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  • 書籍のご案内 - 序文

▼書籍のご案内-序文

わかる・使える漢方方剤学[時方篇]

[ 中医学 ]

まえがき

 この本は,私が理想とする「方剤学の教科書」を形にしてみたものです。私は中国にいる間,学部の学生だった頃も,大学院の学生だった頃も,ずっと「系統的理解が得られる教科書」をさがし続けました。しかし,見つけることはできませんでした。それでも「きちんとした理解を得たい」という願望は消えず,自分で研究を始めたのです。

 方剤学の教科書とは「履歴書の束のようなもの」に過ぎないと,私は考えています。どんなに有能な管理職でも,履歴書をみただけでは,その人材を適材適所で使いこなすことなどできないと思います。それは方剤も同じです。「その方剤は,どんな理論に基づいて作りだされたのか」「その理論は,どのように生まれたのか」「その手法や理論は,その後どのように受け継がれたのか」「現在はどういう位置にあるのか」などなど,1つの方剤を理解するには,その周辺の事情をたくさん知る必要があります。
 しかし主要な文献だけでも数百冊はくだらない中医学の世界では,それは「1人の人間の人生では足りない」ほどの作業となります。それでも可能な限り,以上のような内容を盛り込み,読んだ後で「よく分かった」と実感できるような本を作りたいと努力しました。

 中医学を学ぶには,まず歴史・理論・古典そして薬・方剤,それから臨床各科……というのが正統な順となります。しかし本書はいきなり「方剤」という窓口から入れるようにしてあります。それは読者として「臨床の現場にいる医師や薬剤師」を念頭においているからです。西洋医学を学んできた人たちにとって,それが一番入りやすい切り口であろうと考えました。
 しかしその上で,あくまでも中医学の立場にたって,なるべく分かりやすく解説するという作業は想像以上に難しいものでした。本書の内容も,不勉強や経験不足から生じる限界や偏りは隠すべくもありません。とても「理想の教科書」と自讃できるものではありません。しかし少なくとも「履歴書の束からは脱皮したもの」として,本書を世に送り出したいと思います。

 本書は,今後『わかる・使える漢方方剤学』シリーズとして出版していく中の[時方篇]です。[時方篇]はこの1冊で完結しますが,さらに[経方篇]を数冊の本としてまとめる予定です(「時方」「経方」の意味は,凡例を参照してください)。
 本シリーズが,漢方製剤や中薬を積極的に使いたいと思っている医師や薬剤師の方の一助となれれば幸いです。

小 金 井 信 宏
2003年3月

内科医の散歩道―漢方とともに

[ 中医学 ]

はじめに

 今から二十年前、病院勤めの頃のこと。
 「あの心筋梗塞の患者さん、どうしても、胸の痛みが止まりません。モルヒネまで注射したんですが……」
 若いドクターの求めにかけつけた。患者さんは目をつりあげ、七転八倒! 今にも自分は死ぬんではなかろうか―という恐怖と闘っている。彼の肩に手を置く。
 「これくらいの病気で、あなた、死ぬもんですか。たいしたことありません」と私。
 「えっ? 私、助かるんですか。そうですか、助かるんですか……」
 それから一分もたたぬ間に、彼、スヤスヤ眠り始めた……。
 今、開業して十七年目。心臓内科を看板として働く私に、多くの患者さんが教え続けてくれたこと、それは、病を治す上でどんなに心の持ち方が大切であるかであった。夜、眠れなくても、残りの少ない寿命、神が私に時間をくれていると告げた御老人。耳鳴りすら天上の音楽と表現した人。病の受けとり方が、なんとプラス思考、感謝の心に満ちていることか。
 私自身、四十歳代のころ三昼夜、一睡もせず、重症患者さん達を見守った月日があった。こんなに過労、俺、なが生きは出来まいと思っていた。ところが有難いことに、白髪が生え、皮膚にポツポツ老いのしみをみるとしにまで生きながらえている。
 遺伝子工学の権威、村上和雄教授は、彼の著書、『生命の暗号』(サンマーク出版)の中でこう述べている。「イキイキ、ワクワク」する生き方こそが、人生を成功に導いたり、幸せを感じるのに必要な遺伝子をONにしてくれる―というのが、私の仮説なのです=と。この彼のいう人生を成功に導いたりという言葉の中には、癌発生を抑制する、という意味すら含まれている。私は更に広く考え、心の感動こそが、癌を含め、いろんな難治性慢性の病を克服するための一番大切な条件と信じ実践してきた。
 拙著『野草処方集』(葦書房)が、世に出て十年の月日が経った。育んで下さった天籟俳句会の穴井太師、出版にさいし細く検討して下さった久本三多氏、もうこの世の人ではない。八千五百部、という望外の発行部数を支えていただいた方々にはどう感謝の気持ちを伝えたらよいのか解らない。
 豚もおだてりゃ木に登るとか。皆様の励ましの言葉に、つい浮かれて、新しい書を世に出すことになった。本書は、西日本新聞に一年間、毎週木曜日、五十回にわたって連載させていただいた『内科医の散歩道』―中国医学と共に―そのものである。私如き一介の町医者にこのような機会を与えて下さった西日本新聞社、当時文化部部長の原田博治氏に、また、天下の大新聞への連載に尻込みする私にムチを入れて前に進めて下さった地下の穴井太師、校正の労をとって下さった藤本和子さん、身に余る推薦文を寄せて下さった学友の菊池裕君、後藤哲也君、さらに、共に漢方を学ぶ九州中医研の諸兄姉、共に野山を歩く牛山薬草研究会の皆様、共に漢方を実践する任競学中医師に、そして、私を励まし育てて下さる多くの方々に感謝の意を表する。

 蟻と人 同じ生命よ 花の下

ひろし
平成十二年十一月三日

中国気功学

[ 中医学 ]

日本語版出版によせて

 このたび東洋学術出版社より,拙著『中国気功学』が翻訳・出版され,日本の気功愛好者に紹介されるはこびとなったことに対し,中国の気功研究者として心から感謝の意を表します。
 気功は民族文化遺産の中でもとくに中国独自のものとして異彩を放っており,ことに医療気功は中国伝統医学を構成する重要な一部分であって,5000年の歴史をもっています。中国気功はその悠久の歴史の中で,豊富で多彩な内容を形成してきました。歴史の発展過程において,身心の健康に有益なありとあらゆる自己鍛練の方法および理論が絶えず吸収・融合されつづけてきており,人びとの医療保健の面に大いなる貢献をはたしてきました。
 気功とは,
 (1)姿勢調整・一定の動作--「調身」
 (2)呼吸鍛練・内気運行のコントロール--「調息」
 (3)身心のリラックス・意念の集中と運用--「調心」
の3つの要素を総合したものであり,体内の気を練ることを主眼とする自己身心鍛練法です。
 鍛練を通して元気を増強し,臓腑の機能を調整し,体質の改善をはかり,人体に潜在する能力を発揮させることによって,病気の予防・治療および益智延年の効果を得ることができます。気功学とはこの自己身心鍛練の方法,プログラムおよび理論を研究する学科であるということができます。
 気功の特徴は,意と気を結合させながら鍛練を行うという点にあり,それは病気を予防・治療する方法を,1人ひとりが身につけるという独特の医療保健措置であるということです。
 そこである程度の功法を学ぶ必要があるわけですが,功法をいっそうよく体得し,理解して,運用できるようになるためには,気功師も気功愛好家も,気功に対して全面的に理解を深めなければなりません。そうすることによってムダな労力をはぶき,能率よく修得することができるのであって,本書を執筆した目的もここにあります。
 近年来の気功師・気功愛好者による日中間の相互交流,さらには多くの人々の努力により,中国気功が急ピッチで日本に広まると同時に,日ごと市民権を得つつある状況は誠に喜ばしいかぎりです。
 本書が日中交流のひとつの賜として,広く日本の気功研究者ならびに気功愛好者の方々に奉献されることを期待しております。

