サイト内キーワード検索


お問い合せ

東洋学術出版社

〒272-0021
 千葉県市川市八幡
 2-16-15-405

販売部

  TEL:047-321-4428
  FAX:047-321-4429

編集部

  TEL:047-335-6780
  FAX:047-300-0565

  • HOME
  •  > 
  • 書籍のご案内 - 序文

▼書籍のご案内-序文

中医診断学ノート

[ 中医学 ]

はじめに

 私は1984年,中華人民共和国南京中医学院に留学しました。この本は,その際に受けた授業をもとに,「中医診断学」の内容をわかりやすく整理したものです。
 「中医診断学」は,中医基礎理論を臨床に応用するための橋渡しを担う学科です。中医学における診断とは,四診と弁証の方法によって疾病を認識するものですが,そのためには当然,中医基礎理論を理解していなければなりません。また,中薬学,方剤学も学習する必要があります。本書は,すでにそれらを習得した人を対象としていますが,基礎理論に関しては,必要と思われる箇所に,簡単な説明を加えました。本文中に記載した方剤に関しては,その組成を巻末に紹介してあります。
 授業について少し触れたいと思います。
 中医学院での教学方法は,系統的に教えることに重点がおかれ,概念を明確にし,比較・対照によって理解を促すという方針にのっとったものでした。毎回の授業に対しては,復習課題が与えられ,それらは学生間の討論によって相互に検討され,教師がそれを総括します。その上で,理解を完璧なものにするため,補習の時間が組まれていました。これは他の課目についても同じです。
 このような徹底した教学システムに加えて,指導する先生方の熱意はすさまじく,それを受ける学生の側もまた,極めて勤勉でした。まだ日の明けやらぬ早朝の校庭では,教科書を片手に,古典の条文やら,中薬,方剤の暗記に励む学生の姿が,あちこちに見うけられました。
 留学生に対しては,特別に配慮された指導が行われ,授業の際は私たち1人1人の隣に選ばれた優秀な学生がついて,学習の手助けをしてくれました。また,留学生だけを対象にした補習の時間ももうけられ,各科とも担当の先生が直接指導して下さいました。
 当時,日本人留学生は3人。それも,日本からは初めての留学生でした。私は,中医学の勉強を思いたつや,いきなり中国に渡ってしまったわけですが,このような恵まれた環境の中で勉強できたことは,とても幸運だったと思っています。
 留学から帰って始めに考えたことは,何とか,この中国での素晴らしい授業を再現できないかということでした。幸いにも,東洋学術出版社社長,山本勝曠氏がその機会を与えて下さいました。心より感謝申し上げます。さらに,編集,レイアウト等を含めて,思いどおりの本をつくらせていただけたことも,重ねてお礼申し上げます。
 中医学は,非常に実際的な学問だと思います。古い伝統医学が,より多くの人に実践できるよう体系づけられ,現在に活きていることに,私は敬服します。その意味で,この本も実際の応用に便利なように,複雑な内容をできるだけ整理したつもりですが,気持ちのみはやって,十分なものができたとは言えません。内容に関しても,理解不足の点がたくさんあると思います。今後の課題として,努力して勉強を続けていくつもりです。
 帰国後すでに2年を越す月日が流れました。南京の街を緑でおおう街路樹の美しさを,今でも忘れることができません。
 本書の出版にあたり,南京中医学院の諸先生方,特に,診断学の王魯芬先生,基礎理論の王新華先生,宋起先生,中薬学の陳松育先生,方剤学の恵紀元先生,張浩良先生,瞿融先生,共に学んだ83年級,84年級の同学たちに,深く感謝の意を表します。また,帰国後御指導いただく機会に恵まれました,胡栄先生,王昌恩先生にも,厚くお礼申し上げます。
 日中間の医学交流が,今後益々盛んになることを願いつつ……。

内 山 恵 子
1988年 春


本書を読む人に

内 山 恵 子

●内容について

 本書は,「四診」と「弁証」の2篇に別れている。四診篇は,文章による説明を極力避け,内容の簡略化を図った。弁証篇は,各証候の特徴を理解しやすくするため,概念,病因病機,症状,分析,治法,方薬等の項目に分けて,整理してある。その他に,鑑別のポイントとして,証候間の比較を試みた。また,臓腑弁証以後では,各病証の症状を表にまとめてあるので,各自で比較してみると良いと思う。
 授業では,四診については舌診と脈診,弁証については八綱弁証と臓腑弁証に力点がおかれた。六経弁証,衛気営血弁証,三焦弁証については,臨床における実用的価値からみて,他の弁証方法ほどは,重要視されなかった。本書もこれにしたがい,六経及び衛気営血弁証は,概略を説明する程度にとどめてある。三焦弁証については,衛気営血弁証と重複する点が多いため,また紙面の都合もあって省略した。

●中医学用語について

 中医学用語については,できる限り注釈をつけるよう心掛けた。その内容は,基本的には授業の際に受けた説明に基づいているが,他に,中医研究院,広東中医学院合編の『中医名詞術語選釈』も参考にした。読み方は,創医会学術部主編の『漢方用語大辞典』にしたがった。
 中医学の病名については,一部に簡単な注釈をつけ加えた。場合によっては,類似した西洋医学の病名を付記したが,これは,カッコをつけて区別してある。

●その他

 本文中に出てくる--→は,ある病証において,一般的な状況ではみられないが,はなはだしい場合に生じる症状の前につけてある。あるいは,単に症状の悪化を意味している場合もある。
 四診篇に出てくる“脈象の比較”の図は,劉冠軍編著の『脈診』に収載された28脈の模示図に基づいている。

●再版での修正部分

 再版にあたって,いちぶの誤字を修正した。また,末尾に方剤索引を新たにつけ加えた。

やさしい中医学入門

[ 中医学 ]

はじめに

 私が今回この本を著述しようと考えたきっかけは,日本ではまだ中医学を学べるシステムが確立されておらず,かといって独学で学ぼうと思っても,初めての人に適したやさしい入門書が見当らなかったことがあげられます。
 よく現代医学はミクロを分析する医学であり,中医学は人体を全体的に見るマクロの医学だといわれます。私はこのマクロの医学を学習するには,マクロの観念である統一観念や系統観念が身につくように,常に全体のつながりを考えながら,各部分を学習することが必要だと考えています。
 何故なら,中医学の内容が豊富すぎるため,独学では全体のつながりからみて,重要な部分とそうでない部分が区別できず,興味のある部分は詳しく知っているが,そうでない部分はあまり知らないという人が多いように感じたためです。このような人が臨床にあたると,自分の知っている部分からしか判断ができないので,かたよった診断をしがちになります。
 例えば,病邪が人体を障害した場合の病証は実証であり,瀉法を施して治療することは知られていますが,これと同じような症状が出現していても,臓器機能が減退している場合の病証は虚証なので,補法を施して治療しなければなりません。しかし診断にあたって生体生理の知識は充分であっても,病邪の知識が不充分であると,虚実の判断ができずに,病証はすべて虚証にみえてしまいます。このことは私自身が中国で臨床実習した際に体験した問題であり,帰国いらい講座や臨床で指導してきた経験からも,日本で独学している人に共通した最も多い問題点であると思います。
 そこで私がベストと考える中医学の学習方法は,始めは最低限のことだけでかまわないから,とりあえず基礎生理から弁証までを通して学び,全体のつながりが分かってきたところで,内容を深めて再度基礎から学習し直すという方法です。
 本書は中医学の基礎生理を学ぶためのものですが,最初に中医学全体の構成を把握してもらい,臨床にあたるまでにどれだけの内容の習得が必要であるかを知ってもらうように配慮しています。そして基礎生理の学習については,中医学全体のつながりを考慮したとき,最低限必要だと考えられる範囲にしぼって学べるようにしたつもりです。
 初めて中医学に接する方々に,少しでもわかりやすく学習できる本になれば幸いです。

中医学の基礎

[ 中医学 ]

