臨床にも同伴して指導していただいた。先生の指導のもとで薬対は100余増えた。これら2人の先生に校閲をお願いし先に『施今墨臨床常用薬物配伍経験集』をまとめることができた。この本は広く大学生,同学者に受け入れられた。増版を行うほどの反響を受けて翻訳もされ広く読まれるに至った。
 その後,先生の指導のもとで勉学,臨床を積み重ね,理論との結合をさらに実践した。経験蓄積と資料収集を重ねて1978年に『施氏薬対』を執筆した。祝諶予,李介鳴両先生の校閲,指摘を得て『施今墨対薬臨床経験集』に改名して世に問うた。この本も広く多数の読者,専門家,教授からお褒めの言葉を受けることができた。
 中医の大先輩である葉橘泉教授は『施今墨対薬臨床経験集』は興味深い実用意義のある学習資料であり,中薬と方剤学の橋渡しになる」と述べた。周風梧教授は「北斉代にすでに徐之才の記した『薬対』があったが,惜しいかな紛失してしまった。呂景山先生は施先生および諸先輩の経験を整理してこの書物を著した。本書は南北朝から現在に至るまでの千四百多年に渡る薬物配合に関する知識経験伝達の空白を埋めるとともに,今後の発展を促す意味で臨床において極めて重要な指導書である。祖国の豊富な伝統医学に1つの意義のある貢献をするものである」と述べた。李維賢教授は「薬対」は新興学科であり薬対学と称するべきであると考えている。李教授は「薬対学は薬物学と同じではない。薬対は簡単な配合のみで薬方(方剤)とも異なる。薬対学には方剤学のような配合の完全性はない。薬物学から方剤学を学んだのみでは,方剤学を離れてよい処方をなすことはできない」と述べている。葉廷珖教授は「本書は施先生の薬対配合を集めて詳しく解説したもので,その数も多く分類も詳細になされて調べるにも便利である。薬物単味の効用,配合による効能および臨床応用まで記載されて,系統的かつ科学性を持ち合わせている」と述べている。唐代・孫思の『千金方』には「大医になるには素問,甲乙,黄帝針経……本草,薬対および張仲景,王叔和の著書を熟読しなければならない」という記載も見られる。
 本書が世に問われて10余年になる。その間多くの読者に受け入れられ,専門家および政府からお褒めの言葉を受けることができた。1982年全国優秀科学技術書一等賞,1983年山西省科学技術成果二等賞を受けた。また,中華人民共和国建国35周年に中国革命博物館の重大なる成果の陳列に加えられた。

 各界人の言葉に答え,中国医薬学の発展を継承するため筆者はさらに改定を加えてここに『施今墨対薬』を編纂した。
 本書の編集,改定の過程で多くの人から支持と協力を得た。とくに祝諶予先生,李介鳴先生には多くの指摘,指導を受けた。ここに深く感謝の意を示したい。

呂 景 山
1995年10月 太原にて


施今墨先生の紹介

 施今墨先生は1881年3月28日生まれで,出身は浙江蕭山県,1969年8月22日に亡くなった。元の名は施毓黔,医者になった後に改名して施今墨となった。
 施今墨先生は母が病気がちであったために幼年期にすでに医学を志し,伯父で河南省安陽の名医であった李可亭先生から中医学を学んだ。
 父が山西で仕事をしていたので1902年に山西大学に入学した。1903年に山西法政学堂,1906年には北京京師法政学堂に転入した。学校では法律を学びながら中医学も学習した。1911年に京師法政学堂を卒業した。
 1913年山西に戻り医者として臨床に携わった。医業を自分の一生の職業と決心して1921年に再び北京に戻り,臨床に専念し医術の研鑽を積み重ねた。その後,施今墨先生の名は全国に知れ渡るものとなり北京四大名医の一人に数えられるまでになった。近代の著明な中医学者となったのである。
 施今墨先生は臨床に携わるとともに,中医教育の改革にも携わった。1932年には私財で北平に華北国医学院を設立し院長に就任した。医学院では中医基礎および臨床過程のほかに,西洋医学の解剖・生理・病理・細菌学・内科・外科・日本語・ドイツ語などの過程を設けた。これは当時の医学界にとって画期的なことであった。施今墨先生は自ら教壇に立ち,学生実習を指導した。医学院設立10余年の間に600~700人の学生を育成し,数10年にわたって学外においても多くの中医学の人材を輩出した。そのほかに,先生は1931年中央国医館副館長を任せられ,1941年には上海復興中医専科学校の理事長,あわせて北京・上海・山西・ハルピンなどの中医学院設立にも協力した。講義・研究などを通じて多くの中医学の後継者を育成し,その貢献には突出したものが見られる。
 解放後,農工民主党に入党し,中国人民政治協商会議の第2~4回全国委員会委員に選出された。また,中華医学会副会長・中医研究院学術委員会委員・北京医院中医顧問などを歴任した。
 施今墨先生は学術的に中西医結合を提唱し,30年代すでに「中医学を進歩させるには西洋医学の生理・病理学を参考にする以外に道はない」と明確な指摘をしていた。また,中医学の病名を統一すべきであるとも考えていた。20年代の診療に西洋医学の病名を応用して中医弁証との結合を試みた。血圧計・聴診器・体温計などを診断の補助に用いたがこれは当時とすれば珍しいことであった。また,中成薬の創製においてもこれまでの伝統を破り,気管支炎丸,神経衰弱丸など現代医学の名称を採用した。これら成薬は有効性が高く国内外から多くの支持を受けた。
 施今墨先生は祖国伝統医学理論への造詣が深く『内経』『難経』『傷寒』『金匱』『本草』および金・元・明・清代の医家を深く研究し,「傷寒」「金匱」の諸処方を熟知して証に応じた活用を行い,しばしば著明な効果が認められた。先生は中医を温補派と寒涼派などの門派に分けることには反対であった。また,中医と西洋医の区別についても同様であった。すべては治療を受ける病人が主体であり,治療効果を高めるためにそれぞれの医家のすぐれたところを融合し自己の経験を交えて己の見解,新しい考え方を提示した。学術面では先生は独特の見解をもち,「気・血は身体の物質的基礎であり,実が重要である。それゆえ弁証では,陰陽を総綱とし,表・裏・虚・実・寒・熱・気・血を八綱とする」と認識していた。これは祖国医学基礎理論の八綱弁証における新たな発展であり,祖国の医療業務に対する突出した貢献であった。1981年には中華全国中医学会および農工民主党が施今墨先生の生誕100周年記念会を行い,生前に成した偉業を高く評価した。

アトピー性皮膚炎の漢方治療

◎本書について

漢方の飛躍的発展の息吹き--アトピー性皮膚炎への果敢な挑戦--

■新しい疾病との対決のなかで,漢方は発展する

 漢方医学は,歴史の遺産を漫然と引き継ぐことによって,生命力を与えられたのではない。その時代が直面した新しい難治性疾患と対決し,これを克服することによって,はじめて飛躍的発展を遂げ,漢方医学としての価値を獲得したのである。
 漢方の歴史には4つの大飛躍の時期がある。1つは2000年前の『黄帝内経素問・霊枢』が書かれた秦・漢時代。この時期に,人体の生理・病理学と診断・治療学を含むほぼ完璧な医学体系が形成されたことは,歴史の驚嘆に値する。ついで後漢時代に傷寒という新しい急性感染性疾患の流行のなかで,『傷寒論』という医典が誕生する。3番目の飛躍は,金元時代である。やはり時代の新疾患との戦いを通じて多くの学派が台頭,病因・病機学説の深化が進み,漢方は飛躍的に向上した。近くは明清時代に温病という急性疾患が流行し,これとの戦いのなかで温病学説が出現した。これらは漢方の歴史における4大飛躍とされる。
 いま,5番目の飛躍の時代を迎えようとしている。エイズや癌,アトピー性皮膚炎や花粉症,喘息,アレルギー性鼻炎……など,これまでに人類が体験しなかった新しい疾患が出現し,医学はこれらとの不可避的な戦いを余儀なくされている。漢方が今後も生命力をもちうるかいなかは,これらの疾患との戦いを抜きにしてありえない。


■アトピー性皮膚炎という疾患

 アトピー性皮膚炎--現代社会が生んだこの疾患は,拡大の一途をたどり,ますます難治化しつつある。病態は複雑・多様で,変化が多く,繰り返し再発する頑固な疾患である。体質素因と環境素因,そして飲食物・ストレスなどさまざまな複合因子が複雑にからみあって形成された,歴史に先例のない疾患である。ステロイド剤の乱用によって病態は輪をかけて複雑化している。この疾患においては,中国にもまだ参考にしうる治験は多くない。もはや既成の硬直した発想や方法によっては,解決できなくなっている。西洋医学も日本漢方も,そして中医系漢方もともに試練を迎えていることにおいて,例外ではない。

■中医系漢方の挑戦

 現代中医学がわが国に導入されて20年。中医学を学ぶ若いグループが全国に澎湃として興り,すでに日本漢方の構成部分として定着している。いま,かれらが最も情熱を燃やしているテーマが,アトピー性皮膚炎の治療である。
 本書は,アトピーと苦闘を続けてきたかれらの最新の業績を収録したものである。
 中医学の最大の特徴は「弁証論治」である。そして「弁証」の核心は,症・病・証をもたらした「病因・病機」(病因と病理機序)を正確に把握することにある。病因と病理機序を分析できてはじめて治療方針がなりたつのである。やみくもに方剤を投与するだけでは,有効な医学とはいえまい。まして「病名漢方」では,とてもこの複雑で変化の激しい疾患に対処することはできない。

■病態分析の深化

 中医系漢方においても,教科書に記載されている分類法や治療法を短絡的に当てはめる方式では,アトピーには通用しない。多様な皮膚所見と変化する病象を説明できる理論と分析力が求められているのである。
 湿疹型アトピーと乾燥性紅斑型アトピーの違いをどう説明するのか,局部と全身の異なった病態をどう説明するのか。外因と内因の関係,風・熱・湿・燥・オの挾雑,虚と実,熱性と寒性,気分と血分の見分け方,五臓のどの臓腑がポイントなのか,それらはどのように転変するのか--病因・病位・病性・病勢,機転を判断しなくてはならない。本書の各論文を見れば,各執筆者がいかに緻密な病態分析を行っているか,いかに高度な治療を行っているか,を感動をもって見ることができよう。

■斬新な理論構築と豊富な治療方法

 平馬直樹氏・伊藤良氏の総論は,現段階のアトピーに対する日本の中医治療を高度に概括したものであり,すでに一定の法則性が見つけだされている。また江部洋一郎氏の「経方理論」や岡田研吉氏の精神疾患からのアプローチのように,大胆かつ斬新な理論構築も試みられている。
 病態分析とともに,治療方法も多様化している。薬物の分析・選択・配合の方法が急速に進歩するとともに,軟膏・クリーム剤・湿布剤などの外用薬や浴剤も開発されている。また本書では文献数が少ないが,針灸もアトピーに対する症状改善作用と免疫力増強作用があり,有効な治療方法となっている。
 新しい病象に対する新しい診断学・治療学の誕生。アトピー性皮膚炎への挑戦は,単にアトピー性皮膚炎の治療にとどまらず,漢方治療全体のレベルを急速に向上させている。アトピーに較べれば,喘息はすでに御しやすい疾患となったといわれるゆえんである。
 本書は,こうした理論構築と治療経験を集約したものであり,現時点における中医系漢方の臨床レベルを示す記録である。「最先端をゆく漢方治療」といっても過言ではないだろう。われわれは,本書に収録された文献は,中医学の先輩である中国に対しても誇りうるものであると確信している。本書を土台にして,さらに多くの臨床家がアトピー攻略の経験を蓄積してゆくことに期待したい。

■中医臨床シリーズ

 本シリーズは,今回の「アトピー性皮膚炎」を第1冊目として,今後,年1~2回のペースで引き続き疾患別の業績を収録してゆく予定である。今回,ご執筆いただく機会のなかった先生方もぜひ次回には,執筆者としてご参加いただきたいと思う。

(『中医臨床』編集部)

【中医臨床文庫1】風火痰瘀論

日本語版序文

 拙著『風火痰オ論』は1986年,北京において,人民衛生出版社より出版されました。出版後,全国の中医学界から好評を得たことから,同出版社は本書を日本の出版社に推薦し,日本語版出版の運びとなりました。筆者はこれを光栄に思い,日本語版の出版を心待ちにしていた次第です。
 中国医学は日本の医学界と古くから関わりを持っております。いまを遡ること西暦6世紀,中国の漢・唐代を境に,両国の医学界は頻繁に往来するようになり,中国医学は徐々に日本に浸透して行きました。唐代の鑑真が扶桑(日本の別称)に渡り医学を伝えたことも,両国間の交流の1つの証といえます。中国医学は日本で「漢方医学」と呼ばれながら,日本の医学の一翼を担ってきたのです。
 中国の金元代(1115~1368年)の偉大な医学者・朱丹渓の理論は,15世紀に日本に伝えられ,安土桃山時代(1568~1594年),江戸時代(1600~1867年)に最盛期を迎えました。なかでも,田代三喜(1465~1537年)に師事して大陸医学を学んだ曲直瀬道三は,医学教育にも力を入れ,丹渓学説の普及に貢献しました。
 丹渓学説を貫く中心命題は「風・火・痰・オ」です。筆者は長年丹渓学説を学び,臨床に取り入れ応用して参りました。本書はその経験の集大成といえます。本書の日本語版出版により,日中の医学界の交流が深まり,丹渓学説がさらに日本で理解され,浸透することを切に願っています。日中両国の友好と学術交流がこれからも永遠に続くことを願い,私の序文といたします。

章  真 如
1997年(丁丑)春月
中国武漢市中医病院にて

痛みの中医診療学



 痛みは,さまざまな病気の上に現れる1つの臨床症状です。痛みは多くの場合,猛烈な,あるいは持続的なものとして肉体や精神を損傷し,人々の心身に大きな影響を与えます。痛みで最も多くみられるのは,頭痛,腰痛,四肢の関節痛などですが,最近は悪性腫瘍や癌の発病率が高くなったことから,末期癌に伴う癌性疼痛に苦しむ人々も少なくありません。そのため,痛みにたいする研究や治療は,早急に行われなければならない重要な課題となっています。
 痛みに関する中医学の診療は歴史が古く,紀元前3世紀に書かれた最古の医学書『黄帝内経』には,さまざまな痛みにたいする診断や治療の方法が記載されています。また,時代と共に培われてきた豊富な経験と研究によって,痛みに関する中医学の診察法・診断法・治療法は次第に完成されたものとなり,今日では治療法の多さと同時に副作用の少ないことで理想的なものとして注目されています。
 もちろん西洋医学で用いられる鎮痛剤はすぐれたもので,高い効果が得られます。しかし,それらは痛みそのものを止めることを目的としているため,痛みを引き起こす病態を変えることはできません。また,鎮痛剤に過敏な人,副作用が出る恐れのある人,慢性疼痛のため長期に用いなければならない人などにたいする使用は困難とされています。よって,これらの西洋医学の弱点を補うものとして中医学の治療が必要不可欠であり,高い治療効果が期待できるのです。
 現代中医学は,西洋医学のすぐれた最新の検査技術や診断技術を用いて明確な診断をしたうえで,中医学の整体観や弁証理論にもとづいて痛みを治療することを重視しています。すなわち,中医学では痛みそのものをみるのではなく,痛みを引き起こす疾患の病態を把握し,証候と体のバランスの状態を総合的にみて,いくつかのタイプに分けて治療をするのです。このような治療法は,痛みを抑えるだけでなく,血液循環の改善,炎症と腫瘍の抑制,体力の増強,免疫の調整などの効果もあります。西洋薬の鎮痛剤を併用する場合には,鎮痛剤の減量あるいは廃薬などの効果も期待できます。また,針麻酔の発達は,中医学の疼痛と鎮痛原理の研究をさらに発展させ,鎮痛効果を高めるうえで重要な役割を果たしています。
 日本では漢方医学が浸透しており,漢方エキス製剤を用いての疼痛治療にも一定の成果があげられています。しかし,「方証相対」あるいは「方病相対」の考え方にもとづいた薬の使い方が多く,体系的な漢方医学としての「中医学」の弁証論治によって疼痛を治療することは少ないようです。
 私たちはこのような現状をふまえ,中医学,日本漢方医学,西洋医学の結合によって痛みにたいする治療効果がより高まることを切望し,本書を著しました。
 総論では痛みにたいする中医学の診察法,診断法,治療法をわかりやすく整理し,できるだけ現代医学的な解釈を試みました。生薬の部分では,現代薬理学の研究成果も紹介しています。
 各論では現代医学の診断にもとづいた中医学の弁証論治を中心に,証候の変化や患者の個人差,特殊性などにも注意を払い,それに応じて加減した処方も加えました。また,日本の現状に合わせて,漢方エキス製剤の使用法も証候に分けて紹介しており,臨床における実用性をとくに重視しました。
 本書は,医師や薬剤師のための疼痛診療専門書を意図したもので,中国で出版された『中医痛証診療大全』『中西医臨床疼痛学』『中医臨床大全』『中医痛証大成』『新編中医痛証臨床備要』など多数の書籍や論文を参考にしました。さらには著名な老中医の経験や日本の漢方医の治療経験も参考にしています。