馬 済 人
1987年 中国上海市気功研究所にて




 もとより上海市気功療養所は,当時全国に3つしかなかった気功の専門研究機関のひとつとして,臨床的な実践をはじめ原理の探究,功法の研究,人材の養成などの面でかなりの貢献をはたしていた。また気功関係文献の整理,教材の作成,気功知識の普及などの活動も数多く行ってきた。実際このような業績があったにもかかわらず,その後気功は厳しい弾圧を加えられ,打撃を受け,気功療養所もその活動を中断せざるをえない時期があった。
 現在,気功およびその治療方法が再評価されるようになり,慢性疾患患者,長寿法を研究する人々,気功愛好者,気功研究家といった人たちからは,気功について系統的にまとめた本を望む声が高まってきた。適当なテキストがあれば,それによって気功への理解をいちだんと深め,学習・体得・運用できるようになるであろうし,ひいては人びとの健康づくりに役立たせることができるだろう。また人びとの体質を強化し,病気を予防し,老化を防ぎ,人に潜在する有用な能力を発揮させることができるだろう。--私も上海市気功療養所の古参として,さらに中国医学科学院の特別研究員・上海市気功療養所所長・陳濤氏の助手としての立場上,やはり心中穏やかならず,絶えず思案にくれていた。
 世間の要望に答えて『中国気功学』の編纂を思いたって以来,各方面の意見を虚心に傾聴し,いく度かの修正を加えた末,やっと本書ができ上がった。
 この『中国気功学』は上海市気功療養所編の『気功療法講義』を元本としている。臨床経験を基礎とし,唯物弁証法と唯物史観の視点に立った論述を心がけており,さらに同系諸機関で発表された信頼度の高い資料を取り入れた。全10章とかなり大部の書籍になり,取り上げた問題も多岐にわたっている,まったくの気功専門書である。この本が中医学院で気功の教材として使われるばかりでなく,各種気功勉強会や,気功研究グループで読まれたり,さらに気功愛好者の参考書や,気功研究所で臨床ハンドブックとして利用されることを望みつつ執筆したのであるが,その目的にかなうものとなったかどうか。読者の鑑定に委ねることにしたい。
 気功は悠久の歴史をもっている。発展の過程で大量の文献が著わされており,古典や医籍の中にも多くの記載をみることができる。その功法と理論は,4部書『経』『史』『子』『集』や道教,仏教,儒教とも密接な関係がある。さらに気功自身が,古今たくさんの流派を生み出してきた。したがってそれらすべてを篩にかけ,本当の精華というべきものを選びとってこそ,気功およびその療法を普及させ,ひいては人びとの健康に奉仕させることができるようになると考えている。
 本書の編纂にあたって,上海中医学院院長・黄文東教授ほか,各関係の諸先生方から熱情あふれる支援と励ましをいただいた。さらに本書の完成は次の方々の応援なくしては考えられない。ここに紙面を借りて感謝の意を表したい。
        閻啓民(陜西中医学院・副院長)
        劉元亮(陜西中医学院経絡研究室:主任)
        柴宏寿(上海中医研究所・医師)
        黄健理(上海中医学院付属曙光医院・龍華医院医師)
        邵長栄(右・副主任医師)
        戚志成(医師)
        夏詩齢(医師)

1982年6月 上海にて
編著者記す

中医伝統流派の系譜

[ 中医学 ]



 東洋学術出版社の山本勝曠先生や戴昭宇先生、柴崎瑛子女史の協力により、このたび『中医臨床伝統流派』の日本語版を上梓できますことは、私の大きな喜びとするところであります。現在、中医学教科書にのっとった現代中医学が日本において急速に広まりつつありますことは、中日文化交流史上画期的な出来事といえます。ただし、ここで考えてておかなければならないのは、教科書とは規格化されたものであり、基礎や教室での教育に重きを置くものだということであり、したがって教科書だけに拘泥すれば、個性溢れる中医学の活力を損ないかねないということです。教科書とは、結局は初心者のための入門書でしかなく、中医学という宝庫を発掘整理するためには、より高度な知識と能力が要求されます。そこで日本における中医学のレベルをさらにステップアップさせるために、ともに中医学を学ぶ日本の友人たちに、各伝統流派の学術上の特徴と各流派を代表する医学者の独自の経験を紹介しなければならないと思うようになりました。なぜならば、中医学の発展史を知らなければ、中医学の現在と未来を見通すことができず、各流派の長所と欠点を理解しなければ、その中から最適な治療を選択することができないからです。また古代の名医たちの個性豊かな書籍を読むことがなければ、伝統的中医学の豊富な学術内容を知ることができないからです。
 それはとりも直さず、『黄帝内経』から現在に至るまで、連綿と続く書籍という宝庫であります。
 (原文序)
 この小冊子が中日医学の交流に貢献できるよう、心から望んでやみません。

南京中医薬大学教授
黄 煌
二〇〇〇年一月三〇日




 中国の伝統医学には約三千年という悠久の歴史がある。日本もまたそれを学び約千五百年にわたり伝統医学を培ってきた。この中国伝統医学を現在中国では中医学と呼び、日本では漢方と称している。
 ひとくちに中医学、漢方といっても、一様のものではない。中医学というと、整然とした揺ぎない理論に裏打ちされた医学のように思っているむきもあるが、決してそうではない。長い歴史を通じて試行錯誤がくり返され、多種多様の学派が形成され受け継がれてきたのである。日本も同じで、もとよりいわゆる復古的傷寒論を奉ずる古方派だけが日本漢方ではない。中国でも日本でも過去、さまざまの時代にさまざまの学派が現われ、著述がなされ、膨大な文献が蓄積されてきた。伝統医学の研究や実践において医史文献学的な知識が不可欠であるゆえんはここにある。
 一九八二年、私は初めて中国を訪れた際、北京中医学院中医各家学説教研室教授、故任応秋先生の知遇を得、以後何度も御指導を仰ぐ機会に恵まれ、中国伝統医学における各家学説なる学問の重要性を痛感した。すべてものごとを認識し理解するということは、分類するということから始まる。私は従来、中国伝統医学を書誌学的手法をもって検討してきている者であるが、以来、各家学説に対する思いは頭から離れることがなく、中医各家学説を説いた日本語版の書が出ることを待望し続けてきたのだが、久しく叶わなかった。
 このたび順天堂大学医学部医史学研究室の酒井シヅ教授のもとに留学中の南京中医薬大学の黄煌先生が日本の東洋学術出版社より御高著『中医伝統流派の系譜』を出版される運びとなり、すでに活字化されたゲラ刷を私のもとに携来され、不肖私に序を需められた。さっそく拝見して、はからずも長年の念願が叶えられることを知ったのである。
 本書は従来の中医各家学説を礎としつつも著者独自の卓見をもって再構築し、整理された斬新な書であり、日本で初めて出版される各家学説の書である。しかも中国のみにとどまらず、日本・朝鮮の医学にまで言及してある。私はゲラを拝読して教えられるところが多くあった。日本でこの書が出版される意義はきわめて大きい。
 本書は中国伝統医学の本質を学ぶうえで恰好の書である。日本の一読者として本書をお薦めすることができることは、私にとって光栄なことであり、求められるままあえて序文を固辞しなかったゆえんである。中国伝統医学、漢方に興味をもたれる方々が、一人でも多く本書を読まれることを願ってやまない。

北里研究所東洋医学総合研究所
小曽戸 洋
二〇〇〇年十月


はじめに

一、本書出版の主旨
 いわゆる流派とは、学術や芸術分野での派閥のことである。中医学には、個別的・経験的・地域的という固有の特性があるために、中医学に携わった歴代の名医たちは、複雑に入り組んだ数多くの流派に分かれている。しかし、後世流派の名称が統一されず、流派を区分するための基準さえも確立されなかったために、便宜的に以下のような区分方法が用いられている。
 たとえば使用薬剤の薬性が寒熱攻補のいずれにあたるかによって、「温補派」「攻下派」「寒涼派」「滋陰派」などの流派が分かれる。また使用する処方の新旧によって、「経方派」と「時方派」あるいは「古方派」と「後世方派」とに分かれる。またどの医学体系を崇拝するかによって、「傷寒派」「温病派」に分かれたり、その流派が活動した地域によって、「易水学派」「丹渓学派」「河間学派」「孟河医派」「呉門医派」などに分かれる。あるいは特定の医学者の姓氏を冠した「李朱医学」「葉派」「曹派」、医学分類を名称に用いた「新安医学」「呉門医学」「嶺南医学」などがある。また家名を冠した「金元四大家」、「孟河四大家」の丁家・費家・馬家・巣家などや、得意とする専門分野名をつけた「紹派傷寒」「竹林寺婦科」などがあり、このほかにも『傷寒論』の配列に関する解釈の違いによって、「錯簡派」「維護旧論派」に分ける場合もある。また近代では、中医論争における意見の違いによって、「改革派」と「保守派」および伝統的中医学に一歩距離を置く「中西匯通派」などがある。
 このように名称が統一されておらず、区分方法も一定していないという状況は、各医学者の学説を正しく認識評価するための妨げともなり、各医学者の臨床経験を共有および活用する際にも悪影響を与えかねない。このような現状を鑑み、中医学流派を概観するための小冊子を出版することの意義は大きいと思われる。

