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▼書籍のご案内-序文

現代語訳・宋本傷寒論

[ 古典 ]

まえがき

  『傷寒論』は東漢時代の末に、高名な医学家である張仲景によって著された書物である。『黄帝内経・熱論篇』に記載された六経分証の考えに着目し、仲景は六経弁証を核心に据えた、理〔理論〕、法〔治療法則、治療方法〕、方〔処方〕、薬〔用薬〕からなる体系を創りあげた。中医学の理論と実践をみごとに統一し、その模範を示したのが、『傷寒論』である。この偉大な医学経典は、後世の中医方剤学、臨床弁証学、および臨床治療学の発展に大きな貢献を果した。また、中国のみならず、世界の医学薬学史上でも、重要な位置を占める文献である。
 中医薬学を学ぶ者にとって、『傷寒論』は疑いもなく、必読の古典である。それは、古代文献として価値があるというだけでなく、さらに次のような理由があるからだ。
(1)『傷寒論』は極めて系統的に書かれており、学習に便利である。
(2)『傷寒論』が最も実用的であるのは、理論、処方とその薬味、仲景の経験を載せているからで、一つの治療法を会得すれば、それに応じて治療範囲も広がる。
(3)『傷寒論』を学んでおけば、その源流である『内経』や『難経』の理解が深まる。
(4) 唐宋代以降におこった各医学流派の学術思想を学ぶ場合の参考となる。
 これらの理由から、『傷寒論』をしっかり勉強しておけば、学問的にも、また実地臨床の面からも充分な基礎的能力が養われるので、『傷寒論』をおろそかにしてはならない。

 しかしながら、『傷寒論』の学習は、決して容易なことではない。『傷寒論』は宋の成無己によってはじめて注釈されて以来、宋元以降にこれを注解した人の数は、数百人を下らず、その中には、大家名家と呼ばれる人々も数多い。『傷寒論』の勉強に注釈本を用いるなら、原典を使用するよりずっと容易なことには違いない。しかし注釈本では、各注釈家の個人的見解や一面的な解釈が少なからず入り込むことは避けられない。さらに、何百とある注釈本の中から、どれが一番よいのかを決定することも困難である。別の言い方をすると、『傷寒論』は注釈本で勉強するよりも、原文で勉強した方が、ずっと正確にこの本の精神が把握されるだろう。そうは言っても、現代人が『傷寒論』の原文を読みこなすのは難しい。その最大の理由は、これが古代漢語で書かれている点である。よって、『傷寒論』がよりわかりやすく読めるよう、現代語に翻訳したのが本書である。これこそが、私たちがこの度『宋本傷寒論』を編著した動機と目的である。
 翻訳作業を進める前に、解決しておかねばならないいくつかの問題がある。
 その一。全条文を収載。『傷寒論』の注釈には、ほとんどすべての医家は、『太陽病の脈証并びに治を弁ず』に始まり、『陰陽易差えて後の労復病の脈証并びに治を弁ず』で終わる、いわゆる三百九十八条の節本を使用している。このような条文の取捨を行った節本をテキストとして選ぶと、『傷寒論』の全貌を系統的かつ全面的に理解する上で、不利益とならないか懸念される。そこで、『傷寒論』の全貌を客観的に示すため、テキストとして、北宋の治平二年(一〇六五年)に宋朝医務官僚であった林億らが校訂し、明代の趙開美が復刻した全十巻二十二篇の版本を使用することにした。
 その二。翻訳のスタイル。古文を翻訳する場合、直訳するのが一番よい。この方法ならば、原文の文字が持っている特徴や意味を比較的正確に表現できる。よって本書では、原則として直訳のスタイルをとった。しかし、時には直訳で意味がはっきりしない場合もあり、適宜、意訳した。
 その三。難解な文字や単語の処理。原文には読みや意味がわかりにくい文字や単語が、いくつかでてくる。これらの意味がよくわからないと、原文の正確な理解は困難である。それゆえ、本書ではこのような文字や単語は、「小注」として解説を加えた。
 その他。読者の学習の助けとなるよう、条文ごとに、その内容を要約した「要点」を記した。適当な箇所に、そこまでの概略を表した図表を掲げ、全体的な流れが理解できるようはかった。
 最後に少し説明を加える。『傷寒論』の「すべき病」や「すべからざる病」諸篇、例えば、「発汗すべからざる病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗すべき病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗後の脈証并びに治を弁ず」などの諸篇中の多数の条文は、「三陽」篇と「三陰」篇に既出である。それで、既出の条文については、書き下し文、口語釈、記載箇所は示したが、小注と要点は省略したので、必要があれば「三陽」「三陰」篇を参照して頂きたい。