まえがき

 日中の国交回復以来,伝統医学の分野でも交流が盛んになり,中国での伝統医学の在り方と中医学の活発な現況が知られるようになるにつれて,日本の医療従事者の間にも,中医学を学ぼうという機運が高まってすでに久しい。中医学は独自の体系をもっており,系統的に中医学体系を理解するためには,学習の入り口である中医基礎理論の習得が不可欠である。しかしながら,日本で中医学を学ぼうとする者にとって,系統的な教育を受ける機会は極めて少なく,その習得は各自の独習にゆだねられているのが現状である。このため,初心者にとってわかりやすく効率的に学べる基礎理論の学習書が強く求められている。
 1991年に東洋学術出版社から刊行された『針灸学』[基礎篇]は中医針灸学を学ぶ者が,基礎理論を学ぶ入門書として企画されたが,編集方針の上でも編集作業の進め方の上でも画期的な書であった。すなわち,日中両国で中医学・針灸学を教える立場にある編集スタッフにより,日本の初学者のために学ぶべき項目と順序が吟味され,日本側の要望にもとづいて,天津中医学院の教員スタッフが草稿を作成し,両者で検討を重ねた上で,東京衛生学園中医学研究室のスタッフにより翻訳され,最終的に兵頭明氏の監修により脱稿された。このようにすぐれた企画のもとに,ていねいに編集が進められた同書は,きわめて時宜を得た出版物として,広く針灸界に受け容れられ,版を重ねていると聞く。
 『針灸学』[基礎篇]の内容がすぐれており,入門者の学習に適していることに鑑み,筆者は針灸学を学ぶ者ばかりでなく,漢方薬を用いる湯液治療家にとっても基礎理論の教科書としてふさわしいものと推薦してきた。しかし,湯液治療にとって重要な外感熱病弁証の記述が不足しているなど,物足りない部分があるのは仕方のないことであった。
 『針灸学』[基礎篇]が高い評価と広範な支持を得たことにより,同書をもとにして,中医学基礎理論の書を再編集しようとする企画が持ち上がったのは,時代の要求に答える必然ともいえることであった。当初,その再編集の作業は,部分的な手直しをすれば事足りるとも考えられたのだが,再結集した編集スタッフの間では,折角新たに出版するのであれば,内容を全面的に見直し,さらにわかりやすさと読みやすさを追求した,より理想的な基礎理論書に仕立て上げようという欲張った方針が,一致した意見として採用された。
 『針灸学』[基礎篇]の編集スタッフのうち,日中それぞれの代表であった兵頭明氏と劉公望氏に加えて筆者と路京華氏が監修者として新たに参加することとなった。筆者は漢方治療を専門とする臨床家である。漢方医学を学んだ後,中医学を独習し,後に北京の中医研究院広安門医院に留学した。基礎理論は,主として中国の統一教材で自習したが,留学中に臨床研修のかたわら,中医研究院の冉先徳氏(四川の老中医,冉雪峰氏の子息)に統一教材の『中医基礎理論』を教材として,一対一の贅沢な講習を受けた。筆者の質問を冉氏に答えていただくという形で講習を進めたので,長年の疑念をいくつも解決できるなど,筆者にとっては有意義な学習体験であった。また,路京華氏は,高名な北京の老中医,路志正氏(筆者の留学中の恩師でもある)の子息であり,現在日本で中医学の普及と教育を主な仕事としている。路氏に監修をお願いしたのは,中医師としての路氏の特異な経歴による。文化大革命の教育破壊の被害世代に当たる路氏は,中医学院での教育を受けることなく,尊父路志正老中医に学んで中医師となり,文化大革命の終焉後,再整備された中医研究院の大学院に進み,最高峰の臨床中医学を学んでいる。すなわち,中医学院の統一教材を金科玉条とすることなく,『易経』や『黄帝内経』などの古典にもとづく基礎理論を身につけている。『針灸学』[基礎篇]の内容に満足することなく,厳しい視点で見直し作業を進める上で,路氏が大きな戦力となってくれた。
 編集作業は,兵頭氏・路氏・筆者があらかじめ原書の『針灸学』[基礎篇]の内容の問題点を吟味し,三者が集まって持ち寄った問題点を検討するという形で進められた。できるだけ早く基礎理論の学習を終えられるようにわかりやすい内容を追求するとともに,正確な内容になるよう心掛けた。原書は日本の初学者向けに大きな配慮が払われてはいるが,当然中国の統一教材を骨格としている。初学者向けの説明として,現代医学の知見を援用してあいまいな表現になったり,理論の整合性を追求するあまり『黄帝内経』などの記載と矛盾する無理な解説が施されるような部分も見られる。不正確で過剰な説明を削ぎ落とし,簡潔な表現に改める作業が主となったため,全体には贅肉を削る内容となった。また,全面的に書き改めたり新たに書き加える部分も三者で検討して,こちらの要望にもとづいて中国側に出稿してもらうか,兵頭氏があるいは筆者が執筆するかを判断した。中国からの新たな原稿は,兵頭氏が翻訳に当たった。
 時には劉公望氏の参加も得て,日本側の編集姿勢を理解していただき,このような検討会を10回重ね,ようやく全面的に見直すことができた。問題点ひとつの解決に,3人で多数の書を調べながら討論しても,結論を出せずに次回への宿題に残したことも少なくなく,路氏の指摘する問題点が,統一教材の常識にまみれた筆者の頭では理解できず,路氏の根気のよい説明でようやく問題が認識されたり,問題点が浮かび上がっても正確でわかりやすい説明に差し替えるのに四苦八苦したり,と作業は必ずしも順調ではなく,毎回毎回ヘトヘトに疲れ切ったことが,今では心地よい思い出としてよみがえってくる。原書に翻訳調の文体が残っていたため,日本文として読みやすくするため,まず出版社のスタッフに文体の全面的な訂正を委ね,最終的には校正段階で兵頭氏と筆者とで読みやすい表現を心掛けて大幅な修正を加えた。
 本書は,このようないきさつで成立した。監修者たちは誠心誠意取り組んだが,さらにわかりやすい書を目指すべきであろうし,まだまだ見直すべき内容も含んでいるだろう。諸賢のご批判を仰ぐ次第である。原書が針灸学の教材として広く受け容れられたように,本書も中医学の初学者や独習者に,中医学の体系を理解する基礎教材として活用していただければこのうえない喜びである。

監修者  平 馬 直 樹

医古文の基礎

[ 中医学 ]

日本語版への序

  『医古文基礎』は1980年の初版以来、今日まで20年余を経過し、何度も版を重ねている。本書は、中国大陸で大いに読者の歓迎を受け、このたびさらに日本語版が出版されることとなった。これは我々の夢想だにしないことであった。当時本書を執筆したのは、北京中医学院(現北京中医薬大学)医古文教研室の5人の青年講師である。歳月は流れ、黒髪は霜雪に変じ、現在みな中国の著名な教授となっている。
 執筆当時の情景が昨日のことのように思い出される。1978年は中国の歴史における大変革の年であり、高等中医教育事業は飛躍的発展をとげ、教材の革新・充実・向上・改善が議事日程にのぼっていた。当時の北京中医学院医古文教研室の主任は劉振民先生であった。1978年の7月に、劉振民先生とともに広州・南京・長沙など各地の中医学院の医古文教研室を訪問し、医古文の教科書の革新・改善・向上に関して討議した。浩瀚な中国医学の古典はみな古代漢語で綴られており、滞りなく読み解き、広範なうえに精細な内容を把握するためには、古代漢語の基礎の構築が必須であるとの認識を深めた。それ以前の医古文の教科書は、「文選(古典選集)」と「語法」に重点がおかれ、各分野の基礎知識は軽視されていたので、中国医学古典が読める優秀な中医師を養成するという要請にこたえるようにはなっていなかった。医古文の教材に、工具書(辞典類)・版本学・目録学・校勘学・文字学・音韻学・訓詁学・句読・現代語への翻訳法、これらを増補して、学生にもっとも必要な古代漢語の基礎知識を身につけさせねばならいないとほとんどの医古文担当教師が考えていた。そこで1978年の8月に、新しい編集企画と立案構想にもとづいて、5人の青年教師が分担して執筆したのがこの『医古文基礎』である。本書が出版されると、すぐさま斯界の好評を博し、本科生(学生)や研究生(大学院生)の教材として採用する高等中医院校もあらわれた。
 1970年代末に、中国中央衛生部(日本の旧厚生省に相当する)は全国の高等医薬院校の教授の一部を組織して、20冊からなる『全国高等医薬院校試用教材』を編集した。その中に『医古文』がある。周篤文先生とわたしは、この教科書の編集作業に参加した。全国の高等医薬院校で共通して用いられるこの『医古文』には、『医古文基礎』に啓発された形跡がはっきりとみとめられる。この教科書には、「文選」だけでなく、古代漢語の基礎知識の内容も盛り込まれた。その「編集説明」は、「本書の内容は、文選・古漢語基礎知識・付録の3部門からなる。古漢語基礎知識の部分では、文字・語義・語法・古書の句読・古書の注釈・工具書の使用法および古代文化の常識について概説し、学生が医学古典を読解する能力を増進させるための助けとする」と掲げている。その後、衛生部と国家中医薬管理局の指導のもとに、さらに3種の全国高等中医院校共通の医古文の教科書が編集されたが、それらには例外なく古漢語に関する基礎知識が加えられた。これからわかるように、『医古文基礎』の編集形式と内容設定は、全国高等中医院校共通の教科書『医古文』の足がかりになり、雛型的な役割を果たしたのである。1980年代、衛生部と国家中医薬管理局の指導のもとに、底本の選定・校勘・訓詁・句読・現代語訳など、数百種にのぼる中国医学古典の整理研究が行われたが、『医古文基礎』と『医古文』共通教科書の「基礎知識」は、非常に重要な働きをしたのである。
 『医古文基礎』はつまるところ20数年前の著作であり、歴史的には建設的なはたらきをして、多数の青年学者を育成したとはいえ、「文選」に選んだ文章がやさしすぎたり、「古漢語基礎知識」の部分が簡略にすぎるなど、欠点や不足のところがあるのは否めない。
 中日両国は一衣帯水の友好的な隣国であり、『医古文基礎』は日本の中国医学古典の研究者や医古文入門者にとっても、閲読するに足る書物である。本書の出版は、両国の伝統的な友好関係をさらに深め、伝統的中国医学の向上と発展を推進するにあたり、大変有意義な企画である。初代日本内経医学会会長の島田隆司先生は、生前本書の日本語版出版のために、骨身を惜しまず多大な尽力をなされた。残念なことに先生はこの書が世に問われる前に、突然不帰の客となられた。まことに悲痛きわまりないことである。新たに日本内経医学会会長職をひきつがれた宮川浩也先生は、島田隆司先生の御遺志を継承し、ついに『医古文基礎』の日本語版の出版をなしとげた。このたゆむことなき誠実さに、さらに深く心打たれる。
 『医古文基礎』が中国と日本の医学文化交流をより強固にする紐帯あるいはかけ橋となり、中国と日本の伝統ある友好関係という燦爛たる花が、より一層艶やかで美しく咲くための一助となることを願ってやまない。