二、書名について
 書名については、以下の二点を説明しなければならない。
 第一は、「中医流派」と名づけた点についてである。中医学流派には、その診療体系に明確な特徴があり、その点で歴史上学術に影響を与えた名医たちは多い。しかし中医学には、総体観、内治を重視するという特徴があるので、本書では、考察範囲を内外科に限定した。小児科、婦人科、五官科、針灸、整骨、推拿、外治、養生を専門とする流派については、本書では言及していない。また、ここで取り上げている医学者たちはみな臨床家であり、それぞれが臨床についての独自の見解をもち、真摯に診療に取り組む名医たちの一群である。したがって、文献研究や純粋な理論研究分野の流派については、本書では取り上げていない。
 第二に、「伝統」と名づけた点である。すなわち伝統流派とは、文字通り伝統的中医学に位置を占める流派のことであり、歴史上に名を残している流派のことである。したがって、現代中医学が本世紀に入って発展する過程で形成された「中西医結合」などの流派もその一つに数えられるが、これらの流派はまだ発展段階にあり、実践を積むなかで歴史的評価を待たなければならない。

三、流派の区分について
 流派とは、自然発生的に形成されたものである。ただしそれが存在するためには、歴史によって認定されなければならず、さらには第三者によってその学術傾向をもとに区分され命名されなければならない。また流派が成立するための基本条件としては、流派を代表する人物と著作がなくてはならない。このほかにも、以下の四つの条件を備えている必要がある。
 (一)共通する研究対象  (二)近似した学術思想と学説 
 (三)類似した診療体系  (四)各医学者間での学術の継承と発展
 師伝と地域性は、中医臨床流派が形成されるための重要な要素であるが、流派を区分するための唯一の基準ではない。たとえ師伝関係がなくとも、あるいは同一地域に限定されなくとも、学術面での継承と発展さえあれば、一つの流派に帰属させることができる。したがって学術の継承と発展は、はるか遠い関係の弟子や私淑者、あるいは純粋に学術上の継承者であってもかまわない。

四、命名方法
 各流派の呼称の多くは、第三者や後世の人々によって、その流派の学術上の特徴が認められ評価された結果つけられたものである。本書では、各流派の命名に当たり、まずその流派の学術上の特徴を優先させることを基本原則とした。なぜならば流派を区分する目的は、各流派の学術思想および経験を利用するためであり、したがって学術上の特徴を名称として用いないならば、その流派に対する後世の評価をねじ曲げ、誤解を招きかねないからである。第二に、各流派の自己評価を尊重することとし、その流派の代表的人物や著作名、およびその学術論点から命名した。第三には、学術界で広く認められている命名方法や歴史的に習慣となっている呼称を参考にした。
 たとえば「通俗傷寒派」という呼称は、その代表的人物である兪根初の『通俗傷寒論』という書名と、現代の趙恩倹が用いた名称(『傷寒論研究』天津科学技術出版社、一九八七)を参考にしている。また「経典傷寒派」という呼称は、温熱病治療には『傷寒論』で十分に対応しうると主張するこの流派の特徴を考慮したうえで、通俗傷寒派と区別するためにつけたものである。
 「温疫派」「温熱派」「伏気温熱派」という呼称は、主にその研究対象からとるとともに、各流派の代表的著作から命名した。呉又可の『温疫論』、葉天士の『温熱論』、柳宝詒の『温熱逢源』がそれである。
 「易水内傷派」「丹渓雑病派」という呼称は、中医高等学校教材『中医各家学説』にある「易水学派」「丹渓学派」という名称を参考にするとともに、「内傷は東垣に法り、雑病は丹渓を宗とす」という歴史的に確立された評価にもとづいたものである。
 「弁証傷寒派」という呼称は、もともと『中医各家学説』のなかで「弁証論治派」と名づけられた流派である。しかし弁証論治は中医学のきわめて根源的な特徴であり、これを名称とすることは漠然としすぎている。そこで、『傷寒論』があらゆる疾病に適応しうると強調するこの流派の特徴を考慮し、ここでは「傷寒」という名称を用いた。これは「易水内傷派」や「丹渓雑病派」と区別するためだけでなく、「通俗傷寒派」「経典傷寒派」と対比させるためである。
 「経典雑病派」という呼称は、この流派が漢唐時代の経典を重視していることを考慮するとともに、「丹渓雑病派」と区別するためのものである。
 外科三派の名称は、その学術上の特徴と代表的著作名からとったものである。すなわち「正宗派」「全生派」「心得派」という名称は、それぞれ陳実功の『外科正宗』、王洪緒の『外科証治全生集』、高秉均の『瘍科心得集』に由来している。これらの名称は、現代の劉再朋がすでに一九五〇年代に命名したものでもある。
 民間医学とは、正統医学に相対した言葉であり、中医学の一部である。この流派は、独特の疾病認識と治療手段を有しているので、一つの流派として認識することができる。
 日本漢方と朝鮮医学の流派については、その国の命名方法にしたがった。

五、各流派の学術上の特徴と代表的人物
 学術上の特色とは、その流派に属する医学者グループ全体の特徴であり、臨床診療をも特徴づけるものである。
 では、その特色とは何であろうか? まず第一には、医学思想とその認識方法における特色であり、次には、研究対象に対する総合的な認識である。それはつまり、病因病機に対する認識、弁証綱領に対する認識であり、どの問題を重視し、どのような治療法を得意とするかなどに関わる認識である。さらには処方時の態度、特色、つまりどの方剤を頻用するか、臨床においてどの技術を得意とするかなどの特徴に関わってくる。
 一方、代表的人物とは、その流派に属する医学者個人の特徴ではあるが、その医学者の生涯、著作、学術思想、臨床上の特色を紹介することは、その流派独自の多彩な学術内容を紹介することに他ならない。ただし本書においては、その医学者の流派における地位と学術上の功績を紹介するにとどめ、その全貌を系統的に紹介することはしていない。