宋本(版)『傷寒論』について

 現在『傷寒論』と呼ばれている医学経典は、もとの名前を『傷寒雑病論』と言い、東漢末期に、張仲景によって著された。なお、『傷寒卒病論』の名もあるが、「卒」は「」の俗訛(「」は「雑」の元字)と考えられている。仲景の著した『傷寒雑病論』の原書は、完成して半世紀もたたないうちに失われ、今日まで伝わっているわけではない。仲景の著作は散逸したあと、歴史上のさまざまな時代において、それらを蒐集、保存、復元する努力がなされた。その結果、『傷寒論』は現代まで伝来してきたのだが、現行のものがはたしてどれだけ正確に、仲景の原著を再現しているか、現状では知るすべがない。以下に伝来の歴史的経緯について概述する。
 張仲景は、漢代末期の南陽の人で、名を機と言い、仲景は字である。官吏登用試験である考廉に挙され、長沙の太守に任官した。はじめ、医学を同郡の張伯祖より学んだが、学識技術は師をしのいだとの評判であった。自序によれば、多数の親族を傷寒で失い、これが動機となって、『傷寒雑病論』を著した(紀元二〇六年頃)。しかしこの書はまもなく戦火に遇い、散逸してしまう。その後約半世紀を経た頃、西晋の太医令であった王叔和は、仲景の残した文章を蒐集して、彼の著作の『張仲景方論』(現存せず)及び『脈経』に収めた(二五〇年頃)。これらは、歴代の医家たちによって書き写され、それがまた別の書に引用されたりをくり返すうち、種々の異なる伝写本が出現する結果となった。例えば、唐代の孫思が著した『千金要方』、同じく孫思?の晩年の著作である『千金翼方』(六五五年頃)、そして王燾の『外台秘要方』(七五三年)などは、仲景の文章を収録しているが、それぞれの記述に相違があることから、異なる伝写本から引用したと考えられる。なお、日本に伝わる「康平本」、「康治本」も唐代の数ある写本に由来するものと考えられる。
 唐代末、高継沖は傷寒論を整理復元した(高継沖本)。宋が国をうち立ててまもなくの開宝年間(九六八年~九七五年)、継沖は節度使に任ぜられた際、この書を朝廷に献上した。高継沖本は政府の書庫に収められたが、出版されるには至らなかった。しかしその後、宋政府が諸家の医方を蒐集して『太平聖恵方』を編纂した時(九九二年)、高継沖本がとり入れられた。『太平聖恵方』中の傷寒部分は、「淳化本」と呼ばれているが、現行の傷寒論とは大分異なっている。
 宋政府は医書を整理校定する機関である校正医書局を設立(一〇五七年)し、林億らの儒臣を作業にあたらせた。彼らは『傷寒論』(一〇六五年)、『金匱要略』(一〇六六年?)、『千金要方』(一〇六六年)、『千金翼方』(一〇六六年?)、『脈経』(一〇六八年)、『外台秘要方』(一〇六九年)その他を校刊した。傷寒論は、先の高継沖本を藍本とし、当初は大きい文字で印刷した大字本が出版された。しかし高価なため普及せず、その後、小字本が出版された(『傷寒論』の牒符にこの経緯が記されている)。宋朝が刊行した大、小字本の傷寒論を「宋本」という。しかし小字本も、内容自体が難解なため、広く流布するには至らなかった。替って、宋本をもとに成無己が注解を施した、いわゆる『注解傷寒論』(或いは「成無己本」、一一四四年撰成、一一七二年初刊)が普及した。
 明代、当時の蔵書家であった趙開美は、傷寒論を復刻(翻刻)した。彼の「仲景全書刊行の序」によれば、当時入手できたのは、成無己本であり、まずこれを校定復刻した。その後、幸いにも宋本を手に入れたので、併せてこれも複刻し、『仲景全書』と名づけて刊行した(一五九九年)。彼は、明代すでに宋本は稀少となっていたと記述しており、もちろん現存していない。『仲景全書』に収められた傷寒論(趙開美本)が最もよく宋本の面影を留めていると考えられる。それ以降の宋本は、ほとんどが趙開美本を写したものなので、字句の相違を生じている可能性がある。だから、テキストとしては、趙開美本そのものが使用できれば、最善である。
 明代に出版された『仲景全書』は、少なくなってしまったが、北京図書館、中医研究院、日本内閣文庫などに現存している。今回底本として用いたのは、北京図書館の所蔵(銭超塵氏によれば、中医研究院所蔵のものと同一版本)になる明刻の仲景全書に収められた傷寒論である。
 この趙開美本では、弁太陽病脈証并治上第五以降の毎篇(弁不可吐第十八、弁可吐第十九を除く)の最初、従来の条文の前に「小目」を載せている。小目はその篇の内容をまとめて条文化したものである。一般には省略されることが多いが、趙開美本の全貌を示すため、今回これらを収録した。
 以上は、次の文献にもとづき、生島忍が書いた。

〈参考文献〉
中医文献学 馬継興著 上海科学技術出版社 一九九〇年。
傷寒論校注 劉渡舟主編 人民衛生出版社 一九九一年。
傷寒論 臨証指要・文献通考 劉渡舟・銭超塵共著 学苑出版社 一九九三年。
傷寒論・金匱玉函経解題 小曽戸洋著(明・趙開美本『傷寒論』他全三巻に収載)燎原書店 一九八八年。

難経解説

[ 古典 ]

はしがき

 このたび,『難経訳釈』の,日本語による完好の翻訳が,ここにできあがった。
 中国医学の古典著作として,この『難経』が,『黄帝内経』の趣意を継受したものとして,古来ながく尊重されてきたことは,周知のことがらである。
 この古医書の,生理・病理・診断・治療の,おのおのの基本的な考え方にたいして,古くから高い評価があたえられてきた。ことにその診脈について,「独取寸口」説は,後世の脈診学にふかい影響を伝えている。
 さて,本『難経訳釈』は,中国医学を学ぼうとする中国本土の初学者にむけて,原書の主旨と原文そのものを平易に紹介する内容の,中医書シリーズとして刊行されたものの,1冊である。


・難経訳釈 第2版 南京中医学院医経教研組編著
上海科学技術出版社 (1961・11初版) 1980・10 第2版

 これが,このたび翻訳を行ったそのテキストである。ちなみに,南京中医学院が各古医書の教研組編著として公刊してきた同じシリーズのものとしては,

・黄帝内経素問訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・6初版) 1981・10 第2版
・黄帝内経霊枢訳釈 第1版 上海科学技術出版社 (1986・3初版)
・傷寒論訳釈 第2版 上・下冊 上海科学技術出版社 (1959・4初版) 1980・10 第2版
・金匱要略訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・10初版) 1981  第2版

などがある。
 この『難経訳釈』書の全体の構成については,すなわち原書『難経』の“81難”を6章にわかち,

 第1章 脈学(第1難--第22難)
 第2章 経絡(第23難--第29難)
 第3章 臓腑(第30難--第47難)
 第4章 疾病(第48難--第61難)
 第5章 ユ穴(第62難--第68難)
 第6章 針法(第69難--第81難)