銭 超 塵
2001年 4月16日 北京中医薬大学にて


原書の前言

 中国医学は偉大なる宝庫である。そこには先人の数千年にわたる疾病との戦いの貴重な経験が凝集されている。中国の文化遺産の中でも最も活力があり、最も光り輝く部分である。万里を流れる長江や黄河のように、今日でもなお生き生きと、そして力強く新中国の生活を潤してくれている。
 しかしながら、4千種余り、7~8万冊を超えるこの貴重な遺産は古語で記されている。このことが中国医学を学習するための妨げになっている。この問題を解決するために、1959年より衛生部は関連中医学院を組織し、前後4回にわたり『医古文講義』を編集した。これらの教材が中国医学古典の学習に大きく寄与したことは疑いない。しかし、新たな長征(困難かつ壮大な事業)の進軍ラッパは、多くの人材の早急な育成を求めている。この要求に応じて我々の行ってきた仕事を点検すれば、そこに大きな隔たりがあることは明白である。今日熱心に中国医学を勉強する青年は甚だ多く、中医学院の生徒以外にも、多くの中国医学愛好者や西洋医学に従事している同志がおり、また中国医学文献の研究を志す青年もいる。彼らにとって、古典を読み文献を整理するための基礎知識とその研究方法を獲得することは焦眉の急である。こうした状況を鑑みて、北京中医学院医古文教研室が編集したのが、この『医古文基礎』である。
 古文を理解する力を早く養成するにはどうすればよいか。それにはどういった基礎知識を身につけたらよいのか。絶えず考え、模索すべき問題である。例文に語法の説明を加えるという従来の教授法では、範囲が限られているのみならず、咀嚼されすぎて、説明されれば理解できるが、説明なしでは理解できないことが多い。そのうえ学生が原文を消化吸収する力を鍛え、独力で研鑽し問題を解決する能力を育てるためにも不都合である。このため、1963年に工具書・目録学・版本と校勘・音韻学・訓詁学などの内容を加えて『古文入門知識』を編集し、基本的な訓練の強化を試みた。数年にわたって『古文入門知識』を副教材としたところ、かなりよい効果を収めることができた。さらに兄弟校での有益な経験を参酌し、整理・修正・拡充して本書を編集した。それは、中国医学古典の読解・整理に役立つことを目的とする。
 本書は上・中・下の3編からなる。
 上編は「文選」である。医話・医論・伝記・序文・内経・詩の6つに分け、洗練された、影響力の大きい、医学に関連深い代表的文章38編を収録し、医学関連書の文体を理解し、読解する能力を訓練するための導入部とした。
 中編は系統的な解説である。目録学・版本と校勘・工具書・句読・語法・訓詁学・現代語訳・古韻の8つの専門テーマを設けた。ここには、文献学・訓詁学と語法・工具書などの基礎的な知識が含まれている。これらは今までほとんど取り上げられることがなく、かなり難しく、水準が高い内容である。しかしながら、確実な研究基礎を築き、独力で研鑽し文献を整理する能力を養うためには、どうしても身につけなければならないので重点的に紹介した。それぞれのテーマの末尾に白文の練習問題を付し、学習効果を深め、古典に句読をほどこす能力を鍛えるための補助とした。
 下編は、虚詞要説・難字音義・古韻22部諧声表・中編の練習問題の訳文、である。虚詞要説では例文をあげて説明した。難字音義では難字の発音とその意味を明らかにした。古韻22部諧声表は調べるのに便利で時間が節約できる。練習問題の訳文は、白文を句読する際の参考とした。
 本書を編集するに当たり、陸宗達教授、任応秋教授および黄粛秋教授の御指導を賜った。また兄弟中医学院の多くの同志からも激励と協力が寄せられた。中医研究班での講義において得られた有益な意見も一部採り入れた。いずれもみな我々に多大な利益をもたらした。ここに謹んで感謝する次第である。しかしながら、浅学非才のため、欠点や不注意による誤りはきっと少なくなく、多くの読者からの御批判御示教を衷心より歓迎する。
 出版に際して、曹辛之同志に装丁の労をとっていただいた。とくにここに記して感謝する。

原 書 編 者


編訳者まえがき

「医古文」

 「医古文」は中国医学古典を読むための「語学」である。日本風に訳せば「中国医学古典学」になろうか。中国の人にとっては自国語の古文、私たちにとっては外国語の古文、それを読むための知識の提供が主たるテーマであるが、単に文章を読むことにとどまらず、辞典のこと、漢字のことなど広い範囲に及び、古典を読むために必要な総合的な知識が網羅されている。銭先生が序文でいわれる通り、「医古文」は多くの学生を育てた。近年、相継いで古典の活字本・現代語訳本が出版されているが、それを支えているのが「医古文」で育った学生である。現在の中医学の中心的な人材も「医古文」で育った学生が多数になりつつある。中医学の基礎体力は「医古文」で養成されていたといえる。わが国では「難しそう」を理由として古典は遠ざけられている。この古典アレルギーによって、大いなる知識の宝庫が埋もれているかと思うと残念である。なぜ難しいのだろうか。簡単にいえば、何のトレーニングもしていないからである。武器も能力もなく、素手で猛獣に向かっていくようなもので、敵わないのは道理である。古典アレルギーを治すには「医古文の学習」が最も有効だと考えている。

原塾と井上雅文先生

 昭和59年(1984)、島田隆司・井上雅文・岡田明三の3先生は、古典学習塾─原塾─を創設した。月曜日は『難経』(岡田)、火曜日は『素問』(島田)、水曜日は『霊枢』(井上)と、週1回の、今考えてみればハードな塾であった。井上先生は『霊枢』講座で『医古文基礎』を講義した。訓読しか(あるいは訓読も)知らない面々が、訓詁学だとか、音韻学だとか、新しい知識に驚き、圧倒された。先生は、誰より早く本書の重要性に気づき、誰より早く本書を題材にして講義したのである。かくして、本書はわが国でも第1の教材となり、少しずつ古典研究の世界に浸潤していった。学んだ者の数は中国には到底及ばないが、わが国でも『医古文基礎』で育った若者が相当いるはずで、今回の邦訳に参加した人の大半もその恩恵にあずかった者たちである。本書の邦訳の端緒は、すでに井上先生の講義に発していたといえる。先生の学識と先見性に脱帽する次第である。