 本書が中医学や漢方医学を学ばれる医療関係者のお役に立ち,ひいては疼痛で日々苦しんでおられる多くの患者さんの治療に貢献できれば幸いです。
 本書の内容につきましては十分に検討しましたが,不備な点につきましては多くの方々のご叱責,ご助言をいただけることを期待しています。
 ご指導やご助言をいただいた熊本大学医学部の三池輝久教授,岩谷典学講師,江上小児科の江上経諠院長,肥後漢方研究会の藤好史健会長,久光クリニックの久光正太郎院長,熊本芦北学園の篠原誠園長,水俣協立病院の藤野糺総院長に深く感謝の意を表します。
 また,編集にあたってお世話になった株式会社鶴実業の水崎三喜男社長,株式会社ツムラ熊本営業所の坂口宏所長,カネボウ薬品株式会社熊本出張所の佐藤俊夫所長に心から感謝しております。
 出版にあたり,大変お世話になった東洋学術出版社の山本勝曠編集長と皆様および編集協力の名越礼子先生に厚く御礼申し上げます。

編著者:趙基恩・上妻四郎

老中医の診察室

はじめに

 一九七八年の秋『上海中医薬雑誌』が復刊した。復刊に先立って主幹の王建平氏から難病の治療過程を題材にした文章を書いてほしいという依頼があった。中医学の弁証論治の思考過程や中西医結合の診療の優越性を示した内容の文章を、中国伝統の物語風のスタイルをとって各章に分けて書いてはどうかということだった。そしてさらに科学的な裏付けをもたせ、一般の人が読んでも理解できるような文章にして欲しいということだった。症例、治療過程、用薬、治療効果は、すべてカルテにもとづいた実在のもので、記録に忠実かつ信憑性のあるものをという条件も示された。要望にこたえて執筆に入った。症例はすべて私が体験したものである。ストーリーにはいくらかフィクションを持たせてはあるものの、いずれも事実に沿って書き綴ったものである。本書に紹介した症例の大方は、私自身が主治医として治療にあたったが、そのうちの二症例は恩師の金寿山教授が主治医として治療にあたっている。また第一回の麻黄加朮湯を用いた大葉性肺炎の治療を担当したのは、曙光病院の中医学の名医・劉鶴一先生であり、第二回の真武湯を用いたて心不全の治療のさいに、外来で処方されたのは?池教授、病棟での主治医をつとめたのは李応昌先生である。私は当時、病棟で入院患者の治療を担当していたため、患者の病状については熟知していた。
 本書の主役は鍾医師であるが、「鍾」という姓は、恩師の金寿山教授の名前にちなみ、尊敬の念をこめてつけたものである。主治医の応医師は李応昌先生を記念して名付けた。またこの小説を『医林?英』と命名したのは、これは私ひとりの医療体験ではなく、「医林」つまり、多数の中医師による心血の結晶であることを伝えたかったためである。
 本書は発刊以来、中年・青年層の中医師からひろく読まれてきた。一九八一年の秋、私は中医学の講義の依頼を受けて日本へ赴いた。その折りに日本で出版されている月刊誌『中医臨床』に『医林?英』が訳載されていることを知った。学術講演のさいには私は『医林?英』の作者として紹介され、熱烈な拍手で迎えられた。これを機会に『中医臨床』の主幹・山本勝曠氏および訳者の石川英子(ペンネーム石川鶴矢子)さんと面識を得て、異国の友人と文を交わすようになった。
 一九八三年、『医林?英』(二十回)は、湖南科学技術出版社から単行本として出版され、一九八五年には版を重ねている。一九九四年の初夏には、台湾へ講義に赴いたが、そこでは思いがけないことに、二十四回分を収録した『医林?英』にめぐりあったのである。それも一九八四年から一九八九年にかけて三刷も出版されていたのである。『医林?英』が台湾の中医学界からも歓迎を受けていることがうかがわれよう。こうした事実は私にとって大きな励ましとなり、いっそう真剣に臨床に対処し、理論を探究し、著作に心血を注ぎ、第三十回を書き終えた次第である。学術書の出版は難しいと言われているが、人民衛生出版社のご配慮によって、ここに『疑難病証思辨録』と書名を改めて出版される運びとなった。そのご好意に感謝し、ここに本書出版のいきさつを述べて、序にかえたいと思う。もしも天が私に時間を与えてくれるならば、二十一世紀の初頭には四十回分をまとめて本にして、医学界に捧げたいと願う次第である。

柯 雪 帆 七十歳
一九九六年十一月
上海天鑰新村にて

中国医学の歴史

序文

 傅維康教授により主編された『中国医学の歴史』は、中国医薬学の起源とその発展過程を原始・上古から清代に至るまで系統的に論述し、各時代の歴史的背景を記した労作である。
 原著は漢字にして四十万字余り、これにこの度の編訳書には挿画・写真が二百余枚も加えられ、巻末には詳細な歴史年表も付されている。
 本書では、長年にわたる中国医学史研究上の成果を見事に反映させつつ、近代から現代にかけての考古学上の新発見や、著者自身の独自の研究結果が加えられている。
 そのことによって、『中国医学の歴史』はここ四十年来、中国医薬学史を扱った専門書の中でも、特に水準の高いものとなっており、他の医学史の書物と比べて、本書は歴史資料の取捨選択や編纂にいくつかの明白な特色を有している。
 たとえば、読者が古代人類の疾病に認識と理解を深めやすいように、原始人の口腔・外傷・産婦人科・小児科の分野に関して、馬王堆の帛書、雲夢秦簡、張家山と武威漢簡などの考古学上の発掘や、人類学上の研究成果をふんだんに採用している。
 さらに、李約瑟氏の著作『中国科学技術史』に記された中医薬の研究結果と、日本で発見された『小品方』の残巻の内容、その後の中国国内での研究業績が十分に引用されたため、西晋・東晋・南北朝時代の中国医学史の内容が大いに補強された。
 本書を主編された傅維康教授は中国医学史の研究歴四十年に及び、この間中国全国大学博物館専門委員会の首席主任委員を歴任され、現在、中華医学史学会の副主任委員の要職にあられる。
 その著書には『杏林述珍』、主編に『中国医学史』や『中薬学史』などの医学史に関する専門書があり、国内外の医学史学界において高い評価を受けておられる。
 この書の中で傅維康先生は、かって進化論のダーウィンが記した『中国古代百科全書』とは『本草綱目』のことであり、またダーウィンが「鳥骨鶏」や「金魚」について論述したものも、その内容は『本草綱目』からの引用であったことを立証している。さらに、「弁証論治」という中医学上の用語は、清代の徐大椿による『外科正宗』の中で最初に用いられていることを考証している。
 この『中国医学の歴史』の編纂に参画された他の編者は、いずれも中国医薬学史の教育と研究の経験深い教授、助教授、研究員の方々であって、本書が高い水準と評価をかち得ているゆえんである。
 このたび、日本側で本学の客員教授川井正久先生および、川合重孝先生、山本恒久先生の手によって、この書が日本語に翻訳され、山本勝曠氏が社長を務められる東洋学術出版社の御高配によって、日本語版として出版の運びとなったことは、中日医療交流の発展・拡大の面からも慶賀に耐えない。
 ここに上海中医薬大学を代表して、中日両国の関係各位に心からの祝意と感謝を表し、序に代えたい。

上海中医薬大学 学長
施 杞
一九九六年四月一日


まえがき

 中国医薬学は、その永い歴史の中で、病気に苦しむ人々の治療において常に顕著な効果を発揮し続けてきた。この医学は、今後も中国民族の子々孫に至る遺産である一方、世界全人類のためにも保健、医療、福祉に対して大いなる貢献をなし続けることであろう。
 本書は、過去に中国の人民と医家達が疾病と戦う中で、どのような出来事があり、どのように成果を収めてきたか、そしてどのような理論を構成したか、などを歴史資料に基づいて忠実に記述したものである。
 編集に当っては、各時代の特徴を把握して、適確な見出しにまとめ、全体を合理的に順序立てて、学習しやすいように配慮した。
 その内容は、中医学、中薬学に止まらず、鍼灸、推拿、養生など博く中医学の各専門分野を網羅しつつ、精彩な写真、挿画を数多く採用して読者の理解を助けている。本書は、中医学、中薬学とその歴史の学習や研究のみならず、中国の自然科学史の資料としても十分に役立てて頂くことができると確信している。
 最後に、この書の編集に際しては、王慧芳、楊学坤の両先生、また写真撮影に当っては趙世安、施毅の両氏に特別の御尽力を頂いたことを記し、衷心より謝意を表する次第である。

傅 維 康
一九九四年二月

中医免疫学入門



 国内では近年,中医理論と現代免疫学とのかかわりがますます重要視されるようになり,いずれの定期刊行物や内部資料にも報告がみられる。ここに初めて,劉正才先生と竜煥文先生が1976~1981年の度重なる総括を国内の大量の文献と結びつけて編集し,中医および免疫を研究する諸氏の参考に供するはこびとなった。
 本書は次の3つの部分からなる。
1.中医学の免疫学に対する認識――理論面で中医と現代免疫学の基本知識を結びつけ,多くの臨床と実験結果を解析している。
2.中薬と免疫――免疫反応におよぼす中薬の影響を数多く記録している。
3.よく見られる免疫疾患の治療――中薬による免疫疾患の治療成績を紹介している。
 このように,本書の内容は豊富で,今後の中医免疫学の発展に一定の役割を果たすであろう。

中国医学科学院
謝 少 文
1982年8月 北京にて

経方医学1―『傷寒・金匱』の理論と処方解説

 


  


 漢方医学の理論的骨子をなすものは陰陽五行説と呼ばれる。古来,人体の生理・病理は,抽象的な要素を多分に含むこの理論を用いて説明されてきた。一方,人体の生命現象は,実際には個々の具体的な要素の集積から成り立っている。すなわち,中国伝統医学の特徴の一つは「抽象的な理論を用いて具体的な生命現象を説明する」ところにある。
 ところで,このような漢方医学の人体観を,抽象理論ではなく,具体的な要素を用いて具体的に説明することができれば,診断はもとより,用薬の方法,治療の細部にわたって,容易かつ確実な臨床が展開できるであろう。本書は,そのような観点で書かれた,最初の,そして唯一のものである。
 著者の江部洋一郎氏は,二十余年にわたる研究の過程で,「経方理論」と自ら呼ぶところの一大体系を樹立した。その江部経方理論は,『傷寒論』を中心とした中国医学古典にもとづいて創案されたものである。特に『傷寒論』『金匱要略』の条文,処方などが,後世説明されているような抽象的なものではなく,きわめて具体的な現象を基礎として作られたものであるという見解のもとに組み立てられている。
 この理論は,現在の漢方医学のいわゆる常識とは無縁のところに存在しているようにみえる。しかし,過去におけるさまざまな学説をまったく無視したところに成立したものかというと,氏が参考にしたかどうかは別として,必ずしもそうではない。
 中国伝統医学理論のかなりの部分を否定した後藤艮山は,一元気という形而上の概念を形而下の現象の説明に応用することによって,一気留滞説という新たな生理病理論を打ち出した。その彼にして,もし具体的な気の動きについて把握するところが何もなかったとすれば,治療上,大きな困難を抱えたはずである。彼が見ていたものは何だったのか。気の実質的な動きであったとすれば,今から三百年も前に,江部氏が見たものと共通の現象を何らかの方法で把握していた人がいたということになる。
 吉益東洞はどうであろうか。現在の日本の漢方医達は,彼の方証相対論のみを重視し,本来の理論的支柱であった万病一毒説を取り上げることはなく,一方,中医学の立場からは,日本の漢方医学をゆがめた張本人として非難されている。いずれも一面的にすぎると言わざるを得ない。
 東洞は,陰陽も虚実も伝統医学的な意味での用い方はしていない。虚は補い,実は瀉すのが基本治療原則であるが,東洞の場合,虚を補うのは穀肉果菜であり,病気の場合は身を瀉すのみであるという。
 もし彼に気・血・津液の代謝・循環が何らかの方法によってその一部でも把握できていたとすれば,虚実よりももっと具体的な言葉で表現することが可能であったかと思われる。その方が正確であるからである。彼は,しかしそうせずに,得られた(あるいは得られるべき)結論のみを記した。そのために,おそらくはかなり具体的に把握していたであろう彼の生理学・病理学は,ついに誰にも伝えられることなく終わった。
 江部経方理論は,虚実をこれまでの伝統医学理論の文脈では使用しない。これは,気・血・津液の代謝・循環を正確に把握すれば,その異常によって発生する病態を,虚実という言葉で表現する必要性がなくなるからであるが,同じことは東洞にもあてはまる。本書の観点から東洞をみれば,これまでとまったく異なった東洞像が浮かび上がってくるであろう。
 さらにこの理論において画期的であるのは,人体の外殻の構造を明らかにし,気がどこで産生され,どこをどのように流れるかを具体的に示していることである。これらに関しても,江部氏と認識の方法が異なるものの,例えば,王清任や唐宗海における「膈」の研究,永富独嘯庵における「胸」の重視,味岡三伯や岡本一抱における「胃」の論説の展開など,氏の理論につながる先人達の興味深い足跡がある。
 本書の述べるところは,基本的には『傷寒論』と『金匱要略』の処方解説であり,総論で示されている人体の構造や生理学の理解は,各論で示される処方解説を読解するうえで必須のものである。
 この第1集では,桂枝湯一処方にほとんどのページを費やしている。これは,桂枝湯が『傷寒論』中最も基本となる処方であると同時に,経方理論上の気のダイナミズムを理解し,この理論を支配している一般的な法則をみていくうえで,最も適切な処方であるという理由にもとづく。本邦で最初に本格的な『傷寒論』研究に入った名古屋玄医が,自らの扶陽抑陰説を具現化するに当たって最も重視したのがやはり桂枝湯であったことを考えると,理論こそ違え,この処方の重要性がよく理解できよう。
 処方解説のなかで用いられている薬物学は,『神農本草経』と『名医別録』にもとづき,しかも経方理論からみた役割が具体的に明確に述べられている。ここでは,古典の記載のもつ意味がパズルを解くように次々に明らかにされて,全体像としての証につながっていく過程が示されている。これまで,ある程度大まかな,そして多くは抽象的な認識(もちろん間違ったものであるという意味ではない)で理解していた薬物の効能を,まったく別の視点から,特に作用の方向性に重点を置きつつ,細部にわたって一つ一つ解明しているという点で,これは革命的な薬物学である。
 江部経方理論が,外来診察中に診た患者さんの手足の冷えの形態の違いに気付くところから出発していることは,すでに1992年の氏の発表論文(衛気の流れの異常と冷え症について,THE KAMPO No.57&58, 1992)に述べられている。
 このことでわかるように,氏は,日常的にごくふつうに見られる人体の生命現象にヒントを得て,しばしば普遍的な法則を導き出している。そのようなアイディアにみちた眼は,本書の全篇にわたってみられる。
 例えば,体内を走っている気は,循環していて行けば必ず戻ってくるものであり,それを前提としてどの部位でどのようにブロックされるとどうなるかということを明確にしている。具体的には,レイノー症候群にみられるわずかな色の違いからこのことを例証しているが,これなどは氏の細かな観察眼のたまものである。また,太陽病の初期には悪寒と発熱が同時にみられるが,これは皮と肌の2層における別々の病理変化が同時に発生しているが故に起こる現象であるという説明に,目から鱗が落ちる思いをした人も多いでああろう。
 本書は,氏のこれまでの臨床研究の集大成である。上述のような数々のアイディアや新知見を盛り込み,『傷寒論』を臨床的見地から入念に検討し,体系化して成立した。その途上で横田静夫氏という強力な共同研究者が現れ,江部氏の天才的な頭脳から飛び出してくる理論を一つ一つていねいに検証し,これが本書の成立に大きな力となった。氏が院長をつとめる高雄病院のスタッフ達の協力も特筆すべきものである。