の,“81難”の各「難」節ごとに,この漢魏期に成立した医学古典の原文を掲載し,その本文にみえる語彙の解釈(「注釈」)と現代中国語による逐語訳(「語訳」)をほどこし,そのあとに各「難」節についての本文解説(「釈義」)と当該「難」のポイント(「本難要点」)を加えることによって,原書『難経』がそなえている系統的かつ完整な内容を闡明している。
 そもそも,本『難経』についてはもちろん,中国医学の古典著作といわれる古医書群と,その背景をなす奥行きの広い中医全般に関して,私は知識も低く,関心もそれほど強いものではなかったのである。このたびの監訳という役目は,したがってそんなに軽いものではなかった。
 陰陽思想といった中国に固有の有力な考え方があり,およそ中国文化を見るものにはそれを抜きにしては,何もはじまらないほどの中国思想史のうえの重大な思考形態である。その陰陽五行思想の基本的な構造について,史的展開とその特徴をとらえようとして,われわれはかつて共同研究の報告を行った。『気の思想--中国における自然観と人間観の展開』(東京大学出版会,1978)がそれである。
 秦漢の交に主要思潮となったこの陰陽家説は,司馬談の「六家の要指」によって伝えられるのによると,則天主義を軸とする自然運動理論である。すなわち宇宙のひろがりと時間の流れのなかで自然世界,それは人間の生の営みをも包含しており,この自然--天地,万物の世界に関する運行とその生滅のしかたを説明する理論である。天体運動と人間世界,特に治政行為とが照応しあうとする,陰陽五行説による天人感応の休祥災異思想は,暦数に代表されるように,この陰陽家理論の応用をきわめた一分野でもあった。中国における政治理論にみられる治民思想は,ほとんど董仲舒いらい,おおむねこの陰陽災異説の思考形態を基礎とする天人相関の考えであり,それは,天体の正常な運行に人治を順応させようとする,人間社会の調和理論でもある。天候の順不順と人事のそれが照応しあうのであって,為政当局はその調節可能な治政行為を操縦する政術--道芸の執行者にほかならない。つまり,則天主義の政治形態である。
 しかしながら,他方この陰陽説は,ひろく生命体にも適用された。生物の生育・盛衰・枯死のサイクル運動も,陰陽両気の変相と調和の理論の掌中にあった。中国古来の医術にみられる治病理論は,この陰陽家理論の展開する,また一方の大きい分野である。
 この医学理論については,私はほとんど無知である。すでに5年以上もまえ,北京に滞在していたとき,魏正明・王碧雲夫妻の両先生から中医の諸理論のほんの緒ぐちを手ほどきされたことがある。その魏正明先生はもう故人になられた。烏兎勿勿,年月を経るうちに,ある日,この『難経訳釈』1書を選定したといって,山本勝曠氏が現れた。
 山本氏は,季刊『中医臨床』を刊行している東洋学術出版社の経営者である。と同時に,ひろく中国医学の水準とわが国の中医学の現況に通じた,熱意あふれる出版文化人である。もう30年近くになるが,かつて京都の極東書店で,中国専門書のお世話になった篤実の書肆マンであって,この人の依頼はすべて拒みがたく,非専門の私が,ここに一文を書いている次第である。
 すでに,浅川要・井垣清明・石田秀実・勝田正泰・砂岡和子・兵頭明の6氏によって,訳出されていた本書を枚正するかたちで私は審閲の機会を得た。石田秀実・浅川要両氏には,特にその専門とする分野から全体の訳語や文章の整理を心がけてもらった。
 なお,原書にはなくて,本書に新たに加えられたものに,「原文」にたいする「書き下し」の部分があって,これはいわゆる原文の訓読である。医学を活用して臨床に従事する人たちが,東洋医学の分野では漢文に習熟しているという慣わしを考慮しなければならない現況をふまえて,一応の「書き下し」文を附することとした。ただし,この部分を読んで,ただちに原文の意味を理解しえたと,即断しないでいただきたい。必ず「現代語訳」を熟読し,「注釈」をあわせて読んでほしい。いろいろな疑問が,この間に伴って生起してくることが予想されるが,そのときこそ,本書がこの『難経』そのものの研究の向上に果す起動力となってくれるはずなのである。

戸 川 芳 郎
東京大学中国哲学研究室にて
1987年1月10日

黄帝内経概論

[ 古典 ]

まえがき

 新中国が成立してからのち,筆者はもっばら世界医学史との比較に重点をおきながら,中国医学史を研究してきた。そこでまず最初に手がけたのが『黄帝内経』である。以来12年,『黄帝内経集解』48巻(『素問集解』24巻,『霊枢集解』24巻)を完成したが,整理して手を加えるのに,なお日時を要する。ここに,あらかじめ『黄帝内経』に関する数篇の論文を発表し,識者の御指正を仰いで,誤りは正し,拙著が一日も早くより完璧なものとなることを希う次第である。
 その他,『神農本草経』や『張仲景方』,漢魏六朝の亡佚医書や唐宋の医方等についても初歩的な研究を行い,原稿は机上にうず高く積まれている。それらは整理して後日発表したい。
 わが国の医学史は,いまだ世界医学史上に空白となっている。この空白を填めることは,我々自身の努力を俟たねばならない。もし,本書が同好の者の関心を喚起し,奮気を促し,力を結集せしめることができるならば,近い将来その空白を完璧に填め,我々の祖先の偉大な業績を発揚して,向学心を一段と強化できるであろう。これこそが,私の願いに他ならない。

1962年 労働節の日に
龍 伯 堅

現代語訳 黄帝内経霊枢 上・下巻

[ 古典 ]

前言

  『霊枢』は中国に現存する重要な古典医籍の一つである。晋の皇甫謐『甲乙経』の自序に、「『七略』『芸文志』を按ずるに、『黄帝内経』十八巻と。今『鍼経』九巻、『素問』九巻あり、二九十八巻は、即ち『内経』なり」という記載がある。また、唐の王冰の次註本『黄帝内経素問』の自序に、「班固の『漢書』芸文志に曰く、『黄帝内経』十八巻と。『素問』は即ち其の経の九巻なり、『霊枢』九巻を兼ねて、乃ち其の数なり」とある。唐・宋以後、『霊枢』に対する諸家の考証には異なる考え方も併存しているが、この二つの序文に基づいて、『霊枢』はすなわち『鍼経』であり、『黄帝内経』の構成部分であるということについては、歴代の学者の見解はほぼ一致している。
  『霊枢』の医学理論体系は、『素問』と一致している。どちらも陰陽五行説と天人相関説という観念体系によって、蔵象・経絡・病機・診法・治則など医学の基本理論の思想を説明しようとする。具体的内容について見ると、『素問』と内容が同じ部分のほかに、『霊枢』には『霊枢』独自の論を展開している部分がある。なかでも、経脈・穴・刺鍼及び営衛・気血などは、とりわけ系統的で詳細に説明されている。したがって、『霊枢』と『素問』の二書は、中国医学の源泉であり、この二書によって中国医学の主要な理論的基礎が定められたと言える。
  『霊枢』と『素問』は、ともに「文簡にして義深し」(文章は簡略ではあるがその意味するところは深奥だ)とされる古典的著作である。両者を比べると、いくらか違いはあるけれども、初学者にとっては、『霊枢』の原書を読むときのほうが、きっとより困難に感じるだろう。したがって、なんとかして万人に分かりやすく、簡単明瞭、読者が内容を理解して運用できるようにするためには、現代語で訳釈を加えることが、差し迫って必要なことは明らかである。また、中医学の教育と学習にとっては、『霊枢』も重要な参考資料である。そこで、一九五七年、われわれはこの『黄帝内経霊枢訳釈』の初稿を編集し、教育教材として使用する過程で、さらに数回の修正改訂を行ってきた。一九六三年、上海科学技術出版社の要請を承けて、本書の出版計画を立てたが、その後種々の原因により計画通りに出版するにいたらなかった。今回その時の原稿を調べてみると、すでに大半が散逸していた。今回の原稿は、孟景春、王新華両先生が所蔵していた原稿を基礎に、新しく編集し直したものである。錯誤と不当のところがあれば、読者各位に批正と示教を請うしだいである。
 本書の原文は、明の趙府居敬堂刊本を主テキストとし、同時に『医統正脈』本及び『甲乙経』『黄帝内経太素』等を参考にして若干の文字を訂正した。体例は、『黄帝内経素問訳釈』と同じくし、一致を求めた。