六、外感熱病流派についての評価
 「通俗傷寒派」とは、広義傷寒の研究、つまり外感熱病全体の弁証論治法則の研究を主要テーマとする流派である。したがって研究の範囲が広く、関係する病種も多いので、彼らは『傷寒論』の六経弁証体系を骨幹としつつも、個別疾病の研究を重視するとともに、後世の経験方を集めて『傷寒論』を補充し、独自の診療体系を構築した。これは、きわめて賢明な選択であり、このような思考方法は、外感熱病に携わる伝統的中医学の根幹に通底する考え方であるといえる。そこで若き中医師たちには、これら通俗傷寒派の代表作を通読することを、また一部の作品については精読することをお勧めしたい。たとえば清代の兪根初の『通俗傷寒論』は、内容も豊富であり、実用的でもあり、この流派を代表する重要な著作である。そして通俗傷寒派を学習研究する目的は、外感熱病の診療法則を把握するためだけではなく、さらに重要なことは、『傷寒論』に対する認識を深め、読者自身の弁証論治能力を高めることにある。 
 「経典傷寒派」とは、後世の温病学説を否定し、『傷寒論』をかたくなに守り、経典方を実効性があるとして推奨した流派である。しかしこの流派の著作を読む場合には、その歴史的背景を考慮に入れておかなければならない。清代末期、世の中には温病学説が流行し、『温病条弁』や『温熱経緯』などの著作が当時の中医学入門のための必読書とされていた時代である。ところが『傷寒論』と温病学説とでは理論上の違いがあるために、一部の医者たちからは、『傷寒論』が時代遅れの書であるとみなされていた。もちろん、このような傾向が中医学の発展に悪影響を及ぼすことはいうまでもない。そこでこのような状況を打開しようとした陸九芝たちは、その著作の中で『傷寒論』を学習するように強く提唱し、『傷寒論』の弁証体系が外感熱病に十分に有効であり、臨床において実績を残している点を強調した。
 その後、西洋医学の伝入にともない、中医と西医の間での論争の開始を契機に、中医学界は過去を反省し、中医学の科学化をスローガンとして掲げるようになった。その彼らの見方が、温病学説のなかには非科学的な部分が多いというものである。
 このような流れの中で、_鉄樵・陸淵雷・祝味菊たちは温病学説のなかの問題を極力あばき出し、それによって中医学の改革を推進しようとしたのである。したがって経典傷寒派の著作を読むときには、その臨床経験を吸収するのはよいが、その思想にはむしろ距離をおいたほうが賢明である。このことは、温病学説を正確に認識するためにも、また『傷寒論』の科学性を理解するためにも重要である。経典傷寒派の数多い著作の中でも、私が精読をお勧めするのは、祝味菊の『傷寒質難』である。
 通俗傷寒派と経典傷寒派は、ともに『傷寒論』を基本理論として仰ぎ、六経弁証が外感熱病に対して有効であることを強調する点では共通している。ただし温病学説に対処するときの態度には、前者が寛容で温病学説を臨床において消化吸収し、六経体系の中に取り込んでいるのに対して、後者は誤りであるとして否定し、排斥する態度を示すという違いがある。また前者の著作の多くが臨床実践に着目し、受け入れやすい、つまり「通俗」であるのに対して、後者は理論に重きを置き、かたくなに『傷寒論』、つまり経典を守っている。
 温疫派、温熱派、および伏気温熱派とは、一貫して温熱病を研究対象としてきた流派である。いわゆる温熱病とは、その多くが西洋医学でいう急性伝染病や感染性疾患であり、全身症状が強く、特異な発病経過を有し、生体に対し重篤な損傷を与える疾患である。温熱病は種類が多いために、どの温熱病を対象とするかによって、いくつかの流派に分かれてきた。
 「温疫派」は、急性あるいは爆発性伝染病の治療を得意としており、温疫の病因が特異であると主張している。治療においては、基本病機の把握を重視し、白虎湯、承気湯、黄連解毒湯など、清熱・瀉下・解毒の薬剤を一貫して用い、その量もしばしば常識の範囲を超えている。しかし、彼らの実践経験は、現代の臨床においてもその正当性が実証されており、たとえば一九五〇年代、石家荘地区の中医が大剤の白虎湯で流行性B型脳炎を治療して著効を得、その経験は全国に広められた。また一九八〇年代には、南京中医学院の科学研究班が桃核承気湯を主体とする中薬製剤で流行性出血熱を治療して、治療期間を短縮し死亡率を低下させられることを実証した。このほかにも、黄連解毒湯・承気湯・白虎湯が急性伝染病および感染症に有効であるとする症例が、数多く報告されている。この結果をもとに、多くの温病研究家が、温病学説とその経験を研究し活用するよう提唱している。
 温疫派に比べ、「温熱派」の理論はより系統的である。衛気営血弁証・三焦弁証は、この流派が規範とする診療体系であり、彼らは舌診を重視する。また治療においては先後緩急を重視し、臓腑気血表裏深浅を診断して治療法を選択する。そして透熱転気・清営涼血・養陰生津・芳香開竅・化湿通陽などの治療法を提起し、温疫派の治療を補っている。とくに温病で治療過誤などにより危険な状況に陥ったり合併症を併発したような症例に対しては、温熱派は豊富な経験を有している。温熱派が常用する犀角・地黄・赤薬・牡丹皮・丹参・紫草などには、それぞれ程度の差はあるが、強心・解熱・抗DICなどの薬理作用があることが現在確認されている。また芳香開竅作用のある安宮牛黄丸を動物実験した結果、鎮静・鎮痙・解熱・消炎・蘇生・保肝作用があるだけでなく、多くの実験結果が、安宮牛黄丸には細菌性毒素による脳損傷に対し、脳細胞を保護する作用があることを物語っている。
 今日、中国高等中医院校で使用されている『温病学』という教科書は、温熱派の学説を中心に構成されている。ただしここで注意しておかなければならないのは、温熱派の諸氏がその著述中で衛気営血・三焦弁証などの新学説を強調し、『傷寒論』にない新しい療法や温熱派のいう「軽霊」な方剤を提唱するのをうのみにし、初心者が『傷寒論』の学習をおろそかにしたり、清熱瀉下解毒など、温病の基本的な治療を粗略にしてはならないということである。また温熱学説は温疫学説と同様に、一部の温熱病の一般的病変法則を表現しているにすぎず、その応用範囲は限られていることを、読者は正しく認識しておかなければならない。
 「伏気温熱派」は、温熱派の別派あるいは分派と考えることができる。したがって柳宝詒の温熱論は、葉天士と同じではない。葉天士が提唱した新感温病は、病勢が表から裏へ、すなわち衛から気へ、営から血へと進むのに対し、柳宝詒が提唱した伏気温熱では、病勢は裏から表へ、つまり三陰から三陽へと外達する。そして葉氏の弁証が衛気営血から逸脱することがないのに対し、柳氏の弁証は六経から逸脱することはない。したがって両者の間には、明らかな学術上の違いがみられる。では『温熱逢源』の説く伏気温熱病とは、いったい現代の何という伝染病に当たるのであろうか? それをここで断言することは難しいが、それが何であろうと、柳氏の学説の存在意義をおとしめるものではない。なぜならば柳氏の温熱病に対処するときの考え方は、ただ単に病因の特異性を追求するのではなく、『傷寒論』から出発し、体質の虚実に着目しているからである。そして虚しているものには補托し、病勢を三陰から三陽に外達させて虚を実に転化させる。そしてその後に初めて、清熱や攻下を行うのである。このような治療法は、病邪の力量と生体の抵抗力とを比較した上で考えられたものであり、終始一貫して攻撃療法を施す温疫学説よりも、弁証論治の色彩の濃いものとなっている。したがって『温熱逢源』を読むということは、柳氏のこのような思考方法を吸収するということであり、このような法則や方薬の使い方は、温病だけでなく、普通の感冒による発熱や慢性病にも使うことができる。たとえば老人や虚弱体質の人の感冒・微熱・関節痛・心臓病などにも、柳氏の助隠托邪法は適している。
 周知のように、中華民族の歴史のなかで、伝染病は一貫して民族の存続にとっての脅威であり、数え切れないほどの「温疫」の大流行は、当時の社会、政治、経済に莫大な被害を与えた。そのため歴代のあらゆる医学者たちがこの大災害を撲滅しようと努力したが、中医学は伝染病と感染症の原因である細菌、ウィルスおよび寄生虫の存在をついに発見することができなかった。そのために、現代医学のような予防医学大系を築くことはできなかったが、幸いなことに、中医学は弁証論治という思考法と豊富な実践経験により、治療の主体を患者自身に転嫁させるという方法を編み出した。すなわち患者自身の抵抗力を高め、生体内の環境を整えることによって、死亡率を低下させ、民族の繁栄に少なからず貢献したのである。またこのような中医学の特性は、今後も人類と各種伝染病や感染症との戦いにおいて、大いに貢献するに違いない。
 振り返ってみれば、この数十年というものは、現代医学の普及に伴い、中西医結合による伝染病や感染症の治療が主流となり、抗生物質や全身支持療法の応用も不可欠である。しかしそのうえに中医の弁証論治が加われば、治療効果をさらに高めることは間違いのない事実であり、そのような症例も国内で多く報道されている。もちろん中医の伝統的投薬手順や薬物の剤型にも改革は必要であり、近年、伝統方剤から製成された安全で有効な注射剤や点滴が、相次いで登場している。たとえば安宮牛黄丸から製成された注射液、「醒脳静」は、高熱・中枢神経感染症による混迷・肺性脳症・急性脳血管疾患などに対して有効であることが証明されている。また生脈散をもとに開発された生脈注射液は、中毒性ショック・心原性ショックに有効である。一九八〇年代以降、中医学界は再び急性疾患の研究に取り組み始め、多くの中医急性症研究機構や雑誌、学会などが出現し、中医学校でも急性症に関する講座やカリキュラムが開設されている。このように、現代医学の理論と技術を導入することにより、伝統的中医学の研究を続けていけば、必ずや新たな中医学流派が生まれるであろう。