 江部経方理論は二千余年にわたる漢方医学の歴史に新しいページを開くものである。これまでとはまったく異なった観点から人体の生命現象をみているとはいえ,一般的な中国伝統医学理論と矛盾する存在ではない。われわれは,この理論を得ることによって,漢方医学を新しい眼で眺め,より深く理解できるようになるであろう。そして本書の出現は,今後の漢方医学に飛躍的な発展を促すことになるであろう。

  1997年7月1日
安井 廣迪



 


まえがき

 本書は『傷寒論』と『金匱要略』の処方解説を意図するものである。
 後漢末(AD200年頃),張仲景により『傷寒雑病論』が編纂されるが,幾多の伝写を経て,宋代(11世紀)に『傷寒論』と『金匱要略』として刊行された。それ以降,とりわけ『傷寒論』については数多くの注釈書が世に送り出されている。
 しかし我々は,それらのいずれにも満足することができなかったのである。どの注釈書にも,体系としての『傷寒論』をトータルに説明しつくす理論が存在していないのである。つまり注釈書にある生理・病理・薬理では,『傷寒論』の処方が創出されるはずもないのである。まさしく『傷寒論』は知られてはいるが,認識されているとはいえない書物なのである。
 数年前より,我々は『傷寒論』の簡潔な条文と処方の背後に内在する生理(機能的な人体構造論),病理および薬理の体系を経方理論と呼び,それを再構築する作業を続けている。この作業の一定の到達点を示すというのが本書の目的である。
 本書は,処方解説を軸に展開されているが,あちこちに散在する構造や生理についての見解は,処方解説の準備であるのみならず,本書の主題そのものをなしている。つまり,処方解説は経方理論の論証という側面をもっているのである。読者はどこまでも『傷寒論』の処方を作り出すという立場から本書を読んで欲しい。
 漢方における処方の自由は,経方理論の上にのみ可能であるというのが,我々の信念である。

著 者
1997年3月3日



第2版の発行にあたって

 第2版では,文章表現上で若干の訂正を行った。また,76頁から始まる「腹診」の部分は,第1版を全面的に書き改めた。そのため,頁数は第1版に比べて大幅に変更され,全体で16頁の増頁となっている。

著 者



第3版の発行にあたって

 第3版では,第2版の誤りを正し,不足を補った。さらに,第2版発行後に深めた認識(「営衛不和」「四逆湯と白通湯」「亡陽」「伏陽証」等)をまとめ,附録とした。

著 者

経方医学2

まえがきと謝辞

  『経方医学1』に引き続いて『傷寒論』と『金匱要略』の条文と処方の解説を行なう。
 今回はノートを基にして,それに加筆するという形を採ったので,より簡潔な記述になっていると思う。
 本書を通して経方理論の具体的展開を理解していただくとともに,日常の診療において経方理論を活用されんことを期待している。
 本書の出版に当ってお手伝い下さった九州の山口恭廣,小山季之,鍵本明男の諸先生,北海道の諸岡透先生と奥様,東洋学術出版社の山本勝曠氏に感謝する。

著 者
2000年7月13日

経方薬論

前言

 『傷寒論』『金匱要略』の処方を理解するための本草書は基本的には存在しない。
 『神農本草経』『名医別録』にしても参考にすることは可能ではあるが,直接的に『傷寒論』『金匱要略』の処方の理解の役には立たない。したがって『傷寒論』『金匱要略』の処方を理解するためには,処方そのものから各生薬の効能を導き出す必要がある。微力ではあるが,このような観点から『経方薬論』を著した。

1)生薬の効能については,『傷寒論』『金匱要略』の処方中の効能を主とし,それ以外にも重要と思われるものは記載した。また『傷寒論』『金匱要略』において多用される生薬についてはそのベクトル性,作用する場所などについて比較的詳しく解説した。

2)張元素『珍珠襄』(南宋),王好古『湯液本草』(元)などにより提唱された生薬の「引経報使」に対しては,われわれは否定的見解をとる。確かな根拠によって帰経学説が提唱されたわけではなく,また少なくとも『傷寒論』『金匱要略』の処方を理解する上では,帰経学説は役に立たないので記載はしない。そのかわりに前述したごとく,生薬の作用する場所については可能なかぎり記載した。

3)効能についてその主たるものを中心とし,その結果生じる二次的効能については区別して記した。たとえば黄連について,一般の中薬学の本では,①清熱燥湿,②清熱瀉火,③清熱解毒などの効能が記されているが,「清熱」のみを記した。少なくとも燥湿の目的のみで黄連を使用することはあり得ない。また黄連阿膠湯においては,むしろ滋潤作用を発揮する処方であるので燥湿作用は矛盾してしまう。「瀉火」「解毒」についても概念が明確でなく基本的にははぶいた。少なくとも清熱の結果,瀉火,解毒するのであり,瀉火,解毒の語を用いなくとも処方上不便はないものと考えた。

4)『傷寒論』『金匱要略』における生薬理論と『神農本草経』,あるいは『名医別録』のそれとは当然異なっている。したがって『本経』『別録』の薬能をそのまま『傷寒論』『金匱要略』の処方にあてはめることはできない。しかし数ある本草書の中では時代的に一番近いものなので,『傷寒論』『金匱要略』の処方を考える上での参考になるので記載した。
 『神農本草経』は比較的原文に近いとされる森立之の原文を句読点を含めてそのまま使用し,『名医別録』は『名医別録(輯校本)』(人民衛生出版社)より転写した。各生薬の《本経上》は『神農本草経』上品を表わしている。同様に下段《別録上》も『名医別録』上品である。

著 者

中医伝統流派の系譜



 東洋学術出版社の山本勝曠先生や戴昭宇先生、柴崎瑛子女史の協力により、このたび『中医臨床伝統流派』の日本語版を上梓できますことは、私の大きな喜びとするところであります。現在、中医学教科書にのっとった現代中医学が日本において急速に広まりつつありますことは、中日文化交流史上画期的な出来事といえます。ただし、ここで考えてておかなければならないのは、教科書とは規格化されたものであり、基礎や教室での教育に重きを置くものだということであり、したがって教科書だけに拘泥すれば、個性溢れる中医学の活力を損ないかねないということです。教科書とは、結局は初心者のための入門書でしかなく、中医学という宝庫を発掘整理するためには、より高度な知識と能力が要求されます。そこで日本における中医学のレベルをさらにステップアップさせるために、ともに中医学を学ぶ日本の友人たちに、各伝統流派の学術上の特徴と各流派を代表する医学者の独自の経験を紹介しなければならないと思うようになりました。なぜならば、中医学の発展史を知らなければ、中医学の現在と未来を見通すことができず、各流派の長所と欠点を理解しなければ、その中から最適な治療を選択することができないからです。また古代の名医たちの個性豊かな書籍を読むことがなければ、伝統的中医学の豊富な学術内容を知ることができないからです。
 それはとりも直さず、『黄帝内経』から現在に至るまで、連綿と続く書籍という宝庫であります。
 (原文序)
 この小冊子が中日医学の交流に貢献できるよう、心から望んでやみません。

南京中医薬大学教授
黄 煌
二〇〇〇年一月三〇日




 中国の伝統医学には約三千年という悠久の歴史がある。日本もまたそれを学び約千五百年にわたり伝統医学を培ってきた。この中国伝統医学を現在中国では中医学と呼び、日本では漢方と称している。
 ひとくちに中医学、漢方といっても、一様のものではない。中医学というと、整然とした揺ぎない理論に裏打ちされた医学のように思っているむきもあるが、決してそうではない。長い歴史を通じて試行錯誤がくり返され、多種多様の学派が形成され受け継がれてきたのである。日本も同じで、もとよりいわゆる復古的傷寒論を奉ずる古方派だけが日本漢方ではない。中国でも日本でも過去、さまざまの時代にさまざまの学派が現われ、著述がなされ、膨大な文献が蓄積されてきた。伝統医学の研究や実践において医史文献学的な知識が不可欠であるゆえんはここにある。
 一九八二年、私は初めて中国を訪れた際、北京中医学院中医各家学説教研室教授、故任応秋先生の知遇を得、以後何度も御指導を仰ぐ機会に恵まれ、中国伝統医学における各家学説なる学問の重要性を痛感した。すべてものごとを認識し理解するということは、分類するということから始まる。私は従来、中国伝統医学を書誌学的手法をもって検討してきている者であるが、以来、各家学説に対する思いは頭から離れることがなく、中医各家学説を説いた日本語版の書が出ることを待望し続けてきたのだが、久しく叶わなかった。
 このたび順天堂大学医学部医史学研究室の酒井シヅ教授のもとに留学中の南京中医薬大学の黄煌先生が日本の東洋学術出版社より御高著『中医伝統流派の系譜』を出版される運びとなり、すでに活字化されたゲラ刷を私のもとに携来され、不肖私に序を需められた。さっそく拝見して、はからずも長年の念願が叶えられることを知ったのである。
 本書は従来の中医各家学説を礎としつつも著者独自の卓見をもって再構築し、整理された斬新な書であり、日本で初めて出版される各家学説の書である。しかも中国のみにとどまらず、日本・朝鮮の医学にまで言及してある。私はゲラを拝読して教えられるところが多くあった。日本でこの書が出版される意義はきわめて大きい。
 本書は中国伝統医学の本質を学ぶうえで恰好の書である。日本の一読者として本書をお薦めすることができることは、私にとって光栄なことであり、求められるままあえて序文を固辞しなかったゆえんである。中国伝統医学、漢方に興味をもたれる方々が、一人でも多く本書を読まれることを願ってやまない。

北里研究所東洋医学総合研究所
小曽戸 洋
二〇〇〇年十月


はじめに

一、本書出版の主旨
 いわゆる流派とは、学術や芸術分野での派閥のことである。中医学には、個別的・経験的・地域的という固有の特性があるために、中医学に携わった歴代の名医たちは、複雑に入り組んだ数多くの流派に分かれている。しかし、後世流派の名称が統一されず、流派を区分するための基準さえも確立されなかったために、便宜的に以下のような区分方法が用いられている。
 たとえば使用薬剤の薬性が寒熱攻補のいずれにあたるかによって、「温補派」「攻下派」「寒涼派」「滋陰派」などの流派が分かれる。また使用する処方の新旧によって、「経方派」と「時方派」あるいは「古方派」と「後世方派」とに分かれる。またどの医学体系を崇拝するかによって、「傷寒派」「温病派」に分かれたり、その流派が活動した地域によって、「易水学派」「丹渓学派」「河間学派」「孟河医派」「呉門医派」などに分かれる。あるいは特定の医学者の姓氏を冠した「李朱医学」「葉派」「曹派」、医学分類を名称に用いた「新安医学」「呉門医学」「嶺南医学」などがある。また家名を冠した「金元四大家」、「孟河四大家」の丁家・費家・馬家・巣家などや、得意とする専門分野名をつけた「紹派傷寒」「竹林寺婦科」などがあり、このほかにも『傷寒論』の配列に関する解釈の違いによって、「錯簡派」「維護旧論派」に分ける場合もある。また近代では、中医論争における意見の違いによって、「改革派」と「保守派」および伝統的中医学に一歩距離を置く「中西匯通派」などがある。
 このように名称が統一されておらず、区分方法も一定していないという状況は、各医学者の学説を正しく認識評価するための妨げともなり、各医学者の臨床経験を共有および活用する際にも悪影響を与えかねない。このような現状を鑑み、中医学流派を概観するための小冊子を出版することの意義は大きいと思われる。

二、書名について
 書名については、以下の二点を説明しなければならない。
 第一は、「中医流派」と名づけた点についてである。中医学流派には、その診療体系に明確な特徴があり、その点で歴史上学術に影響を与えた名医たちは多い。しかし中医学には、総体観、内治を重視するという特徴があるので、本書では、考察範囲を内外科に限定した。小児科、婦人科、五官科、針灸、整骨、推拿、外治、養生を専門とする流派については、本書では言及していない。また、ここで取り上げている医学者たちはみな臨床家であり、それぞれが臨床についての独自の見解をもち、真摯に診療に取り組む名医たちの一群である。したがって、文献研究や純粋な理論研究分野の流派については、本書では取り上げていない。
 第二に、「伝統」と名づけた点である。すなわち伝統流派とは、文字通り伝統的中医学に位置を占める流派のことであり、歴史上に名を残している流派のことである。したがって、現代中医学が本世紀に入って発展する過程で形成された「中西医結合」などの流派もその一つに数えられるが、これらの流派はまだ発展段階にあり、実践を積むなかで歴史的評価を待たなければならない。

三、流派の区分について
 流派とは、自然発生的に形成されたものである。ただしそれが存在するためには、歴史によって認定されなければならず、さらには第三者によってその学術傾向をもとに区分され命名されなければならない。また流派が成立するための基本条件としては、流派を代表する人物と著作がなくてはならない。このほかにも、以下の四つの条件を備えている必要がある。
 (一)共通する研究対象  (二)近似した学術思想と学説 
 (三)類似した診療体系  (四)各医学者間での学術の継承と発展
 師伝と地域性は、中医臨床流派が形成されるための重要な要素であるが、流派を区分するための唯一の基準ではない。たとえ師伝関係がなくとも、あるいは同一地域に限定されなくとも、学術面での継承と発展さえあれば、一つの流派に帰属させることができる。したがって学術の継承と発展は、はるか遠い関係の弟子や私淑者、あるいは純粋に学術上の継承者であってもかまわない。

四、命名方法
 各流派の呼称の多くは、第三者や後世の人々によって、その流派の学術上の特徴が認められ評価された結果つけられたものである。本書では、各流派の命名に当たり、まずその流派の学術上の特徴を優先させることを基本原則とした。なぜならば流派を区分する目的は、各流派の学術思想および経験を利用するためであり、したがって学術上の特徴を名称として用いないならば、その流派に対する後世の評価をねじ曲げ、誤解を招きかねないからである。第二に、各流派の自己評価を尊重することとし、その流派の代表的人物や著作名、およびその学術論点から命名した。第三には、学術界で広く認められている命名方法や歴史的に習慣となっている呼称を参考にした。
 たとえば「通俗傷寒派」という呼称は、その代表的人物である兪根初の『通俗傷寒論』という書名と、現代の趙恩倹が用いた名称(『傷寒論研究』天津科学技術出版社、一九八七)を参考にしている。また「経典傷寒派」という呼称は、温熱病治療には『傷寒論』で十分に対応しうると主張するこの流派の特徴を考慮したうえで、通俗傷寒派と区別するためにつけたものである。
 「温疫派」「温熱派」「伏気温熱派」という呼称は、主にその研究対象からとるとともに、各流派の代表的著作から命名した。呉又可の『温疫論』、葉天士の『温熱論』、柳宝詒の『温熱逢源』がそれである。
 「易水内傷派」「丹渓雑病派」という呼称は、中医高等学校教材『中医各家学説』にある「易水学派」「丹渓学派」という名称を参考にするとともに、「内傷は東垣に法り、雑病は丹渓を宗とす」という歴史的に確立された評価にもとづいたものである。
 「弁証傷寒派」という呼称は、もともと『中医各家学説』のなかで「弁証論治派」と名づけられた流派である。しかし弁証論治は中医学のきわめて根源的な特徴であり、これを名称とすることは漠然としすぎている。そこで、『傷寒論』があらゆる疾病に適応しうると強調するこの流派の特徴を考慮し、ここでは「傷寒」という名称を用いた。これは「易水内傷派」や「丹渓雑病派」と区別するためだけでなく、「通俗傷寒派」「経典傷寒派」と対比させるためである。
 「経典雑病派」という呼称は、この流派が漢唐時代の経典を重視していることを考慮するとともに、「丹渓雑病派」と区別するためのものである。
 外科三派の名称は、その学術上の特徴と代表的著作名からとったものである。すなわち「正宗派」「全生派」「心得派」という名称は、それぞれ陳実功の『外科正宗』、王洪緒の『外科証治全生集』、高秉均の『瘍科心得集』に由来している。これらの名称は、現代の劉再朋がすでに一九五〇年代に命名したものでもある。
 民間医学とは、正統医学に相対した言葉であり、中医学の一部である。この流派は、独特の疾病認識と治療手段を有しているので、一つの流派として認識することができる。
 日本漢方と朝鮮医学の流派については、その国の命名方法にしたがった。