編 著 者
一九八〇年八月


監訳者まえがき

  『黄帝内経霊枢』、略して『霊枢』と呼ばれているこの書は、『黄帝内経素問』と並ぶ、最も古い、最も根本的な中国伝統医学の経典である。『素問』と比較すると、『霊枢』は基礎理論も説いているが、むしろ診断・治療・鍼灸施術法などの臨床技術を説くことに力点をおいた医書であると言える。
  『霊枢』という書名が現れるのは、かなり遅く、王冰の「素問序」(七六二)が最初である。それ以前、この書は『九巻』『鍼経』の名で呼ばれ、また『九霊』『九墟』の名で呼ばれていた。『九巻』という書名をもつ医書は、今では散佚して伝わらないが、その書名と佚文は古来多くの書に引用されている。それらの佚文を現存する『霊枢』の文と対照すると、大部分が同じ内容である。一方、『鍼経』は皇甫謐の『甲乙経』(三世紀中頃)にその大部分が、王叔和の『脈経』(三世紀後半)にその一部が引用されて残っている。これらの引用文は、現存する『霊枢』とほぼ重なり合う内容である。さらに、唐代中期に、王冰が『素問』に注釈を付けたとき、『鍼経』から引用しただけではなく、当時あった『霊枢』からも大量に引用している。両者の佚文を分析すると、王冰が見た当時の『鍼経』と『霊枢』は、ほぼ同一内容のテキストであったと推測できる。『霊枢』は、魏晋から唐の時代まで、多様な形の異本として伝えられていたのである。
 『素問』と同様、『霊枢』という書物の成立事情についても、明白なことはあまりない。『素問』と『霊枢』のもとになった『黄帝内経』という書物が、紀元前二十六年までに、宮廷医の李柱国によって、いくつかの医学書をまとめる形で編纂されたことは、確かである。しかし、その後、いつ、誰によって、この『黄帝内経』をもとに、『素問』と『霊枢』という書物が再編纂されたのかは、明らかではない。ただ、現時点での研究成果をまとめると、次のように言えるだろう。「現存する『素問』と『霊枢』の原型は、二世紀の初め頃から三世紀の中頃の間に、『漢書』芸文志に記載されている『黄帝内経』十八巻を中核として、それに大幅な増補を加えて、二つの書として編纂された」と。
 王冰は『素問』を再編纂し、その注釈を作ったが、『霊枢』の注釈は作らなかった。唐末・五代の混乱を経て、北宋に伝えられた『霊枢』の各テキストは、すでに不完全なものであった。そのため、一〇九三年、北宋政府は高麗政府に依頼して『鍼経』を逆輸入し、その写本をもとに、書名を『霊枢』と改めて、初めて刊行した。しかし、南宋初期になると、『霊枢』の各種テキストは、再び散佚の危機に直面した。一一五五年、南宋の史崧が家蔵の『霊枢』を新たに校正し、二十四巻八十一篇として、音釈を付して再刊した。現行の『霊枢』は全てこのテキストに基づいている。
  『霊枢』全体に対する注釈本は、十六世紀になるまで現れない。また、注釈本の数も『素問』に比べると少ない。主要な注釈書は、馬蒔の『黄帝内経霊枢注証発微』(一五八六)と張志聡の『黄帝内経霊枢集注』(一六七〇)である。ただし、『太素』(七世紀後半)は『素問』と『霊枢』二書を合わせて再編纂したものであり、楊上善は『太素』全体に注を付けているから、不完全ながらも古い注は存在する。また、張介賓の『類経』(一六二四)も馬蒔・張志聡と並ぶ重要な注釈である。そして、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』(上海科学技術出版社)が主として依拠しているのも、以上に挙げた楊上善・馬蒔・張介賓・張志聡たちの注釈である。
  『素問』と同様に、あるいは『素問』以上に、『霊枢』を読むことは難しい。最も大きな理由は、この二書が漢代に書かれた古典であり、かつ技術の書だからである。古い技術に特有の用語は難解である。それに加えて『霊枢』の場合は、現行のテキストのもとになった史崧のテキストが、基本的には、唐以前の古い姿を保存している、と考えられるからである。『素問』や『霊枢』を読むために必要なのは、この二書が書かれた当時の言語と医学の知識である。ところで、当時の医学の知識、しかも最高レベルの知識を知るための資料として私たちが手にしうるものは、今のところ、『素問』と『霊枢』だけなのである。
 結局、歴代の注釈を頼りに、『素問』や『霊枢』を読み解いてゆくことになるのだが、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』の立場は、歴代のさまざまな注釈の中から、最もふさわしいと思われるものを、そのつど選んでゆき、さまざまな注釈の善を採りつつ、独自の読解を試みるというものである。しかも、楊上善を除けば、『霊枢』の代表的な注釈は、いずれも明清のものである。この読解の方法は、古典を厳密に読むという立場からは、最上の方法とは言えないが、現代中医学の中に古典をよみがえらせようとする立場からは、許されるものであろう。姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の「まえがき」で、監訳者の石田秀実氏は、次のように述べた。「現代中医学がその基礎においている伝統医学とは何か、という方向から『素問』を読むとすれば、むしろこうした明清の注釈の方にこそ、私たちは注意を向けるべきなのかもしれない」と。『霊枢』についても同じことが言えるであろう。
 原書の原訳は、主に明清の注釈家たちの読み方に依拠しつつも、独自の訳として作成された、一つの解釈である。そして、本訳書の現代語訳は、原訳をできる限り忠実に翻訳したものであり、書き下し文も原書の読みに合わせている。厳密な古典学の立場から見ると、問題もあるだろうし、訳しすぎていると思われるところもある。しかし、姉妹編と同様、技術の書に特有の難解な用語の意味を明確にするための試みとして、了解していただければと願う。
  『現代語訳黄帝内経素問』が出版されてから、すでに六年が過ぎ、今ようやくその姉妹編を世に送ることができた。現代中医学を学ぶ人たち、中国伝統医学に興味を持つ人たちに、中国伝統医学の経典である『素問』と『霊枢』を古典原文の形で通読していただければ幸甚である。原訳をさらに日本語に訳すという重訳である。誤りも多いことと思われる。また、訳者諸氏のせっかくの努力の成果を、監訳者がだいなしにしてしまってはいないかと恐れる。ご批正ご教示を心より願うしだいである。
 本訳書は、当初、姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の監訳者でもある石田秀実氏を監訳者とし、私も翻訳者の一人として加わるというかたちでスタートした。その後、石田氏は体調をくずされ、私が監訳を手伝うことになった。二年前の春のことであったか、ほとんど死の世界を覗いて生還した氏から、後はまかせる、と言われた。そのとき、この困難で忍耐を強いられる監訳の仕事を断らなかったのは、氏の病の重さを知っていたことと、氏の遺言ともとれる手紙のためであった。幸い、石田氏は、生還したばかりか、以前と変わりない旺盛な研究活動を再開するまでに回復された。元気な氏とともに、本訳書の出版を見届けることができたことは、望外の喜びである。
 本訳書が形をなす間に、悲しい出来事もあった。翻訳メンバーの一人であった小林清市氏が急逝されたことである。氏は、京大時代の私の先輩であり、日本における数少ない中国科学史研究者の一人であった。残念ながら、氏の翻訳を本書に載せることはできなかったが、当初の翻訳メンバーの一人として、ここに小林清市氏の名を記し、ご冥福を祈りたい。