『医古文基礎』

  『医古文基礎』は1980年の初版第1刷に始まり、最新のものは初版第6刷を数え、累計14万部に達している。いかに人口が多いといっても、この部数は驚異的である。中医学を目指す学生がこうした教材で学び、そして古典を学んでいるかと思うと、羨ましい限りである。近年のわが国の古典研究は、漢学の素養のある人に支えられてきた。最近はその人たちが少なくなり(皆無になり)つつあり、古典研究は重大な局面に直面している。本書がその対応策の1つになるだろうと思う。大多数の鍼灸学校では「医古文」の講座を設定していない。それを指をくわえて待っている時間的な余裕はないはずである。それよりもまず、本書で独学して、中国伝統医学の基礎体力を養うのが今のところの最善策である。その効力は、銭先生の序文に書かれている通りである。鍼灸学校や医科大学・薬科大学の漢方講座に、単に鍼灸・湯液の学問や技術だけでなく、教科として「医古文」が設定され、語学教育も重視されることを望むものである。
 本書は小冊子ながら内容が濃い。漢文を読むための知識に始まり、辞書類の使い方、版本や目録のことまで、幅広い知識が網羅されている。同系の書に、漢文を読むための知識を中心として編集され、内容がより専門的な、大型の『医古文』(人民衛生出版社)がある。専門性と分量からいって初学者には荷が重い。やはり、コンパクトで要領よくまとめられた本書が最適である。また、合理的な学問の方法も示されているので、回り道をしなくてすむし、迷路に入り込むこともない。いいかえれば、本書を学ぶことは、中国伝統医学を学ぶ近道だといえる。本書を訳出した最大の意義はここにある。

『医古文基礎』の構成と特徴

 原書は上編・中編・下編に分かれている。上編は文選(古典選集)で、医話、医論、伝記、序文、内経、詩の6部門を設定し、いろいろな文章を読むことを課している。中編は古代漢語を読むための基本知識を網羅し、総合的な知識の獲得を目的としている。下編は、虚詞の解説、難字の発音と意味、古韻22部諧声表、12種の文章(中編の各章末にある練習問題)の現代語訳、という構成になっていて、付録的な要素をもつ。その中でも虚詞の解説は大いに役立つ内容である。各編いずれも価値あるものだが、古代漢語を読むための基本知識が網羅されている中編を重点的に翻訳することにした。
 中編の内容は次の通りである。
   第1章 工具書の常識
   第2章 古書の句読
   第3章 語法
   第4章 訓詁学の常識
   第5章 古韻
   第6章 古籍の現代語訳
   第7章 目録学の常識
   第8章 版本と校勘
 特徴をあげれば次の通り。
(1)中国伝統言語学は、文字学(漢字学)・音韻学・訓詁学で構成されている。第4章の「訓詁学の常識」と第5章の「古韻」がそれに相当するが、文字学が設定されていないのは残念である。
(2)文字学・音韻学・訓詁学が古典の中身の学問とすれば、目録学・版本学・校勘学は外側の学問ともいえる。それを第7章・第8章に備えたのが本書の大きな特徴である。これらは、医学に限らず、中国古典を研究するために必要不可欠の基礎知識でもあり、用例が医学書から採用されていることを除けば、中国古典研究のための基礎を学ぶためには必修だといっても過言ではない。
(3)句読と語法学は、中国伝統言語学からみれば新しい内容で、とくに語法学は漢文を古代漢語(外国語)として扱うなら履修すべき学問である。
(4)第6章の「古籍の現代語訳」は私たちにはさほど重要ではない。

本書の構成

 以上の特徴を踏まえながら、第3章「語法」には下編の「常見虚詞解説」を組み入れ、第6章の「古籍の現代語訳」と各章末の練習問題を削除した。足りない「漢字学」は付録として追加した(段逸山主編『医古文』中の「漢字」の抄訳)。章の順序は基本的には原書のままとした。結果として次のような構成となった。
   第1章 工具書
   第2章 句読
   第3章 語法
   第4章 訓詁学
   第5章 古韻
   第6章 目録学
   第7章 版本と校勘
   付 章 漢字

参考書について

 本書は読者を初学の独学者に想定し、小型の漢和辞典を使いながら、何とか読み切れるような内容とし、専門用語はできる限りわかりやすい言葉に替えたり、注釈や補注をつけた。それでも難しさが残ったところがある。とくに「語法」と「古韻」の章である。『医古文基礎』は、当然のことながら、中国の学生を対象として執筆しているので、「語法」と「音韻」に関する基礎を省略している。それを補うためには、相当の紙幅と、それを遂行する能力が必要であるが、本書はいずれの条件も満たすことができないので、参考書を紹介することにする。その第1は、『中国語学習ハンドブック』(大修館書店)である。現代漢語から古代漢語までの基礎知識が網羅されているし、現代の文学・芸術、社会と生活などにも及ぶ知識が書かれているので役立つものと思われる。「音韻」だけでいえば『音韻のはなし』(光生館)があれば理解しやすくなるし、「語法」だけでいえば『全訳漢辞海』(三省堂)の付録「漢文読解の基礎」が役立つ。『虚詞』だけでいえば『漢文基本語辞典』(大修館書店)が有用である。参考書はいずれも書末に一括しておいた。

読者へ望むこと

 私たち、および私たちの仲間は、『医古文基礎』の原書を、中日辞典を片手に一字一字読み解いてきた。その結果、医古文学を学びとるだけでなく、さらに現代中国語に習熟することにもなった。つまり、『医古文基礎』の原書は現代中国語を学ぶ絶好の教材にもなっていたわけである。この日本語版は、その現代中国語を学ぶ格好の機会を奪ってしまった。これは大きな過ちだったのではないかと思っている。読むだけでも現代中国語には習熟しておいた方がよい。独学するなら、単純な方法であるが、適当な教材を見つけて一字一字読み解く方法をお薦めする。遠回りのようであるが必ず成果があり、のちのち必ず役立つはずである。
 医古文学は本書で語りつくされたわけではない。是非とも書末の参考書などにも目を通してもらいたい。現代中国語で書かれている参考書も多いが、ステップアップのためには読んでもらいたい。

荒 川   緑
宮 川 浩 也


凡例

(1)本書は、劉振民・周篤文・銭超塵・周貽謀・盛亦如編『医古文基礎』(人民衛生出版社)の中編の「第1章 工具書の常識」「第2章 古書の句読」「第3章 語法」「第4章 訓詁学の常識」「第5章 古韻」「第7章 目録学の常識」「第8章 版本と校勘」と下編の「常見虚詞選釈」、および段逸山主編『医古文』(人民衛生出版社)の「第2章 漢字(部分)」を訳出したものである。
(2)原書には( )内に注釈が施されていたが、分量が少ないので本文に組み入れることにした。本文に組み入れることができなかったものは(原注: )とし、不必要と思われるものは削除した(注音など)。
(3)翻訳にあたり、新たに( )内に訳注を補ったが、長文のものは脚注とし、分量が多いものは補注とし書末に付した。
(4)原書では出典を示すのに、書名だけだったり篇名だけだったりと統一されていない。本書では書名と篇名を併記することにしたので、書名あるいは篇名を補った。また、著者名も補った。この場合、訳注を表す( )を用いなかった。
(5)原書の引用文は次のように処理した。
 (1) 原文が必要であれば、訓み下し文と並記した。
 (2) 原文がなくとも差し支えない場合は、訓み下し文だけにした。
 (3) 原文にも訓み下し文にもこだわる必要がなければ、意訳文とした。
(6)書影1から書影9は原書では活字化されているが、本訳書では原本の書影を採用した。書影10は編者が補った。
(7)原書には、引用文等に誤字・脱文が散見する。明らかな誤りとみなしうるものは訂正した。その場合は訳注をつけなかった。説明内容に沿ったものであれば敢えて改めなかった。

現代語訳 奇経八脈考

[ 古典 ]