五、各流派の学術上の特徴と代表的人物
 学術上の特色とは、その流派に属する医学者グループ全体の特徴であり、臨床診療をも特徴づけるものである。
 では、その特色とは何であろうか? まず第一には、医学思想とその認識方法における特色であり、次には、研究対象に対する総合的な認識である。それはつまり、病因病機に対する認識、弁証綱領に対する認識であり、どの問題を重視し、どのような治療法を得意とするかなどに関わる認識である。さらには処方時の態度、特色、つまりどの方剤を頻用するか、臨床においてどの技術を得意とするかなどの特徴に関わってくる。
 一方、代表的人物とは、その流派に属する医学者個人の特徴ではあるが、その医学者の生涯、著作、学術思想、臨床上の特色を紹介することは、その流派独自の多彩な学術内容を紹介することに他ならない。ただし本書においては、その医学者の流派における地位と学術上の功績を紹介するにとどめ、その全貌を系統的に紹介することはしていない。

六、外感熱病流派についての評価
 「通俗傷寒派」とは、広義傷寒の研究、つまり外感熱病全体の弁証論治法則の研究を主要テーマとする流派である。したがって研究の範囲が広く、関係する病種も多いので、彼らは『傷寒論』の六経弁証体系を骨幹としつつも、個別疾病の研究を重視するとともに、後世の経験方を集めて『傷寒論』を補充し、独自の診療体系を構築した。これは、きわめて賢明な選択であり、このような思考方法は、外感熱病に携わる伝統的中医学の根幹に通底する考え方であるといえる。そこで若き中医師たちには、これら通俗傷寒派の代表作を通読することを、また一部の作品については精読することをお勧めしたい。たとえば清代の兪根初の『通俗傷寒論』は、内容も豊富であり、実用的でもあり、この流派を代表する重要な著作である。そして通俗傷寒派を学習研究する目的は、外感熱病の診療法則を把握するためだけではなく、さらに重要なことは、『傷寒論』に対する認識を深め、読者自身の弁証論治能力を高めることにある。 
 「経典傷寒派」とは、後世の温病学説を否定し、『傷寒論』をかたくなに守り、経典方を実効性があるとして推奨した流派である。しかしこの流派の著作を読む場合には、その歴史的背景を考慮に入れておかなければならない。清代末期、世の中には温病学説が流行し、『温病条弁』や『温熱経緯』などの著作が当時の中医学入門のための必読書とされていた時代である。ところが『傷寒論』と温病学説とでは理論上の違いがあるために、一部の医者たちからは、『傷寒論』が時代遅れの書であるとみなされていた。もちろん、このような傾向が中医学の発展に悪影響を及ぼすことはいうまでもない。そこでこのような状況を打開しようとした陸九芝たちは、その著作の中で『傷寒論』を学習するように強く提唱し、『傷寒論』の弁証体系が外感熱病に十分に有効であり、臨床において実績を残している点を強調した。
 その後、西洋医学の伝入にともない、中医と西医の間での論争の開始を契機に、中医学界は過去を反省し、中医学の科学化をスローガンとして掲げるようになった。その彼らの見方が、温病学説のなかには非科学的な部分が多いというものである。
 このような流れの中で、_鉄樵・陸淵雷・祝味菊たちは温病学説のなかの問題を極力あばき出し、それによって中医学の改革を推進しようとしたのである。したがって経典傷寒派の著作を読むときには、その臨床経験を吸収するのはよいが、その思想にはむしろ距離をおいたほうが賢明である。このことは、温病学説を正確に認識するためにも、また『傷寒論』の科学性を理解するためにも重要である。経典傷寒派の数多い著作の中でも、私が精読をお勧めするのは、祝味菊の『傷寒質難』である。
 通俗傷寒派と経典傷寒派は、ともに『傷寒論』を基本理論として仰ぎ、六経弁証が外感熱病に対して有効であることを強調する点では共通している。ただし温病学説に対処するときの態度には、前者が寛容で温病学説を臨床において消化吸収し、六経体系の中に取り込んでいるのに対して、後者は誤りであるとして否定し、排斥する態度を示すという違いがある。また前者の著作の多くが臨床実践に着目し、受け入れやすい、つまり「通俗」であるのに対して、後者は理論に重きを置き、かたくなに『傷寒論』、つまり経典を守っている。
 温疫派、温熱派、および伏気温熱派とは、一貫して温熱病を研究対象としてきた流派である。いわゆる温熱病とは、その多くが西洋医学でいう急性伝染病や感染性疾患であり、全身症状が強く、特異な発病経過を有し、生体に対し重篤な損傷を与える疾患である。温熱病は種類が多いために、どの温熱病を対象とするかによって、いくつかの流派に分かれてきた。
 「温疫派」は、急性あるいは爆発性伝染病の治療を得意としており、温疫の病因が特異であると主張している。治療においては、基本病機の把握を重視し、白虎湯、承気湯、黄連解毒湯など、清熱・瀉下・解毒の薬剤を一貫して用い、その量もしばしば常識の範囲を超えている。しかし、彼らの実践経験は、現代の臨床においてもその正当性が実証されており、たとえば一九五〇年代、石家荘地区の中医が大剤の白虎湯で流行性B型脳炎を治療して著効を得、その経験は全国に広められた。また一九八〇年代には、南京中医学院の科学研究班が桃核承気湯を主体とする中薬製剤で流行性出血熱を治療して、治療期間を短縮し死亡率を低下させられることを実証した。このほかにも、黄連解毒湯・承気湯・白虎湯が急性伝染病および感染症に有効であるとする症例が、数多く報告されている。この結果をもとに、多くの温病研究家が、温病学説とその経験を研究し活用するよう提唱している。
 温疫派に比べ、「温熱派」の理論はより系統的である。衛気営血弁証・三焦弁証は、この流派が規範とする診療体系であり、彼らは舌診を重視する。また治療においては先後緩急を重視し、臓腑気血表裏深浅を診断して治療法を選択する。そして透熱転気・清営涼血・養陰生津・芳香開竅・化湿通陽などの治療法を提起し、温疫派の治療を補っている。とくに温病で治療過誤などにより危険な状況に陥ったり合併症を併発したような症例に対しては、温熱派は豊富な経験を有している。温熱派が常用する犀角・地黄・赤薬・牡丹皮・丹参・紫草などには、それぞれ程度の差はあるが、強心・解熱・抗DICなどの薬理作用があることが現在確認されている。また芳香開竅作用のある安宮牛黄丸を動物実験した結果、鎮静・鎮痙・解熱・消炎・蘇生・保肝作用があるだけでなく、多くの実験結果が、安宮牛黄丸には細菌性毒素による脳損傷に対し、脳細胞を保護する作用があることを物語っている。
 今日、中国高等中医院校で使用されている『温病学』という教科書は、温熱派の学説を中心に構成されている。ただしここで注意しておかなければならないのは、温熱派の諸氏がその著述中で衛気営血・三焦弁証などの新学説を強調し、『傷寒論』にない新しい療法や温熱派のいう「軽霊」な方剤を提唱するのをうのみにし、初心者が『傷寒論』の学習をおろそかにしたり、清熱瀉下解毒など、温病の基本的な治療を粗略にしてはならないということである。また温熱学説は温疫学説と同様に、一部の温熱病の一般的病変法則を表現しているにすぎず、その応用範囲は限られていることを、読者は正しく認識しておかなければならない。
 「伏気温熱派」は、温熱派の別派あるいは分派と考えることができる。したがって柳宝詒の温熱論は、葉天士と同じではない。葉天士が提唱した新感温病は、病勢が表から裏へ、すなわち衛から気へ、営から血へと進むのに対し、柳宝詒が提唱した伏気温熱では、病勢は裏から表へ、つまり三陰から三陽へと外達する。そして葉氏の弁証が衛気営血から逸脱することがないのに対し、柳氏の弁証は六経から逸脱することはない。したがって両者の間には、明らかな学術上の違いがみられる。では『温熱逢源』の説く伏気温熱病とは、いったい現代の何という伝染病に当たるのであろうか? それをここで断言することは難しいが、それが何であろうと、柳氏の学説の存在意義をおとしめるものではない。なぜならば柳氏の温熱病に対処するときの考え方は、ただ単に病因の特異性を追求するのではなく、『傷寒論』から出発し、体質の虚実に着目しているからである。そして虚しているものには補托し、病勢を三陰から三陽に外達させて虚を実に転化させる。そしてその後に初めて、清熱や攻下を行うのである。このような治療法は、病邪の力量と生体の抵抗力とを比較した上で考えられたものであり、終始一貫して攻撃療法を施す温疫学説よりも、弁証論治の色彩の濃いものとなっている。したがって『温熱逢源』を読むということは、柳氏のこのような思考方法を吸収するということであり、このような法則や方薬の使い方は、温病だけでなく、普通の感冒による発熱や慢性病にも使うことができる。たとえば老人や虚弱体質の人の感冒・微熱・関節痛・心臓病などにも、柳氏の助隠托邪法は適している。
 周知のように、中華民族の歴史のなかで、伝染病は一貫して民族の存続にとっての脅威であり、数え切れないほどの「温疫」の大流行は、当時の社会、政治、経済に莫大な被害を与えた。そのため歴代のあらゆる医学者たちがこの大災害を撲滅しようと努力したが、中医学は伝染病と感染症の原因である細菌、ウィルスおよび寄生虫の存在をついに発見することができなかった。そのために、現代医学のような予防医学大系を築くことはできなかったが、幸いなことに、中医学は弁証論治という思考法と豊富な実践経験により、治療の主体を患者自身に転嫁させるという方法を編み出した。すなわち患者自身の抵抗力を高め、生体内の環境を整えることによって、死亡率を低下させ、民族の繁栄に少なからず貢献したのである。またこのような中医学の特性は、今後も人類と各種伝染病や感染症との戦いにおいて、大いに貢献するに違いない。
 振り返ってみれば、この数十年というものは、現代医学の普及に伴い、中西医結合による伝染病や感染症の治療が主流となり、抗生物質や全身支持療法の応用も不可欠である。しかしそのうえに中医の弁証論治が加われば、治療効果をさらに高めることは間違いのない事実であり、そのような症例も国内で多く報道されている。もちろん中医の伝統的投薬手順や薬物の剤型にも改革は必要であり、近年、伝統方剤から製成された安全で有効な注射剤や点滴が、相次いで登場している。たとえば安宮牛黄丸から製成された注射液、「醒脳静」は、高熱・中枢神経感染症による混迷・肺性脳症・急性脳血管疾患などに対して有効であることが証明されている。また生脈散をもとに開発された生脈注射液は、中毒性ショック・心原性ショックに有効である。一九八〇年代以降、中医学界は再び急性疾患の研究に取り組み始め、多くの中医急性症研究機構や雑誌、学会などが出現し、中医学校でも急性症に関する講座やカリキュラムが開設されている。このように、現代医学の理論と技術を導入することにより、伝統的中医学の研究を続けていけば、必ずや新たな中医学流派が生まれるであろう。

七、内傷雑病流派に対する評価
 内傷雑病とは、慢性疾患に対する伝統的な呼称である。それはまた単に内傷、あるいは雑病とだけ呼ばれることもあるが、それぞれが意味する内容はやや趣を異にしている。たとえば内傷という呼び名は、慢性病が臓腑気血の虚損と機能失調を主な病理変化としている点を強く示唆するのに対して、雑病という名称は、慢性病の臨床症状が複雑で、病因や経過がわかりにくく、虚実寒熱表裏が判断しにくい点を強調している。伝統的に内傷雑病を研究した流派には、おもに易水内傷派・丹渓雑病派・弁証傷寒派と経典雑病派がある。中医伝統内傷雑病学は、これら四大流派の学説によって構成されている。
 「易水内傷派」の起源は、金元時代の易水という河川の周辺に起こった「易州張氏学」にさかのぼる。その後この流派は、李東垣・薛立斎・趙献可・張景岳などの医学者たちの出現によって発展し、明代にはすでに成熟期に達していた。そしてその学術が中医伝統内傷雑病学の主流となっていったのである。
 では、彼らの学術内容をみていこう。この流派では、臓腑気血の虚損という病理変化が強調され、臨床においては補益法を得意とした。そしてなかでも特に彼らが温補脾腎法を得意としたことから、後世「温補派」「補土派」と呼ばれるようになった。また、彼らは『黄帝内経』の蔵象学説にもとづいて病理変化を解釈し、処方にあたったので、この流派を代表する人物はみな五行学説や陰陽学説を理論的根拠とした。
 このような彼らの傾向は、臨床経験を総括し、病理現象を解釈し、新方を創り出すには便利であったが、この哲学理論によって医学理論に取って代わらせることは科学原則に反するものであり、その結果医学実践の深化を妨げ、同時に初心者の入門を困難にした。したがって内傷雑病派のさまざまな著作を読むときには、五行生克・昇降浮沈・引経報使・陰陽水火などの学説に惑わされず、学習の重点を臨床経験に置くべきである。なぜならば内傷雑病派には、虚損性疾病についての豊富な経験があるからである。たとえば張元素・李東垣の養胃気・昇脾陽などの治療法や、補中益気湯・清暑益気湯・半夏白朮天麻湯・薛立斎の帰脾湯・補中益気湯・六君子湯・十全大補湯の応用経験、趙献可の六味丸・八味丸などの応用経験、張景岳の治形_精法や左帰丸・右帰丸などは、いずれも高い臨床効果を示している。しかし内傷雑病は種類が多く、病理変化も虚実が併存したり内傷と外感が錯綜したりと複雑であるので、ただ単に「虚」とか「内傷」とかいう側面だけで疾病をみるのは、明らかに一面的である。したがって初心者の入門書としては、この流派の著作は不適切であるといわざるをえない。
 「丹渓雑病派」の起源は、元から明への転換期にさかのぼる。この流派を代表する人物には、朱丹渓とその弟子たちがいる。彼らが雑病の治療を得意としていたことから、この名称が付けられた。丹渓雑病派は、易水内傷派に比べれば、補益だけにはこだわらず、生体内の気血津液のバランスの調整に着目し、痰や_血などの病理産物の除去を重視した。たとえば長期化した疾患や難病を目の前にした場合、ほかの易水内傷派の奥義が補脾・補腎であるのに対し、丹渓雑病派の奥義は、治痰・治_である。彼らのこのような学説と経験は、実際的で臨床に即しており、道教的要素が少ないので、初心者にとってもとっつきやすいものとなっている。ただし、丹渓雑病派が易水内傷派よりは新味を打ち出しているとはいえ、結局はこの一派の見解にすぎない、張仲景医学と同列に論じることはできない。その意味では、金元医学を学習する前に、『傷寒論』『金匱要略』という基礎を学習しておくことが必要である。
 「弁証傷寒派」が形成されたのは、清代である。彼らの主張によれば、『傷寒論』理論とその薬剤の使用方法は、外感病に用いられるだけでなく、内傷雑病にも用いることができるという。そしてその根拠となっているのが、『傷寒論』が本来は傷寒と雑病の両方を論じた書であるという説であり、それを根拠に彼らは弁証論治の「応用法」を人々に示した。その内容は、以下の通りである。
 六経弁証に含まれる表裏寒熱虚実陰陽という八綱は、生体反応をまとめ極限まで簡略化したものである。また方証とは、証を具体的かつ客観的に分類した基本単位であり、方証こそが『傷寒論』の基本精神である。そして、『傷寒論』方を内傷雑病に使うことは、その理論の合理性を証明することになるというのである。弁証傷寒派のこのような学説は、金元医学に比べれば厳密であり、正確な思考法を人々に提示し、いかに弁証論治するかを教える役割を果たした。したがって弁証傷寒派の学説は、初心者が入門するために非常に適しているといえよう。もちろん実際には、内傷雑病の臨床に、『傷寒論』の百あまりの処方では十分ではなく、易水内傷派や丹渓雑病派の経験方など、後世の経験方を取り入れる必要がある。したがって弁証傷寒派の著作を読む目的は、『傷寒論』の学術的価値を認識し、弁証論治の基本知識と技術を把握し、『傷寒論』にある主要方剤の方証とその応用方法を十分に理解することにある。
 「経典雑病派」とは、漢唐医学を根幹とする学術体系である。その内容は豊富かつ系統的であり、中医伝統内傷雑病学の正統派である。この流派が成立したのは清代であり、濃厚な復古主義と反金元明医学主義とに彩られている。彼らは弁病することを主張し、各疾病ごとの専用処方と専用薬剤を設けるよう提案しており、弁病の前提としての弁証を行った。また彼らは方剤と薬物の研究、総合療法を提唱しており、彼らの学術には経験主義、実証主義という特徴がある。経典雑病派と弁証傷寒派とでは、ともに古医学を推奨しているという点では共通しているが、その学術の起源を比べれば、前者が『金匱要略』と『千金方』をもとにしているのに対し、後者は『傷寒論』をもとにしている。また学術内容についていえば、前者が弁病に傾いているのに対して、後者は六経弁証と方証を重視している。したがって前者は経験主義の色彩が濃いのに対して、後者は理論的色彩が濃い。だがいずれにしろ、この二大流派はともに中医学を構成する重要な一部であり、代表する人物の著作は是非とも通読するべきであり、またいくつかの書籍については手元に常備し、時々参考にする価値も十分あると思われる。
 以上四大流派の学術思想と臨床技術は、後世さまざまな発展を見せた。たとえば王清任の活血化_法や葉天士の養胃陰法などは、その顕著な例である。現代の名老中医の多くも、これら流派の経験を継承し、臨床に活用しているし、幾多の名医たちが才能を開花させてきた経緯をみると、多くの流派の経験を吸収することが必要であることがわかる。中国において高等中医教育が発足して以来、現代中医学は、伝統的中医学の体系化、規範化を追求し、多くの理論的かつ実用的な中医内科学教科書や著作を出版してきた。ただし、全体的にみれば、易水内傷派と丹渓雑病派の学説がしめる比重が大きく、弁証傷寒派と経典雑病派の学説がしめる割合は不足している。また経験方の紹介は多いが、『傷寒論』の弁証論治技術に対する訓練は十分ではない。そしてこのような現状が新時代の臨床家の育成を妨げていることは明らかである。そこで筆者が主張したいのは、弁証傷寒派と経典雑病派の代表作を精選し、若き中医師たちのための参考資料を制作するとともに、これら流派の学術を研究し活用しなければならないということである。