七、内傷雑病流派に対する評価
 内傷雑病とは、慢性疾患に対する伝統的な呼称である。それはまた単に内傷、あるいは雑病とだけ呼ばれることもあるが、それぞれが意味する内容はやや趣を異にしている。たとえば内傷という呼び名は、慢性病が臓腑気血の虚損と機能失調を主な病理変化としている点を強く示唆するのに対して、雑病という名称は、慢性病の臨床症状が複雑で、病因や経過がわかりにくく、虚実寒熱表裏が判断しにくい点を強調している。伝統的に内傷雑病を研究した流派には、おもに易水内傷派・丹渓雑病派・弁証傷寒派と経典雑病派がある。中医伝統内傷雑病学は、これら四大流派の学説によって構成されている。
 「易水内傷派」の起源は、金元時代の易水という河川の周辺に起こった「易州張氏学」にさかのぼる。その後この流派は、李東垣・薛立斎・趙献可・張景岳などの医学者たちの出現によって発展し、明代にはすでに成熟期に達していた。そしてその学術が中医伝統内傷雑病学の主流となっていったのである。
 では、彼らの学術内容をみていこう。この流派では、臓腑気血の虚損という病理変化が強調され、臨床においては補益法を得意とした。そしてなかでも特に彼らが温補脾腎法を得意としたことから、後世「温補派」「補土派」と呼ばれるようになった。また、彼らは『黄帝内経』の蔵象学説にもとづいて病理変化を解釈し、処方にあたったので、この流派を代表する人物はみな五行学説や陰陽学説を理論的根拠とした。
 このような彼らの傾向は、臨床経験を総括し、病理現象を解釈し、新方を創り出すには便利であったが、この哲学理論によって医学理論に取って代わらせることは科学原則に反するものであり、その結果医学実践の深化を妨げ、同時に初心者の入門を困難にした。したがって内傷雑病派のさまざまな著作を読むときには、五行生克・昇降浮沈・引経報使・陰陽水火などの学説に惑わされず、学習の重点を臨床経験に置くべきである。なぜならば内傷雑病派には、虚損性疾病についての豊富な経験があるからである。たとえば張元素・李東垣の養胃気・昇脾陽などの治療法や、補中益気湯・清暑益気湯・半夏白朮天麻湯・薛立斎の帰脾湯・補中益気湯・六君子湯・十全大補湯の応用経験、趙献可の六味丸・八味丸などの応用経験、張景岳の治形_精法や左帰丸・右帰丸などは、いずれも高い臨床効果を示している。しかし内傷雑病は種類が多く、病理変化も虚実が併存したり内傷と外感が錯綜したりと複雑であるので、ただ単に「虚」とか「内傷」とかいう側面だけで疾病をみるのは、明らかに一面的である。したがって初心者の入門書としては、この流派の著作は不適切であるといわざるをえない。
 「丹渓雑病派」の起源は、元から明への転換期にさかのぼる。この流派を代表する人物には、朱丹渓とその弟子たちがいる。彼らが雑病の治療を得意としていたことから、この名称が付けられた。丹渓雑病派は、易水内傷派に比べれば、補益だけにはこだわらず、生体内の気血津液のバランスの調整に着目し、痰や_血などの病理産物の除去を重視した。たとえば長期化した疾患や難病を目の前にした場合、ほかの易水内傷派の奥義が補脾・補腎であるのに対し、丹渓雑病派の奥義は、治痰・治_である。彼らのこのような学説と経験は、実際的で臨床に即しており、道教的要素が少ないので、初心者にとってもとっつきやすいものとなっている。ただし、丹渓雑病派が易水内傷派よりは新味を打ち出しているとはいえ、結局はこの一派の見解にすぎない、張仲景医学と同列に論じることはできない。その意味では、金元医学を学習する前に、『傷寒論』『金匱要略』という基礎を学習しておくことが必要である。
 「弁証傷寒派」が形成されたのは、清代である。彼らの主張によれば、『傷寒論』理論とその薬剤の使用方法は、外感病に用いられるだけでなく、内傷雑病にも用いることができるという。そしてその根拠となっているのが、『傷寒論』が本来は傷寒と雑病の両方を論じた書であるという説であり、それを根拠に彼らは弁証論治の「応用法」を人々に示した。その内容は、以下の通りである。
 六経弁証に含まれる表裏寒熱虚実陰陽という八綱は、生体反応をまとめ極限まで簡略化したものである。また方証とは、証を具体的かつ客観的に分類した基本単位であり、方証こそが『傷寒論』の基本精神である。そして、『傷寒論』方を内傷雑病に使うことは、その理論の合理性を証明することになるというのである。弁証傷寒派のこのような学説は、金元医学に比べれば厳密であり、正確な思考法を人々に提示し、いかに弁証論治するかを教える役割を果たした。したがって弁証傷寒派の学説は、初心者が入門するために非常に適しているといえよう。もちろん実際には、内傷雑病の臨床に、『傷寒論』の百あまりの処方では十分ではなく、易水内傷派や丹渓雑病派の経験方など、後世の経験方を取り入れる必要がある。したがって弁証傷寒派の著作を読む目的は、『傷寒論』の学術的価値を認識し、弁証論治の基本知識と技術を把握し、『傷寒論』にある主要方剤の方証とその応用方法を十分に理解することにある。
 「経典雑病派」とは、漢唐医学を根幹とする学術体系である。その内容は豊富かつ系統的であり、中医伝統内傷雑病学の正統派である。この流派が成立したのは清代であり、濃厚な復古主義と反金元明医学主義とに彩られている。彼らは弁病することを主張し、各疾病ごとの専用処方と専用薬剤を設けるよう提案しており、弁病の前提としての弁証を行った。また彼らは方剤と薬物の研究、総合療法を提唱しており、彼らの学術には経験主義、実証主義という特徴がある。経典雑病派と弁証傷寒派とでは、ともに古医学を推奨しているという点では共通しているが、その学術の起源を比べれば、前者が『金匱要略』と『千金方』をもとにしているのに対し、後者は『傷寒論』をもとにしている。また学術内容についていえば、前者が弁病に傾いているのに対して、後者は六経弁証と方証を重視している。したがって前者は経験主義の色彩が濃いのに対して、後者は理論的色彩が濃い。だがいずれにしろ、この二大流派はともに中医学を構成する重要な一部であり、代表する人物の著作は是非とも通読するべきであり、またいくつかの書籍については手元に常備し、時々参考にする価値も十分あると思われる。
 以上四大流派の学術思想と臨床技術は、後世さまざまな発展を見せた。たとえば王清任の活血化_法や葉天士の養胃陰法などは、その顕著な例である。現代の名老中医の多くも、これら流派の経験を継承し、臨床に活用しているし、幾多の名医たちが才能を開花させてきた経緯をみると、多くの流派の経験を吸収することが必要であることがわかる。中国において高等中医教育が発足して以来、現代中医学は、伝統的中医学の体系化、規範化を追求し、多くの理論的かつ実用的な中医内科学教科書や著作を出版してきた。ただし、全体的にみれば、易水内傷派と丹渓雑病派の学説がしめる比重が大きく、弁証傷寒派と経典雑病派の学説がしめる割合は不足している。また経験方の紹介は多いが、『傷寒論』の弁証論治技術に対する訓練は十分ではない。そしてこのような現状が新時代の臨床家の育成を妨げていることは明らかである。そこで筆者が主張したいのは、弁証傷寒派と経典雑病派の代表作を精選し、若き中医師たちのための参考資料を制作するとともに、これら流派の学術を研究し活用しなければならないということである。