題記

 奇経八脈は経絡学説の重要な組成部分であり、早くも『内経』の各篇に散見されるが、『難経』では始めて集中的に解説されている。後の『明堂孔穴』には各経に連係する孔穴(_穴)が論じられている。『明堂孔穴』の原書は伝わっていないが、その内容は晋代の皇甫謐が編纂した『鍼灸甲乙経』の中に保存されている。このほか隋唐時代の医学書としては、楊上善の『明堂類成』残巻、王冰の『素問』注、孫思_の『千金方』、王_の『外台秘要』などがある。これらには当時はまだ見ることができた『明堂孔穴』の内容が、さまざまのかたちで伝えられている。そこで各書を参考にすると、『甲乙経』の経穴交会の記載を考証し補充することができる。
 奇経八脈と十二経脈との重要な差は、十二経脈はそれぞれ直属の経穴があるが、奇経八脈では督脈と任脈とを除くと、それ以外の衝脈、帯脈、陰_、陽_、陰維、陽維の六脈は、すべて十四経脈(十二経脈プラス任、督二脈)と交会していて、つまり交会穴があるのみである。交会穴は経絡と経絡との間の交通点である。奇経八脈中の督脈は各陽経と交会し、任脈は各陰経と交会し、その他の六脈は十四経脈のそれぞれと交会している。このため元代の滑伯仁の『十四経発揮』では十四経脈の循経と経穴が論述されているが、奇経八脈については詳しくは記されていない。明代の瀕湖李時珍はこの点を考慮して、特に『奇経八脈考』を著述した。これは文献を博く引用して旁証したこの方面の専門書である。
 奇経八脈の理論は鍼灸や気功などの医療実践の根源であり、これらの実際の指導にも役立つものである。歴代の医学書の中にも論述されており、特に道家では内気運行の通路として奇経が論証されている。李時珍は関係文献を博く捜し集めて、この奇経理論を大きな実り多いものとしたのである。
 『奇経八脈考』は完成してから、もとは『瀕湖脈学』、『脈訣考証』と合せて板刻され、幾度も出版されて後世の医家の絶大な称賛を受けた。清代の医家葉天士などは内科婦人科の弁証用薬の方面で大いに利用しており、これも本書の影響であるということができる。
 王羅珍医師は、ちかごろ上海気功研究所に勤務し、中医臨床から気功にも足を踏み入れたわけであるが、気功の学理は奇経八脈と関連が深いので、李時珍の『奇経八脈考』の探求が要務であると考えたのである。惜しむらくは同書に引用されている古代文献は必ずしも正確ではなく、あるいは原書がすでに散逸していて考証できないものもある。あるいは原書は現存するが、文字が不適当であったり、條文が乱雑であったりして読解しにくいものもある。その源流を明らかにするためには、全文に対して校注を作ることが何よりも必要である。出典を調べ、原文と照合し、異同を分析し、疑義を解釈するのである。
 書中の丹道家の言葉は、〔この分野に詳しい〕私の父とよく検討して可否を相談し、「返観」〔訳注:閉目して体内の臓器や経脈などを意念し観照することで、それで得られた情報により内気を調整する〕によって得たことを加えて指し示している。また原本には図はないので、清代の『医宗金鑑・刺灸心法要訣』と陳恵畴『経脈図考』を補入して、古典の意味を判りやすくしている。そのほか附図として巻末に新考証図を加えて形象を更に理解しやすいものとしている。校注に加えて処々に検討を加え、その趣旨をわかりやすくしている。
 巻末には本書引用方剤、交会穴総表、八脈八穴源流、および奇経八脈弁証用薬の探討なども記されている。本書には奇経学理の研究がおおむね記されているわけであり、本書の刊行は医療と養生の両面に大いに裨益するであろう。

李 鼎
一九八五年二月 上海中医学院にて

傷寒論医学の継承と発展

[ 中医学 ]

張仲景学説シンポジウム

第1回大会に参加して

 詩経に「道は時と偕(とも)に行わる」といい,中国の詩に「野火焼けども尽きず,春風吹きてまた生ず」とある。悠久の歴史の流れは常に興亡消長を繰返しているが,陰陽論歴史観の流転に根ざしている。
 日本は7世紀のはじめより,中国の隋・唐・宋より金・元を経て,明・清の各時代の医学に学び,時とともに推移してきた。日本化された漢方医学は,18世紀以降江戸時代において,百花繚練乱と開花し,中国に劣らぬいくつかの研究が集大成されてきた。しかし19世紀明治初期になって,日本の漢方医学は国政の変革とともに法的抑圧に遇い,衰亡の一途を辿っていた。しかるに以来50年にして漸く復活の兆しを示し,いま興隆の黎明期に際会するようになった。漢方製剤の薬価基準登載によって,一般医師が漢方薬を採用すること多く,僅か数年にして,一挙に約数万を数える程になっている。
 中国においては,20世紀のはじめ,国民政府が日本と同じように漢方禁止令を発布してこれを禁圧しようとしたが,中医は団結してよくこれを克服し,革命後は中西合作の指導によって,30年間,中西医結合による新境地を開拓した。しかし,近年中国の医学界では新しい路線が協議決定され,中医・西医・中西医の3本建てとなり,丁度鼎の3本脚のように,バランスをとり,即ち鼎立してそれぞれの研究を進めてゆくこととなった。
 革命当初の中医の数は約50万といわれていたが,現在はその半数となり,このままでは伝統の中医学は自然に衰退することを憂え,新しくその基礎を確立し,後進を指導育成すべきであるとの主張が強く打ち出されてきた。
 その第1着手として,中医学の原典『傷寒雑病論』の著者,医聖漢の張仲景を最前線に高く掲げ,去る1982年10月18日より4日間に亘り,中華全国中医学会の主催で「張仲景学説シンポジウム・第1回全国大会」が,仲景誕生の地であり,三国史ゆかりの舞台でもある河南省南陽市において,華々しく開催された。
 中国側からは,全国各省の傷寒論研究者代表300名が選ばれて参加,その中より34題の研究発表があり,日本側からは,日本東洋医学会代表団13名中9名,日本医師東洋医学研究会代表団7名中2名が発表を行ない,発表後討論会が催されて,今後引続いて日中合同による相互提携交流の企画について懇談した。
 第1日の発会式では,日本東洋医学会代表団の持参した,日本における張仲景関係の医史資料6品と,参加者の著書24冊を一括して目録を添えて贈呈し,満場の拍手を浴びた。
 大会4日目,この日も雲1つない晴天に恵まれ,張仲景の墓祠を中心に新しく建築された,壮大な城廓を思わせる医聖祠・医史文献資料館の奥深く整備された墓碑前において,厳粛な追薦祭,日中両代表団の献花参拝,記念撮影,将軍柏の植樹祭などの行事が行われた。
 恰も日中国交正常化10周年,また日中平和友好条約締結4年に当たり,私は幸い毎年機会を得て,第4回目の招待訪中に参加,この大聖典に列席できたことは生涯の感銘であった。
 中医学会では,更に素問学説研究会を発足させ,中医学の原典に帰って徹底的再検討を続けるということである。
 南陽市は,その昔古都洛陽の栄えた頃は要衝の地であったが,10年前にはじめて鉄道が敷かれたという僻地で,その頃人口2万人の小都市であった。いまは26万人に膨脹したというが,街の佇いはまことに静かであった。しかも未開放地区でホテルと名のつくものもなく,私達には党の幹部の宿舎があてがわれるという予報だったので,心の中で案じながら到着したが,宿舎は新築間もない3階建ての南陽友誼賓館で,全員1人1室という思いがけぬ豪華な優遇ぶりであった。中華全国中医学会呂炳奎・任応秋両副会長ほか準備委員が北京より出張して,南陽市衛生局がこれに協力し,市を挙げての熱烈歓迎と万全の設営であった。
 漢方医学を学ぶ者が南陽市を訪れて心躍るのは,仏教徒がインドの釈尊生誕地や滅度の地を訪れて感極まるのと同じことである。
 この大会で多くの新しい交友関係が生れたが,私にとって特筆すべきことは,42年来著書や機関誌の交換,文書の往来をしてきた河北医学院楊医亜先生に初めて親しくお会いできたことであった。
 かって私達が昭和15年頃,束亜医学協会を結成し,漢方医学を通じて日中親善交流を主唱し,機関誌「東亜医学」を発行したとき,楊医亜先生は北京で「国医砥柱」誌を発行し,相互に交流を行っていた。当時,私達が中国の中医師で頻繁に学術交流をしていたのは,僅かに3人であった。
 私は翌日催された歓迎宴のとき,日本側を代表して謝辞を述べたが,その時楊先生のことにふれ,「40年来瞼の友」にめぐり会えた奇しくも嬉しい大会であったと述べて喝采を博した。楊先生も感激して,直ちに席を立って私のところにきて,しばらく握手の手を放さなかった。私の隣におられた任応秋先生から,その3人の名は,ときかれた。
 42年前,交流僅かに3名であったが,この度の大会には全中国代表300名が参加している。まさに今昔の感に耐えないことである。そのときの3人とも現在全国中医学会の理事にその名を連ねている。最長老は,南京薬学院副院長の葉橘泉先生で今年87歳,楊医亜先生は69歳,もう1人は長春市の吉林省中医中薬研究所名誉所長の張継有先生75歳である。
 「海内知己存す,天涯比隣の如し」,まことにこの言葉が実感として心に沁みたことである。
 3日目の朝,大会の運営委員代表から,このたびの日本訪中団の参加を永く記念するため,医聖祠内に記念碑を建立することになったので,仲景を賛える一文を揮毫して欲しいと紙墨が運ばれてきた。突然の申し出に恐カク困惑した私は,一日中部屋に籠って沈思黙考の末,次の如き文字をしたため,任応秋先生と団員に計り,これを任先生に委託した。南陽市を後にし,委員の方々に送られて洛陽に向い,龍門石窟や少林寺を訪れて,旅程10日間の帰路についたが,中国側の優遇は身に余るもので,この大祭典にめぐり合わせたことは生涯忘れ得ぬ,まさに千載一遇の幸運であった。ここに運営委員会の呂炳奎,任応秋両先生をはじめ,委員の先生方に対し,満腔の感謝を捧げ,さらに日中友誼の樹は常に青く,学術交流の水は長く流るることを衷心より祈るものである。