八、民間医学派に対する評価
 民間医学とは、民間に流布した大衆的な自己保健法であり、教科書に載ることもなく、経典理論によって解釈されたり、そのなかに取り込まれることもなかった。この民間に流布された民間医学を正統な教科書とを比べてみると、内容が豊富で通俗的であり、変化に富むので、人々からは特殊な療法とみなされてきた。民間医学には、つぎのような特徴がみられる。
・非論理的である。伝統的中医理論はいうに及ばず、現代医学理論でも、民間医学の効能を的確に解釈することはできない。
・技術が通俗的である。材料は現地で調達し、手技が簡単であり、その地の生活と自然に根ざしている。
・効果が一定しない。治療効果に再現性がなく、取扱者や施術者の経験によって異なってくる。そのほかにも効果に影響を与える要素は数多くある。たとえば内服薬についていえば、薬物の品種・産地・採集時期・加工法・製作法・剤量・服用法、そして患者の個体差などである。
・口伝によって伝播された。経験に裏打ちされたこれらの技術は、文字によって正確に表現されることもなく、規格化されることもなかった。したがってこの医学の伝播は、伝統的な師伝や家伝によるものが多く、個人的な実践体験が口伝えや身をもって伝えられたものである。
 中国の民間医学の源流は、はるか古代にさかのぼることができる。『内経』『傷寒論』『金匱要略』『肘後備急方』『千金方』『外台秘要』などの古代医学書にも、かなり多くの民間療法や経験方が記載されており、それら民間医学の精華は、中医学に欠かせない重要な部分を構成している。歴史的にみても、多くの医学者たちが民間医療を学習、採用して、名をなしている。たとえば金元四大家の一人、張子和は、民間医療をまとめて運用した医学者として知られているが、有名な彼の攻邪論と汗吐下三法は、民間医学の理論と治療法から創り上げたものである。また清代の外治法専門家、呉師機は、膏薬などの外治法によって内外の疾患を治療したが、その著書である『理_駢文』は、古今の外治法を集大成したものであり、今日に至るまで影響力を行使している。歴史上、民間療法の大部分を担ってきたのは鈴医であり、彼らは笈を背負って各地を周遊し、医療を施した民間の医学者である。
 長い間、民間医学の学説は、正統な中医学界からは無視され続けてきた。鈴医たちは浮浪の徒かなにかのようにみなされ、その医療経験は一顧だにされなかった。しかしこのような偏狭な見方は、中医学の発展を阻害するものである。民間医学もまた伝統的中医学の重要な一部であり、人民大衆の健康を守るという意味では、正統医学には真似できない功績をあげている。また時代の流れにつれ、民間医学にも変化が現れ、保健、予防へとその目標を転換していった。さらには管理面での規格化や法制化を進め、運用時の安全性と科学性を重視するようになり、市場経済化が促進されつつある現在、民間医学の開発と利用が注目されている。このような昨今、医学に従事するものは、民間医学の医療経験を発掘、研究し、さらに現代科学の手法を利用して発展させなければならない。

九、日本漢方流派に対する評価
 日本漢方とは、日本化した中医学であり、李朱医学を中心とする後世方派にせよ、あるいは『傷寒論』を骨幹とする古方派にせよ、いずれもその流派を代表する人物が中医学の理論と経験を日本の現状に適応させて創り上げた、新しい流派である。そこには、民族、伝統文化の違いから、それぞれの流派によって伝統理論の吸収の仕方や利用方法に違いがみられるが、これはいたって正当なことである。なぜならば、一つの学術観点は一朝一夕にできあがるものではなく、幾多の討論や紆余曲折を経、多くの人々の努力によって成し遂げられるものだからであり、一つの学説や流派を安易に否定することは、科学的態度とはいえない。したがって中医学を研究するためには、日本の古方派や後世方派、また本書では紹介していない折衷派の研究は、欠かすことのできない要素である。現に日本漢方は、かつて中国の近代的『傷寒論』研究や中医学を科学化しようとする思想潮流を大いに促進する役割を果たしており、近代の中医学者、_鉄樵・陸淵雷・章太炎・閻徳潤・葉橘泉や、名中医の岳美中・胡希恕などにも影響を与えている。今後、中日中医学界の学術交流の深化により、中医学に対する理解が深まり、そこから世界に通用する新たな現代中医学の体系が創り出されていくものと確信する。

中国気功学

日本語版出版によせて

 このたび東洋学術出版社より,拙著『中国気功学』が翻訳・出版され,日本の気功愛好者に紹介されるはこびとなったことに対し,中国の気功研究者として心から感謝の意を表します。
 気功は民族文化遺産の中でもとくに中国独自のものとして異彩を放っており,ことに医療気功は中国伝統医学を構成する重要な一部分であって,5000年の歴史をもっています。中国気功はその悠久の歴史の中で,豊富で多彩な内容を形成してきました。歴史の発展過程において,身心の健康に有益なありとあらゆる自己鍛練の方法および理論が絶えず吸収・融合されつづけてきており,人びとの医療保健の面に大いなる貢献をはたしてきました。
 気功とは,
 (1)姿勢調整・一定の動作--「調身」
 (2)呼吸鍛練・内気運行のコントロール--「調息」
 (3)身心のリラックス・意念の集中と運用--「調心」
の3つの要素を総合したものであり,体内の気を練ることを主眼とする自己身心鍛練法です。
 鍛練を通して元気を増強し,臓腑の機能を調整し,体質の改善をはかり,人体に潜在する能力を発揮させることによって,病気の予防・治療および益智延年の効果を得ることができます。気功学とはこの自己身心鍛練の方法,プログラムおよび理論を研究する学科であるということができます。
 気功の特徴は,意と気を結合させながら鍛練を行うという点にあり,それは病気を予防・治療する方法を,1人ひとりが身につけるという独特の医療保健措置であるということです。
 そこである程度の功法を学ぶ必要があるわけですが,功法をいっそうよく体得し,理解して,運用できるようになるためには,気功師も気功愛好家も,気功に対して全面的に理解を深めなければなりません。そうすることによってムダな労力をはぶき,能率よく修得することができるのであって,本書を執筆した目的もここにあります。
 近年来の気功師・気功愛好者による日中間の相互交流,さらには多くの人々の努力により,中国気功が急ピッチで日本に広まると同時に,日ごと市民権を得つつある状況は誠に喜ばしいかぎりです。
 本書が日中交流のひとつの賜として,広く日本の気功研究者ならびに気功愛好者の方々に奉献されることを期待しております。

馬 済 人
1987年 中国上海市気功研究所にて




 もとより上海市気功療養所は,当時全国に3つしかなかった気功の専門研究機関のひとつとして,臨床的な実践をはじめ原理の探究,功法の研究,人材の養成などの面でかなりの貢献をはたしていた。また気功関係文献の整理,教材の作成,気功知識の普及などの活動も数多く行ってきた。実際このような業績があったにもかかわらず,その後気功は厳しい弾圧を加えられ,打撃を受け,気功療養所もその活動を中断せざるをえない時期があった。
 現在,気功およびその治療方法が再評価されるようになり,慢性疾患患者,長寿法を研究する人々,気功愛好者,気功研究家といった人たちからは,気功について系統的にまとめた本を望む声が高まってきた。適当なテキストがあれば,それによって気功への理解をいちだんと深め,学習・体得・運用できるようになるであろうし,ひいては人びとの健康づくりに役立たせることができるだろう。また人びとの体質を強化し,病気を予防し,老化を防ぎ,人に潜在する有用な能力を発揮させることができるだろう。--私も上海市気功療養所の古参として,さらに中国医学科学院の特別研究員・上海市気功療養所所長・陳濤氏の助手としての立場上,やはり心中穏やかならず,絶えず思案にくれていた。
 世間の要望に答えて『中国気功学』の編纂を思いたって以来,各方面の意見を虚心に傾聴し,いく度かの修正を加えた末,やっと本書ができ上がった。
 この『中国気功学』は上海市気功療養所編の『気功療法講義』を元本としている。臨床経験を基礎とし,唯物弁証法と唯物史観の視点に立った論述を心がけており,さらに同系諸機関で発表された信頼度の高い資料を取り入れた。全10章とかなり大部の書籍になり,取り上げた問題も多岐にわたっている,まったくの気功専門書である。この本が中医学院で気功の教材として使われるばかりでなく,各種気功勉強会や,気功研究グループで読まれたり,さらに気功愛好者の参考書や,気功研究所で臨床ハンドブックとして利用されることを望みつつ執筆したのであるが,その目的にかなうものとなったかどうか。読者の鑑定に委ねることにしたい。
 気功は悠久の歴史をもっている。発展の過程で大量の文献が著わされており,古典や医籍の中にも多くの記載をみることができる。その功法と理論は,4部書『経』『史』『子』『集』や道教,仏教,儒教とも密接な関係がある。さらに気功自身が,古今たくさんの流派を生み出してきた。したがってそれらすべてを篩にかけ,本当の精華というべきものを選びとってこそ,気功およびその療法を普及させ,ひいては人びとの健康に奉仕させることができるようになると考えている。
 本書の編纂にあたって,上海中医学院院長・黄文東教授ほか,各関係の諸先生方から熱情あふれる支援と励ましをいただいた。さらに本書の完成は次の方々の応援なくしては考えられない。ここに紙面を借りて感謝の意を表したい。
        閻啓民(陜西中医学院・副院長)
        劉元亮(陜西中医学院経絡研究室:主任)
        柴宏寿(上海中医研究所・医師)
        黄健理(上海中医学院付属曙光医院・龍華医院医師)
        邵長栄(右・副主任医師)
        戚志成(医師)
        夏詩齢(医師)

1982年6月 上海にて
編著者記す

内科医の散歩道―漢方とともに

はじめに

 今から二十年前、病院勤めの頃のこと。
 「あの心筋梗塞の患者さん、どうしても、胸の痛みが止まりません。モルヒネまで注射したんですが……」
 若いドクターの求めにかけつけた。患者さんは目をつりあげ、七転八倒! 今にも自分は死ぬんではなかろうか―という恐怖と闘っている。彼の肩に手を置く。
 「これくらいの病気で、あなた、死ぬもんですか。たいしたことありません」と私。
 「えっ? 私、助かるんですか。そうですか、助かるんですか……」
 それから一分もたたぬ間に、彼、スヤスヤ眠り始めた……。
 今、開業して十七年目。心臓内科を看板として働く私に、多くの患者さんが教え続けてくれたこと、それは、病を治す上でどんなに心の持ち方が大切であるかであった。夜、眠れなくても、残りの少ない寿命、神が私に時間をくれていると告げた御老人。耳鳴りすら天上の音楽と表現した人。病の受けとり方が、なんとプラス思考、感謝の心に満ちていることか。
 私自身、四十歳代のころ三昼夜、一睡もせず、重症患者さん達を見守った月日があった。こんなに過労、俺、なが生きは出来まいと思っていた。ところが有難いことに、白髪が生え、皮膚にポツポツ老いのしみをみるとしにまで生きながらえている。
 遺伝子工学の権威、村上和雄教授は、彼の著書、『生命の暗号』(サンマーク出版)の中でこう述べている。「イキイキ、ワクワク」する生き方こそが、人生を成功に導いたり、幸せを感じるのに必要な遺伝子をONにしてくれる―というのが、私の仮説なのです=と。この彼のいう人生を成功に導いたりという言葉の中には、癌発生を抑制する、という意味すら含まれている。私は更に広く考え、心の感動こそが、癌を含め、いろんな難治性慢性の病を克服するための一番大切な条件と信じ実践してきた。
 拙著『野草処方集』(葦書房)が、世に出て十年の月日が経った。育んで下さった天籟俳句会の穴井太師、出版にさいし細く検討して下さった久本三多氏、もうこの世の人ではない。八千五百部、という望外の発行部数を支えていただいた方々にはどう感謝の気持ちを伝えたらよいのか解らない。
 豚もおだてりゃ木に登るとか。皆様の励ましの言葉に、つい浮かれて、新しい書を世に出すことになった。本書は、西日本新聞に一年間、毎週木曜日、五十回にわたって連載させていただいた『内科医の散歩道』―中国医学と共に―そのものである。私如き一介の町医者にこのような機会を与えて下さった西日本新聞社、当時文化部部長の原田博治氏に、また、天下の大新聞への連載に尻込みする私にムチを入れて前に進めて下さった地下の穴井太師、校正の労をとって下さった藤本和子さん、身に余る推薦文を寄せて下さった学友の菊池裕君、後藤哲也君、さらに、共に漢方を学ぶ九州中医研の諸兄姉、共に野山を歩く牛山薬草研究会の皆様、共に漢方を実践する任競学中医師に、そして、私を励まし育てて下さる多くの方々に感謝の意を表する。

 蟻と人 同じ生命よ 花の下

ひろし
平成十二年十一月三日

わかる・使える漢方方剤学[時方篇]

まえがき

 この本は,私が理想とする「方剤学の教科書」を形にしてみたものです。私は中国にいる間,学部の学生だった頃も,大学院の学生だった頃も,ずっと「系統的理解が得られる教科書」をさがし続けました。しかし,見つけることはできませんでした。それでも「きちんとした理解を得たい」という願望は消えず,自分で研究を始めたのです。

 方剤学の教科書とは「履歴書の束のようなもの」に過ぎないと,私は考えています。どんなに有能な管理職でも,履歴書をみただけでは,その人材を適材適所で使いこなすことなどできないと思います。それは方剤も同じです。「その方剤は,どんな理論に基づいて作りだされたのか」「その理論は,どのように生まれたのか」「その手法や理論は,その後どのように受け継がれたのか」「現在はどういう位置にあるのか」などなど,1つの方剤を理解するには,その周辺の事情をたくさん知る必要があります。
 しかし主要な文献だけでも数百冊はくだらない中医学の世界では,それは「1人の人間の人生では足りない」ほどの作業となります。それでも可能な限り,以上のような内容を盛り込み,読んだ後で「よく分かった」と実感できるような本を作りたいと努力しました。

 中医学を学ぶには,まず歴史・理論・古典そして薬・方剤,それから臨床各科……というのが正統な順となります。しかし本書はいきなり「方剤」という窓口から入れるようにしてあります。それは読者として「臨床の現場にいる医師や薬剤師」を念頭においているからです。西洋医学を学んできた人たちにとって,それが一番入りやすい切り口であろうと考えました。
 しかしその上で,あくまでも中医学の立場にたって,なるべく分かりやすく解説するという作業は想像以上に難しいものでした。本書の内容も,不勉強や経験不足から生じる限界や偏りは隠すべくもありません。とても「理想の教科書」と自讃できるものではありません。しかし少なくとも「履歴書の束からは脱皮したもの」として,本書を世に送り出したいと思います。

 本書は,今後『わかる・使える漢方方剤学』シリーズとして出版していく中の[時方篇]です。[時方篇]はこの1冊で完結しますが,さらに[経方篇]を数冊の本としてまとめる予定です(「時方」「経方」の意味は,凡例を参照してください)。
 本シリーズが,漢方製剤や中薬を積極的に使いたいと思っている医師や薬剤師の方の一助となれれば幸いです。