白 杉 悦 雄

臨床経穴学

[ 鍼灸 ]

前言

  『常用腧穴臨床発揮』は,4代100余年の家伝である針灸実践経験を世に伝えるために著したものである。最初は1962年に上梓された。執筆にあたっては,寝食を忘れてすべての時間をこれにあて,全精力を注ぎ込んだ。今ようやく世に出すことができ,至上の喜びを感じている。
 亡父である李心田は,50年にわたり針灸医術の臨床と研究に専念した。亡父は自身の臨床実践と祖父の指導にもとづき,経穴の効能,経穴の配穴,経穴と薬物の効果の比較,針(灸)による薬の代用,針灸弁証施治を中心に検討をくわえ,『針薬匯通』を著した。この書には前人が触れておらず,古書にも記載されていない独自の体得が整然と述べられている。1945年にこの書の初稿が脱稿すると,多くの同業者や学者たちがこの書稿を回覧しあい転写した。そして実際に臨床に応用して意外なほどの効果が得られたため,多くの専門家たちから称賛を得るにいたった。亡父は後学の啓迪のため,晩年身体が弱く多病であったにもかかわらず,さらに10余年をかけて改訂・増補に没頭し,本書をより完全なものとした。しかし遺憾なことに,脱稿をまじかにひかえて亡父は世を去り,生前にこれを刊行するにはいたらなかった。
 私は亡父の遺志をついで,『針薬匯通』を基礎とし,私自身の30年の臨床経験(数千の典型症例を集め,のべ1万余回にわたる追跡調査を行った)を加えて『針灸医案集』(釣30万字)を著したが,これが実践的にも理論的にも『常用腧穴臨床発揮』の基礎となったのである。
 本書は16章,89節からなる。14経経穴と経外奇穴から常用穴86穴を選んでいる。第1章総論の3節を除くと,他の章は各経絡ごとに章をすすめている。各経絡は,まず概論として経脈・絡脈・経別・経筋の分布と病候,その経絡に対応する臓腑の生理と病理,経穴の分布,経穴の治療範囲および特徴を述べ,その後に節に分けて常用穴を論述している。各常用穴は概説,治療範囲,効能 主治,臨床応用,症例,経穴の効能鑑別,配穴,参考という9つの内容に分けて説明した。
 各常用穴の[概説]では,経穴の特徴,主治範囲を述べた。[効能]では,補・瀉・灸・瀉血等により生じる経穴の作用を述べるとともに,経穴の効能に類似した作用をもつ中薬処方を紹介した。[主治]では,当該穴の治しうる病証を列挙した。[臨床応用]では,[主治]の病証のなかからいくつかの代表的な病証をあげ,その経穴がどのような病証を治療するか,どのような作用が生じるか,どのような禁忌があるか,配穴によりどのような治療効果が生じるかを述べた。[症例]では,当該穴を用いて治療した2ないし6つの典型症例を提示し,治療効果を示した。[経穴の効能鑑別]では,効能が類似する経穴について,それぞれの特徴の比較鑑別を行った。[配穴]では,ある経穴またはいくつかの経穴の配穴によってどのような治則になるかを述べ,あわせて経穴の配穴に相当する湯液の処方名をあげた。[参考]では,針感の走行,古典考察,臨床見聞,注意事項,歴代医家の経験等を述べた。また問題点の検討および異なる見解についても触れておいた。
 本書は亡父の教えである「針灸に精通するためには,臓腑経絡を熟知し,経典経旨を広く深く読み,経穴の効能に通暁し,弁証取穴を重視し,『少にして精』という用穴方法を学びとる必要がある。これができれば,臨床にあたってどのような変化にも対応でき,融通無碣に対処することができるようになる」という原則をよりどころとしている。この観点にたって臓腑・経絡の生理・病理および経絡と臓腑のあいだの関係,経穴の所在部位および所在部位と臓腑・経絡との関係,臨床実践という角度から,経穴の分析と考察をおこない臨床に応用しているわけである。けっして経穴をある病証に教条的にあてはめて経穴が本来もっている作用を発揮できないようにしてはならない。治療面においては,局部と全体との関係,経絡と臓腑,臓腑と臓腑,経穴と臓腑経絡,疾病と臓腑経絡との関係に注意をくばり,全体的視野に立った弁証取穴,同病異治,異病同治,病を治すには必ずその本を求むという治療法則を重視する必要がある。
 前述した内容から,本書を『常用ユ穴臨床発揮』と名づけた。この書で,経穴の効能と治療範囲について述べた部分,経穴の効果が湯液の薬効と同じであり,針をもって薬に代えうることについて述べた部分,弁証取穴について述べた部分,そして古典と歴代医家の経験について行った考察--これらの内容こそ本書の精髄といえるものである。これらは針灸学科の内容を豊富にしており,針灸医療,科学研究,教学のために参考となる資料を提供したものといえる。
 本書は4代にわたる100余年の実践経験を基礎としているが,個人の医学知識と臨床経験には限界があり,とりわけ書籍として著す初歩的な試みであることから,誤謬あるいはいたらぬところは避けがたい。読者からのご指摘ならびにご鞭撻を切に乞い,今後の改訂において向上をはかる所存である。
 本書は編集,改訂,校正,転写の過程にあって,王暁風,李春生,呉林鵬,李伝岐,および本院針灸科一同から大きな協力と貴重な意見を賜ったことに対し,ここに謹んで謝意を表す。