八、民間医学派に対する評価
 民間医学とは、民間に流布した大衆的な自己保健法であり、教科書に載ることもなく、経典理論によって解釈されたり、そのなかに取り込まれることもなかった。この民間に流布された民間医学を正統な教科書とを比べてみると、内容が豊富で通俗的であり、変化に富むので、人々からは特殊な療法とみなされてきた。民間医学には、つぎのような特徴がみられる。
・非論理的である。伝統的中医理論はいうに及ばず、現代医学理論でも、民間医学の効能を的確に解釈することはできない。
・技術が通俗的である。材料は現地で調達し、手技が簡単であり、その地の生活と自然に根ざしている。
・効果が一定しない。治療効果に再現性がなく、取扱者や施術者の経験によって異なってくる。そのほかにも効果に影響を与える要素は数多くある。たとえば内服薬についていえば、薬物の品種・産地・採集時期・加工法・製作法・剤量・服用法、そして患者の個体差などである。
・口伝によって伝播された。経験に裏打ちされたこれらの技術は、文字によって正確に表現されることもなく、規格化されることもなかった。したがってこの医学の伝播は、伝統的な師伝や家伝によるものが多く、個人的な実践体験が口伝えや身をもって伝えられたものである。
 中国の民間医学の源流は、はるか古代にさかのぼることができる。『内経』『傷寒論』『金匱要略』『肘後備急方』『千金方』『外台秘要』などの古代医学書にも、かなり多くの民間療法や経験方が記載されており、それら民間医学の精華は、中医学に欠かせない重要な部分を構成している。歴史的にみても、多くの医学者たちが民間医療を学習、採用して、名をなしている。たとえば金元四大家の一人、張子和は、民間医療をまとめて運用した医学者として知られているが、有名な彼の攻邪論と汗吐下三法は、民間医学の理論と治療法から創り上げたものである。また清代の外治法専門家、呉師機は、膏薬などの外治法によって内外の疾患を治療したが、その著書である『理_駢文』は、古今の外治法を集大成したものであり、今日に至るまで影響力を行使している。歴史上、民間療法の大部分を担ってきたのは鈴医であり、彼らは笈を背負って各地を周遊し、医療を施した民間の医学者である。
 長い間、民間医学の学説は、正統な中医学界からは無視され続けてきた。鈴医たちは浮浪の徒かなにかのようにみなされ、その医療経験は一顧だにされなかった。しかしこのような偏狭な見方は、中医学の発展を阻害するものである。民間医学もまた伝統的中医学の重要な一部であり、人民大衆の健康を守るという意味では、正統医学には真似できない功績をあげている。また時代の流れにつれ、民間医学にも変化が現れ、保健、予防へとその目標を転換していった。さらには管理面での規格化や法制化を進め、運用時の安全性と科学性を重視するようになり、市場経済化が促進されつつある現在、民間医学の開発と利用が注目されている。このような昨今、医学に従事するものは、民間医学の医療経験を発掘、研究し、さらに現代科学の手法を利用して発展させなければならない。

九、日本漢方流派に対する評価
 日本漢方とは、日本化した中医学であり、李朱医学を中心とする後世方派にせよ、あるいは『傷寒論』を骨幹とする古方派にせよ、いずれもその流派を代表する人物が中医学の理論と経験を日本の現状に適応させて創り上げた、新しい流派である。そこには、民族、伝統文化の違いから、それぞれの流派によって伝統理論の吸収の仕方や利用方法に違いがみられるが、これはいたって正当なことである。なぜならば、一つの学術観点は一朝一夕にできあがるものではなく、幾多の討論や紆余曲折を経、多くの人々の努力によって成し遂げられるものだからであり、一つの学説や流派を安易に否定することは、科学的態度とはいえない。したがって中医学を研究するためには、日本の古方派や後世方派、また本書では紹介していない折衷派の研究は、欠かすことのできない要素である。現に日本漢方は、かつて中国の近代的『傷寒論』研究や中医学を科学化しようとする思想潮流を大いに促進する役割を果たしており、近代の中医学者、_鉄樵・陸淵雷・章太炎・閻徳潤・葉橘泉や、名中医の岳美中・胡希恕などにも影響を与えている。今後、中日中医学界の学術交流の深化により、中医学に対する理解が深まり、そこから世界に通用する新たな現代中医学の体系が創り出されていくものと確信する。

経方薬論

[ 中医学 ]

前言

 『傷寒論』『金匱要略』の処方を理解するための本草書は基本的には存在しない。
 『神農本草経』『名医別録』にしても参考にすることは可能ではあるが,直接的に『傷寒論』『金匱要略』の処方の理解の役には立たない。したがって『傷寒論』『金匱要略』の処方を理解するためには,処方そのものから各生薬の効能を導き出す必要がある。微力ではあるが,このような観点から『経方薬論』を著した。

1)生薬の効能については,『傷寒論』『金匱要略』の処方中の効能を主とし,それ以外にも重要と思われるものは記載した。また『傷寒論』『金匱要略』において多用される生薬についてはそのベクトル性,作用する場所などについて比較的詳しく解説した。

2)張元素『珍珠襄』(南宋),王好古『湯液本草』(元)などにより提唱された生薬の「引経報使」に対しては,われわれは否定的見解をとる。確かな根拠によって帰経学説が提唱されたわけではなく,また少なくとも『傷寒論』『金匱要略』の処方を理解する上では,帰経学説は役に立たないので記載はしない。そのかわりに前述したごとく,生薬の作用する場所については可能なかぎり記載した。

3)効能についてその主たるものを中心とし,その結果生じる二次的効能については区別して記した。たとえば黄連について,一般の中薬学の本では,①清熱燥湿,②清熱瀉火,③清熱解毒などの効能が記されているが,「清熱」のみを記した。少なくとも燥湿の目的のみで黄連を使用することはあり得ない。また黄連阿膠湯においては,むしろ滋潤作用を発揮する処方であるので燥湿作用は矛盾してしまう。「瀉火」「解毒」についても概念が明確でなく基本的にははぶいた。少なくとも清熱の結果,瀉火,解毒するのであり,瀉火,解毒の語を用いなくとも処方上不便はないものと考えた。

4)『傷寒論』『金匱要略』における生薬理論と『神農本草経』,あるいは『名医別録』のそれとは当然異なっている。したがって『本経』『別録』の薬能をそのまま『傷寒論』『金匱要略』の処方にあてはめることはできない。しかし数ある本草書の中では時代的に一番近いものなので,『傷寒論』『金匱要略』の処方を考える上での参考になるので記載した。
 『神農本草経』は比較的原文に近いとされる森立之の原文を句読点を含めてそのまま使用し,『名医別録』は『名医別録(輯校本)』(人民衛生出版社)より転写した。各生薬の《本経上》は『神農本草経』上品を表わしている。同様に下段《別録上》も『名医別録』上品である。

著 者

経方医学2

[ 中医学 ]

まえがきと謝辞

  『経方医学1』に引き続いて『傷寒論』と『金匱要略』の条文と処方の解説を行なう。
 今回はノートを基にして,それに加筆するという形を採ったので,より簡潔な記述になっていると思う。
 本書を通して経方理論の具体的展開を理解していただくとともに,日常の診療において経方理論を活用されんことを期待している。
 本書の出版に当ってお手伝い下さった九州の山口恭廣,小山季之,鍵本明男の諸先生,北海道の諸岡透先生と奥様,東洋学術出版社の山本勝曠氏に感謝する。

著 者
2000年7月13日

経方医学1―『傷寒・金匱』の理論と処方解説

[ 中医学 ]

 


  