小 金 井 信 宏
2003年3月

定性・定位から学ぶ中医症例集

序章 気血水火弁証と定性・定位

シンプルでわかりやすい弁証方法

 中医学の診療においては「弁証論治」の方法論が重視されている。なかでも病態の識別を行う「弁証」の作業が中医的診断のポイントである。患者の病態の総合的な特徴を把握するためには,ある時期,ある段階における「証」を構成する病因・病性・病位・病機などを弁別することが必要となる。
 従来から使われてきた病因弁証・八綱弁証・気血津液弁証・臓腑弁証・経絡弁証,さらに『傷寒論』体系の六経弁証,温病学体系の衛気営血弁証・三焦弁証などは,病因・病性・病位・病機などのどこに力を入れるかがそれぞれに異なり,1つの方法だけで弁証の全プロセスを完成させるのは困難である。そのため,煩雑さに悩まされながらも,いくつかの弁証を併用する方法をとってきたのである。
 しかし,中医学の初心者が,それぞれの弁証方法を熟知したうえで自在に応用できるようになるのには並大抵ではない努力と時間が必要である。弁証の煩雑さにとまどい,途中で挫折してしまう人も多いだろう。
 「あらゆる弁証の方法を1つにまとめることはできないか?」
 これは,中医学の研究や教育,臨床に携わる多くの人々がずっと関心をもってきたテーマである。私自身も,多くの患者さんや医師,学生たちと接しながら,このテーマについて真剣に取り組んで来た。その結果,「気血水火弁証」という新しい弁証体系を編み出したのである。
 この気血水火弁証は,「定性」「定位」を判断することによって病性・病位を明確にすると同時に,病因・病機も合わせて分析することができる。つまり,従来の弁証のプロセスと違って,他のさまざまな弁証方法を使わずに気血水火を主とした弁証システムだけで多くの外感病や内傷病の証を決定できるものである。あまり時間をかけずに身につけられるのがこの気血水火弁証の大きな特徴で,簡便で実用的な弁証システムといえる。


火の概念と気血水火弁証

 気血水火弁証では,まず気・血・水(津液)・火のそれぞれの特性を明白にさせなければならない。
 気・血・水が生体の生命活動の基本的物質だということはよく知られているが,火も生命活動に欠かせない生理的物質であるということは,意外に知られていない。古くは『黄帝内経』に「少火生気」という論述がみられるように,火は太陽のように命のエネルギーとしての役割を果たしている。また,陰陽理論によれば,火と気は陽に属し,血と水は陰に属するとされている。火と気(陽気)は,人体の各器官や組織の機能を温煦・推動・激発する働きをもつ。火と気は,生理的に相互化生・相互促進の関係にある。火は気に化生し,気は火を養う。気の中に火があるからこそ温煦・推動・激発の働きが生まれるのである。
 また,中医臓腑理論に命門説がある。命門説では「命門の水」と「命門の火」が生命力である元陰・元陽(先天的陰精と先天的陽気)に化生する重要性が強調されている。
 気は温の性質,火は熱の性質とはっきりと区別され,陽気がとくに強いところは火に属し,陽気が概して弱いところは気に属するとされている。つまり気の概念をそのまま火の概念に重ねることはできない。
 病理学的には,火と気にも大きな隔たりがあり,陽虚証と気虚証に分けられている。
 火の病理的変化は複雑であり,虚火・実火・陰火・鬱火・肝火・心火などがあげられるが,それは生理的な火とは区別すべきである。火の病理的な状態を弁別するのは,これから論じる気血水火弁証の一部の内容となっている。

気血水火弁証と定性・定位

 気血水火弁証は,まず病機(疾病の発生・発展と変化に関わる病因病理)分析を通じて,証(病態の特質)の構成因子である病性(主に寒熱と虚実)・病位(主に表裏・臓腑・経絡)を弁別するものである。
 すべての疾患の発生・発展・変化の過程においては,正気と邪気との争い,体内の気・血・水(津液)・火の質量と機能の失調がもっとも基本的な病機といわれている。正気とは,われわれの生体を構成し,生命活動を維持するのに不可欠なものであり,生理的な物質である気・血・水(津液)・火が正気の中核をなす。一方,邪気とは,われわれの身体に病苦をもたらす諸種の有害因子(六淫・七情・食積・痰飲など)を指している。それらによって生体の陰陽失調や臓腑・経絡などの機能の失調が導かれ,寒熱や虚実などのさまざまな病態が現れるのである。この寒・熱・虚・実のどれに属するかという病態の特性を同定する作業を「定性」または「定性弁証」という。
 また,病態は必ず体のどこかに現れてくるので,その部位を同定する必要がある。表・裏・臓腑・経絡などの部位の識別の弁証プロセスを「定位」または「定位弁証」という。
 気血水火弁証では,病性・病位の弁別を中心としながら,病因・病機の分析についても同時に行うため,病因・病機・病性・病位という証を構成する要素に対する考察はすべて含まれることになる。つまり気血水火弁証を行うだけで多くの疾患の弁証ができるわけである。
 しかし,気血水火弁証の「定位」または「定位弁証」では,もともと八綱弁証(表裏・寒熱・虚実・陰陽)や臓腑・経絡弁証の内容も取り入れているため,当然それらに対する理解も要求される。たとえば,八綱弁証中の表裏の項は「定位弁証」に属し,寒熱・虚実・陰陽の弁別は「定性弁証」に属する。また,臓腑弁証は「定性+定位」の弁証方法である。気血水火弁証が主に八綱弁証と臓腑・経絡弁証を中心としているのは,弁証の簡便化をはかるためである。

「定性」「定位」から弁証へ

 気血水火弁証の臨床的応用においては,病因・病機に対する分析と同時に,(1)「定性」を行う,(2)「定位」を行う,(3)弁証を行う,という3段階の手順を踏む。
(1)「定性」を行う
 まずは病態が気の病気か,血の病気か,水の病気か,あるいは火の病気か,それらを弁別してから,虚実寒熱の弁別を行う。虚性か実性か,寒性か熱性か,これは病態に関する最も基本的な特性であり,基本となるものである。虚実寒熱の判定は,補法・瀉法・温法・清法などの治療法則の選択に直接つながるため,けっして間違ってはいけない。定性弁証は最も重要なものである。
(2)「定位」を行う
 臨床においては,患者の主訴や症状,望聞問切から得た所見をもとにそれらの関連性を弁証をするが,病位を探るには主に臓腑に着目しなければならない。臓腑は生体の中心的な存在であり,とくに五臓を中心とした臓腑によって,全身の組織器官や機能はすべて統括されている。また,気・血・水・火の生理的または病理的な変動も臓腑を中心として現れてくる。このため,気血水火弁証における「定位」の作業は,臓腑とつなげて考えなければならない。しかし,ひとりの患者が同時にいくつかの疾患や症状をもっていることも少なくない。そういう場合は,症状や所見の相互関係を明確にさせて,最も重要な病態の特質を把握し,中心となる臓腑を特定すべきである。定位の目標が定まらなければ,弁証があいまいになり,治療にも影響する。
(3)弁証を行う
 弁証は,定性・定位を主軸にすえて,病因・病機に対する分析,主症状・随伴症状の把握,それぞれの症状や所見の関連性なども考慮しながら進めていく。一例を見てみよう。
 たとえば,「病気の性質は陰虚・血・気滞。ただし,主に陰虚が強く,血は副次的であり,気滞はまだ軽い。部位は心・肝・腎と関わるが,現在は腎を主とし,肝と心はそれに準じる」というような場合の弁証結論は,「腎肝心陰虚,血気滞」となる。

外感病における気血水火弁証の応用

 さまざまな疾患は中医学的には外感病と内傷病に大別できる。内傷病が七情の過用やよくない生活習慣に起因する慢性疾患が主であるのに対して,外感病は外から邪気が生体を犯すために起こるもので,経過が短く,発熱が多くみられる。急性・感染性疾患を主とするため,外感熱病ともいう。その病因は六淫(風邪・寒邪・暑邪・湿邪・燥邪・火邪)が主である。このような外感熱病の弁証に関しては,気血水火弁証をすると同時に,表裏の弁証や初期・中期・末期の3期に対する弁別も加えた「三期表裏の気血水火弁証」の体系を用いる。

症例から学ぶ中医婦人科-名医・朱小南の経験【はじめに】

はじめに

 父である朱小南は,本名を鶴鳴といい,1901年に生まれ1974年に永眠しました。幼少時の10年間,南通の私塾で勉強した父は,その後祖父である南山公について医学を学びました。そして研鑽を重ねた結果,20歳で上海に開院し,内科・外科・婦人科・小児科に携わり,中年以降は婦人科を専門とするようになりました。また1952年10月には,上海中医門診所(第五門診部の前身)に,婦人科の特別医師として迎えられました。
 診療にあたって父が心懸けたのは,疾病の根源を究明して臓腑の気を調整することであり,とくに肝の調整を第一としました。また婦人科疾患には微妙な点も多いので,詳細に観察して適切に診断を下すよう心懸け,必ず処方を的中させたといいます。
 1936年,父は祖父を助けて新中国医学院を創設し,人材を養成して全国各地に送り出しました。1961年ごろ,多くの同学者たちの提案を受け,私たちは父の治験例の収集と整理・浄書を開始しました。その大部分については,当時父が自ら目を通し,選別校正を行いました。1974年に父は病没しましたが,1977年に私たちは治験の整理を再開し,父の普段の会話や論述を加え,上海中医学院の『老中医臨床経験彙編』に収めました。
 このたび北京人民衛生出版社のご厚意により,この単行本を出版する運びとなりました。しかし私たちの未熟さゆえ,少なからず錯誤や欠落もあろうかと思われますので,貴重なご意見・ご教示をお待ちしております。

朱 南 孫
1980年6月


本書を読むにあたって

 本書は,『朱小南婦科経験選』(朱南孫・朱榮達整理,人民衛生出版社1981年刊)を底本として翻訳したものである。

 19世紀後半から民国時代(1911-1949)にかけて,上海で活躍した婦人科専門の中医家系として,陳氏婦人科・蔡氏婦人科・朱氏婦人科の3つの家系が知られている。本書の原作者である朱小南先生(1901-1974)は,朱氏婦人科2代目の名医である。
 朱氏婦人科の特徴は,まず細かい問診を重視する姿勢があげられる。朱小南先生は父である朱南山先生とともに,明代の張景岳の「十問歌」に倣い,「婦人科における十問訣」を作り出した。また,朱小南先生は切診や脈診も重視し,按腹により妊娠やチョゥカなどの有無を判断した。
 さらに,朱小南先生は女性の生理病理の特徴を踏えた弁証論治,具体的には中医学の気血理論・臓腑理論・経絡理論を有機的に結びつけ,婦人科診療における奇経八脈の重要性を強調し,それを臨床に活用したことが注目される。衝脈・任脈・督脈・帯脈・陽キョウ脈・陰キョウ脈・陽維脈・陰維脈という「奇経八脈」の生理病理と婦人科疾患の診療との関連については,朱小南先生によって初めて体系化されたともいえる。特に,衝脈・任脈・帯脈などの奇経と女性の経・帯・胎・産との関連や,脾胃・肝腎などの内臓との関連,また,そのほか多種類の生薬の帰経および経穴との関連,各奇経と関連した病機や疾患に関わる弁証治療について,独自の理論を作り上げ,臨床研究を行った。その内容と特徴は,本書にも大いに反映されている。
 本書は「医論」と「医案」の2部から構成されている。「医論」には,朱小南先生の中医婦人科に対する考え方が示され,今日の婦人科診療に役立つポイントと心得が凝縮されている。さらに,本書に記された多くの具体的な「医案」を通して,朱小南先生の診療に対する姿勢や先生が説いた医説に対する臨床的な検証を読み取ることができ,先生の弁証論治を臨機応変に活用する発想とプロセスを知ることができる。平易な解説には興味深い理論や見識が秘められており,医論の内容に対する格好の参考例ともなっている。中医婦人科の学習は,医案より多くのヒントが得られるだろう。
*本文中(  )で表記しているものは原文注であり,〔  〕で表記しているものは訳者注である。

編 集 部

わかる・使える漢方方剤学[経方篇1]【まえがき】

まえがき

 この本は,私が理想とする「方剤学の教科書」を形にしてみたものです。私は中国にいる間,学部の学生だった頃も,大学院の学生だった頃も,ずっと「系統的理解が得られる教科書」をさがし続けました。しかし,見つけることはできませんでした。それでも「きちんとした理解を得たい」という願望は消えず,自分で研究を始めたのです。

 方剤学の教科書とは「履歴書の束のようなもの」にすぎないと,私は考えています。どんなに有能な管理職でも,履歴書をみただけでは,その人材を適材適所で使いこなすことなどできないと思います。それは方剤も同じです。「その方剤は,どんな理論に基づいて作りだされたのか」「その理論は,どのように生まれたのか」「その手法や理論は,その後どのように受け継がれたのか」「現在はどういう位置にあるのか」などなど,1つの方剤を理解するには,その周辺の事情をたくさん知る必要があります。
 しかし主要な文献だけでも数百冊はくだらない中医学の世界では,それは「1人の人間の人生では足りない」ほどの作業となります。それでも可能な限り,以上のような内容を盛り込み,読んだ後で「よくわかった」と実感できるような本を作りたいと努力しました。

 中医学を学ぶには,まず歴史・理論・古典そして薬・方剤,それから臨床各科…というのが正統な順となります。しかし本書はいきなり「方剤」という窓口から入れるようにしてあります。それは読者として「臨床の現場にいる医師や薬剤師」を念頭においているからです。西洋医学を学んできた人たちにとって,それが一番入りやすい切り口であろうと考えました。
 しかし,そのうえで,あくまでも中医学の立場にたって,なるべくわかりやすく解説するという作業は想像以上に難しいものでした。本書の内容も,不勉強や経験不足から生じる限界や偏りは隠すべくもありません。とても「理想の教科書」と自讃できるものではありません。しかし少なくとも「履歴書の束からは脱皮したもの」として,本書を世に送り出したいと思います。

 本書は,『わかる・使える漢方方剤学』シリーズ中の[経方篇1]です。先に出版された[時方篇]を合わせたシリーズとして日本で使用されている主要な方剤を紹介していきます(「時方」「経方」の意味は,凡例を参照してください)。
 本シリーズが,漢方製剤や中薬を積極的に使いたいと思っている医師や薬剤師の方の一助となれれば幸いです。

 また[経方篇]では承淡安『傷寒論新註』の内容を中心に,個々の湯証にたいする針処方を提示し,簡単な解説を加えています。つたない解説であるとは思いますが,中医学を学び,臨床に活かしたいと思っている針灸師の方の参考となれれば幸いです。