李 世 珍
1983年中秋 豫苑にて

中医鍼灸臨床発揮

[ 鍼灸 ]

日本の鍼灸医療に従事している皆さんへ

 孔子は「三人で行けば,その中に必ず師となる者がいる」と述べている。『常用腧穴臨床発揮』(日本語版:『臨床経穴学』)に継いで,『鍼灸臨床弁証論治』(日本語版:『中医鍼灸臨床発揮』)の日本語版が出版されることとなった。日本における多くの鍼灸医療に従事している先生方から本書に対する貴重な意見を賜り,相互に経験交流を行うことによって長をとって短を補いあい,一緒になって鍼灸医学を広め,人類に幸福をもたらすことができることを,ここに衷心より希望する。
 鍼灸の発展史からみると,内経や難経から甲乙経,鍼灸大成にいたるまで,また標幽賦から勝玉歌にいたるまで,鍼灸医学は徐々に系統化,理論化をすすめてきた。しかしそのなかには「一症一方」,つまり某経穴が某病を治すとか,某病には某経穴を取るといったものが多々ある。さらに後世においては鍼灸に従事する医家が歌賦の影響をかなり受けたことによって,臨床経験の総括を重視するあまり,基礎理論の研究を軽視する傾向にあった。このため鍼灸医学はたえず低い水準を徘徊することとなったのである。
 1950年代初めの頃であったが,中南衛生部の主催する鍼灸教師班において,私はいくつかの経穴の効能や弁証論治について紹介したことがある。合谷に鍼で補法を施すと補気をはかることができ,復溜に鍼で補法を施すと滋陰をはかることができるといった内容や,合谷と三陰交を配穴して鍼で補法を施すと八珍湯に類似した効果を得ることができるといった内容を紹介すると,会場の専門家たちは驚きをおぼえるとともに非常に新鮮に感じたということだった。その後,何度も全国各地の鍼灸界の諸先輩方,専門家たちと家伝である諸穴の効能,経穴の効能と薬効との関係,弁証取穴,全体治療といった経験について交流を行い,専門家たちから非常に高い賞賛を得ることができた。整体弁治,経穴効能研究の先駆けとして認められたのである。とりわけ『常用?穴臨床発揮』の出版は,鍼灸界から鍼灸発展史の上における新たな一里塚となるものであると誉め称えられた。
 2冊目の『鍼灸臨床弁証論治』を出版したこの3年の間に,中国国内ではまた1つの小さな高まりが巻き起こっている。中国各地からの研修希望者が絶えないばかりか,国外の留学生も日増しに増えるようになった。南京中医薬大学鍼灸推拿学院は,本書を同学院の大学院生の必修書として指定し,同学院の院長である王玲玲教授はさらに本書に対して「中医理論研究を運用した近代まれにみるまことに得がたい鍼灸専門書であり,また鍼灸臨床の指導を可能にしたすばらしい専門書である。本書の貴ぶべきところは,五世代にわたる精華を集積し,理論と臨床の実際を結びつけているところにある。つまり実践経験を理論に昇華させ,さらにその理論により臨床実践を指導していることが重要なのである。本書は臨床に則した実用書であるとともに,さらに重要な点は本書が科学研究と教育面において極めて高い価値をもっていることにある。」と書評を記してくれている。
 私はすでに古稀を迎え,臨床および教育に従事して50幾年になるが,上述の2つの著書のためにほとんどすべての心血を注いできた。しかしながら「老驥伏櫪,壮心不已」[老いても志が衰えないこと]の気概をもち,現在さらに『鍼灸配穴処方学』を執筆中である。この書は家伝経験の重要な構成部分をなしている。これらの3部書が一体化することによって,先祖伝来5世代にわたる鍼灸経験の全貌を示すことができるのであり,一体化した鍼灸弁証論治の理論体系を構成することができるのである。
 私の弟子たちがあいついで育ち私の有力な助手となりえていること,家伝鍼灸事業に後継者がいることは,私にとってこれ以上の喜びはない。
 最後に『鍼灸臨床弁証論治』が日本で出版され,これが中日医薬文化交流の契機となり,鍼灸医学が人類医薬学のなかでいっそうの役割を発揮することを希望する。

李 世 珍
1999年

針灸経穴辞典

[ 鍼灸 ]