   張仲景敬仰之碑文

       医聖張仲景逝いて千七百六十余年

       傷寒金匱の論述燦として千古に耀く

       日中両国の後学故里南陽に参集し

       遺徳を翅謄して和気法筵に満つ

1982年10月21日
日中国交正常化10周年に当り張仲景学説シンポジウムに出席して
                 日本東洋医学会学術交流団代表
                 北里研究所附属東洋医学総合研究所長
                                 矢数 道明

傷寒論医学の継承と発展(仲景学説シンポジウム記録)

日中傷寒論研究 (日中傷寒論シンポジウム記念論集)

[ 中医学 ]

本書について

 本記録集は,1992年2月22・23日の2日間, 北京市の長富宮飯店大会議場で開催された「第7回日中漢方医学シンポジウム」での全講演論文を収録したものである。
 本シンポジウムは,中華人民共和国衛生部の賛助のもとに, 株式会社ツムラと中華人民共和国衛生部医療衛生国際交流中心が共催し,財団法人日本東洋医学会が後援して開催された。本シンポジウムは1986年以来毎年1回中国で開催されてきた。過去6回は下記のように開催された。


第1回 1986年3月1~2日
第2回 1987年2月28日~3月1日
第3回 1988年2月27~28日
第4回 1989年2月25~26日
第5回 1990年2月24~25日
第6回 1991年2月23~24日  北京・中日友好医院国際会議場
北京・中日友好医院国際会議場
西安・解放軍第四軍医大学科学会堂
北京・友誼賓館科学会堂
北京・シャングリラホテル大会議場
北京・長富宮飯店大会議場

 本シンポジウムは,日本で使用されている漢方方剤の中国における臨床経験及びその使い方・考え方を学ぶとともに,日本における最新の医学及び漢方療法の研究・臨床成果を中国に紹介して,日中双方の理解を促進しながら,漢方医学の発展と普及に寄与することを目的として開催されている。毎回,主要疾患をテーマとして日中双方が特別講演,一般講演を行い,双方から質疑とそれに対する説明が行われる。
 今回は, 「痛みに関する漢方治療」といったテーマをもとに計14題の講演が行われた。日本より漢方の臨床経験豊かな臨床家と研究者約50名と報道関係者約10名が参加し,中国側からは約 400名が参加した。

金匱要略解説

[ 古典 ]

監訳者はしがき

 私どもが先年翻訳した劉渡舟教授の『中国傷寒論解説』(原名『傷寒論通俗講話』)は,幸いにも好評で版を重ねることができた。そこでこのたびは『傷寒雑病論』の「雑病」部である『金匱要略』解説書の翻訳紹介を企図したのである。
 最初に選んだのは『傷寒論通俗講話』と並んで中国のベストセラーであった何任教授の『金匱要略通俗講話』であったが,何任教授はその後に同書を底本にして新たに『金匱要略新解』を著述され,これには前著と異なり金匱要略の原文が記されていた。余談であるが『中国傷寒論解説』には傷寒論原文が併記されていないので,同書に條文を書き込んで読んでいるという読者が多い。実は私もそうしているのである。そこで,この点も考慮して『金匱要略新解』を選定してでき上ったのが本書である。
 『金匱要略』22篇の400余条と200余の方剤は中国医学の基礎であり,中国医学を学ぶ者にとって必須の原典である。しかしその成立過程からも判るように,所々に不正確な記載があるのは当然であり,歴代の注釈家を悩ませている。本書は『金匱要略』の単なる逐條解釈ではなく,著者の学識と臨床経験に裏付けされた洞察力が,「解説」の部に適確な見解や批判として生かされている。従って初学者にとっての恰好の学習書であると同時に,立派な注釈書ともなっている。
 例えば第3篇で,狐惑病とべーチェット症候群との類似性から清熱解毒滲出の治療原則を指摘するなど,現代医学との関連も配慮されている。
 また第14水気病篇では,その臨床価値については検討を加える必要があるとし,その後に目ざましい発展をした後世の方剤で水気病の臨床内容を充実させるべきであると述べている。これは,大塚敬節先生が『金匱要略講話』の中で,水気病の治療は『金匱』だけでほ不充分であるとして,浅田宗伯の『雑病翼方』や和田東郭の『導水瑣言』を紹介しているのと軌を一にしている。
 本書の「『金匱要略』概説」は『金匱要略』の内容,思想,注釈本,学習方法などについて,これほど簡明適切に記した解説は少ないので,「前言」と重複する部分もあるが,あえて集録したわけである。これを一読すれば,古今のあらゆる『金匱』注釈書に精通している著者の深い造詣と,『金匱』に対する真撃な熱意をはっきりと知ることができる。著者は多紀元簡の『金匱要略輯義』について,「細心の注意を払って証拠を求め,的確に結論を下している。」と評価し,『金匱』研究に欠かせぬ存在であると述べている。
 日本の一部には,中国でほ傷寒金匱のような古典が軽視され,あまり読まれていないと思っている人がいるようだが,本文を読めばそれが妄説であることがはっきり判ると思う。
 現代中国の『金匱』研究の第一人者である何任先生に始めて会ったのは,1981年10月に北京で開催された「日中傷寒論シンポジウム」の際である。『日中傷寒論シンポジウム記念論集』(中医臨床臨時増刊号)に書いた私の印象記には,
 淅江中医学院の何任教授は,私が座右において愛読している『金匱要略通俗講話』の著者であるが,講演は始めて聴いた。何教授は『傷寒論』の学習は「博渉知病,多診識脈,屡用達薬」によって達せられると語っている。広く書物を読み,臨床経験を重ね,更に薬の使用法に精通し熟達しなければならないというわけである。
と記してある。
 1985年の年末に東京で何任先生と再会し,改めて身近に先生の温厚な風貌に接して本書の翻訳出版について歓談したのである。何任先生は「知れば知るほどその魅力に取り付かれる」と述べて『金匱』研究の奥深さを指摘している。本書が読者諸賢の『金匱』研究の一助となり,併せて日中両国の医学交流に貢献できることを祈念して擱筆する。