小金井 信宏
2004年4月

中薬の配合【まえがき】

初版まえがき

 中薬が臨床で使われる場合,その多くは「薬の組み合わせ」として使われます。それは何の意図もない羅列ではありません。そうした組み合わせはどれも,明確な意図のもとに緻密に構成されているものなのです。そして薬を合わせて使う方法には,長い歴史があります。
 古代の書物である『神農本草経』名例は「薬には七情というものがある……薬は単味で使用することもできるが,多くは合わせて用いる。そして合わせて使う場合,薬同士には相須・相使・相畏・相悪・相反・相殺などの関係が生まれる。薬を使おうとする者は,こうした七情について総合的に理解していなければならない。相須・相使の関係で薬を使うのはよいが,相悪・相反の使い方をしてはならない。しかし有毒薬を使う場合は,相畏・相殺の関係で使うこともできる。そうでない場合は使ってはならない」と述べています。また「薬は君臣佐使を明確にして,適切に使うべきである」「薬には陰陽に従った子母兄弟による合わせ方もある」という論述もあります(『本草綱目』序例)。これらの論述は,薬の合わせ方に関する最初の規範といえるものです。
 『黄帝内経』には,酸・苦・辛・鹹・甘・淡による五味を重視した薬の組み合わせ方が述べられています。それは辛甘による発散,酸苦による涌泄,鹹味による涌泄,淡味による滲泄などを,五臓の病証に応じて使い分ける方法です。金代の劉完素はこの方法を発展させ「物にはそれぞれ性が備わっている。方剤を組成するとは,必要に応じてこの性を制御したり,変化させたりすることで無限の作用を引き出すことである」と述べています。
 全体の流れとしては,まず『黄帝内経』『傷寒論』などの経典が,薬の組み合わせに関する比較的完成された理論や法則を提示しました。そこには四気五味・昇降浮沈・虚実補瀉などの内容が含まれています。その後,『黄帝内経』や『傷寒論』の提示した方法を基礎として,臓腑標本・帰臓帰経・引経報使などの学説が起こりました。歴代の本草書や方書が述べている理論や,現代の中薬学・方剤学などの内容は,どれもこうした理論や学説をもとにして,さらに発展を加えたものです。前者と後者の違いは,前者が単味薬の特性を中心とする理論・方法であるのに対し,後者は方剤の組成法に重点を置いた理論・方法であることです。そして本書の内容は,両者の中間に位置するものといえます。具体的には,薬の合わせ方を中心として,薬を運用する際や方剤を組成する際の内在的な決まりごとについて述べています。それは中薬学の内容と方剤学の内容を柔軟に結びつけ,実用性を重視してわかりやすくまとめたものです。そしてそれらの内容は,すべて私の臨床経験の結晶といえるものです。ただし執筆にあたっては,多くの大家が残した理論や方法を借りて説明をしています。そうした内容も,次の世代へきちんと伝えたいと思うからです。特に『本草綱目』『本草綱目拾遺』『名医方論』などの内容について多くを述べています。清代の厳西享・施澹寧・洪緝菴らがまとめた『得配本草』も,薬の組み合わせに関する専門書ですが,組み合わせ方を紹介しているだけで,その背景となる理論や機序などについてあまり解説をしていません。これでは深い理解を得ることはできません。
 本書は,筆者の長年にわたる臨床や教学の経験と,歴代の用薬法に関する研究をまとめたものです。その内容は,中薬の運用法について理論から実践までをわかりやすく結びつけたものとなっています。そしてそこには歴代の大家の成果や民間に伝わる方法などが十分に反映されています。薬の組み合わせ方に関する,完成度の高い実用的な参考書といえます。具体的には「四気五味」「昇降浮沈」「虚実補瀉」「臓腑標本」「帰経引経」「方剤組成」などの角度から解説をしています。いずれの場合も,中薬理論と臨床実践を有機的に結びつけたうえで解説を行うことに努めました。
 個人の能力の限界や時間的制約などもあり,本書の内容にはまだ足りない部分も多くあります。また数々の疑問点も存在することと思います。本書を読まれた方には,ぜひ忌憚のないご意見をお寄せいただきたいと思います。それらの貴重な意見を参考にして本書の内容を修正し,さらにレベルの高いものに作り変えていくことができれば幸いです。
 この本を読まれる方にお断りしておきたいことが2つあります。1つは本の中で引用している方剤についてです。『傷寒論』『金匱要略』『本草綱目』『証治準繩』『景岳全書』や現在の教科書などから引用した方剤については,紙幅の都合もあり,多くの場合出典を明記してありません。もう1つは薬の用量についてです。本の中で紹介している用量は,原則として原書に記されている用量です。それはその時代の単位ですので,実際に使われる場合には,現在の用量に換算してから使用してください。
 本書の出版にあたっては,病身にもかかわらず原稿の監修作業をしてくださり,さらに本書の出版を薦めてくださった顧問の由崑氏に,心よりお礼を申しあげます。また人民衛生出版社の招きに応じてお集まりいただき,内容の修正のために多くのご意見をいただいた専門家の諸氏にも感謝の意を表したいと思います。さらに出版にあたっては,題字を中医司長(中央官庁における中医管理局の局長)である呂炳奎先生に書いていただくことができ,身に余る光栄であると感じております。

丁 光 迪
1981年11月

針灸学[基礎篇]【序文】

改訂版のための序文

 1991年5月に出版された『針灸学』[基礎編]が増刷を重ねて,今回,さらに読みやすく配慮されて改版されることとなった。多くの方々に読んでいただけたことは関係者一同望外の喜びであるとともに,責任の重さを感じている。
 初版の序で,現代中医学弁証論治の意義について,「直観的思考形態である伝統医学の神髄を学ぶためにも,論理的思考,つまり科学的思考形態が必要であり,その試みの1つである」と述べた。
 病そのものだけを診るのではなく,「病」と「病になっている人間」との関わり,病がその人にどんな変化を与えているのかに注目をして病態把握を行い,自然の原理にそった方法論を用いて,人間が本来持っている治癒力を発揮させて病を治すと考える中国伝統医学は,本質的に全人的な視点が必要となる。また,感情ある生体を対象とするゆえに,ダイナミックな視点も不可欠である。教条的な論理的思考に陥ることなく,常に動いている人間を的確に把握するためには,本書で述べている基礎的理論の常に臨床現場からのフィードバックを心がけるべきであると思う。その際,大切なことは「自ら考える」ということ,そして「自ら観察する」こと,つまり五感をフルに活用して対象である人間を徹底的に観察し,現象をしっかりとらえることではないかと思う。
 社会が求める医療へのニーズが変化してきている今日,多くの可能性を秘めた中国伝統医学の神髄を,日常臨床の中で大いに発揮されることを心から願うものです。

学校法人後藤学園学園長
後 藤 修 司



初版の序文 

 今,保健医療は大きな転換点にさしかかっている。はりきゅうに関しても,昭和63年の法律改正に合わせ,平成2年度から新カリキュラムが施行され,国民の保健医療福祉の向上のためにより一層貢献できる,より資質の高いはりきゅう師の誕生が期待されている。それは,専門家として,一定レベルの知識・技能とふさわしい態度をもち,それらを常に自主的に高める意欲をもった者といえるであろう。具体的には,学んだ現代医学並びに伝統医学の知識を,診断・治療という技能を発揮する中で統合し,人間学の実践として臨床にあたりうる専門家が望まれているということである。そして,これからはさらに,はりきゅう師がぜひとも備えるべき態度として,「科学的」にものを考えることが重要になると思われる。
 東洋的といわれる直感的思考形態によって組み立てられた伝統医学の真髄を学ぶためには,自分の直感を養うことが大変に重要であるが,そのことにのみとらわれてしまうと,いつまでたっても臨床ができないという落とし穴に落ち込んでしまう恐れもある。その直感をしっかり養うためにも,科学的思考つまり論理的思考をもつ必要がある。
 ともすると,伝統医学を学ぶとき,科学技術へのアンチテーゼから,科学的思考形態をも捨て去ってしまうことがある。悪しき科学アレルギーといわざるをえない。
 一方,伝統医学が使う言葉(記号),あるいは表現しているもの(例えば気血等)が,現代科学的言葉(記号)ではないか,または,現代医学的に実証されていないということだけで,その認識論をも非科学的と片づけてしまう考え方もある。現象論レベルの科学をわきまえない悪しき科学教条主義といわざるをえない。
 この2つの科学への悪しき態度が,臨床現場に時として混乱を与え,迷いをもたらすことがある。はりきゅうの専門家として「科学的」態度を養わなければならない所以である。
 例えば,簡単なことで言えば,ある症状,ある脈状の変化が現れているときに,それが身体の中のどういう変化によって起こっているのかについて,常に考えられること,また,自分の行なう治療行為がそのことに対してどのように働くのかについて,推論できることが重要なことではないだろうか。そして,それが,我田引水でなく一定の「科学的」理論性をもつ必要があるということである。
 現代中医学における弁証論治はまさしく,そうした試みの1つであると思われる。本書は,そのことをさらに深めるために,中国天津中医学院と後藤学園との共同作業によって新たに制作したものであり,いわゆる翻訳本とは趣を異にしている。いかにして適切に病態を把握し,いかに有効な臨床を行うかという立場から書かれた本書が,自分で観察し,自分で考え,自分で臨床に取り組む多くのはりきゅう臨床家のために役立つことを願うものである。

天津中医学院副院長
高 金 亮
学校法人後藤学園学園長
後藤 修司

針灸学[臨床篇]【序文】【本書を学ぶにあたって】

まえがき

 臨床にたずさわる者には,常に心しなければならないことがある。それは,臨床評価学の導入と臨床判断学の導入である。
 臨床評価学とは,確実に効果をあげ,何故効果があったのかを常に考えること,あるいは,何故効果が無かったのかを考えることである。
 臨床判断学とは,常に,もっと安全で効果のある,また患者への負担の少ない治療方法はないものかと模索し続け,現時点で最良の方法を選ぶことである。
 確実な「技術」と「考える」習慣とをいつも持ち続けていることが重要となる。実際の患者の様子や病態は千差万別であり,この「考える」力がないと,臨床能力はある一定の所で停滞してしまう。そして,さらに重要なことは,独善ではなく理論的な「科学的」思考で考える習慣を身につけなければならないということである。ともすると,伝統医学的取り組みによって,臨床にあたろうとする時,独善的思考に陥ってしまうことが多々ある。それは,現代医学的臨床アプローチと異なり,共通的評価基準を設定しにくいことがその要因と思われる。
 もう1つの落とし穴は,論理にふりまわされ,実際の現象よりも論理性に力をそそぎすぎてしまうことによる教条的な姿勢である。細心の患者観察が大切な所以である。
 本書は,これらのことに対して1つの解決策を提案している。
 伝統医学の原点に帰り,実際の臨床を通して整理体系化しようとしている現代中国の弁証論治を取り入れ,翻訳ではない新たな書きおこしをを,天津中医学院と後藤学園とで,日本のはりきゅう治療に役立つよう編集したものである。
 本書は,臨床の際の「考える」基礎の助けとなるものである。臨床の実際をどう解釈し,どう対応したらよいかを考えるための羅針盤の役割を十分に果たすことができるものと確信している。細心の患者観察とあいまって,本書を有効に活用し,伝統医学として培われてきた「大いなる遺産」に,臨床家を志す多くの皆様の努力によって,新たなる光を与えて戴くことを願うものである。

天津中医学院院長
戴 錫 孟
学校法人後藤学園・学園長
後藤 修司
1993年8月


本書を学ぶにあたって

1.本教材の位置づけ
 ここに日中共同執筆という形で,『針灸学』[基礎篇]に続いて針灸のための中医学臨床テキストが完成した。本書は,日本での新しい東洋医学教育の課題と目標を踏まえながら,中国の協力を得て,日中共同で編集したものである。これは針灸のための東洋医学テキスト・シリーズの第2部であり,『針灸学』[基礎篇]で学んだ東洋医学の生理観,疾病観,診断論,治療論にもとづいて,これら東洋医学独自の考え方をどのように具体的に臨床に応用していくかを呈示したものである。  この東洋医学テキスト・シリーズは,東洋医学的なより適切な病態把握,より有効な臨床応用,そして自分の頭で東洋医学的に考えられる針灸臨床家を育成する目的で企画されたものである。第3部として現在,『針灸学』[経穴篇]の製作を行っているが,その具体的な応用は,本書[臨床篇]の総論にある針灸処方学,さらに処方例,方解,古今処方例から,その片鱗をかいま見ることができる。[基礎篇],[経穴篇]は,[臨床篇]のためにあり,したがってこれらを統合したものが[臨床篇]である。本書は『内経』から今日にいたる歴代の多数の医学書,医家の説を参考にし,今日の針灸教育と針灸臨床にスムーズに適応できるよう,要領よく,かつ理論的に整理してあり,いわば伝統医学の精髄を継承したものといえる。

2.本書の組み立て,内容,学習の方法
 本書の組み立ては,日常よく見られる92の主要症候について,まず「概略」を述べ,ついでその「病因病機」,「証分類」,「治療」,「古今処方例」,「その他の療法」,「参考事項」について述べている。本書の内容は,『針灸学』[基礎篇]で学び,そして培ってきた東洋医学独自の生理観,病因論,病理観,病証論,診断論,治療論をトレーニングできるように組み立てられている。  「病因病機」の部分は,『針灸学』[基礎篇]で学んだ生理観,病因論,病理論を応用したものであり,これを通じて[基礎篇]の内容をトレーニングすることができる。また「証分類」の部分では,[基礎篇]の病証論,診断論を応用したものであり,ここではそれぞれの主症の特徴,それぞれの随伴症の特徴,それぞれの舌脈象の特徴を相互に比較しながら学びやすいように配列してある。弁証は病因病機をふまえた鑑別学であり,ここでは主として病理論,診断論のトレーニングができるように,それぞれに証候分析を付した。  「治療」における処方例については,その治法にもとづき例示したものであり,けっして固定した処方ではない。ここではこの処方を暗記するのではなく,この処方がどのような考えにもとづいて構成されており,これによりどのような治療目的を果たそうとしているのかを学習トレーニングすることにポイントがある。また病態の変化に応じて,どのように処方構成も変化させていかなければならないかを学習する必要がある。方解を参考にしていただきたい。  また「古今処方例」は,現在にいたるまでの東洋医学継承の連続性をはかる目的で,『内経』の時代から今日にいたるまでの歴代医家の多くの臨床経験を例示したが,読者の臨床にも役立てていただきたい。  「その他の療法」では,主として耳針と中薬による治療を例示した。最後に「参考事項」においては,主として注意事項,養生などについて述べ,参考に付した。  本書の学習にあたって重要なのは,本書を読んでいくのではなく,本書を自分の基礎,臨床トレーニングにどのように活用していくかにあると思われる。この習慣と態度が培われていけば,そして自己トレーニングができれば,教条的に本書に書かれてあるとおりに臨床を行うのではなく,「自分の頭で東洋医学的に考えられる針灸臨床家の育成」,そして「有効な臨床応用」という本企画の主目的を達成することができると思われる。東洋医学的に自分で観察し,自分で考え,自分で臨床に取り組み,自分で解決することができる針灸臨床家になるために,本書が役立つことを願うものである。

天津中医学院副教授
劉 公望
学校法人後藤学園中医学研究室室長
兵頭 明

針灸学[経穴篇]【序文】

序にかえて

 臨床における,五感のフル活用による細心の患者観察の重要性については,これまでのシリーズ(『針灸学』[基礎編](初版2版)と[臨床編]の序文で度々指摘してきました。
 「経穴」とは,まさしくこのような先人による細心の患者観察の集積が基礎となり体系化されてきたものであろう。体の中の変化,それも器質的なものはもちろん,機能的変化をも投影していると思われる体表面の微妙な変化を的確に捉えた,その観察とひらめきの鋭さ,及びそれらを体系化した理論性には,ただ脱帽するものです。
 鍼灸治療の基本ともいうべき経穴に関する類書は沢山ありますが,この度の出版はこうした先人の経験に加えて,さらに現代中国における臨床成果の枠をも盛り込んだものです。また,前述の先行出版と同じく,日本の臨床現場で役に立つように,中国と日本が共同編集したものであり,いわゆる翻訳本とは違う読みやすさを持っています。
 ただ,生きている人間を対象とする「臨床」は,ダイナミックなものです。
 人間の生命・生存・健康を考える時,大切なことは,現象との遊離をした理論のための理論は必要ないということです。本書を教条的に使うことなく,常に,現象からのフィードバックと基礎理論との関連から,何故この経穴を使うのか? 何故この経穴に意味があるのか?という疑問を持ちつづけ,自ら考えるという医療人としての姿勢が大事かと思います。
 世界的規模で期待が広がっている鍼灸臨床の可能性を,さらに確実にするために,本書がお役にたてればこの上ない喜びです。大いに活用していただきたいと思うものです。

学校法人 後藤学園 (東京・神奈川衛生学園専門学校) 学校長
後 藤 修 司

針灸学[手技篇]【序文】

自序

 針灸学は中国医薬学の貴重な遺産の1つであり,その源は上古の時代にさかのぼることができ,悠久の歴史を有している。針灸はその適応症が広く,効果は顕著であり,また操作が簡便で容易に習得でき,経済的かつ安全性が高いという特徴があり,非常に多くの人から歓迎されている。
 この中医伝統針灸医学の継承と発揚を行い,またより多くの医療従事者が針灸医術を習得して健康事業に寄与するならば,人類に大きな幸福をもたらすことができる。
 私は先父毓琳公の気功,針灸真伝および先父の中国中医研究院針灸研究所第3研究室主任時の遺作,私自身の40年にわたる針灸臨床,研究,教育の経験にもとづき,さらに前人の針灸各家手法や先進的な経験を吸収し,1978年と1983年にそれぞれ『針灸集錦』と『子午流注と霊亀八法』を著し,中国甘粛人民出版社から出版した。これらは1984年8月に北京で開催された中国針灸学会第2回針灸針麻酔学術討論会において,国内外の専門家から重視された。
 このたび,学校法人・後藤学園学園長である後藤修司先生および東洋学術出版社社長山本勝曠先生の温かい友好協力および御提案にもとづき,手技に関する本著を日本において出版するはこびとなった。ここでは主として伝統的な針灸手法,とりわけ焼山火,透天涼をはじめとする伝統的手法の具体的操作を写真と図説により紹介し,さらにその適応症について紹介した。臨床において多くの針灸従事者の参考にしていただきたい。
 なお執筆,編集にあたっては兵頭明先生および厲暢女史の熱心な協力があった。ここに心より感謝の意を表す。