 漢方医学の理論的骨子をなすものは陰陽五行説と呼ばれる。古来,人体の生理・病理は,抽象的な要素を多分に含むこの理論を用いて説明されてきた。一方,人体の生命現象は,実際には個々の具体的な要素の集積から成り立っている。すなわち,中国伝統医学の特徴の一つは「抽象的な理論を用いて具体的な生命現象を説明する」ところにある。
 ところで,このような漢方医学の人体観を,抽象理論ではなく,具体的な要素を用いて具体的に説明することができれば,診断はもとより,用薬の方法,治療の細部にわたって,容易かつ確実な臨床が展開できるであろう。本書は,そのような観点で書かれた,最初の,そして唯一のものである。
 著者の江部洋一郎氏は,二十余年にわたる研究の過程で,「経方理論」と自ら呼ぶところの一大体系を樹立した。その江部経方理論は,『傷寒論』を中心とした中国医学古典にもとづいて創案されたものである。特に『傷寒論』『金匱要略』の条文,処方などが,後世説明されているような抽象的なものではなく,きわめて具体的な現象を基礎として作られたものであるという見解のもとに組み立てられている。
 この理論は,現在の漢方医学のいわゆる常識とは無縁のところに存在しているようにみえる。しかし,過去におけるさまざまな学説をまったく無視したところに成立したものかというと,氏が参考にしたかどうかは別として,必ずしもそうではない。
 中国伝統医学理論のかなりの部分を否定した後藤艮山は,一元気という形而上の概念を形而下の現象の説明に応用することによって,一気留滞説という新たな生理病理論を打ち出した。その彼にして,もし具体的な気の動きについて把握するところが何もなかったとすれば,治療上,大きな困難を抱えたはずである。彼が見ていたものは何だったのか。気の実質的な動きであったとすれば,今から三百年も前に,江部氏が見たものと共通の現象を何らかの方法で把握していた人がいたということになる。
 吉益東洞はどうであろうか。現在の日本の漢方医達は,彼の方証相対論のみを重視し,本来の理論的支柱であった万病一毒説を取り上げることはなく,一方,中医学の立場からは,日本の漢方医学をゆがめた張本人として非難されている。いずれも一面的にすぎると言わざるを得ない。
 東洞は,陰陽も虚実も伝統医学的な意味での用い方はしていない。虚は補い,実は瀉すのが基本治療原則であるが,東洞の場合,虚を補うのは穀肉果菜であり,病気の場合は身を瀉すのみであるという。
 もし彼に気・血・津液の代謝・循環が何らかの方法によってその一部でも把握できていたとすれば,虚実よりももっと具体的な言葉で表現することが可能であったかと思われる。その方が正確であるからである。彼は,しかしそうせずに,得られた(あるいは得られるべき)結論のみを記した。そのために,おそらくはかなり具体的に把握していたであろう彼の生理学・病理学は,ついに誰にも伝えられることなく終わった。
 江部経方理論は,虚実をこれまでの伝統医学理論の文脈では使用しない。これは,気・血・津液の代謝・循環を正確に把握すれば,その異常によって発生する病態を,虚実という言葉で表現する必要性がなくなるからであるが,同じことは東洞にもあてはまる。本書の観点から東洞をみれば,これまでとまったく異なった東洞像が浮かび上がってくるであろう。
 さらにこの理論において画期的であるのは,人体の外殻の構造を明らかにし,気がどこで産生され,どこをどのように流れるかを具体的に示していることである。これらに関しても,江部氏と認識の方法が異なるものの,例えば,王清任や唐宗海における「膈」の研究,永富独嘯庵における「胸」の重視,味岡三伯や岡本一抱における「胃」の論説の展開など,氏の理論につながる先人達の興味深い足跡がある。
 本書の述べるところは,基本的には『傷寒論』と『金匱要略』の処方解説であり,総論で示されている人体の構造や生理学の理解は,各論で示される処方解説を読解するうえで必須のものである。
 この第1集では,桂枝湯一処方にほとんどのページを費やしている。これは,桂枝湯が『傷寒論』中最も基本となる処方であると同時に,経方理論上の気のダイナミズムを理解し,この理論を支配している一般的な法則をみていくうえで,最も適切な処方であるという理由にもとづく。本邦で最初に本格的な『傷寒論』研究に入った名古屋玄医が,自らの扶陽抑陰説を具現化するに当たって最も重視したのがやはり桂枝湯であったことを考えると,理論こそ違え,この処方の重要性がよく理解できよう。
 処方解説のなかで用いられている薬物学は,『神農本草経』と『名医別録』にもとづき,しかも経方理論からみた役割が具体的に明確に述べられている。ここでは,古典の記載のもつ意味がパズルを解くように次々に明らかにされて,全体像としての証につながっていく過程が示されている。これまで,ある程度大まかな,そして多くは抽象的な認識(もちろん間違ったものであるという意味ではない)で理解していた薬物の効能を,まったく別の視点から,特に作用の方向性に重点を置きつつ,細部にわたって一つ一つ解明しているという点で,これは革命的な薬物学である。
 江部経方理論が,外来診察中に診た患者さんの手足の冷えの形態の違いに気付くところから出発していることは,すでに1992年の氏の発表論文(衛気の流れの異常と冷え症について,THE KAMPO No.57&58, 1992)に述べられている。
 このことでわかるように,氏は,日常的にごくふつうに見られる人体の生命現象にヒントを得て,しばしば普遍的な法則を導き出している。そのようなアイディアにみちた眼は,本書の全篇にわたってみられる。
 例えば,体内を走っている気は,循環していて行けば必ず戻ってくるものであり,それを前提としてどの部位でどのようにブロックされるとどうなるかということを明確にしている。具体的には,レイノー症候群にみられるわずかな色の違いからこのことを例証しているが,これなどは氏の細かな観察眼のたまものである。また,太陽病の初期には悪寒と発熱が同時にみられるが,これは皮と肌の2層における別々の病理変化が同時に発生しているが故に起こる現象であるという説明に,目から鱗が落ちる思いをした人も多いでああろう。
 本書は,氏のこれまでの臨床研究の集大成である。上述のような数々のアイディアや新知見を盛り込み,『傷寒論』を臨床的見地から入念に検討し,体系化して成立した。その途上で横田静夫氏という強力な共同研究者が現れ,江部氏の天才的な頭脳から飛び出してくる理論を一つ一つていねいに検証し,これが本書の成立に大きな力となった。氏が院長をつとめる高雄病院のスタッフ達の協力も特筆すべきものである。

 江部経方理論は二千余年にわたる漢方医学の歴史に新しいページを開くものである。これまでとはまったく異なった観点から人体の生命現象をみているとはいえ,一般的な中国伝統医学理論と矛盾する存在ではない。われわれは,この理論を得ることによって,漢方医学を新しい眼で眺め,より深く理解できるようになるであろう。そして本書の出現は,今後の漢方医学に飛躍的な発展を促すことになるであろう。

  1997年7月1日
安井 廣迪



 


まえがき

 本書は『傷寒論』と『金匱要略』の処方解説を意図するものである。
 後漢末(AD200年頃),張仲景により『傷寒雑病論』が編纂されるが,幾多の伝写を経て,宋代(11世紀)に『傷寒論』と『金匱要略』として刊行された。それ以降,とりわけ『傷寒論』については数多くの注釈書が世に送り出されている。
 しかし我々は,それらのいずれにも満足することができなかったのである。どの注釈書にも,体系としての『傷寒論』をトータルに説明しつくす理論が存在していないのである。つまり注釈書にある生理・病理・薬理では,『傷寒論』の処方が創出されるはずもないのである。まさしく『傷寒論』は知られてはいるが,認識されているとはいえない書物なのである。
 数年前より,我々は『傷寒論』の簡潔な条文と処方の背後に内在する生理(機能的な人体構造論),病理および薬理の体系を経方理論と呼び,それを再構築する作業を続けている。この作業の一定の到達点を示すというのが本書の目的である。
 本書は,処方解説を軸に展開されているが,あちこちに散在する構造や生理についての見解は,処方解説の準備であるのみならず,本書の主題そのものをなしている。つまり,処方解説は経方理論の論証という側面をもっているのである。読者はどこまでも『傷寒論』の処方を作り出すという立場から本書を読んで欲しい。
 漢方における処方の自由は,経方理論の上にのみ可能であるというのが,我々の信念である。

著 者
1997年3月3日



第2版の発行にあたって

 第2版では,文章表現上で若干の訂正を行った。また,76頁から始まる「腹診」の部分は,第1版を全面的に書き改めた。そのため,頁数は第1版に比べて大幅に変更され,全体で16頁の増頁となっている。

著 者



第3版の発行にあたって

 第3版では,第2版の誤りを正し,不足を補った。さらに,第2版発行後に深めた認識(「営衛不和」「四逆湯と白通湯」「亡陽」「伏陽証」等)をまとめ,附録とした。

著 者

中医免疫学入門

[ 中医学 ]