勝田 正泰
1988年4月7日


『金匱新解』日本語版序

 『金匱要略』は臓腑経絡を基本として論述した中医雑病の専門書である。内容は内科を主として,一部には外科や産婦人科などの病証も含まれている。『金匱要略』は分類が簡明で,弁証は適切で,治療法則は厳格であり,方剤の組成は精密で,理法を兼備しているので,真に臨床実用に適合している。後漢以前の豊富な臨床経験を結集して,弁証論治と方薬配伍の基本原則を提供し,中医臨床の基礎を定めたのである。
 『金匱要略』の版本ほ色々ある。最初の註釈本は趙以徳の『金匱方諭衍義』である。清代以後は註家が次第に多くなり,比較的有名なものとしては徐彬の『金匱要略論註』,沈明宗の『金匱要略編註』,尤在涇の『金匱要略心典』,魏レイトウの『金匱要略本義』などがある。このほか周揚俊の『衍義補註』,『医宗金鑑・金匱註解』,黄元御の『金匱懸解』など多数のものが伝っている。
 専門註釈書以外にも,歴代の多数の医家がその著書の中に『金匱要略』の文章と方剤を引用して解説している。早くも唐代に孫思バク『千金要方』,王トウ『外台秘要』および『脈経』,『肘後方』,『三因方』が『金匱』から引用して述べている。その後,宋代の朱肱,金元の劉守真,李東垣,張潔古,王海蔵,朱丹渓などは,すべて各自の著書の中に『金匱』の方剤と理論を収め伝えている。例えば朱丹渓は彼の著書『局方発揮』の中で,『金匱』を非常に推奨して,「万世医門の規矩準繩」「引例推類これを応用して窮まりなしと謂うべし」などと称えている。喩嘉言『医門法律』,徐洄渓『蘭台軌範』などの著作は,『金匱』に対して独特の意見を述べている。
 比較的近代の『金匱』専門注釈書もまた少なくなく,枚挙にいとまがない程である。中でも日本の丹波氏父子の『金匱要略述義』,『金匱要略輯義』などの著作はよく知られている。
『金匱要略新解』は,連載したものを集めて,1980年に初稿が完成したものである。その註解はできる限り原文の精義に符合するように努め,文章は晦渋を避けてなるべく判り易いようにし,また『金匱』の方剤を臨床に用いた著者の治験例を適当に付加し,読者の参考に供した。
 昨年,私が講学のため東京を訪問した際に,東洋学術出版社社長山本勝曠先生と会い,『金匱新解』を日本で翻訳し,出版することを依頼された。これは大変に結構なことである。本書の出版は,両国の文化と医学の交流,友好の促進に,必ずや積極的な働きを作すものと信じている。

中国・杭州 何 任
1986年5月


前言

  『金匱要略』は,中国医薬学文献中の古典医籍の1つであり,『金匱要略方論』ともいい,『金匱要略』あるいは『金匱』と略称する。本書は後漢の張機の著作中の重要な一部である。
 張機,字・仲景は,2世紀頃に生れた。彼は博学多才で,『傷寒雑痛論』を著述した。『傷寒雑病論』は「傷寒」と「雑病」の2大部分から組成されていたが,原書は早い時期に亡失してしまった。医史学の考証によると,『傷寒雑病論』はもともと16巻であったが,晋代に王叔和が整理編成して『傷寒論』10巻とした。これは『傷寒雑病論』中の「傷寒」の部分である。「雑病」の部分は当時は発見されていなかったのである。宋代に至って林億らが『傷寒論』を校正し,『傷寒論』と『金匱要略』の両書を編成したのであるが,その序文の中に『金匱』は残存した虫喰い本の中から発見されたと記されている。これがつまり『傷寒雑病論』の「雑病」の部分なのである。
 『金匱要略』は中国医学の最初の内科雑病の書物である。その特徴は,比較的簡明に全体を22篇に分類し,各篇それぞれを独立させて注解していることである。当然のことながら,ある篇ではいささか矛盾する部分や,理解しにくい部分もある。2000年も前から伝えられた古代医籍であるから,これらの欠点は避けられないのである。
 弁証の方面ではかなり要点を押えていて,以下の病証が記されている。
 痙,湿,エツ,百合,狐惑,陰陽毒,瘧病,中風,歴節,血痺,虚労,肺痿,肺癰,咳嗽,上気,奔豚気,胸痺,心痛,短気,腹満,寒疝,宿食,五臓風寒,積聚,痰飲,消渇,小便不利,淋,水気,黄疸,驚悸,吐衄,下血,胸満,オ血,嘔吐,エツ,下利,瘡癰,腸癰,浸淫,趺蹶,手指臂腫,転筋,狐疝,蛔虫,婦人妊娠,産後雑病。
 作者はこれらの疾病の中で,病因や病磯の類似したもの,証候が似ているもの,病位が接近しているものを,大づかみに合わせて1篇としている。
 例えば痙,湿,エツの3病は,すべて外感によるものであり,発病時には多くは太陽病から始まるので,合わせて1篇としている。
 百合,狐惑,陰陽毒の3者は,あるいは熱病の転帰によるものであり,あるいは邪毒の感受によるものであるが,その性状が相似しているので,合わせて1篇としている。
 また中風には半身不随があり,歴節には移動する関節痛などの症状があるが,両者の病勢の進行状態は非常に変化しやすいので,往々にして「風」の字で形容され,その病機が似ているので,合わせて1篇としている。
 血痺病は外邪の感受と関係があるが,主な原因は陽気が阻まれ,血行がゆきわたらないために起るのである。虚労病は五労,七傷,六極によつて引き起される内臓気血虚損の疾病である。この両者は病機が相似しているので,合わせて1篇としている。
 また胸痺,心痛,短気の3者を1つに合わせたのも,病機と病位の関連によるものである。というのは胸痺と心痛の両者は,胸陽あるいは胃陽が不振のため,水飲痰涎が胸あるいは胃に停滞して引き起されたものであり,両者の病機と病位が接近しているので,合わせて1篇としたのである。
 驚悸,吐衄,下血,胸満,オ血などいくつかの病の発病の成り立ちと,心肝の両臓とは関係が深い。心は血を主り,肝は血を蔵しているので,心肝両臓の機能が失調すると,驚悸,吐血,衄血,下血あるいはオ血が引き起されるのである。そこでこれらの病を合わせて1篇としている。
 また消渇,小便不利,淋病は,すべて腎あるいは膀胱の病変に属しているので,合わせて1篇としている。
 また肺痿,肺癰,咳嗽上気の3者は,病機は同じでなく,証候も異なるけれど,すべてが肺の範囲に属する病なので,合わせて1篇としている。
 同じような事情で,腹満,寒疝,宿食の3者は病因は異なるが,発病部位はすべて胃腸と関係があり,しかもすべてに脹満あるいは疼痛の症状があるので,合わせて1篇としている。
 そのほか嘔吐,エツ,下利の3者は,発病原因と発病のしくみは同じではないが,すべてが胃腸の病証なので,合わせて1篇としている。
 上記の合篇以外に,瘧病,水気,黄疸,奔豚気などそれぞれ単一の篇がある。そのほか,趺蹶,手指臂腫,転筋,狐疝,ユウ虫などのように,単一の篇とすることもできないし,類似性でまとめるのも不適当だが,合わせて1篇としたものもある。「五臓風寒積聚病并治第11篇」は,主として五臓の発病の病理と証候を述べている。
 本書第1篇の「臓腑経絡先後病脈証」は,全篇の理論的基礎であり,すべての証候は臓腑の病理変化によって起ることを,臓腑経絡学説で明白に論じている。これはこの方面の問題についての概括であり,その基本的な観点は全書各篇の中に滲透している。それゆえ臓腑の病機をもとにして弁証を進めることが,本書の主要精神となっている。
 以上の内容から『金匱要略』1書を通観すると,本書は内,外,婦,皮膚科など各科の疾病にわたっており,更にいくつかの伝染病をも含んでいる。各種の病を必ずしも全面的に集めているわけではないが,すべてにわたって初歩的な規律による一定の分類がなされている。
 22篇の中には,重要なものと副次的なものとの差もあり,総則である「臓腑経絡先後病脈証第1」以外には,「瘧病」,「肺痿」,「肺癰」,「咳嗽」,「上気」,「胸痺」,「痰飲」,「嘔吐」,「エツ」,「下利」,「腸癰」および「婦人妊娠」,「産後雑病」などの病証は,すべて非常に重要な内容を含んでいる。しかし,「五臓風寒積聚病脈証并治第11」篇中の五臓風寒などのある部分は,必ずしも意味が明確でない。
 22篇中には400余の条文があり,200以上の処方(各版本の条文処方がすべて同じわけではない)がある。これらの処方の多くは古代の医師が臨床実践中に得たものであり,大多数の処方が現在でもなお中医師らの臨床治療の有力な武器となっている。
『金匱要略』は,臓腑経絡学説を基本論点として,証候はすべて臓腑病理変化の反応であるとしている。この基本論点は本書の脈法中にも現われている。疾病治療の方面では,人体内臓間の総合性をもとにして,未病の臓腑を治療して病勢の発展を予防することや,治病の根本として人体の正気を重視し,同時に去邪もゆるがせにしないことなどが,非常に重要な問題であるとしている。
 本書では方剤の運用面で,一方で多病を治療すると同時に,また1病の治療に数万を用いており,「異病同治」と「同病異治」の精神を具体的に示している。前述のように『金匱』の方薬は非常に有効であり,例えば蜀漆散が瘧疾〔マラリヤ〕を治し,大黄牡丹皮湯が腸癰を治し,沢瀉湯が水気病を治し,白頭翁湯が痢疾を治し,菌陳蔦湯が黄疸を治すなど,これらは現在でも我々が臨床に用いて良効を得ている。薬物の配伍の面でも,本書は独創的な所がある。
 『金匱要略』は,要するに分類が簡明で,弁証が適切で,治療法が厳格で方薬の組成が精密であり,理法を兼備した,実用にかなった本であり,中医の内科,婦人科の臨床上で,一定の指導的価値を持っている。『金匱要略』は中医学を学習するのに必読の重要古典の1つである。現在でほ中医学院で中医古典文献を学習する際の必修の本となっており,西医が中医を学習する場合にも,学ばなくてはならない医書の1つとなっている。
 筆者は1958年に,『金匱要略』22篇について,通俗講話の方式で,各篇を要約分析し,原文の精神を生かし,各家の注釈を参酌し,昔を今に生かすという主旨に従い,臨床実践にもとづいて,『金匱要略通俗講話』を著述した。これは読者が『金匱要略』に対する概括的な認識と初歩的な知識を修得して,それをもとにして更に原書を探求するのに役立てようとしたものである。