鄭 魁 山
1989年9月 甘粛中医学院にて



序文

 中国は針灸の発祥地である。2000年以上も前に中国の古代医学家は,『黄帝内経』,『黄帝三部針灸甲乙経』を世に著し,中国医薬学,針灸学の理論的基礎とその基本的方法を確立した。これは針灸の伝播,研究の典籍とされている。針灸は今日世界人民に受け入れられており,世界医学の構成部分となることにより,いっそうの発展をとげている。
 数千年来にわたる歴代の医学家の長期にわたる医療実践により,豊富な臨床経験と理論知識が蓄積されている。針灸学術の発展につれて,その理論と経験は,系統的に整理,発掘,向上がはかられなければならない。甘粛中医学院の鄭魁山教授は,曾祖父から4代にわたり伝承・伝授されてきた針灸医療の貴重な経験と自身の多年にわたる経験にもとづいて,手技に関する本著を著している。その内容は非常に豊富であり,資料は詳細で確実であり,さらに図説を加えている。また家伝手法の密なるものをも紹介している。本著の出版は針灸学術の発展および針灸による臨床効果の向上,さらには医学における国際交流の促進のすべての面において,必ずや大きな影響をもたらすことであろう。とりわけ本著の内容は臨床教育ならびに科学研究にとっても参考となり,中国伝統針灸の大いなる発揚に貢献するものである。
 中医針灸は,今日まで中華民族の健康ならびにその繁栄に対して重要な作用を果たしてきたが,今こそ針灸が世界人民の健康ならびに幸福のために貢献することを心より希望する。

胡 煕 明
1989年12月12日

医古文の基礎 【略歴】

編著者略歴

劉振民(りゅう・しんみん)
 1935年江蘇省生まれ。1959年華東師範大学中文系卒。同年北京中医学院医古文教研室に入る。「文選」と「版本と校勘」を担当し、当時は講師。現在、北京中医薬大学教授。著書に『実践与探索』『中医師資格考試必読医古文』などがある。


周篤文(しゅう・とくぶん)
 1934年湖南省生まれ。1960年北京師範大学中文系卒。同年北京中医学院医古文教研室に入る。「目録学」と「工具書」を担当し、当時は教研室主任。現在、中国新聞学院教授。著書に『宋詞』『宋百家詞』『中外文化字典』などがある。

銭超塵(せん・ちょうじん)
 1936年湖北省生まれ。1961年、北京師範大学中文系卒。陸宗達教授に師事し、文字学・音韻学・訓詁学・考証学を学ぶ。1972年北京中医学院で「医古文」を講義する。「語法」と「古韻」を担当し、当時は講師。現在、北京中医薬大学教授。博士課程指導教授などを兼務する。著書に『黄帝内経太素研究』『内経語言研究』『傷寒論文献通考』などがある。

周一謀〔周貽謀〕(しゅう・いつぼう)
 1934年湖南省生まれ。1960年、北京師範大学中文系卒。「訓詁常識」と「古籍の語訳」を担当。現在、湖南中医学院教授。著書に『中国医学発展簡史』『偉大的医学家李時珍』『歴代名医論医徳』『馬王堆医書考注』などがある。

盛亦如(せい・えきじょ)
 1935年浙江省生まれ。1959年、華東師範大学中文系卒。中国中医研究院で中医文献研究に携わり、「常見虚詞」を担当。現在は北京中医薬大学教授。全国高等中医薬教育研究中心特約研究員を兼務する。共著に『中国医学史』『中医与中国文化』などがある。

段逸山(だん・いつざん)
 1940年上海市生まれ。1965年、復旦大学漢語言文学専業卒。高等中医薬院校教材『医古文』(人民衛生出版社)の主編。現在、上海中医薬大学教授。同大学図書館館長。医古文教研室主任。

趙輝賢(ちょう・きけん)
 高等中医薬院校教材『医古文』の副主編。漢字学を担当。

編訳者略歴

荒川緑(あらかわ・みどり)
 1958年生まれ。1986年、東洋鍼灸専門学校卒。日本内経医学会医古文講座講師。代表的論文に「『素問識』引用文の検討」があり、編著に『翻字本素問攷注』がある。

宮川浩也(みやかわ・こうや)
 1956年生まれ。1981年、東洋鍼灸専門学校卒。日本内経医学会会長。北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部客員研究員、大東文化大学人文科学研究所学外研究員。代表的論文に「『史記』扁鵲倉公列伝研究史」があり、編著に『素問・霊枢総索引』『翻字本素問攷注』などがある。

2006年11月22日

名医の経方応用-傷寒金匱方の解説と症例

この本を推薦します


東京臨床中医学研究会
平馬直樹


 張仲景の著したとされる『傷寒論』と『金匱要略』は,弁証論治の聖典として,中国でも日本でも重視されてきた。この両書に収載される処方,すなわち経方は,歴代の医家に使い継がれて,現代の医療にも大いに活用されている。経方は打てば響くようなはっきりとした治療効果があり,経方の運用に習熟することは,治療技術の向上に必須のことといえる。  本書の特徴は,経方諸方剤(約160方)を桂枝湯類・麻黄湯類・瀉心湯類など類方ごとのグループに分類し,順次解説を施していることで,このような整理法は,吉益東洞の『類聚方』,徐霊胎の『傷寒類方』と同様のもので,こういう書を座右に置くことは,『傷寒論』の六経の伝変に対応する用薬法と,『金匱要略』の各篇の治療方針のあらましを身につけている者にとって,臨床の応用にすこぶる便がよいといえる。東洞の『類聚方』やその解説書である尾台榕堂の『類聚方広義』が江戸時代以来広く読まれているのも,臨床応用に便利だからである。本書は同類の経方解説書にくらべて,解説がていねいで,ことに処方の構成生薬一味一味に詳細な説明が施されている。例えば,「四逆湯」の項に附子の解説が付されているが,経方の附子の運用が古典医書の記載,著者の経験も含めて全面的に述べられており,教えられるところが多い。  各方ごとに,適応証・方解・応用が述べられ,すぐに臨床に役立てられる。また,適宜症例が付されているが,収録される症例は222例に及び,症例ごとに簡にして要を得た考察が加えられているのがありがたく,これらをじっくり味読すれば,経方の運用能力に大いに裨益するであろう。  この書は,高名な上海の老中医である姜春華教授の講義録を整理・加筆して編まれた。著者の姜春華教授は,臨床にも著述にも,また腎の本質の研究など,研究指導の面でもすぐれた業績のあるオールラウンドの名中医で,『傷寒論』研究にも造詣が深い。本書では,方解などに清代の柯韻伯・尤在涇・喩嘉言・王旭高ら,近代の陸淵雷・祝味菊ら多くの『傷寒論』研究者の学説が紹介され,歴代の研究成果が密度濃く凝集されている。臨床応用は主に姜教授自身の臨床体得にもとづいて記載されており,簡潔ながら的を突いた味のある解説となっている。通読しても経方の応用能力を向上することができるであろうし,診察室に備え,必要に応じて引いても便利である。  このような良書が翻訳され和文で読めることは,たいへんありがたい。名古屋の漢方界の重鎮,故・藤原了信先生,藤原道明先生と天津から来日されている中医師・劉桂平先生のご努力で翻訳された。3先生の労に感謝したい。藤原了信先生は,日中の医学交流や中医学の日本への導入に熱心に取り組まれた先駆者であられたが,本書の上梓を前に急逝された。まだまだ漢方界のために活躍していただきたかったが,返すがえす残念でならない。先生の遺作となった本書は,これから日本の漢方家に学習され,活用されていくことであろう。経方運用の座右の書として,すべての漢方臨床家に本書を推薦したい。

訳者からみる著者・姜春華
――西洋医も納得させた名老中医――

名古屋市立大学薬学部客員研究員
劉桂平


 姜春華先生は1960~80年代に活躍した著名な老中医の1人である。中医学を継承し,なおかつ発展させるというバランスがうまく取れた先生で,革新派に属される。伝統中医学の長所を生かしながら,新しいものを創造していくことを重視され,特に肝疾患の治療と活血化?の研究で有名である。  姜先生は,早くも60年代から,弁病と弁証の結合を提唱されていた。疾病を正しく認識するには患者の症状や舌,脈の分析だけでは不十分だという。たとえ弁証論治に従って治療し,症候が改善しても,検査値の異常が改善していない場合もある。例えば,慢性腎不全の治療で,むくみや尿不利などが完全に解消されたとしても,検査をすると尿蛋白が続いているといったことがよくある。そのため,先生はより確かな臨床効果を得るために積極的に西洋医学の検査技術を導入された。  姜先生が勤務されていた上海第一医学院附属病院は西洋医学のレベルも高く,院内の西洋医を納得させるだけの治療効果を上げる必要があったという。そのためには客観的な証拠である西洋医学の診断が不可欠だった。そして,先生は西洋医学で治らない患者ばかりを治療して,なみいる西洋医らを驚かせる実績を上げ,全国からの注目を集め,非常に高い評価を得たのである。  例えばこんなことがあった。あるとき,肝硬変による腹水のために入院してきた40代の患者があり,西洋医学のさまざまな治療を試みたが,まったく効果がみられなかった。その患者は姜先生が診察されるまでは病状が悪化する一方であったが,先生が診察されて,十棗湯(『傷寒論』)と下?血湯(『金匱要略』)の合方方剤を用いたところ,腹水を便とともに排泄し,尿量も増え,病状を劇的に改善させることができた。その後,肝脾を整える処方を応用したところ,最終的に自覚症状もなくなって,この患者は無事に退院していった。このような治療経験が数多くあったのである。姜先生は西洋医とともに共同して研究した期間が長く,中医学の真髄を西洋医にも理解しやすいように中医学教育や臨床・研究に務められた。  本書は,『神農本草経』や『名医別録』などの文献を引用しながら生薬の効能と処方を詳しく分析して,さらに現代薬理学の研究成果も加えて処方の総合的な効果を明らかにしている。また,経方の理論を解説するだけでなく豊富な症例をあげることで,実践を通じた処方の理解と応用方法にヒントを与えてくれる。本書を読めば,『傷寒論』と『金匱要略』の処方を組み立てる発想を十分に理解できるばかりでなく,姜先生の経方の活用方法に学ぶことで,煎じ薬はもちろん,日本のエキス剤処方も柔軟に応用できるようになるはずである。

名医の経方応用-傷寒金匱方の解説と症例

著者略歴


姜 春華(1908~1992)
 姜先生は江蘇省南通県の中医の家庭に生まれ,幼い頃,父の青雲公医師に師事した。20歳のとき上海で開業し,その後,上海の著名な中医である陸淵雷先生の指導を受けた。臨床実践を重ねながら系統的に『黄帝内経』『傷寒論』『金匱要略』『温病学』などの中医経典を勉強し,同時に西洋医学の教育を受けた。当時瘟疫が流行したが,姜先生は貧しい患者を多く救ったことにより,高く賞賛された。
 上海医科大学中山医院の中医学教授として,中医学の臨床と西学中(中国医学を学んだ西洋医師)の教育に50年余り携わった。理論的にも臨床的にもレベルが高かった。
 姜先生は中医学・西洋医学の両方に精通していたが,中国伝統理論を重視したうえで西洋医学の長所を吸収することを提唱し,特に「弁証論治は中医学の真髄」であり,「弁証と弁病の結合が必要」であると強調していた。
 臨床においては,肝臓病・腎臓病・心血管病・呼吸器系統の疾患の豊富な治療経験をもっている。また腎の本質と活血化についての研究ですぐれた業績を上げており,『腎本質研究』と『活血化研究』の二書を主編している。主な著書に,『中医治療法則概論』『傷寒論識義』『中医病理学』などがある。あわせて全国の医薬雑誌に,三百余編の論文を発表している。衛生部から金賞を受賞。国家科学委員会中医専門部会員・中国中西医結合研究会顧問・上海市中医学会名誉理事長を務めた。(劉 桂平)


訳者略歴

藤原 了信
1935年 愛知県生まれ。 1959年 名古屋大学医学部卒業。 2004年 死去。生前は,本山クリニック藤原内科名誉院長・中部漢方臨床研究会代表。
藤原 道明
1965年 愛知県生まれ。 1989年 藤田保健衛生大学医学部卒業。 2001年 学校法人後藤学園非常勤講師。 現 職 本山クリニック藤原内科院長。     学校法人藤田保健衛生大学客員助手。
劉 桂平
1959年 中国天津市生まれ。 1978年 天津中医学院中医系入学。 1983年 天津中医学院中医系卒業,天津市西青区中医医院内科医師。 1987年 天津中医学院大学院修士課程修了。天津中医学院内科講師。 1993年 来日。名古屋市立大学薬学部客員研究員。 著 書 『針灸学』[基礎篇](共著)(東洋学術出版社)  『脾虚証の現代研究』(共著)(天津科技翻訳公司出版社)

中医鍼灸臨床発揮

凡例

 1.本書で用いられている補瀉法は,明代の陳会が著した『神応経』のなかにある捻転補瀉法と同じものである。捻転補瀉の時間,角度,速さは,患者の病状および感受性にもとづいて決定されている。
 一般的にいうと,瀉法の場合は施術者の判断にもとづいた深さまで刺入して,鍼感が生じた後に捻瀉を行い,5~10分に1回,30秒~3分間の捻瀉(局所取穴の場合は捻瀉時間は短くする)を行う。この捻瀉を2~3回行い,15~30分置鍼して抜鍼するものとする。局所取穴による局部療法では,瀉法と強刺激を配合する場合もある。
 補法の場合は,やはり施術者の判断にもとづいた深さまで刺入して,鍼感が生じたのちに連続的に捻補を3~5分間行い,抜鍼する。場合によっては捻補を10分間行い(重症の虚証または虚脱患者には,捻補時間を長くする)抜鍼するものとする。補法と弱刺激を配合する場合もある。
 文中の(補)と(瀉)は刺鍼による補法と瀉法を意味する。施灸による補法と瀉法の場合は,それぞれ(灸補)(灸瀉)とした。これらの( )付きの文字および(点刺出血)(透天涼)などの( )付きの文字は,その前に列記された複数の経穴名の全部にかかり,それらの経穴に対して同じ手法を施すことを示している。
 2.本書で紹介している「焼山火」「透天涼」の両手法は,明代の徐鳳が『鍼灸大全』金鍼賦で述べているような複雑なものではない。本書中の焼山火手法は,適切な深さに刺入して鍼感が生じた後,刺し手の母指と示指の2指を補の方向に向けて捻転し,その後鍼柄をしっかり捻り(局部の肌肉を緊張させることにより鍼が深く入るのを防ぐ)下に向けて適度に按圧し,次第に熱感を生じさせるというものである。
 また透天涼手法は,適切な深さに刺入して鍼感が生じた後,刺し手の母指と示指の2指を瀉の方向に向けて捻転し,その後鍼柄をしっかり捻り(局部の肌肉を緊張させることにより鍼が抜けるのを防ぐ)上に向けて適度に提鍼し,次第に涼感を生じさせるというものである。この種の操作方法は比較的簡単であり,マスターしやすい。
 3.本書の「補法を用い焼山火を配す」(補,焼山火を配す)とは,捻転補瀉法の補法を用いて捻補したのちに,さらに焼山火を施すことである。これにより温補の効果をうることができる。「瀉法を用い透天涼を配す」(瀉,透天涼を配す)とは,捻転補瀉法の瀉法を用いて捻瀉したのちに,さらに透天涼を施すことである。これにより熱邪を清散させる効果を得ることができる。
 4.本書における取穴は,患部取穴と循経近刺の場合,一側の経穴を取穴することが多い。この場合は左を取穴するか右を取穴するかを明記した。循経取穴と弁証取穴に関しては,すべて両側の経穴を取穴するものとしているので,「両側」の表記は省略することとした。
 5.施灸に関して「灸瀉」「灸補」とある。その方法は灸頭鍼あるいは直接灸を用い,一般的に施灸時間は10~30分間とし,施灸時に瀉法または補法を配すこととした。
 6.ある配穴処方が某湯液の薬効に相当,あるいは類似との表記があるが,これはその湯液全体としての薬効を指したものである。
 7.ほとんどの医案に対して考察を加えたが,考察の中では選穴理由,用途,処方中における各治療穴の作用,配穴と湯液の効能との関係といった説明は,できるだけ簡略化した。あるいはこういった説明を加えていない医案もある。それは『臨床経穴学』に詳細に論述されているからである。
 8.使用している鍼具は,1948年までは自家製の25号,24号の毫鍼を用いていたが,1949年以降は一般に市販されている26号の毫鍼を用いている。肩・膝・股関節部や肌肉が豊満な部位に灸頭鍼を施す場合は,24号の毫鍼を用いることが多い。
 9.鍼治療は多くの場合が2~3日に1回としている。

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