訳者まえがき

 本書は,山西医学院の李丁著『十四経穴図解』と天津中医学院編『ユ穴学』を訳出し,編纂したものである。
 本書では経穴361穴,経外奇穴61穴,計422穴にすべて,〔穴名の由来〕〔出典〕〔別名〕〔位置〕〔解剖〕〔作用〕〔主治〕〔操作〕〔針感〕〔配穴〕〔備考〕の項目を設けて,ツボに関する必要な知識をほぼ完全に網羅し,なぜその名称がつけられたのかから,針を刺した時の感覚まで,読者諸氏のツボに対する全面的理解に役立つようにした。
 現在,中国では中医学院にこれまで包括されていた針灸科が針灸学部として独立し,近い将来には,針灸大学へと発展する趨勢にあり,高次の教学を保証しうる体系的針灸理論の必要性が叫ばれている。そうした中で国家的事業として,過去の針灸文献の整理と,これまでの実験研究・臨床実践の全面的総括が行なわれ,全国統一教材を作る基礎作業が各地の中医学院で進められている。本書に用いられた天津中医学院編『ユ穴学』はそうした統一教材を目指した同学院の『経絡学』『ユ穴学』『針法灸法学』『針灸治療学』『実験針灸学』の5試用教材の1冊であり,とくに同書の各穴につけた「作用」は天津中医学院が自らの長年の臨床経験と中国各地の研究文献・資料および過去の資料をふまえてまとめあげたツボの性質・効能である。全経穴に「作用」がつけられたことによって,針灸ははじめて「理法方穴」という句で言いあらわせる,理論から実際の治療まで一貫した体系をもったことにより,「針灸学」と呼ぶにふさわしい内容にまで高められたのである。すなわち「作用」は針灸理論にもとづいて証を決定し,治則をたて,治則にみあった処方を導き出し,ツボを選択するうえで不可欠なものであり,今後の中国針灸の弁証施治で処方選穴における中心的役割をはたすものである。
 したがって,本書は今後,日本に登場してくるであろう中国の針灸学体系(経絡学,針灸治療学,実験針灸学,針灸医学史等)の一構成部分であり,中国針灸を全面的に理解する端緒となるものである。
 今日,数多くの経穴辞典の類が日本で出版されているが,中国針灸の真髄ともいうべき臓腑経絡の弁証施治に立脚して書かれた経穴学書は皆無であり,針灸治療家が中国針灸を試みる上で,本書は必ず座右におくべき書となりうるものである。
 本書の前半部分(第1章~第2章第7節)を浅川要と生田智恵子が担当し,後半部分(第2章第8節~第3章第5節)を木田洋と横山瑞生が担当したが,全篇にわたり4人が共同でその責を負う。また附1の「穴位作用の分類表」と附2の「配穴分類表」は兵頭明(東京衛生学園)が訳出作成したものである。
 本書を手にした読者諸氏の御批判,御指教を仰ぐとともに,日本の針灸治療の今後の発展にいささかでも寄与できれば幸いである。
 最後に本書の刊行に際し,日本での翻訳出版を快諾下さいました李丁先生はじめ,中国側の御好意にお礼申しあげます。また出版に御尽力下さいました東洋学術出版社の山本勝曠氏及び編集の青木久二男氏に深く感謝いたします。

訳 者
1986年3月

針灸手技学

[ 鍼灸 ]

王 序

 悠久の歴史を有する針灸療法は,中国医薬学の中で重要な位置を占めており,古くから国内で隆盛を極めたばかりでなく,海外にも広く伝播しているものである。癰を破るのには必ず大小のヘン石を必要とし,金針で病を治すには必ず調気治神をはからなければならない。『黄帝内経』では何よりもまず刺針補瀉の理を論じており,そこには徐疾,迎隨,開闔,呼吸などの補瀉法に関する諸文字がすでに登場する。宋・金代以降,刺針治療における手技が重要視されるようになり,席弘,張元素,陳会,凌雲,徐鳳,汪機,高武,李梃,呉昆といった優れた針灸家が陸続として世に現れ,それぞれ,その手技には長ずる所が見られた。明代の万暦年間,浙東の楊継洲は『衛生針灸玄機秘要』を撰し,楊氏家伝の手技の秘奥をすべて明らかにしたが,さらに後にそれを拡充し歴代の刺針補瀉法を広く集めるとともに,問答の体裁を借りて経絡迎随の是非得失を論じ,刺針手技に関する大作『針灸大成』一書を書きあげている。
 刺針手技は非常に重要なものであるにもかかわらず,各家の手技が一致せず,さまざまな流派が輩出して互いに自己の正当性を唱えて争ったので,人々の目には刺針手技を学ぶことが何か空漠としてなかなか手の出しにくいものに映じてしまった。そのため,今日に至るまでその分野の研究者がほとんど存在していないのが現状である。
 清代の李守先は針灸の難しさを論じたところで「難しさはツボにあるのではなく手技にこそあるのだ」と指摘したが,実に至言というべきである。
 私は多年にわたって針灸の研究にかかわってきたが,刺針手技を継承発展させなければならないと常々,考えていた。それゆえ,私の妻陳克彦副主任医師が刺針手技の研究に専門的にとりくむことを支持したのである。彼女の研究は初歩的成果をおさめたが,さらに研究が進む過程で,惜むらくは急逝してしまった。
 今日,陸寿康,胡伯虎両先生が刺針手技の古今の文献を系統的に整理し,『針灸手技学』一書を編纂した。本書は詳細で確実な資料にもとづく豊富な内容を簡単明瞭で要点をつかんだ文章表現で示し,さし絵も優れており,針灸の臨床家・教育者・科学研究者にとって貴重な参考書となるであろう。
 本書の出版が刺針手技の学習と研究に与える有益性に鑑み,広範な読者諸氏に本書を推挙し,これをもって序とする次第である。

王 雪 苔
1988年12月 北京にて


黄 序

 針灸医学は中華民族の貴重な文化遺産の1つである。『霊枢』9針12原には,「病を治すのに,単に薬やセン石を用いるだけでなく,毫針を用いて滞った経脈を通じさせ,血気の調和をはかり,経脈における気血の正常な運行を回復させたいと思う。同時にこの治療法を後世に伝えるためには,刺針の方法を明らかにしなければならない……」と記されている。『黄帝内経』の時代から始まり形成されてきたわが国の医学の中にあって,針灸医学は外に治を施して内を調える独特の治療法である。刺針手技とはとりもなおさず刺針治療における操作技術である。私が針灸の臨床にたずさわってすでに50年がたつが,その中で刺針手技は治療効果を高める上で重要な要素であることを深く体得してきた。
 病の深浅に伴い刺法には浮沈があり,症の虚実にしたがって補瀉に手技が分かれるように刺針手技の運用は,臨床における弁証と密接な関連性をもっている。金元代から明代にかけて刺法に対する幾多の流派が輩出し,簡単な操作から複雑な操作まで種々の名称が付せられたが,それぞれ一長一短でなかなか後学の規範となりえないものであった。
 陸寿康・胡伯虎両先生は古今の各家針法を集約するために,文献資料を広範に捜し求め,各種の刺針手技の理論的源流,具体的方法,臨床応用,注意事項に対して1つ1つ整理を行い,本書を執筆編纂した。発刊の暁には必ずや臨床,教学,科学研究の参考に供し,針灸医学の継承と新たな創造のために貢献するであろう。
 それゆえ,序をもって同道の士に本書を推挙するものである。