 いまこの『金匱要略新解』は,『金匱要略通俗講話』をもとにして,いささか原文内容を増加し,余分な文字を削除し,同時にある方剤については必要な臨床治験例を補充したものである。文字は読みやすく,理論は判りやすいようにし,原書に対するより一層の理解を助け,臨床実践に役立つことを期したものである。
 本書は,中医学院学生,「経文」を学んだことのない中医学独習者,臨床中医師,西医で中医学を学習している人達などすべてにとって『金匱要略』学習の際の参考書となるものである。
 本書の内容は,1978年から1980年にかけて『浙江中医学院学報』に「金匱要略浅釈」と題して連載し,非常に読者の好評を得たものである。いま浙江科学技術出版社によってまとめて出版されることとなった。多くの読者の御批判を希望する次第である。

勝 田 正 泰

中国傷寒論解説

[ 古典 ]

『中国傷寒論解説』の出版にあたって

  『傷寒論』という医書は,まことに奇妙な書物である。ごくわずかな字数で書かれた医書であるにかかわらず,医学の理論と技術に関する膨大な内容を包蔵している。だから,原典そのものは小さくても,これの注釈書は汗牛充棟もただならざる有様を呈する。
 この書をよく読み,深く理解したものは,その理と術のあまりの周到さにただただ圧倒され,あるものはこの書の成るのは人わざにあらずといい,またあるものはこの書1冊があれば医のすべては足りるとまでいう,ことほどさように,この書は研究すればするほど,そしてこれを実地に行えば行うほど,その奥行きの深さがわかり,同時に臨床上での無限の可能性を感じさせるのである。

 『傷寒論』には理論がないとか,『傷寒論』はすでに過去の遺物であるとかの言葉を弄するものもあるが,さらに深く研究が進めば,憶面もなく出した不用意な己の言葉に,いたたまれぬ思いをするときが来るであろう。
 『傷寒論』が『内経』由来だとする見方と,しからずとする考え方は,往時から議論の尽きないところであるが,現在では大雑把にいって,中国の『傷寒論』研究の大部分は前者であり,わが国の古方出身者ないしはその系統の研究者のほとんどは後者に属するのではないかと思う。
 『傷寒論』の奇妙さのもう一つは,『傷寒論』という医書は『内経』を土台として研究しても,またそうでなくても,ともに立派に臨床に役立つということである。
 ところで,今回,東洋学術出版社によって出版された北京中医学院・劉渡舟教授の著『中国傷寒論解説』は,まさに『内経』を土台として研究されたものの成果である。私もそうであるが,日本の漢方研究家の大抵が『傷寒論』は『内経』とほとんど関係がないという立場をとっているが,この劉渡舟教授の書はそういう私どもにとっても大変参考になり,かつためになる本である。かつて大塚敬節先生は,他派の学説をこそよく聴くべきであると,しばしば述べられたが,本書を熟読するに及んでつくづくその言葉の本当であることを感じさせられる。したがって,本書は日本の漢方研究家にとっては,かなり異質な面もあるが,同時にまた,同じ『傷寒論』を学ぶもの同士の深く同感しあうところも多く持っている。私ども日本のすべての漢方研究家は,本書をよく読むことによって,その考え方においても臨床応用の面においてもより大きな広がりを持つことになろう。
 中国の『傷寒論』研究書は,ことに最近のものは,私どもが読みたくても簡体字のせいもあって制約を受けていたが,訳者・勝田正泰氏らの大変読みやすい訳文によって,このような名著がごくたやすく入手でき,読むことができるようになったことは,いくら感謝しても感謝しきれない。
 劉渡舟教授とは,1981年1月に『中医臨床』誌座談会の席でお会いして忌憚ない意見交換をし,その学識の深奥さと温いお人柄に心から尊敬の念をいだいたのであったが,一昨年10月,北京での「日中傷寒論シンポジウム」で再びお目にかかり,ますますその感を強くしたものである。本書の出版は,私にとっても誠に嬉しいことであり,また日中の学問の橋渡し,両国の友好にとっても貴重な役割を果すものと疑わない。わが国のすべての漢方研究家が本書を熟読されるよう推奨するものである。

日本東洋医学会評議員
藤 平 健

[原文]傷寒雑病論(三訂版)

[ 古典 ]

前言

 この度、日本漢方協会は、創立十周年を記念して、同協会学術部より、『傷寒論』と『金匱要略』を合刻して、『傷寒雑病論』として出版する運びとなった。
 月日のたつのは速いもので、根本光人氏より協会設立の相談をうけて、日本漢方協会が創立されてから、十年の歳月が流れた。そしてこの十年間には、日本の漢方界は種々の変動を経験した。健康保険診療の漢方薬採用、日中国交回復による日中学術交流の深まり、それに従う針麻酔や中医学理論の流入などがあった。しかし漢方界全体としてみれば、一般民衆の漢方に対する認識が高まったばかりではなく、医療界においても、ようやく漢方に対する関心が深まる傾向になってきた。このような状況の中で漢方を学ぶものは、更に心して正しい漢方の研究に十分な努力をしなければならない。
 『傷寒論(古くは傷寒雑病論)』『黄帝内経素問』『神農本草経』は、中国医学の三大古典であることは、昔も今も変わりはない。その中で『傷寒論』は中医学を学ぶ者にとっては、研究すべき必須の古典であるという。現在の中国においても、『傷寒論』関係の出版が続々と行なわれ、その研究の重要さがうかがわれる。
 さて、日本の漢方、特に古方派漢方は、傷寒、金匱の研究から出発していることは周知の通りである。『傷寒論』は『傷寒論』の理論で解釈するという考え方、それに腹診の発達が加わり、親験実施を精神とした古方派漢方は中医学と違う発展をとげて今日に至っている。『傷寒論』の最も古いとみられる章句(古方派はこれを本文と称する)は、病気の症状、経過を述べ、それに対する治療法(薬方)をあげているだけで、特別の理屈で説明していない。もしその臨床的観察が正しく、適用した薬方が有効であるなら、後世の人がそれを追試しても同じ効果をあげ得る筈である。事実を正しく把握していたら、二千年を経ても、その事実には変りはない筈である。後世、何千何万の人が『傷寒論』を追試して、『傷寒論』の事実の把握の正しさを確認してきたわけで、これが『傷寒論』を今日に至るまで、最も価値ある医書として継承してきた所以であると考える。西洋医学を学んだ者も、『傷寒論』を研究し理解すれば、臨床に応用してその効果を確認し得るのであるが、これは『傷寒論』が正しく事実に立脚していると考えれば、了解できることである。従って西洋医学を学ぶ者にも、『傷寒論』研究は稗益するところが大きいと考える。
 以上、『傷寒論』は、日本の漢方にとっても、中医学にとっても、研究すべき必須の原典であることは論をまたない。しかし漢方が西洋医学的治療と伍して、日本の医療界に貢献するためには、今後の『傷寒論』研究は、科学的実証精神に立脚すべきである。
 奇しくも今秋、張仲景ゆかりの地南陽で、張仲景生誕の記念祝典が催されるという。この期に臨んで本書が出版されるのは、誠に意義が大きく、因縁深く感じる次第である。

日本漢方医学研究所理事長
伊 藤 清 夫
昭和五十六年四月

 

前へ |  1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12   13   14   15   16   17  | 次へ

ページトップへ戻る