 国内では近年,中医理論と現代免疫学とのかかわりがますます重要視されるようになり,いずれの定期刊行物や内部資料にも報告がみられる。ここに初めて,劉正才先生と竜煥文先生が1976~1981年の度重なる総括を国内の大量の文献と結びつけて編集し,中医および免疫を研究する諸氏の参考に供するはこびとなった。
 本書は次の3つの部分からなる。
1.中医学の免疫学に対する認識――理論面で中医と現代免疫学の基本知識を結びつけ,多くの臨床と実験結果を解析している。
2.中薬と免疫――免疫反応におよぼす中薬の影響を数多く記録している。
3.よく見られる免疫疾患の治療――中薬による免疫疾患の治療成績を紹介している。
 このように,本書の内容は豊富で,今後の中医免疫学の発展に一定の役割を果たすであろう。

中国医学科学院
謝 少 文
1982年8月 北京にて

中国医学の歴史

[ 中医学 ]

序文

 傅維康教授により主編された『中国医学の歴史』は、中国医薬学の起源とその発展過程を原始・上古から清代に至るまで系統的に論述し、各時代の歴史的背景を記した労作である。
 原著は漢字にして四十万字余り、これにこの度の編訳書には挿画・写真が二百余枚も加えられ、巻末には詳細な歴史年表も付されている。
 本書では、長年にわたる中国医学史研究上の成果を見事に反映させつつ、近代から現代にかけての考古学上の新発見や、著者自身の独自の研究結果が加えられている。
 そのことによって、『中国医学の歴史』はここ四十年来、中国医薬学史を扱った専門書の中でも、特に水準の高いものとなっており、他の医学史の書物と比べて、本書は歴史資料の取捨選択や編纂にいくつかの明白な特色を有している。
 たとえば、読者が古代人類の疾病に認識と理解を深めやすいように、原始人の口腔・外傷・産婦人科・小児科の分野に関して、馬王堆の帛書、雲夢秦簡、張家山と武威漢簡などの考古学上の発掘や、人類学上の研究成果をふんだんに採用している。
 さらに、李約瑟氏の著作『中国科学技術史』に記された中医薬の研究結果と、日本で発見された『小品方』の残巻の内容、その後の中国国内での研究業績が十分に引用されたため、西晋・東晋・南北朝時代の中国医学史の内容が大いに補強された。
 本書を主編された傅維康教授は中国医学史の研究歴四十年に及び、この間中国全国大学博物館専門委員会の首席主任委員を歴任され、現在、中華医学史学会の副主任委員の要職にあられる。
 その著書には『杏林述珍』、主編に『中国医学史』や『中薬学史』などの医学史に関する専門書があり、国内外の医学史学界において高い評価を受けておられる。
 この書の中で傅維康先生は、かって進化論のダーウィンが記した『中国古代百科全書』とは『本草綱目』のことであり、またダーウィンが「鳥骨鶏」や「金魚」について論述したものも、その内容は『本草綱目』からの引用であったことを立証している。さらに、「弁証論治」という中医学上の用語は、清代の徐大椿による『外科正宗』の中で最初に用いられていることを考証している。
 この『中国医学の歴史』の編纂に参画された他の編者は、いずれも中国医薬学史の教育と研究の経験深い教授、助教授、研究員の方々であって、本書が高い水準と評価をかち得ているゆえんである。
 このたび、日本側で本学の客員教授川井正久先生および、川合重孝先生、山本恒久先生の手によって、この書が日本語に翻訳され、山本勝曠氏が社長を務められる東洋学術出版社の御高配によって、日本語版として出版の運びとなったことは、中日医療交流の発展・拡大の面からも慶賀に耐えない。
 ここに上海中医薬大学を代表して、中日両国の関係各位に心からの祝意と感謝を表し、序に代えたい。

上海中医薬大学 学長
施 杞
一九九六年四月一日


まえがき

 中国医薬学は、その永い歴史の中で、病気に苦しむ人々の治療において常に顕著な効果を発揮し続けてきた。この医学は、今後も中国民族の子々孫に至る遺産である一方、世界全人類のためにも保健、医療、福祉に対して大いなる貢献をなし続けることであろう。
 本書は、過去に中国の人民と医家達が疾病と戦う中で、どのような出来事があり、どのように成果を収めてきたか、そしてどのような理論を構成したか、などを歴史資料に基づいて忠実に記述したものである。
 編集に当っては、各時代の特徴を把握して、適確な見出しにまとめ、全体を合理的に順序立てて、学習しやすいように配慮した。
 その内容は、中医学、中薬学に止まらず、鍼灸、推拿、養生など博く中医学の各専門分野を網羅しつつ、精彩な写真、挿画を数多く採用して読者の理解を助けている。本書は、中医学、中薬学とその歴史の学習や研究のみならず、中国の自然科学史の資料としても十分に役立てて頂くことができると確信している。
 最後に、この書の編集に際しては、王慧芳、楊学坤の両先生、また写真撮影に当っては趙世安、施毅の両氏に特別の御尽力を頂いたことを記し、衷心より謝意を表する次第である。

傅 維 康
一九九四年二月

老中医の診察室

[ 中医学 ]

はじめに

 一九七八年の秋『上海中医薬雑誌』が復刊した。復刊に先立って主幹の王建平氏から難病の治療過程を題材にした文章を書いてほしいという依頼があった。中医学の弁証論治の思考過程や中西医結合の診療の優越性を示した内容の文章を、中国伝統の物語風のスタイルをとって各章に分けて書いてはどうかということだった。そしてさらに科学的な裏付けをもたせ、一般の人が読んでも理解できるような文章にして欲しいということだった。症例、治療過程、用薬、治療効果は、すべてカルテにもとづいた実在のもので、記録に忠実かつ信憑性のあるものをという条件も示された。要望にこたえて執筆に入った。症例はすべて私が体験したものである。ストーリーにはいくらかフィクションを持たせてはあるものの、いずれも事実に沿って書き綴ったものである。本書に紹介した症例の大方は、私自身が主治医として治療にあたったが、そのうちの二症例は恩師の金寿山教授が主治医として治療にあたっている。また第一回の麻黄加朮湯を用いた大葉性肺炎の治療を担当したのは、曙光病院の中医学の名医・劉鶴一先生であり、第二回の真武湯を用いたて心不全の治療のさいに、外来で処方されたのは?池教授、病棟での主治医をつとめたのは李応昌先生である。私は当時、病棟で入院患者の治療を担当していたため、患者の病状については熟知していた。
 本書の主役は鍾医師であるが、「鍾」という姓は、恩師の金寿山教授の名前にちなみ、尊敬の念をこめてつけたものである。主治医の応医師は李応昌先生を記念して名付けた。またこの小説を『医林?英』と命名したのは、これは私ひとりの医療体験ではなく、「医林」つまり、多数の中医師による心血の結晶であることを伝えたかったためである。
 本書は発刊以来、中年・青年層の中医師からひろく読まれてきた。一九八一年の秋、私は中医学の講義の依頼を受けて日本へ赴いた。その折りに日本で出版されている月刊誌『中医臨床』に『医林?英』が訳載されていることを知った。学術講演のさいには私は『医林?英』の作者として紹介され、熱烈な拍手で迎えられた。これを機会に『中医臨床』の主幹・山本勝曠氏および訳者の石川英子(ペンネーム石川鶴矢子)さんと面識を得て、異国の友人と文を交わすようになった。
 一九八三年、『医林?英』(二十回)は、湖南科学技術出版社から単行本として出版され、一九八五年には版を重ねている。一九九四年の初夏には、台湾へ講義に赴いたが、そこでは思いがけないことに、二十四回分を収録した『医林?英』にめぐりあったのである。それも一九八四年から一九八九年にかけて三刷も出版されていたのである。『医林?英』が台湾の中医学界からも歓迎を受けていることがうかがわれよう。こうした事実は私にとって大きな励ましとなり、いっそう真剣に臨床に対処し、理論を探究し、著作に心血を注ぎ、第三十回を書き終えた次第である。学術書の出版は難しいと言われているが、人民衛生出版社のご配慮によって、ここに『疑難病証思辨録』と書名を改めて出版される運びとなった。そのご好意に感謝し、ここに本書出版のいきさつを述べて、序にかえたいと思う。もしも天が私に時間を与えてくれるならば、二十一世紀の初頭には四十回分をまとめて本にして、医学界に捧げたいと願う次第である。

柯 雪 帆 七十歳
一九九六年十一月
上海天鑰新村にて

 

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