黄 羨 明
1988年12月 上海中医学院にて


邱 序

 針灸は,わが国がその発祥の地であり,秦漢以降,現代に至るまでの2000年余りの歴代の医家の絶ゆまぬ努力によって,今や全世界に公認された医学の一角を占めるまでになっている。『黄帝内経』から始まった刺針手技の追求は,現在,100種余りの手技を生みだすまでに至った。刺針手技が良好な治療効果を得る上で果たす役割は臨床上,衆知のことであるが,現代の実験研究を通じて,その科学的根拠も今日,明らかにされている。
 しかし,刺針手技はこれまで歴代の各家の著作の中に未整理の状態で散在したままで,手技を学ぶ者にとって不便この上なかった。そこで中国中医研究院の陸寿康・胡伯虎両先生はこうした状況に鑑み,辛苦をいとわず,仕事の余暇を使って『針灸手技学』一書をしたためた。本書は古今の医学著作の中から刺針手技に関する内容を部門別に分類し,各手技を詳細に述べるとともに,単なる手技の解釈にとどまらず,古きを今に役立てる必要から臨床と結びつけてそれを紹介しており,後学に大きな恵みを与えるものとなっている。私は50有余年にわたって針灸の研究にたずさわり,刺針手技に対しても多大の関心を注いできたので,今,本書を閲読できたことは大いに喜ばしいことであり心が安んずる思いである。
 本書は針灸学術の高揚のために真に寄与しうるに足るものであり,広範な読者諸氏に本書を心から推挙する次第である。

邱 茂 良
1988年12月 南京中医学院にて

朱氏頭皮針

[ 鍼灸 ]

序文

 朱氏頭皮針はまたの名を頭穴透刺療法ともいい,頭部有髪部位にある特定の経穴透刺治療帯に針を刺すことによって全身の疾病を治療する専門療法のひとつである。いわゆる微刺療法〔特定の局所に刺針して全身の疾患を治療する刺針法〕の範疇に属している。
 この治療法は著者が中国伝統医学の理論をもとに,臓腑・経絡学説を基礎として,長期にわたる臨床実践と万を数える症例の治療経験を経てそれらを総括して作り上げたものである。
 著者は頭部有髪部位の経絡・経穴の分布と全身の肢体・臓腑・五官七竅とのあいだにある密接な関係に基づいて経穴透刺治療帯を確定した。また伝統的な刺針手法と『内経』にみえる手法の基礎の上に,「頭部の経穴には浅刺,透刺を行うべし」という原則を結びつけ,頭穴の透刺に独特な操作法を編み出して,用いている。これが「抽気法」と「進気法」である。さらに各病症に応じて適切な導引法,吐納法などを組み合わせ患者に行わせることで,ほぼ完璧な治療法となり,疾病の予防と治療という目的にかなうものとなった。こうして独自の性格を備えた「朱氏頭皮針」が形成されたのである。
 本治療法は適応範囲が広く,安全かつ有効で,しかも効果が早くて確実に現れるにもかかわらず副作用がないのを特徴とする。治療帯はかなり覚えやすいし,刺針及び操作は時間や場所,気候,環境,さらに体位による影響を受けない。また重篤症,急性症,マヒ,疼痛症に対して著効が現れるが,臨床所見に悪影響を与えることがないので,患者を危険な状態から救って延命の手助けをすることができる。このため医師と患者から非常に歓迎されている。つまりこの治療法は,中国医薬学の宝庫のなかの貴重な遺産のひとつであるとともに,従来の針灸医術には登場しなかったまったく新しい創造ということができると考えている。
 本書の内容は大きく総論と各論の二つによって構成されている。まず総論では頭皮針療法の起源とその発展について簡単に述べたあと,朱氏頭皮針の治療帯の位置とその主治および臨床治療を説明する。さらに治療帯と伝統的な経穴との関係,また朱氏頭皮針法の基礎についても述べる。各論では特に急性症と系統別疾患の治療を紹介する。最後に症例を付して参考に供することにした。
 頭皮針療法は今まさに発展段階にあり,始まったばかりであって,その作用原理や臨床治療などの面で,今後一層の探索と研究がなされなければならない。したがって本書の出版が引き金となって西洋医,中医,中西医結合医及び医療・教育・科学研究にたずさわる人々が臨床や教育の現場でこれを参考とし,また応用してくださるようになれば幸いである。さらには今後それぞれが協力しあって頭皮針療法を研究し,これをしっかりとした体系をもった確固とした専門療法として確立させて,人類のための医療事業として役立てることができるようになることを,心から願っている次第である。

朱 明 清・彭 芝 芸
1989年1月 中国・北京にて

写真でみる脳血管障害の針灸治療

[ 鍼灸 ]

著者略歴

石学敏教授略歴
1937年 生まれ
1962年 中医学院大学卒業
1965年 大学院卒業
1968年 1968年から4年間,アルジェリアにて医療活動に従事。
 この30年来, カナダ,ドイツ,イタリア,フランス,ミャンマー,ブルガリア等,数十カ国で数十回にわたり教育講演を行い,各国との共同研究にもたずさわっている。
1980年 天津中医学院第1付属医院副院長に就任
1985年 同医院院長に就任, 併せて大学院博士課程の指導教授となる。
 石学敏教授の専門は,針灸学と内科学である。天津中医学院第1付属医院は,中国七大重点医院の1つであり,とりわけ針灸部門においては全国一の実力と規模を有している。中国針灸臨床研究センターも同医院に設置されている。同医院は石学敏教授の指導のもとに針灸部には13の科が設置されており,中国でも最大規模の針灸臨床および基礎研究基地となっている。
 著 書 『針灸配穴』主要著者,1978年出版,『実用針灸学』主編, 1982年出版,『霊枢経証状と臨床』,『針灸治療急証手冊』
 近年の著書 『中国針灸臨証精要』,『中国針灸治療学』,『石学敏針灸医案』
 論 文 この28年来, 発表論文は30余篇におよぶ。また中風治療のために開発された中薬「脳血栓片」は,中国では中風患者の不可欠の薬とされている。「醒脳開竅法治療における実験研究」,「脳血栓に対する針灸治療の原理研究」,「針刺手法量学研究」,「脳に対する針刺作用の形態学研究」,「針灸による中風後遺症治療の研究」等の研究成果は,国家および関係研究部門から非常に高い評価をうけている。

 

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